6

「へっ、相変わらず……いいだけ待たせてから現れるじゃねぇかよ」


「まさか……み、美波さん……なのかい?」


 私はその信じられない光景に、思わず上ずった声を出していた。ガランとしたガレージ。完全に閉鎖されたシャッターに今、真四角の穴が開いている。さっき遠くから聞こえた音は何だったのか。それに、この臭気は何だ? 金属が焼け焦げたような金臭い匂い。場違いだが、工事現場で使う、グラインダーを使用した時のような匂いだ。


 私は半ば信じられないような目で見ていた。長身の人影がそこに立っていた。美波が立っていた。


 美波は胸元に白いアマリリスの花をあしらったホワイトミニドレスに身を包み、その上にエレガントなパールホワイトのミンクのロングコートを羽織っていた。フードのついたコートの襟は冷たい夜風にわずかに揺れており、その動きが彼女の存在をより一層引き立てていた。

 

 手には白い指なしのレザーグローブ。足元はホワイトブーツ。全身が白のコーディネートで、一際目立つ裾の短いドレスに、剥き出しの両の太腿には黒いホルダー付きのレッグガーターを着用し、右側には畳んだ銀色の杖が差してある。


 首元にはシンプルなネックレスが控えめに輝き、顔を引き立てるティアドロップ型のイヤリングが、彼女の表情に微かな光を添えていた。


 真四角に開いたシャッターから彼女が颯爽と歩み寄ってくる。その様子は、どこか映画のワンシーンのようにも、ランウェイを堂々と歩くモデルにも似た華やかさがあった。


 片桐美波はふふん、と鼻を鳴らしてどうだ、とでもいうように微かに私達に向けて笑った。


「金属酸化物と金属アルミニウムの粉末混合物に着火すると、アルミニウムは金属酸化物を還元しながら約2000度の高温を発生して、あらゆる金属を燃やせる。テロリストや銀行強盗の人質立てこもり事件や爆弾事件があった時などに、特殊部隊が突入して一気に制圧する時に使われる手法です。C4爆弾などと併用すれば、厚さ五ミリの金属の補強壁にさえ、綺麗に穴が開けられる。いわゆるテルミット反応を応用したものですわ。密室破りとしては荒業ですが、チャチなシャッターを破る程度には、大いに役に立ったでしょう?」


「美波さん、講釈は後でいいから  早くこれをほどいてよ!」


「そうだ! さっきの派手な音で奴らがこっちに来るかもしれねぇぞ! あいにくこっちは丸腰だ。武器なんか何もねぇんだぞ!」


「そんな物騒なものに頼らなくても知恵と道具の使いようで、いくらでも自分の身は守れるということです。人質をきちんと見張っていない相手など、お茶の子さいさいですわ。だいたい女子供が人質にされるならまだしも、こんな立派な身なりをした殿方二人が揃って誘拐されて手も足も出せず、こんなか弱い女子に助けられるなんて、何ッて情けない……。やれやれですわね、お二人共。疑心暗鬼を生ず。己が頭の蠅を追えとはよく言ったものです」


「くっ……こういう時はことわざを間違わないとか……」


「ったくよ……。助けるんなら、もっとスマートな仕事しやがれ! 本当のお尋ね者になりてぇのか!」


「シャットアァップ! いい機会ですから、これから誰が飼い主か解るように、きちんとワンちゃんやお猿さんにもしつけしておきましょう! お洒落な首輪や頭冠でも作って差し上げますわ。そうだ! これを機会に色々といいものにしましょう! 緊急脱出用の爆発仕様とか? 刃が飛び出すアクセサリーとか? より派手なギミックなら、脱出するくらい余裕クシャクシャですわ!」


余裕綽々よゆうしゃくしょくだよ。だいたい猿じゃないし、そんな孫悟空は嫌だよ! 疑ったのは悪かったよ! 謝るから! 本当にごめんなさい! 助けて下さい! だから早くこれをほどいて!」


 卑怯な私は、まずプライドを捨てた。私はさも大袈裟に地団駄するようにコンクリートの床にかかとを打ち付けておどけた。なんだか、そうするのが自然な気がした。恰好悪いし悔しかったが、再会が素直に嬉しかった。今度は西園寺が尻餅をついたまま、蹴りを入れるように暴れた。


「首輪なんか着けるかアホ! 俺達を殺す気か! だいたいテメェ、火薬なんて危ねぇもん、どっから調達してきやがった! 危険物集合準備罪で、まずテメェを逮捕するぞ!」


「あーら、火薬類取扱保安責任者と甲種危険物取扱者の資格を持っておりますわよ? すっ飛ばして取ってもいいのですが、日本の法律に則って下からきちんと順番に取得してきましたわよ? 次々とクリアーしていくと、そのうち病みつきになります」


「ゲーム感覚で資格を取んじゃねぇ!」


「だって、あると色々と便利ですのよ。だいたいここは片桐家の所有物。家主が中でどう暴れようが、物をぶっ壊そうが、お咎めなどあるわけありませんわ。警察は人様の所有物を私物化して、不法に占拠している不届きな連中の方をさっさと取り締まって下さらない?」


 キン、という金属質の音が辺りに響き渡る。それと同時に西園寺と私を結んでいた柱のいましめが解かれ、我々はようやく数時間ぶりに自由の身になれた。呼吸が相当に楽になる。


 美波は彼女がソドムと呼んでいる伸縮式の杖を畳んで持ち手の先にあるネジをクルクルと回した。すると杖の先からのこぎりのようなギザギザした刃が、みるみる伸びてくる。なんということだろう。仕込み杖だったようである。美波は器用に、今度は柱に頑丈に繋がれた私達の手首のロープを切りながら言った。


「アクセサリーの加工や杖や車椅子の改造に冶金やきんの技術は欠かせませんのよ。いざという時の脱出にだって使えますし、車椅子に仕込めば、ロケット並みの加速が出せる夢のような発明品だって作れますわ」


「ンな犯罪者が悪用するようなもの、作ってんじゃねぇぞ! だいたいどうやってこっち側に侵入しやがった! 母屋からも離れたガレージの中じゃねぇかよ!」


 美波はふふん、と鼻を鳴らすようにして白いロングコートの片側を捲った。ロングコートの裏には、ズラリと銀色のフレームの部品やカートリッジが並んでいる。


 持っていたバトンのような長さの杖を手元で強く振ると、カキッという音と共に杖は一瞬で元の長さに戻った。恐らくロッドとネジとフレーム、カートリッジのパーツを自由に組み替えることで様々な用途に応じて、変形できるようにしてあるのだろう。私は一瞬で彼女がここに来れた理由を理解した。


「あぁっ! その杖か! さっき表でバタバタ聞こえていた物音は、美波さんだったのか!」


「何ぃっ! まさか母屋の屋根を伝って裏側に回ってきたってのか?」


「釣り用のロッドとナイフですとでも言って警察に届けでも出しますか? 緊急事態の時に物をいうのはスピードです。法をねじ曲げて集団で悪事を働く連中には、超法規的な措置だって取るのは当たり前です。このソドムは中が空洞になっていて、色々と専用のギミックを仕込めるようになっています。畳んで変形させれば、サバイバルナイフにだってラペリングロープやジップラインを張るボーガンや滑車にだって化けますわ。先のネジとロッドを換装するだけ。お二人のスマホのGPSをたどれば、敵の位置など丸わかりです。屋根部分に高さのある二階建ての建物なら、上から滑車のようにロープを渡せば侵入など楽チン。人質に見張りも立てずに、パーティーに興じているような連中の雑な仕事よりは、楽な仕事でしたわ」


「仕事って……。完全にテロリストや空き巣の手口だよね、それ……」


「あら、失礼な。相手は警察や記者を抱き込んで財閥の乗っ取りさえ目論む相手ですわよ。普通のやり方では摘発できませんわ。他人の秘密は全部まるっと頂戴する! 謎を愛する美しき怪盗名探偵の華麗なる大・逆・転・劇! ……あぁ、なんて素敵でワクワクする展開なのでしょう! 派手な決め台詞くらい、用意しておけばよかったですわ」


「ノリノリなとこ悪いがな、防犯カメラもあるような施設に侵入するなんて、普通じゃねぇぞ。奴らだって間抜けだが馬鹿じゃない。吹雪の山荘よろしく電話線だって、とっくに切断してるかもしれないんだぜ。一体どうやった?」


「言ったでしょう? ここは片桐家の所有だと。しょせん別荘のガレージ。だだっ広い敷地の脇に建てられた倉庫兼駐車スペース。監視カメラや警備員は、主に賊の侵入路をカバーするように配置します。真上はだいたい手薄。そもそも事件が起きて、真っ先にここにやってきたのは私。地下の駐車場に隠れて、彼らをここに誘導したのも私。私は元モデル。体重は軽い方でして」


「上から忍び込んだのかい……。完全に空き巣や泥棒の手口だよ、それ……」


「だから、この別荘の家主は片桐幸史郎で私のお父様なんですから、泥棒ではありませんわ」


「そうだ! とにかく、まずはこの異変を誰かに知らせねぇと……」


「大丈夫。突入と同時に煙幕代わりにキッチンでゴキブリ用の駆除剤を焚いて、ついでにコッソリと母屋の窓ガラスを幾つか割ってきましたわ。この屋敷のセキュリティーシステムは万全です。養生もしていない煙感知器が派手に警報を鳴らして、割れたガラス窓だってあるのです。消防も警備会社も駆けつけます。警察にだって自動的に通報されています。今頃、警備会社側は大笑いの天やワンダホーでしょうね」


「大わらわにてんやわんやね。天丼でも食べに行くのかい?」


「いや、冷静に突っ込んでる場合じゃねぇし……。しっかし、本ッ当に危ねぇ女だ……。探偵っていうより、やってることは本当にテロリストか犯罪者じゃねぇか……」


「往々にして世の中というものは、不条理と不公平の下に悪意と作為と奸計に満ちているのです。まずは状況を受け入れることから始まるということを覚えておくといいですわ。再三繰り返しますが、普通のやり方で摘発できない、悪意をもって強引な手段に出る組織だった相手に、普通のやり方など通じません。探偵が犯罪者達と華麗に戦うには、危険は漬け物です。ありとあらゆる状況を想定した道具の使用や技能の習得は、探偵にとって必要サメ欠ですわ」


「付き物ね。あと必要不可欠ね」


 だいぶいつもの調子を取り戻してきたようだ。ただし、天然ボケが持ち味の彼女が、やや技巧に走っている。


「じゃあ、お前は事件が起こってすぐに、身代金を用意して、奴らをここに誘い込む準備をしてたってことかよ?」


「ええ、彼らが次にどんな手段に出てくるかは予想できましたから。取り敢えず実家に頼み込んで、お金は掻き集めておきました。すまないとは思いましたが、敵がどれだけの人数で関わっているかまったく分からなかったので、お二人には囮になってもらいました」


「お前な、それならそうと、せめて分かるように繋ぎぐらい取りやがれ! 本気でさらわれたか逮捕されたかと思うだろ!」


「まぁまぁ、捕まった僕達が悪いんだし、結果的に役に立ったのなら、チームの勝利じゃないか」


「チッ……しかし、どうやって奴らと交渉したんだよ? それに、今日は日曜日だぜ。銀行から金を引き出すのなんて不可能だろうがよ」


「財閥ともなると色々と身辺には気をつけますし、こうした不測の事態に備え、纏まった現金は用意しているものですわ。取り引きや交渉術において最も大切なことは、こちらが本気で真剣に相手と向き合い、要求に応えるつもりだということを目に見える方法で伝えることです」


「だから、どうやったんだ?」


「見せ金と誠意ですわ。予め敵方にメッセージを送り、現金が詰まったトランクの動画と写真を添えて訴えたのですわ」


 美波は猫のような目をパチパチと瞬かせた。どうやら得意のパントマイムで一人芝居を始めながら、私達に説明してくれるようだ。これはいわゆる、私と西園寺の間では共通の決め事のようなもので、いつでもツッコミ待ちの状態であり、これからボケるぞという意思表示や前振りのようなもので、我々の間では、もはやアイコンタクトに近い。


「……時間がかかって申し訳ありません。日曜日にこの金額を用意するためには、通常の方法では不可能でした。しかし、あなた方の要求に応えるために特別な手配を行いました。これが、今できる私たちの誠意の仕方です。まずは三億円用意しました。交渉の場へはきちんと私一人の手で運びます。何卒、お願いします。私との交渉に臨んで頂ければ、明日の月曜日にはスイス銀行経由で皆様の口座にそれぞれ10万ドルずつ差し上げます、と涙ながらに土下座して訴えました」


「天使だよ、君は!」


「まぁ実際には、土下座の際には目薬をさして、舌まで出して臨んでいたのですけどね。同じ動画や写真は、明日には片桐家の顧問弁護団を通じて、警察庁と日本弁護士連合会と東都大学病院と山城組本部とエイジアキューブプロダクションとマスコミ各社に、同時に送られることになっていますから」


「悪魔かよ、オメェは……」


「ここの管理人に妙な動きがあるのは、部下からの情報で知りました。銀政界と思われる構成員との接触や、何者かからの不正な送金記録があったようです。この別荘の管理会社にも警備を通じて問い合わせてあります。管理人が何か妙な会合に、この施設を利用していないか、とね。防犯カメラの映像で、施設の不正な利用と今回の事件に関する、彼らの企みも判明したのですけれどね。その場で解雇しても良かったのですが、金で転ぶ相手なら交渉できると踏んで、彼らをここに誘導するように一芝居うってもらうことにしたんです。管理人とグルで、ここを自分達のアジトと勘違いしてもらった方が、人質に滅多なことはしないはずだと踏んだのですわ」


「やっぱり天使だよ、君は!」


「土下座しながら、敵に罠を張るのって最高ですわね! こんな見え見えのトラバサミにまんまと引っ掛かってくれたのですから! どこの世界に脅す交渉相手の所有する物件に、ノコノコ入り込む馬鹿がいるというのでしょう! 嵌めたつもりで嵌められているのですから、全員ただのアホですわ! やーい、このバーカ! こちらの手間と落とし前の代金は、きっちりとクレーム付きでたっぷり請求しておきますので、今後もまともに組織を運営していきたいのなら、不始末を仕出かした個人の首を切るなり、世間に謝罪会見を開くなりして、それぞれ応じざるを得なくなるでしょう」


「やっぱり悪魔だ、オメェは……」


 私は思わずズッコケそうになった。持ち上げた私がひたすら馬鹿みたいだが、彼女が私達の為に並々ならぬ労力を割いてくれた事は疑いようがない。


「けど、これで彼らはどう転んでも詰んだね。クイーンの一手がついに敵の牙城を崩したことになる。総崩れである意味、爽快だけどね」


「まったく、初手でクイーンが取られてる事件だと思ってたら、まさか入れ替わってたとは恐れ入ったぜ。まぁ、今回ばかりは相手が悪い。白のクイーンの貫禄勝ちか」


「いいえ、まだ油断はできません。チェスや将棋に限らず、勝負事に絶対はありません。どんな詰みの一手を指しても、何がきっかけで盤上がひっくり返るかは、最後まで絶対に分からないのですから」


「まぁ、ややこしい話は後だ。とにかく今はここを脱出しねぇと。俺達がここから出られたら、放っておいても奴らは瓦解するって分かったんだからな」


「やることは山積みだね。やられっぱなしは癪だからね。彼ら全員を逮捕するまでは終われないよ」


「ええ、一休みしたら母屋に行きましょう。人質交換の場にガレージを指定したのは、ここが母屋から少し離れているからです。こちらも作戦を立てて一人一人、確実にふん縛っていくことにしましょう」


 いつになく過激な美波だが、今回ばかりは心強い。西園寺はバシッと右拳を左手に打ちつけた。


「よしきた! 奴らは今頃、宴会中か。宴会なら絶対に酒が足りなくなるはずだぜ。酒のストックはどこに置いてある?」


「キッチンの地下にワインセラーがありますわ。元々は酒の醸造場所だったものが、陸軍の施設になって戦時中の防空壕に使われ、戦後はお祖父様がまた買い上げたものですの」


 私も気になって提案した。


「宴会中なら、もう少し様子を見なきゃいけないかな。キッチンの地下に忍び込んで、一人一人片付けていくかい?」


「ああ、それなら大丈夫です」


「はぁ? 何が大丈夫だよ。中だけで奴らは九人もいるんだぞ」


「ダイニングにご馳走がたくさん並んでいたでしょう? 冷蔵庫の物に手を付けたとしたら、今頃スヤスヤ眠っているはずですわよ。たっぷりと睡眠導入剤を食事とワインに混ぜておきましたから」


「やっぱり悪魔だ、オメェは……」


「青酸カリを入れられないだけマシというものですわよ? 敵地で食事を摂ることのリスクを考えないお馬鹿さん方には、誠に良い薬です」


 その時だった。美波が急に膝から崩れるようにして地面にひざまずいた。彼女の顔が一瞬、苦痛と驚きに歪んだのを見て、私と西園寺は反射的に彼女のもとへ駆け寄った。


「お、おい……大丈夫かよ?」


「痺れが……きたんだね」


 私たちの声に、彼女は微かに頭を振ろうとしたが、観念したように瞳を閉じて微かに頷いた。一瞬の表情だったが、動揺を隠すことができていなかった。美波は頭痛を堪えるように頭を押さえた。


「ええ、いつものことですのでお気になさらず……。大したことありませんわ。すぐに治りますから、心配しないでください」


 彼女は苦笑いを浮かべ、傍らにあった黒い手提げバッグから二人分の包みとペットボトルのお茶を差し出した。弁当箱のようである。


「取り敢えず、こちらも休憩にしませんか? デートもランチも中断で、簡単なものしか用意できませんでしたが、今回はこの辺で勘弁してくださいな」


 色々と気を遣わせてしまっているらしい。まず、自分のことを心配しろと言いたくなる。


「ささ、これでも食べて力をつけてください。外で買うわけにもいかず、手早く用意したものですから、味は保証しませんけど……」


 彼女は小さく笑って努めて疲れを見せないようにしていたが、無理をさせてしまった感は否めない。


「あ、ああ、すまねぇ。それと……」


 ありがとな、と西園寺はぶっきらぼうに言った。バツの悪い表情をするより、私もなるべく明るくフォローするよう努めることにした。


「ありがとう、美波さん。正直、空腹で限界だったんだよ。連中の様子を探る意味でも、作戦会議して休憩した方がいいよね」

 

 私と西園寺は彼女の気遣いに感謝しつつ、それぞれ弁当を受け取った。食事を前にしても、何か足の痺れではなく、頭痛を堪えているような様子の美波が私は少し気にかかったが、彼女の好意を無下にすることはできない。


「東城さん、内側からドアに鍵をかけてください。そうすれば、誰も入ってこれません」


「がら空きの、このシャッターの方はどうするんだい?」


「この先は裏の山道です。集落に続いていますが、車で十五分はかかります。誰かが雪を踏み越えて回り込んでくれば、分かるはずです」


 母屋の様子を見に行った風祭の動向が気がかりだったが、私は取り敢えず言われた通り、ドアのサムターンを回して内側から施錠してから休憩することにした。今後を話し合う意味でも情報を共有するにもちょうどいい。


 黒いビジネスマン用の弁当箱の蓋を開けると、中からはおにぎり二個と黄色に程よく焼かれた卵焼きとソーセージ、そしてカリカリに揚げられた唐揚げにブロッコリーにミニトマトという、簡素だが男性が喜びそうなメニューが現れた。


 しばらくの間、私と西園寺は黙々と貪るようにして弁当箱の中身を平らげていた。彼女は謙遜していたが、ありあわせでも、ありふれた献立でも大層美味いと感じる組み合わせはあるもので、こうした食事が一番、有難かった。


「しっかし、何て事件だ。記者に警察官に弁護士に医者に目撃者。暴力団まで絡んで、おまけに登場人物全員がグルだなんて、未だに信じられねぇぜ……」


 ほぼ流し食いのような状態だが、ペットボトルのお茶を一口飲んで、西園寺がまずは口火を切った。私も喉を湿らせ、頷いた。


「ああ、本当にこんな悪辣なことが、この法治国家で許されていいわけがない。最初の公安刑事の殺人からして、完全に組織ぐるみの周到な計画だったのか……」


 西園寺は私達の様子を静かに眺めていた美波へと視軸を向けた。


「おい、お前の氏素性は、ある程度はもうこちらは察してるんだぜ。沈黙は女の美徳だってのは理解してるが、そろそろお前の口から話してくれてもいいんじゃねぇのか? お前は八年前に突如芸能界から姿を消した神狩ちなみであり、片桐財閥の令嬢で片桐美波。片桐財閥を妬む連中に俺達は巻き込まれたってことだろ? そして、見ての通り、お前は本当の意味で身障者じゃない。今さら何がきても、もう驚きゃしねぇ。そこのところは色々と誤解させてきた、お前が説明するべきなんじゃねぇのか?」


「ええ、でも責任の所在を問うのはチームの為に今はチャラにしませんか? この足も含めてお二人に黙っていたことは色々ありますが、直接の原因は私が聖創学協会と、つい先日の吉祥寺の事件を解決したというのが大きいですわ。 あの事件で、私は彼らの遠大な計画の一部に関わり、資金源を潰してしまった。東城さんと西園寺さんのお仲間から、最初から情報は駄々漏れだったはずです。敵の中には、警察官とマスコミ関係者がいるということを、忘れてもらっては困ります」


 私と西園寺は暫し黙った。彼女の責任を問いつめるというなら、私や西園寺だって条件は同じなのだ。私は頷いた。


「そういうことか。この事件は最初から何から何まで変だった。僕達が使ってきた手口を、そっくりそのまま僕達に返してきた事件だったっていうのか……。今でも信じられないよ。風祭さんは僕に記者のイロハを教えてくれた先輩だったんだ。彼ですら利用していただなんて」


「ああ。あの嫌味でいけ好かねぇ桜庭が奴らの仲間なら、最初から何の不思議もねぇな……。迂闊だったぜ。今にして思えば、奴が現れたタイミングは絶妙だった。トイレと地下街で同時進行で起こる事件発生から、美波に疑いを向けるまでの早さと、事件に介入してきたタイミングも全てな」


「一昨日、坂谷由依とカシム・アジャヒが拘置所の独房で首を吊って死んでいたそうですわ」


 私と西園寺は驚いて目を見開いた。あの二人が……死んだ? あの事件からまだ日も浅い。いくらなんでも早すぎる。西園寺が顔をしかめて吐き捨てるようにして言った。


「とんでもねぇ奴らがいたもんだぜ……。坂谷由依やカシムを殺すことができるのに最も近い人間は、警察官と接見した弁護士だけだ。あの銀政会に情報をリークしたのも杉山完二だったのか……。目的は、奴らの口ぶりから察するに、組織による口封じか?」


「ええ、例のICチップが世間に暴露されたことに対する、例の組織からの意趣返しということなのでしょう。初めから全て仕組まれていたのです。あの事件からまだ十日も経っていない。今回は敵の動きが早すぎました。推理小説に例えるのもおかしいですが、この事件の謎を解くには、実はキャスティングの段階から胡散臭いと思わなければならなかったのです」


 淡々と美波は続けた。


「証言する人間。疑いをかける人間。捜査する人間。第一報を伝える人間。劇場化を演出する人間。一見、巻き込まれたとしか見えない人間達と事件を証言する人間まで徹底的に疑うべきでした。アンフェアな犯罪には、アンフェアな人選が不可欠です。これらを繋いで見えてくるもの、見なければいけないものとは、即ち全員が利する動機が何かということです。自分が見たいと思うものを、見たいように見てはならないということなのです」


「奴らは、お前から身代金を搾取するのが目的だっただけの訳ないよな? 例の組織のやり口は人の弱みを握ること。当然、奴らは……」


「ええ、彼らには一人一人、恐らくそれぞれに事件に関わる動機があります。片桐家や私個人に恨みがあるのはもちろんですが、家族を人質に取られたり、炎上沙汰からの復帰だったりと、例の組織がやりそうなことです。目の前に餌をぶら下げたに違いありません」


「この山荘はかなり前から奴らが悪用してたって話だが、設備がしっかりしてる割には普段は警備員は入ってねぇのかよ?」


「ええ。元々、冬場のペンションや身内同士の集まりに使っている別荘ですから、警備会社も必要な時に臨時警備で雇い入れているだけの施設なのです。普段は機械警備だけの物件ですし件の管理人も高齢なので、完全にノーマークでしたわ」


「公安の刑事が拷問されてもICチップの所在は吐かなかったと言ってたね。このガレージじゃないとすれば、地下というのは一体、どこのことだろう?」


「ワインセラーの奥の醸造所のさらに奥に、使われていない扉があって、昔の地下牢があります。反対側は私が潜伏していた地下の駐車場なので、おそらくは、そこのことではないかと思いますわ」


「地下牢だぁ? おいおい、まさか鏑木が言ってた地下に面白い秘密があるって言ってたのは、それのことなのかよ? 地下牢や座敷牢なんて聞くと、一気にきな臭いな。犯罪の臭いがぷんぷんするってもんだぜ」


「ふん、その蕪蒸しだか油虫とかいう男が、何を勘違いして脅しの材料にしようとしたか知りませんが、秘密でもなんでもありませんわ。ここは元々、陸軍の感染症の隔離施設だったのですから」


「隔離施設だぁ? ンなもん何でこんな山奥にあるんだよ? ただの金持ちの別荘じゃねぇのかよ」


「呆れた刑事ですわね。94年前に、この日本だけでなく世界中に未曾有の危機を引き起こし、5000万~1億人の犠牲者を出し、第一次大戦よりも多くの犠牲者を出した、歴史的なパンデミックがあったでしょうに」


 私は思わずパチン、と指を鳴らして反応した。数字を出されると記憶は惹起されやすいというのは美波の持論である。


「そうか、スペイン風邪か!」


「その通り。スペイン風邪は1918年(大正7年)から1920年にかけて、当時の新型インフルエンザ・ウィルスによって全世界的に引き起こされた疾病です。感染症は昔から100年周期で流行するという統計があって、日本では平安時代から“しはぶき”という名前で呼ばれていたらしく、源氏物語の夕顔にも、その記載があるようですわ。 大正7年のスペイン風邪は収束まで約2年かかり、日本では約39万人が死亡したと言われています」


 そう言うと、美波は細長い左手の指先を左の顳顬の辺りに当てて、小首を傾げるようにした。これは彼女がよく、何かのデータを引っ張り出してくる時によくする仕草である。


「昭和5年に作成された当時の陸軍軍医団による『軍陣防疫学教程』によると、この流行性感冒は日本国民全体でも大正7年秋季以来から10年の春季に渡り、継続的に三回の流行を来しました。患者の総計は2380万名、死者は約38万8000名とあります。一方、陸軍においては、大正7年には8万有余の患者が発生し、その後大正10年に至る4年間に総患者数 16万4044名、死亡者が2369名に達したとあります。第一次世界大戦における日本の動員兵力が85万名、戦死及び戦傷病死者が3千名といわれる中、4年間に渡る流行性感冒による死者2369名は、これにほぼ匹敵するものでありました」


 私と西園寺が揃ってあんぐりと口を開けている中、美波は話しているうちに完全に記憶のファイルの、さらに詳細な記述にたどり着いたのか、さらに続けた。


「事の重大性を認識した陸軍では、この流行性感冒を先の『軍陣防疫学教程』の陸軍伝染病予防規則による10種伝染病以外の伝染病疾患中重要なものと位置づけました。陸軍では10種伝染病をコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、痘瘡、発疹チフス、猩紅熱、ジフテリア、流行性脳脊髄膜炎及びペストとしました」


 美波は目を閉じるとさらに続けた。


「昭和4年には、陸軍大臣が陸普第2576号をもって『軍隊衛生学』を定め、その中に流行性感冒について記しています。そこには予防として口覆(マスク)を用い、含嗽がんそう(うがい)を励行し、交通を制限し、時々食器を煮沸し、室内の掃除に注意すべし、とあります」


 あ、と言って美波はようやく記憶の本棚から帰ってきて、度肝を抜かれて固まっている私達に、たった今気づいたとでもいうようにキョトンとして言った。


「ああ、母屋には当時の資料があって件の防疫学教程もあるのですわ。要するに、当時は陸軍の研究施設兼隔離施設だったのですから、地下に牢獄があっても何ら不思議はありませんわ」


「お前はそんな戦時中のデータをいちいち暗記してるのかよ。普通できねぇぞ、そんなこと」


「5歳頃に、あちらの母屋で本棚チャレンジした時に読んだ記憶なので自信はないですが、概ね合ってると思いますわよ。数字が絡むとだいたい忘れないので」


「俺の5歳頃なんて、虫取り網を持って元気に野山を駆け回ってた頃だぜ。だいたい本棚チャレンジって何だよ。本棚の書籍を丸ごと記憶してるお前は、普通じゃねぇって言ってんだよ」


 五歳に駅で迷子になって親にむくれていた私とはえらい違いである。このように、片桐美波はこと記憶に関しては、とにかく出鱈目な能力を発揮する。以前に、世界一の蔵書数を誇るといわれるアメリカ連邦議会図書館に一ヶ月籠もってみたいと言っていたのを、私はぼんやりと思い出していた。


「と、とにかくよ、奴らもこちら側の様子に気づいてる様子はねぇみてぇだし、とっとと奴らをふん縛るとしようぜ」


「まずは落ち着きましょう」


 美波が西園寺を窘めた。


「東城さんに西園寺さん、圧倒的に不利な状況下で、まずしなければならないことというのは、己の恐怖心を認めることなのです。恐怖や不安や未知への畏怖というものは否定すればするほどに、己の内で大きくなってしまう内なる怪物です。疑念や猜疑心に不信感、そして迷い。勇気とは恐怖がもたらす無限に湧いてくる諸々の負の総てを受け入れてなお、己を裏切らないことなのです。自信を持つのは傲慢になることではありません。勇敢に振る舞うことは虚勢を張ることではありません。まずは認めましょう。私はとても怖い。どうしようもなく怖くて逃げ出したくなりました。でも、それを受け入れてなお逃げないし戦うと決めました。この犯人グループの残忍さと狡猾さを最大限に認めた上で、こちらも戦いに挑むとしましょう」


「眠っててくれていれば、助かるんだけどね。それこそ地下の牢屋にでも一人一人繋いでいって、警察と早くに合流しないと……」


「俺達のスマホも回収しねぇとな、よし、俄然やる気が出てきたぜ」


「ええ、先ずはなるべく静かに母屋に侵入して、ワインセラーに潜伏するとしましょう」

 

 私達は意を決すると、慎重にガレージを立ち去ることにした。私は念の為に、武器になりそうな鉄パイプを手にした。なるべくなら使いたくはないが、この状況ではそうも言っていられない。


「ここから先は慎重にいきましょう。いくら眠っている可能性が高いとはいえ、九人の人間を拘束するには、それなりにこちらも覚悟しなければなりません」


 いつになく真剣な美波の提案に、私と西園寺は慎重に頷いた。私たちはガレージの扉を静かに開け、中庭へと出た。冷たい夜の空気が肌を刺すようだった。


 外は完全に日が暮れており、間もなく深夜にかかろうという時間で、山荘の周囲は昏黒の暗闇に包まれていた。母屋の玄関から漏れる明かり以外に光源はなく、僅かな雪明りを頼りに母屋へと向かう。


 西園寺を先頭に、鉄パイプを手にした私が続いた。後方と周囲の警戒を美波に任せ、足元に注意しながら、一歩一歩慎重に進む。


 母屋に近づくにつれて、何か様子がおかしいことに気づいた。


 母屋の中が静か過ぎる。


 何らかの生活音やリビング以外から光が漏れ出ていてもおかしくないはずだが、リビングからは物音一つせず、辺りは静寂が支配していた。美波が扉に手をかけ、ゆっくりと開ける。ギシリという音が響き渡る。


 勝手口を殊更に慎重に開けてから母屋の中に足を踏み入れると、私達はすぐに異変を感じ取った。家の中は異様に静かで、どの部屋も人の気配が感じられない。


 慎重にリビングに入ると、誰かがくつろいでいるはずのソファは空で、テーブルの上には飲みかけのグラスや食べかけの食事がそのまま放置されていた。訝しむ西園寺を牽制するように美波が指を立てて、静かにするように促す。


 一斉に襲ってくるかもしれないと思うと、鉄パイプを掴む手にもじっとりと汗が滲む。私は声を押し殺して、囁くような声で呟いた。


「おかしい……。誰もいない」


「ああ、どういうことだ? リビングで眠ってるどころか、人っ子一人いねぇなんて……」


 自然に囁くような小声になった。


「一階と二階を調べてみましょう。全員で。なるべく慎重に……」


 美波の提案に頷くと、私たちは家の中を一室一室、丁寧に調べ始めた。一階にキッチン、寝室、浴室、応接間、かなり広めの暖炉のあるリビング兼ダイニングルーム。


 二階には四部屋の客室があり、作りはどれも一緒で、ベッドやストゥールや備え付きのクローゼットなどはあったが、どの部屋を見ても状態は同じだった。


 全てが何事もなかったかのように静まり返っていて、ベッドが使用された形跡も、人が急いで去ったような跡も見られない。


 サンドイッチを切ろうとしていたのか、食事の準備が中途半端に残っている様子がキッチンに僅かに残っており、冷蔵庫のドアが少しだけ開いたままになっている。


 もちろん中には、美波お手製の睡眠薬入りの御馳走がまだ他にも所狭しと入っていたが、こちらには手をつけられていなかった。


「一体、これは……」


「ああ、誰もいねぇ...…」


 西園寺が小声でつぶやいた。美波は深くうなずき、さらに探索を続けるように私たちに合図した。


 私たちの足音だけが山荘に響く。軋むような足音が辺りに響く。


 その時だった。


 何かが割れる音が、キッチンの下の方からした。三人の視線が、一斉にそちらへと向いた。私達は思わず顔を見合わせていた。収納棚だと思ったが、キッチンの一角には一メートル四方の階段があった。


「この下は?」


「例のワインセラーと醸造所ですわ」


 私たちは一斉にその方向を見つめた。ガラスか瓶が砕けるような、鋭く不穏な先ほどの音は間違いなくこの下から聞こえた。母屋の静寂を切り裂いたその音に、私達三人は息を呑み、再び互いの顔を見合わせ、しばしの沈黙が続いた。意を決したように、美波が頷いた。


「行きましょう。階段に何か仕掛けられていないか、くれぐれも注意してください」


「ああ、俺が先行するぜ。東城は俺に続け。何かあれば、そいつで遠慮なく、相手をぶん殴っていいからな」


「今回ばかりは仕方ないね。分かった」


 地下から吹き込んでくる、ひんやりとした空気が、僅かに私達の皮膚を撫でた。


 私達三人は声を潜め、更に慎重に足を進めた。階段を降りるごとに、ワインセラーからの涼しげで湿った空気がさらに強く感じられた。下へと続くその階段は、まるで別世界への入り口のように、未知の闇へと誘い込んでいくようだった。


 周囲の壁は石造りで、隙間から微かに地下の湿気が漂ってくる。キッチンの温かい空間から一歩地下に踏み込むと、突然の温度差に身震いした。地下へと続く階段はわずかに照らされており、それぞれのステップは古くからの使用で歩みの痕跡が刻まれている。


 階段の下からは、ほんのりと僅かにワインの香りとオーク材のような木の香りが混じり、それがどこか古びた匂いと重なっていた。


 キッチンの奥から地下へと続くその階段は急で狭く、階段の壁には途中、数か所にフックが打たれており、そこには古めかしいランタンが足元を照らすように下がっていた。


 一歩ずつ慎重に進んでいくと、各ステップが古い木の音を軋ませながら、辺りに響き渡る。


 西園寺が先頭を歩き、その後ろに私と美波が続く。前方の不確かな闇を掻き分けるように、足元に注意して進んでいくと地下にほんのりと暖色系の黄色い光が灯っているのがわかった。


 階段を下りきると、目の前に広がるのは贅を尽くした広大なワインセラーだった。天井は意外にも高く、古びた木製のラックが整然と並び、無数のワインボトルが棚の中で静かに時を刻んでいた。


 空調が利いているのか、全体はひんやりと一定の温度に保たれており、壁には石造りのアーチが何重にも重なり、まるで中世の地下牢を思わせる造りで、どこか冷たく湿った空気が満ちていた。


 その静寂の中で、わずかな水滴の音が耳に際立ち、それがさらに空間の不気味さを増していた。私達が動く度にラックの凹凸が作り出す歪な影が、壁に不気味な形で踊る。私たちは声を潜めつつも、互いの存在を確認するように時折、視線を交わした。


 地下のワインセラーからさらに奥へと進むと、本格的な醸造所が広がっていた。石積みの壁とアーチ型の天井が、まるで中世ヨーロッパの地下聖堂を彷彿とさせる。


「凄ぇ光景だな……。本当にここは地下かよ。スケール感が狂っちまう。かなり広いぜ」


「ああ、ここまで本格的な醸造所は、そうそう見たことないね」


「元々が防空壕ですから、改装はかなり楽だったと思いますわよ」


 部屋は微かに薄暗く、柔らかな照明が雰囲気を一層引き立てている。壁には数多くのワインラックが並び、それぞれに古めかしいワインボトルが並んでおり、熟成に適した温度と湿度が保たれているよう工夫されていた。


 中央には大きな銅製の釜が設置されており、その周囲には各種の醸造用機械が整然と配置されていた。フレンチオークでできた大きな樽が並ぶ一角では、ワインがゆっくりと時間をかけて熟成されているようだ。樽の木目が美しく、それぞれに醸造年度とブドウの品種が手書きで記されている。


 空の樽も置いてあり、大きなリヤカーを複数台置いておけるような一角まであった。


 美波が足を止め、深く息を吸い込んだ。


「この先が……例の地下牢です」


 彼女の声は最大限の警戒に満ちており、私と西園寺はその言葉に頷き、さらに警戒を強めた。


 かつては隔離された病人たちが運命を待った場所である。その先入観よりも、何者かがこの場を通り抜けたという予感が、私たちの背筋を凍らせ、緊張させた。


 ワインセラーの奥に進むにつれ、さらに異変が顕著になっていった。まず臭いだ。いくつかのワインボトルが床に落ち、割れて中身が広がっていた。何者かが、急いでここを通った形跡がある。その先には、普段は見向きもされないような重い鉄の扉があった。


 かなり古い。扉に錆や緑青ろくしょうが浮いていて、普段から使われておらず、ほとんど人の出入りはないような場所のようだった。


「あの奥です」


 その時だった。私の鼻腔を微かな臭いが掠めた。割れて溢れたワインの中でも漂う、金臭いような、錆臭いような独特の異臭。てん


「待て。おい、臭うぜ……」


 西園寺も気付いたようだ。私達は揃って足を止めた。もう何度も嗅いでいる。この臭い。


「血の臭い、だね」


「ああ、開けるぜ」


 扉を開けた途端、むっとする濃密な血の臭いが鼻をついた。目に染みるほどの、吐き気を催す臭いが漂っていることで、もうこの先にあるものが何なのか、容易に予想できた。


 暗闇に包まれた地下の通路を進んでいくに従って、圧倒的な死臭が徐々に強くなってくる。


 誰が点灯させたものか、ちろちろと瞬く頼りない蛍光灯の明かりを頼りに薄暗い廊下を進むと、かなり古い施設であることは明白だった。


 壁は剥がれかけた漆喰しっくいで覆われ、所々に大きな亀裂が入っている。床は無数の足跡で荒れた土の上に、わずかに敷かれた薄い敷物が汚れて擦り減って見える。空気は冷たく湿っており、淀んだ死臭が鼻をつく。その臭気は、消毒液とワインと、有機的で生暖かいものと錆臭いものと薬品とが混ざったような、忘れ難いものだった。


 廊下の突き当たりにある扉を押し開けると、ここがかつて隔離病室だった場所だろう。部屋は長方形で、吹き抜けの天井が異常に高く、壁には塗りつぶされた壁が幾つか見える。


 部屋の左右には、医療用の埃で汚れたパーテーションに仕切られ、錆びた鉄のベッドが並んでおり、そのほとんどが壊れて傾いている。ベッドの上には、時の経過を物語るように黄ばんだシーツが残され、部屋の隅には、使われなくなった医療器具が積み上げられ、その上には厚い埃が積もっている。


「ぅぐっ……」


「酷い……臭い……!」


 元々は地下の隔離施設で奥の病室だったのであろう、だだっ広い空間には高い天井に棚が壁一面に広がっていた。しかし、今やこの空間は最も悪趣味で最悪な、この世で最もおぞましいミュージアムと化していた。


 片側に四つ。


 向かい合わせに四つ。


 合計八部屋の牢獄。


 一部屋に一つずつ。


 死体が展示されていた。


 八つの他殺死体は、ある者はワイン樽に逆さまに突き立てられ、ある者は俯せのまま石の床に倒れ伏し、またある者は仰向けに苦悶の表情を浮かべたまま、完全に絶命しているのは間違いなかった。


 血の臭いと饐えたような腐臭。それらが幾重にも重なり、高級なワインの香りと混ざり合い、場違いにも白く明滅する照明の齎す、その殊更に不気味で悍ましき呪物の数々は、とっくに麻痺した私の嗅覚と金臭い血の臭いで沁みる視界に深く刻まれ、染み付くようだった。


 見る者の心に恐怖を刻みつけ、摩滅した精神を根こそぎ奪い取ってやろうとでもいうような禍々しい悪意に満ちていた。


 一番手前。左手で死んでいるのはスーツを着た男の死体だ。彼の胸には深々と突き刺したであろう傷が生々しく残り、鮮血が床に滴り、夥しいほど流れた血の臭いが強く鼻を刺した。


 上等なダークブルーのスーツにアンダーにはシルクのワイシャツが、一際鮮血を際立たせている。襟元に弁護士バッジ。この男は杉山完二か。眼鏡の奥の目は、驚愕の表情のまま見開かれ、眼球は既に濁り始めている。


 収まらない吐き気を私が堪えていると、内側から殴られたように、ジクジクと己の腹が痛むのを感じた。死体の周りには、まだ乾ききっていない血の跡が広がり、乾いた石の床に深く染みついている。


 杉山が刺された傷跡は深く、背中の方まで達しているところを見ると犯人は躊躇も容赦もなく、一撃に心臓目掛けて長い刃を突き立て、貫通させた刃を引き抜いたであろうことは容易に伺えた。彼の死体は、壁に寄りかかったまま悲惨な最期を迎えたようだった。だが、この死体の惨状はな方だ。


 杉山の向かい側の牢獄。通路右手。西園寺のそばのベッドに仰向けに寝ているのはショートボブの髪型をした女の死体だった。恐ろしいことに女には


 額から頭頂部、後頭部に側頭部とおそらくは、何度も何度も固い鈍器で顔を狙って殴りつけたのだ。もちろん、念入りに顔を潰す為だ。


 撲殺された生々しい痕跡から見ても絶命した後も、何度も何度も殴り続けたのだろう。顔には激しい損傷と傷跡がいくつも残り、潰されたトマトのように鼻はひしゃげ、目も鼻も口元も原型を留めないほど殴られ、ぬめりを帯びたまだらとなった血の飛沫が部屋の壁や柱、天井や蛍光灯に至るまで飛び散り、床に血が垂々たらたらと滴った痕跡があり、暴力的な攻撃を受けたことは明白だった。


 女の死体は牢獄の雰囲気に合わせ、わざわざ檻の外から鑑賞しやすいように、ベッドを中央に持ってきた上で配置されているように見えた。私はここに、犯人の異常な美学と悪意とを同時に見せつけられた気がした。


「酷い……なんてことを……」


 向かって左側。杉山の死体の隣の牢獄。美波の前には、最も恐ろしい死体があった。


 巨大な大蛇を彫った刺青が剥き出しにされた、全裸の大きな背中をした鏑木正勝がカーテンレールに無造作に吊り下げられていた。


 裸の男はまるで首吊りでもしているように両手をだらりと下げ、我々に全裸の後ろ姿を晒していた。入れ墨の彫られた、その太い両腕の脇の下を通すようにして二重三重にロープが巻かれ、カーテンレールに吊るされていた。ぱっくりと横一線に開いた喉元からは、垂々と今も鮮血を滴らせ、床に血溜まりを作っていた。


 この屈強で大柄な男が、死体になって辱められる前に、かなり激しく暴れ、抵抗したであろうことは一目瞭然で、この独房が一番、滅茶苦茶に荒れていた。


 ベッドは横倒しになり、カーテンレールから引き千切られた薄汚れたカーテンは、部屋の隅にぞんざいに打ち捨てられ、壁にはまるで巨大な獣が暴れたかのように、三本の線が縦横無尽に走り、引っ掻いたような痕跡があった。


 その時だった。背後から、西園寺の喘ぐような声が聞こえた。


「なんてこった……コイツもなのかよ……」


 私は振り返ると、思わず目を背けた。


「ぅぐッ……こんなことを、よくも……」


 西園寺が嘔吐を堪えるように口元を押さえていた。私はその異常過ぎる死体に思わず、戻しそうになった。あまりにも凄惨で、滅茶苦茶な鏑木の死体に釘付けになっていたことで、目の前のもっと異常な部屋を完全に見逃していた。


 通路から二番目。顔のない女の死体の隣。吊るされた鏑木の向かいの牢獄には、あまりにも凄惨な方法で吊るされた桜庭大介の死体があった。こちらはカーテンレールから首を吊り下げられ、鏑木と同じように、脇の下にロープを通して固定されていた。


 恐らくちょうど左右対称に。裏と表で向かい合わせになるように。吊るされた裸の男性の死体をよく見比べられるように。そうした悪趣味きわまりない数々の演出の為に、この二部屋の死体はこの方法で殺害されたのだろう。


 半開きの白目が虚ろに、もはやこの世の何者も映していない桜庭大介の全裸死体。その腹部は深く縦に裂け、残酷にも魚の開きのように広がり、肩と股の部分に釘で切開した皮を固定されていた。傍らには、ネイルガンと呼ばれる釘打ち機がぞんざいに打ち捨ててあった。


 股間まで剥き出しに、縦に一直線に切開して内臓を露出させた、この死体からは、尋常ではない臭いが立ち込めていた。


 五臓六腑を剥き出しにして裸で吊るすという、その異常な光景を目の前にした私の心は、もはや極限の恐怖に打ち震えた。この死体は地下牢の檻の中で、装飾された異常な演出や残虐な殺し方が特に際立っていた。


 通路の三つ目。左側。吊るされた鏑木の隣の牢屋には青いツナギを着た細身の男が、なんと逆さまにされて死んでいた。


 金成陽一の死体は悪趣味にもワイン樽に突き立っており、足がVの字に曲げられていた。有名なミステリ作品のオマージュだとでもいうのだろうか。しかし、私にはそれは、ただただ悪意を目に見える形に表現しただけのものとしか感じられなかった。


 その向かい側。通路から三つ目の右側の牢獄では、ワイン樽に入れられ、刺殺されている金成陽一が首だけを出した状態で、恐怖と苦悶の表情を浮かべて死んでいた。


 こちらも悪趣味にも、傍らには何本も果物ナイフや包丁にアイスピックといった刃物が転がっている。恐らく太った金成の体型に合わせて、悪趣味な殺し方を思いついたのだろう。


 そして通路左側。四つ目の部屋には、スーツを着た白髪混じりの男が縦に置かれたベッドの足に四肢を縛り付けられ、はりつけにされた状態で立ったまま死んでいた。胸には深々とナイフが刺さったままになっている。


 こちらは苦悶と恐怖の表情を浮かべたまま、口から血の混じった泡を吹いて死んでいるのが何とも哀れだった。


 龍堂明の死体の裏側には、悪趣味にもダーツゲームのボードが貼り付けてあった。恐らくは生きた状態で的にされ、遊ばれたのだ。


 それは死体で遊ぶという異常性と残虐性だけを一心不乱に、一生懸命に対象に刻みつけた、さながら子供が虫の足を一本一本もいだり、羽根を毟り取ったり、生きながら埋めたり、殺して自ら墓標を立てて拝むような、無慈悲で無邪気な、児戯にも等しい幼稚性さえ感じさせた。


 通路右側。龍堂明の向かい側の牢獄には、白いシーツを身体に巻きつけられ、椅子に座らされた状態で女が死んでいた。口は半開きの状態のまま、大量の赤い花びらが押し込められていた。シーツには“37301564”と血で文字が書かれていた。


 一ノ瀬綾子の胸には、深々とダガーナイフが突き立っていた。足元をわざわざ白いシーツごとロープで巻き付けてある。これも恐らくは見立てなのだ。


「悪趣味きわまりねぇな……。こっちまで頭がおかしくなりそうだぜ」


「花束に見立てたんだね……。プレゼントのつもりか。なんて残酷なことを考えるんだ……。それにしても、この数字は一体……」


「ふん、くだらない語呂合わせですわ。37301564……ミ、ナ、ミ、ワ、ヒト、ゴ、ロ、シ。“美波は人殺し”。そう言いたいのでしょう」


 この異様な空間の配置は、アーティストの異常な創造力の一部として存在し、死体の恐ろしい最期を象徴する為に演出されていた。


 この夥しい死体の数々は、我々への明確なメッセージなのだろう。


 ただ殺すのでは面白くない、と。


 西園寺は美波に向けて問いかけた。


「いくら悪党でも胸糞悪過ぎるぜ……こんなイカレたことしやがったアーティストは一体、何者だ?」


 決まっているでしょう、と美波はきわめて冷たく、突き放すような冷静な声で答えた。


「この事件の真犯人です」


 私は絶望的な思いで二人に言った。


「こんなことをした化け物と戦わなくちゃいけないのか……」


「出ましょう。これ以上、血の臭いを嗅ぎ過ぎてはいけません」


 奥にある鉄の扉を抜けると、いくらか嗅覚は戻ってきた。通路の奥から微かに風が吹いてきているのが分かる。しかし、一度染み付いた鮮烈な悪夢の光景は、消えなかった。網膜に焼きついた忌まわしい記憶は、これから一生忘れることなど出来ないだろう。


 その背後の鉄扉は分厚く、こちら側もやはり暗い錆色と緑青が時の重みを物語っていた。重い監獄のような鉄扉はギシリと軋んだ後、甲高い音が長く尾を引くように鳴り響き、殊更に大きな音を立てて、隔絶された悪夢が凝縮されたような、死体溜まりの地下牢を再び閉ざした。


 かつて戦時中の隔離施設だった地下牢は、恐らく文化財として保管されることなく忌まわしい記憶と共に、いずれ封鎖されるのだろう。


 地下駐車場へは、この先に続く通路を通って、たどり着くようだった。


「ある一人の財閥令嬢を巡って、三つの犯罪計画が重なり、同時進行する。そんな馬鹿げた事件を想像してみてください」


 突然立ち止まり、壁に背を預けて美波は腕を組むと、私達に向けてそう語り出した。


「三つの犯罪計画だと?」


 西園寺も思わず足を止め、振り返った。私は美波の意図が分かった。この先には恐らく、あの八人を殺害した人間がいるのだ。


 私も足を止め、自らを落ち着かせるようにして、彼女の問いに応じることにした。


「公安の津田洋介殺人計画と片桐美波誘拐計画。そして片桐美波を社会的に抹殺する為の計画……この三つだね」


「ええ、その通りです」


「ちょっと待てよ、それじゃ全部お前の動きを中心に、計画が組まれているってことにならねぇか。九人の人間が寄って集って、お前ん家の財産を食い物にしようとしてたってことだよな? 誘拐と殺人を同時進行するには、さすがに無理があり過ぎねぇか?」


 それには理由があります、と美波は続けた。


「お二人は一番肝心な可能性を失念しています。これら三つの計画は、彼らがターゲットの私を罠に嵌めるだけの計画ではなかったということです。西園寺さんの言うように、同時進行するのは相当に難易度が高いんです。この計画で最も大事なことは、一見どれか一つでも失敗すれば、計画を変更せざるを得なくなるという点です。確実に押さえておかなければならないのは片桐美波、つまり私の所在なんです」


「そりゃそうだろう。罪を着せる人間が現場にいないんじゃ、結局は失敗だ。だから奴らは、俺達の誘拐にシフトしたんだろう」


 西園寺の言葉に、私も頷いた。


「失敗してもセカンドプランがあれば数を頼りに実行は可能だろうけど、いくら複数人でもあの人だらけの地下街で強引に進めるには、やはり無茶としか思えないよ」


「いいえ、たった一つだけ方法があります。私がいてもいなくても可能な方法が。彼らは確実にやり遂げられると確信できる確かな根拠があったからこそ、躊躇なく無茶な計画を実行できたんです」


「何だそりゃ? お前がいなきゃ、お前に罪を着せられねぇだろうに」


「東城さんや西園寺さんは、はっきり見ているはずです。被疑者である自分を、捕まえさせればいいのです」


 私はあの時、鳶座りしていた女を思い出していた。顔面が血塗れの女。地下街を騒然とさせた女。


「彼らには、それぞれ共通している目的があったのです。それは世間に公になってしまえば、自分達の身元と現在の状況が一変してしまう、彼らにとって致命的な時限爆弾になりえるものでした。しかし逆に言えば、それは手に入れることで炎上沙汰からも復帰できたり、特定の人間を脅迫することさえも可能になり、様々な業界の闇さえ手中にできる悪魔の切り札になる貴重なお宝でもありました。ある一人の公安刑事が残した、ね」


「奴らの共通する目的は、ICチップの奪取……だったんだな?」


「そうです。例のICチップは公安の川崎弘樹刑事が残したものであり、その存在さえ眉唾だったのです。それが世間に暴露されてしまった事件があったからこそ、彼らは急いでそれを回収しなければならない必要性に迫られた」


「その時から既に、計画は始まっていたってことだな」


「いくらなんでも早すぎる。相当にヤバい秘密だった訳だね」


「その切っ掛けを作った人間に落とし前をつける為に、複数人に呼び掛け、無茶な計画を実行したであろうことは想像できます。これは成功しただけでも、相当な金額が手元にすぐに入ることが確実に見込める計画でした」


「片桐美波の誘拐……だよね?」


「ええ。しかし、彼らは真犯人の意図を読み違えたのです。そして、それこそが彼らが死んでしまった原因です」


「一体、その犯人ってのは?」


「犯人は最初から現場にいましたわ」


「あの地下街に、最初からいた人物か……」


「真犯人は、この私が一人になる機会を窺っていました。そもそもが、この閉鎖された別荘地という場所に私を閉じ込めておくのが、彼らの計画の当初の目的だったのですから」


「え? それって、そもそも殺人事件にすらならなかったかもしれないってこと?」


「いいえ、津田洋介の殺害は、犯人にとって確実に実行されなければなりませんでした。動機の面では、桜庭大介による口封じの面が強いように思えますが、それこそが犯人の第一の目的だったのです。あの最初の事件の時の、彼らの証言を思い出してください。一人一人の供述で、決定的におかしなことがあったのは、彼らは犯行を実際に目撃しているにも関わらず、凶器の存在を明かせなかったこと。人だらけで何も見えなかったと証言したのです。それに関しては、もうお二人もご存知でしょう?」


「ああ、その場でプロの暗殺者の存在を明かす訳にはいかなかった、とそう思ってたんだが……違うのか?」


「ええ、殺人事件が起こることは、一部の人間にしか知らされていなかったということです」


「え? じゃあ彼らは連携して殺人を行い、その隠蔽工作をしたんじゃないってことなの?」


「奴らはお前を使って何がしたかったんだ?」


「簡単です。彼らは初っ端に、私の誘拐に失敗したのですわ」


「誘拐に……失敗した?」


「しかし、彼らに誘拐計画の細部までは伝わっていなかったと考えられます。彼らはメインの誘拐事件が失敗したことで、かなりの足止めを食らいました。彼らは恐らく、こう命令されていたはずです。何かが起こったら囲んだ女の仕業と証言しろと。何か事が起こったら、ありのままを証言して、その女を徹底的に追い込め、とね。その際は、凶器に関することは何も喋るな。それさえ守られれば、例の山荘で利益はそれぞれ納得のできる形で、完全受け渡しができるようになるはずだから、とね」


「君がトイレに行ったあの時だね? 彼ら全員がグルだったのだとすれば、計画で一番障害になるのは……そういうことか……。僕らが失敗の原因の一つだったんだね」


 私は西園寺の方を窺った。相棒は私の視線を受けて尋ねた。


「そう。美波の誘拐計画に一番邪魔なのは、俺と東城の存在だった。だから俺達を引き離す為の足止め役が必要だった。俺は喫煙所で奴に、桜庭大介に捕まった。一方で東城は……」


 西園寺は私に無言で振った。正直、認めるのが辛かった。西園寺にしても同様だろう。それを認めるということは、マスコミと警察、二つの組織の構成員の犯罪や腐敗が世間に晒されてしまうことを意味していることになる。どれだけの人間が関わっていたにせよ、確実に関わった人間達を、私達は知っている。だから私は躊躇せずに答えた。


「風祭純也。彼が僕の足止め役だった訳だね」


「あの時、一体何があった?」


「結果が全てを物語っています。誘拐に失敗しても、すべての計画を実行可能にできる人物が、たった一人だけ存在するからです」


「犯人は、殺されたあの中にはいなかった人物……だよね?」


「ええ、一人だけです。たった一人だけ。すべての犯罪に関わり、全ての人間を操っていた人物がいます」


 片桐美波は改めて、私達に最大限の警戒を呼び掛けた。


「その人が、この連続殺人事件の……本当の真犯人です」


「行かなきゃな。こんな事件は、早く終わらせなきゃならねぇ」


「ああ、いくらなんでも人が死に過ぎだ」


「この先に答えがあるはずです」


 意を決し、私達は冷たい風が吹きすさぶ、蛍光灯の明かりが灯った前方へと歩みだした。


 進むにつれて天井が高くなっていくのが分かる。既に真新しいLEDの照明が灯った通路に出ているが、暗がりをカバーできているとは、お世辞にもいえない。


 通路はそれなりに広い地下駐車場へと続いているようだ。電気は生きているようだが夜間のせいか、かなり薄暗く感じる。昼夜を問わず静寂が支配しており、外界の喧騒からは完全に切り離された、まるで別世界のようだった。


 やがて私達の向こう側には、地下駐車場と思われる広い空間が見えてきていた。


 駐車場と地下牢への通路の境界。


 誰かが壁に仰向けに倒れている。あれは。


「風祭さん!」


 私は慌てて彼の下に近づいた。彼は虫の息で、血に濡れた顔でうつろな目を私に向けていた。


「よ、よお……東城……」


 彼の声はかすれていて、言葉を紡ぐのも苦しそうだった。私は彼の側に膝をつき、手を握った。


「風祭さん、風祭さん! 大丈夫ですか! 何があったんですか!」


「ああ……東城、すまん。どうやら俺はしくじったらしい」


 彼の口元からは血が滲み、彼の体は断続的に痙攣していた。下顎を開いたり閉じたりしながら、しゃくり上げるように呼吸しようとするのだが、胸が……動いていない。


 生暖かい血がべたりと私の両手に貼り付くのが分かった。腹部を刺されている。完全に死戦期の呼吸だった。もう何度目かの絶望が、私を再び金縛りにした。


 彼はもう助からない。


「ここは……悪夢だよ。閉じ込めておかなきゃいけない化け物が眠る……な……」


 彼の目は遠くを見つめており、その言葉には恐怖が滲んでいた。


「獣の皮を被った殺し屋が……俺達を皆殺しにする場所だったんだ……」


 風祭の言葉は断片的で、彼の意識は朦朧としていた。美波と西園寺もその場に立ち尽くし、血の臭いが辺りを支配する中で、風祭の次の言葉を待っていた。


「次々……殺された……。死んでからも……辱められた……」


 風祭の目には、涙が滲んでいた。


「ずっと……ずっと……終わりなく……」


 彼の声は既にほとんど吐息のようなもので、体は酷く冷え切っていた。


「グウゥ……ウッ……」


「風祭さん! しっかりしてください  あなたが死んだら、乃亜ちゃんや奥さんはどうすればいいんです!」


 口からは血の塊がこぼれ落ち、彼の苦痛は顕著に表れていた。


「まだ、お前がまともなら聞け……」


 彼は僅かに力を振り絞り、私たちを見上げた。


「お前も見ただろう? あんなモノが人の行く末だなんて哀れなものさ……」


 あんな理不尽な死に方があるものか! こんなことが――許されていい訳がない!


「どっかで間違っちまったんだな俺達は……。奴にとっては、俺が最後の獲物だっただけさ」


 彼の目は悲しみに満ちていた。風祭がすがるように美波の方を見上げた。


「た、頼む……お願いだ……。この悪夢を……君の手で、終わらせてくれ……」


 その懇願の声は遺言のようだった。


「いくら俺達が……罪人でも……憐れじゃあないか……俺達が……罪深い獣でも……あんまりにも……憐れじゃあないか……」


 風祭がゆっくりと手を上げ、残り少ない力を振り絞って天井の方を指差した。彼の目は悲痛に満ち、その最後の息吹が、静かに消え去るように空間に溶け込んでいくようだった。私は、この暗闇の中で彼らに何が起きたのか、そしてどれほど恐ろしい事態が待ち受けていたのかを改めて感じ、戦慄していた。


「乃亜……。美沙……子……」


 そう言うと、風祭は死んだ。


 その言葉が彼の唇から漏れた瞬間、辺りに異音が響き渡った。


「危ないッ!」


 突然の鋭い声と共に、美波が私と西園寺を強く突き飛ばした。


 西園寺と前のめりに転んだ私が、驚いて振り返ったと同時に、凄まじい速度で重い鉄製のシャッターが地面に激突する音が、地下空間に響き渡った。私は呆然と振り返り、いきなり目の前に現れた、格子状の牢屋のような空間を見つめていた。


 シャッターの落ちたすぐ隣に、絶命した風祭が倒れていた。明らかに彼の死体を罠にするつもりだったのだ。


 美波が突き飛ばさなければ、間違いなく私か西園寺か、あるいは両方とも無事では済まなかっただろう。美波が身を投げ出し、ギリギリのところでシャッターが落ちてくるのを避けられた。


 だが、美波がシャッターの反対側に残されてしまった。


「クソッ! なんてことしやがる!」


「か、風祭さんを……囮に……」


「迂闊に近付かないで下さい!  これが敵の手口なんです。犯人はアクセサリーすら暗器に代えて携帯している。ヒラヒラした服は相手を騙すのに最適な服装。化けの皮を被ったけだものの最大の武器は、女であることです。

……そして、これが出来た人間はあの時、たった一人しかいなかったはずです。そう……」



「貴女なら出来ますわね? 冴島紀子さん!」



「えっ? さ、冴島って……」


「冴島紀子だと……?」


「お見事……。けど、ケダモノ呼ばわりとは心外ね。少なくともあなたにだけは言われたくないわ、片桐美波さん」


 私は暗がりの中で目を凝らした。シャッターボックスの前に今、一人の女が立っていた。


 女はこちら側に背中を向けて立っていた。腰に届くまで背中が開いた、黒いドレスに身を包んでいた。女の背中には王冠を被り、蝿のような羽根を持ってしゃがみ込んだ女がかたどられた、奇妙な刺青が彫られていた。


 死臭漂う暗がりの中で、女はゆっくりとこちらを向いた。


 ボブカットの髪型とふっくらとした唇。異国情緒のある顔立ちの――女。


「初めまして……ですわね。神狩ちなみ……いいえ、片桐美波さんと呼んだ方がよいのでしょうか?」


「か、神狩ちなみだって!? み、美波さん……君は何を言っているんだ? そ、それは君の昔の芸名で……!?」


「ハジメマシテ。ワタシ神狩ちなみ。永遠のカリスマモデルよ。うふっ」


 女は甲高い声で――笑った。


 美波は顔を顰め、溜息をついた。


「いい加減に、その虫酸の走る特殊メイクを外して貰えませんか? それと本名はきちんと名乗って戴けませんか? この期に及んで、まだ自分の名前と姿を犯罪に使われていると思うと、非常に不愉快です」


「あら、さすが本物。気づいてたの?」


 ベロリと女が――顔の皮を剥いだ。



 片桐美波が二人いた。



「なッ! そ、その顔は……!」


「一体、何が……。どうなって……やがる……。美波が二人いたってのか……。馬鹿な……こんな馬鹿げたことが……」


「ようやく正体を現してくれましたわね、シャドウさん。東城さんに西園寺さん、これで解りましたでしょう? この一連の事件に仕掛けられた、彼らが企てていた計画と、この犯人の本当の狙い。実に馬鹿げた話ですが、これが、私になりすました人間が誘拐事件を手玉にとり、公安刑事の殺人事件を行い、協力者達を皆殺しにした事件の全貌です。いきなり現れる被害者も、そして謎の他殺死体も、現場から消えた凶器も。仲間である協力者達を、なぜ彼女が、この場所で殺さなければならなかったのか。私になりすました本当の理由は、彼女が私の姿形を騙って、最後には私を殺す気でいたからです。仲間達にはそう告げることで、操っていた。先ほど念入りに顔を潰された死体こそが、本物の冴島紀子であり、表向きは彼女になりすましていた」


 衝撃に押し黙る私と西園寺の聞く中、淡々と美波は続けた。


「全てはこの人の、この姿を中心に据えると何の不思議もない事件だったのです。事件の協力者達は、それぞれ別々の動機や利害で動かされていた関係者達であり、別々の名前と姿を使って彼らと協力関係を築きながらも、影で暗躍していた真犯人は彼女だったのです。彼女は二つの顔と複数の名前を使い分けていただけです。彼女は冴島紀子であり、神狩ちなみであり、そして……片桐美波でもあります」


「く、狂ってる……。この時の為に……。仲間達を騙して皆殺しだなんて……。風祭さんまで、よくも……!」


「何てこった……! クソがっ! 畜生、今すぐこの檻を開けやがれ! テメェ……初めから美波に成り変わってトンズラしようって肚だったのか! よくも桜庭をっ! いけ好かねぇ野郎だったが、俺の同期を虫けらみてぇに殺しやがってぇえっ! そこを動くな! テメーのその顔面、叩き潰して引き裂いてやる!」


「ふふふ、下品な負け犬達の断末魔に相応しい台詞ね。五月蝿いから黙っててちょうだい。……ふふ、ようこそ。片桐美波の殺戮ショー、その華々しい血塗れの舞台となる、地下の最後の舞台へ!」


 女は高々と両手を上げて笑うと、地下の死体溜まりへ向けて、正に化けの皮を脱ぎ捨てた。


「ふふ、特殊メイクには自信があるの。真性の人殺しがいちいち殺した人間の数を数えると思って? ……見て、綺麗でしょう。最先端の科学や美容整形技術は、こんなことすら可能にする。正に陰中の陰気。美波さん、さしずめ私は貴女のドッペルゲンガーね。奴らを追い詰めたようで!貴女はまんまと私の用意した檻の中に入り込んでくれた。ここが本当に最後のステージなのが残念。……粋な演出だったでしょ?」


「ええ、最ッ低な手口ですが、その自由過ぎる発想自体は素敵ですわね。冴島紀子という名前も戸籍も、芸能界の彼女の立ち位置も姿形に到るまで、いずれ全て自分が乗っ取る為に、予め彼女に用意してあげたものなのでしょう?」


「なっ……! なん……だと……。おい、マジか! 冴島紀子ですらねぇってのかよ!」


「乗っ取るって……」


「もう一度お訊ねしますわね。貴女は一体、どこの誰なのですか? 片桐美波を名乗る私そっくりの別人……。そして、冴島紀子ですらなく、名前も平気で偽れてしまえる人間。おそらくは、戸籍ごと誰かの人生を乗っ取ったのでしょう? 女ですから、名無しの権兵衛や米国のようにジョンとあだ名をつける訳には参りませんわね。貴女を、何とお呼びしたらいいのかしら?」


「何だって!? こ、戸籍を……乗っ取る!? 他人の戸籍を乗っ取るなだんて、そんな馬鹿げたことが出来るわけが…」


「いいえ、東城さん。貴方も、この国のマスメディアという仕事に携わる人間なら、解るでしょう。この日本という国では、とある国からやって来た人々が、日本人の名前を名乗って堂々と生きていけます。元の国籍を曖昧にして、通名を本名として名乗ることが許されているのですから、他人の戸籍を使うことなど簡単に出来ますわ。芸能界には芸名というものまである。元の国籍と本名を明かしている人もいますが、それはごく一部だけです。背乗りという犯罪は、表沙汰になっていないだけで、相当な行方不明者が出ていることを日本の報道機関やマスメディアは放送しませんし、警察も公表しません。なぜなら、マスメディアや芸能人や司法にすら、この制度は摘用されているからです。日本の暴力団構成員の八割は彼らであり、彼らは事実上、この日本を支配している……と、そう思っている」


「は、背乗り……だって? そ、そんな……」


「いや、東城。美波の言ってるのは、おそらく本当だ。コイツが冴島紀子だけじゃなく美波になりすましていたのなら公安の川崎や津田。それに桜庭までが消された理由にも説明がつく。アイツらは公安部外事第2課の潜入工作員であり、内偵捜査でコイツのいる組織を追っていたから消された……。つまりコイツの正体は、アジア系の外国人なんだ」


「ええ、その通り。西園寺さんなら知っているでしょうが、他人の戸籍を乗っ取る背乗りは元来、中国や朝鮮半島出身のスパイや工作員が、日本人の身分や戸籍を乗っ取る行為を指す警察用語です。北朝鮮の情報機関や韓国人もよく使う手口であり、日本人拉致や犯罪の隠蔽にも、この背乗りを目的としたものが多い」


 油断なく自分そっくりの女を睨みつけながら、美波は続けた。


「日本で工作活動を行うほか、韓国に入国するためのパスポートを得たり、日本人家族を殺害し、他人の戸籍を、家族ごと乗っ取ったりもするのです。その忌まわしい手口の延長線上にいるのが、日本人拉致被害者達です。戸籍のロンダリングという例は表沙汰になっていないだけで、たくさんありますわ。そして、この卑怯な手口は彼らのお家芸でもあります。政治やマスメディアの世界ですら背後から支配しようと企む、国籍を曖昧にする人々……国家ぐるみで日本の影で動き続け、今日も日本人達を騙している現実が、70年以上も続いている国なのですから。……さて、これらを踏まえた上で繰り返しますが、貴女を何とお呼びしましょうか? 整形大好きな名無しさん」


「ふふ、想像にお任せする、とだけ言っておいてあげるわ。私達にはね、日本の法が裁こうとしても、裁けない理由があるのよ。秘密めいたタブーって素敵よね」


「炎上沙汰を起こして、ひっそりと暮らしていた芸能人のカムバック。この世に存在しないはずの二人目の私。その正体が、まさかの人殺し……。正に人の皮を被った浅ましき獣の本領発揮ですわね。事前のリサーチも大変良くできています。身障者でそれなりに裕福で厭世的な私になりすまし、自分の協力者だった桜庭大介と風祭純也を抹殺。協力者は皆殺し。私を通じて事件を知る東城さんと西園寺さんも私の振りをして抹殺すればいい。ドサクサ紛れに奪取したICチップは、様々な組織の不正を明るみに出来るし脅迫の切り札にだってなります。……それが、貴女が所属する組織のシナリオ。残りの人生は面白おかしく、笑顔で豪華にゴージャスに。整形した女を亡き者に出来れば、後は全て自分達の物。片桐財閥の財産まで、丸ごと頂いちゃおうという訳ですわね?」


「否定はしないわ。貴女には過ぎた代物だもの。まずは貴女になって、好きなだけ銀座でショッピングでもしてみたいところね」


「なるほど。背乗りと呼ばれる犯罪の手口も、ここまでくればもはや芸術的ですわね。確かに私は何不自由のない、座敷牢に入れられるような退屈な生活が厭で片桐の家を出た、一族の面汚しの親不幸な娘です。一月と三月に起こった事件で、多少なりとも目立ってしまいました。化けるのには大掛かりな芸能人から、次の船に乗り換える為には、私は最初から貴女のターゲットとしてはうってつけの存在だったのかもしれませんわね。そうした意味では迂闊でした」


「よく気づいたわね。そうよ、美波さん。アイツらの命など、しょせん寄せ餌。事件はこの結末の為の呼び水のようなものだったのよ。どんな不測の事態が起ころうと、私がいれば、いかようにも計画は修正可能。最終的には貴女を殺せばいいだけの計画だったのよ。貴女は私で、私は死んだ貴女になる。無能な手駒が失敗することまで含めて、徹頭徹尾この計画に最初からブレなど全くなかったのよね。貴女は私として狩られ、ここで死ぬ憐れな被害者。この真っ黒なドレスはその象徴といったとこかしら? 探偵が人殺しというのも定番中の定番ね。いわば歴史の必然。早いか遅いかの違いしかないわ」


「ふざけやがって……!」


「クソッ……! 開かないッ!」


「ふふ、大人しくそこで見てなさいな。ここには、あなた達の好きな正義も法も真実も、何も存在しないわ。しょせん杖や車椅子に頼るような身障者に探偵など無理だったのよ。これが片桐美波の最後の事件となる。貴女の残りの人生は私がそっくり頂くわ。心配しなくても、綺麗に貴女という痕跡を死体ごと消してあげる。そこの犬や猿は、事故死ということにして狂人による心神喪失状態の大量殺人ということにすれば、表向きは何もない。これから死ぬ貴女と違って、私には時間はまだまだ膨大にあるもの」


「殺人があらゆる犯罪で最もリスキーな行為だと知った上で味方を皆殺しにする……。貴女のバックにいる組織に興味がありますわ。いつぞや“クライアント”と名乗っていた、犯罪者さえ利用する愉快で最低なゲス集団なのでしょう。構成員でも、しくじれば口封じに殺す。マスコミの記者だろうとキャリアの刑事だろうと、たとえ協力者でも、用が済めば口封じに皆殺し。ショッカーやゴルゴムも真っ青な、悪の軍団の一員というわけですわね」


「あの物言わぬ死体共のこと? しょせんゴミクズの命よ。あなた達も日本人なら私に感謝したら? この国でひたすら偏った思想に酔って日本人から金を奪うことしか考えない無能でクズな連中、私達の組織にはいらないわ」


 片桐美波は自分そっくりな影へと向け、ニヤリと微笑んだ。


「ふふん、稀にこんな素敵な出会いに巡り会えるのですから、ミステリというのは、本当に面白くも素敵なエンターテイメントです。人は生まれた血や業からは、逃れられるものではないといったところでしょうか……。獸を引き付ける寄せ餌の類とでも思えば、生まれや育ちや財産も邪魔にはならないのでしょうが、得てして真っ当な手段に出ずに、お金に群がるその品性は、エレガントなものではありませんわね」


「あら、犯罪もまた人の業なら、アンダーグラウンドな経済の仕組みで、世の中は動いているものよ。この国で企業が抱える内部留保や犯罪の上がりが、どれだけ莫大な金額になるか知っていて? 何も知らないのは、搾取されておきながら、ただただ喚くだけしかできない奴隷達。昔からこの国は何も変わっていないのよ」


「よくってよ。どちらが狩るか狩られるか。どちらが生きて、どちらが死ぬか。戦いとは最後にどちらが立っているのか……結局はそれだけのことなのです。白黒つけて差し上げますわ」


 美波と影……紀子は互いに威嚇し合うかのように、ゆっくりと動き始めた。


「全力で殺しにきてください。身障者だからと嘗めていると、痛い目を見ることになります」


「美波、逃げろ! もし次に足の痺れがきたら殺されちまう!」


「そうだ、美波さん とにかく、その女の後ろのボタンでシャッターを開けるんだ! 君だけじゃ無理だ!」


「東城さん、西園寺さん。そんなに心配してくれなくても、貴方達ロイヤルガードの守るべき探偵の女王は永久に不滅です。癪ですが、この場は、この私が直々に預からせて頂きますわ。安心なさって。人の命を侮辱する悪人を、私も許すつもりはありませんから」


 黙った私達の間に、沈黙が訪れる。もはや言葉は尽くした。


 シャッターが閉ざされたことで、前方の駐車場からは、行き場をなくした、冷気を伴った風が吹き込んできていた。


「実にいい風ですわ」


 一際冷たい風の中で、美波は言った。


「ミステリになぞらえましたが、推理や論理で遊ぶ知的なエンターテイメントは、これにてお仕舞いでしてよ。この方は良いことを教えてくれました。探偵は己の正義と誇りを貫く為なら、時に手段は選んでいられない。最後はミステリらしく、人の血で遊ぶ外道と踊るのもまた一興というものです。ここで無様に、こんな醜い獣ごときに狩られて一生を終えるのなら、しょせん私も人として、探偵として、それまでの女。これが最後の事件だったということなのでしょう」


「潔いことね。命乞いをすれば、せめて苦しまずに息の根を止めてあげたのに。しかし、獸とはアタシも嘗められたものね。御場日傘の温室で育てられた、真っ白なアマリリスの似合う丸の内の素敵なお姫様。真の暗殺者が、素人との格の違いを教えてあげる。孤独な探偵の最期は華々しくあるものよ。せめて墓前には、貴女の好きな花でも手向けてあげるわ。貴女の血で真っ赤に染まった花をね」


「ならば探偵として、私から最後のご忠告。貴女はやはり勘違いをしているわ。探偵はこんな風に時に、その関わり方一つで、誰かを不幸にしてしまう存在なのかもしれません。真実に孤独は付き物ですが、それでも探偵は一人ではありません。すべからく探偵という存在は、事件と人の意志によって選ばれ、脈々と受け継がれてきた、魂と知性の輝きで人の道を照らす希望。洋の東西を問わず、歴史の闇の中で人知れず戦ってきた、その誇り高き魂とそこに流れる熱い血潮は、易々と弱い獸に虐げられるような生半可なものではありません。私に流れる誇り高き探偵の血は、貴女ごとき下賎な人殺しの手に負えるような血ではないのです」


「……ふん、ならば血に飢えた醜い獣の恐ろしさ、その目に焼きつけて死ぬがいいわ」


「女王の狩り……教えて差し上げます」


 格子戸の隙間から、私たちは無力にもただ見守ることしかできなかった。陰と陽。黒と白。合わせ鏡のように瓜二つの顔立ち。紀子と美波が対峙している様子は、まるで暗黒の中で火花を散らす、静かな嵐のようだった。


 紀子はひらひらとした黒いドレスを身に纏っていたが、その軽やかな布の裾からは時折、鋭利な光が閃いた。アレはカミソリか。


 美波のホワイトミニドレスとはちょうど対象的に、裾の長いヒラヒラしたドレスなど、およそ動きにくそうに感じたが、切れ目が入った大きなフレアのスカートから覗く脚部には様々なものを仕込んでいるのだろう。指に挟んだ刃が、カミソリの空気を切り裂く度に怖気が走るようだった。


 黒い女の動きは猫のようにしなやかで、ドレスの隙間から見え隠れするメスや指に挟んだカミソリといった刃物が、その動きを更に危険なものにしていた。


 彼女は嘲笑うように、美波に向けて危険な刃を振り回した。超小型でいつでも投擲に転じることができるという、両手の指に挟んだ刃物の一つ一つに計算された意図が込められているように感じた。


「やるじゃない、お嬢様。人並みに護身術は身につけてるのね」


 紀子が冷たく言った。彼女の声には軽蔑が込められていたが、美波は動じることなく攻撃を捌いていた。


 美波の体術というものを私は始めて目にした。杖は畳むとちょうど棍棒のような長さになり、伸ばすと長柄の錫杖のような長さになり、素早く切り替えながら足払いや蹴りに織り交ぜたり、回転して殴りつけたり、器用に立ち回っているのが素人目にもよくわかる。


 美波が杖を伸ばすと同時に、彼女の体が驚くほど素早く動き、瓜二つの影に向かって一直線に進んだ。紀子もまた、彼女に対してカミソリを投げつける動作を見せたが、美波はそれを巧みにかわし、杖で防ぎながら前進を続けた。


 私と西園寺は息を呑みながら、その一部始終を見守っていた。


 紀子の暗器と美波の杖を使った体術の間で繰り広げられるその攻防は、まるで互いの服装も相まって、華麗な舞踏のようにも見えたが、その中には一瞬で訪れる鮮血と死が隠されていた。どんなに華麗で美しい動きでも、これは命の奪い合いであり、紛れもなく死を賭した殺し合いなのだ。


 探偵と暗殺者。狩人と危険な獣の死闘は、いつ果てることなく続くかに思われた。


 格子を掴む手に思わず力が入る。檻の向こうで繰り広げられるおぞましい殺し合いに、私たちは何もできず、やきもきしながら焦燥と恐怖で身を硬くしていた。彼女が勝つことを願い、同時に彼女が傷つかないことを祈る他には、私たちにできることなど何もないという現実が、ただただ情けなかった。


 紀子は一転、その黒いドレスの中から複数のカミソリとメスを取り出し、投げ始めた。刃物は光量の乏しい薄明かりの中で危険な光を反射しながら、猛烈なスピードで美波に向かって飛んでいった。美波はそれを見て一瞬、表情を緊張させたが、すぐに落ち着きを取り戻し、持っていた杖を一振りさせた。


 その時だった。


 キン、という音がした次の瞬間、杖はなんと鋭く長い尾のようなものへと変形した。それは杖でも錫杖でもなく、一瞬で切り替わっていた。

 

「杖が鞭に……変形した!」


「ま、マジかよ……」


 空気を切り裂くような音と共に、鋭い鞭が弧を描くように、正確な狙いでカミソリを持った紀子の右腕に命中した。微かな音と共に刃が地面に落ちると、美波は素早く回転して自分を巻き込むように螺旋を描かせ、頭上から思いきり鞭を振るった。が、これはすぐに躱された。


 ビシッ、という石の床を叩く音に私は思わずビクリとした。空振りだったが、回転による遠心力まで加わった、あんなものを一撃でも食らえば、ひとたまりもないだろう。あの武器を扱い慣れているという事実が、私を驚愕させた。


「味な真似を!」


 紀子が痛みに顔を顰めたが、素早く美波から距離をとると、今度は次々と刃を投擲していった。美波は鞭を振るって次々と飛んでくるメスや錐やカミソリといった刃を悉く払い除けていた。


「やるじゃねぇか、アイツ!」


「ああ、イケる!」


 だが、恐れていた瞬間が訪れた。


 突然、美波がガクリと支えを失ったかのように地面に膝をついた。痺れが襲ってきたのか、彼女の動きが一瞬、完全に止まった。


「クソッ! なんて時に来やがる!」


「美波さん!」


 動揺する私達の姿に勝機と見たのか、紀子はその隙をついて、太腿の辺りからディスク型の奇妙な装置を取り出した。縦に三つ並んだ丸い刃を見た瞬間、私は瞬時にそれが何か解った。


「アレは……チャクラム!」


 女がその黒い握力計のような奇妙な形の装置を握り込むと、まるで電動ドリルを回したような独特の音を立てながら、危険な刃が瞬く間に高速で回転した。


 紀子が猛然と美波に襲い掛かる。


「死ねッ!」


「危ないっ!」


「美波! 避けろっ!」


 私達の叫びが重なった。


 その時。


 俯いた美波の足元から、突然強烈な光と、耳をつんざくような爆発音が地下中に響き渡った。


 まるで腹の内側から破裂したように揺らされた地響きと、キーンという耳鳴りと共に、真っ白な光が一気に爆発したような衝撃だった。ホワイトアウトから暗転したように、今度は暗闇で何も見えない。


 青みがかったような視界から徐々に目が慣れてくると、そこには強烈な膝蹴りを紀子の腹部に叩き込んだ美波の姿があった。


 紀子はその一撃で前のめりに崩れるようにして倒れた。目が眩むような眩惑と耳鳴りが未だ伴う薄闇の中、美波は何事もなかったように、立ちはだかっていた。


「勝負あり、ですわね」


 彼女はまるで悪巧みでもするようにニヤリと微笑んだ。西園寺がやはりというか、真っ先に反応した。


「お前……またやりやがったな! まぁ、でも今回ばかりは目を瞑るしかねぇ。とにかくやったな!」


「スタングレネードか! びっくりしたよ。それならそうと……」


 言えるわけもないか。敵の不意を突く戦術としては、最高にして最大級のタイミングだったろう。


「クッ……なんてこと……」


 至近距離で閃光と爆発音をまともに食らった紀子は、膝をついて頭を振った。まだ朦朧としているようだった。


「ふふ、少しは耳が慣れまして? 血腥ちなまぐさい獣にはもってこいの得物でしょう? 昔から獣を屈伏させるのは鞭と相場が決まっています。……格の違いを見せてあげられなくて残念でしたわね。戦いとは常に二手三手、先まで読んでこそ、その真価が発揮されるというものです。その場から動けなくても、獣一匹どうにでもなるものですわ」


 美波は鞭を元通りのロッドに戻すと、傍らに転がっていた握力計のようなものを杖に引っ掛けて掲げた。私も思わず目を凝らしていた。暗がりの中で見えるそれは、とても何人もの人間を殺害した凶器には見えない代物だった。


「なるほど、握り込むことで高速でチャクラムの刃を回転させるディスク型の装置……。これで何人もの人間を、殺害してきたのですね」


 美波はじっくりと観察するようにしげしげと眺めた。指紋をつけないように配慮しているのだろうか。


「複数枚の刃を用いれば、先ほど殺人現場で見た惨状も納得ですわ。まさに一撃必殺の獣の爪というわけですわね。隠しておきたい秘密こそ明かしてしまいたくなるもの。残念ですが、暗殺者が喜んで死体を稼ぐ余り、手の内を見せ過ぎたようです。これがあなたの切り札だったようですが、切り札を先に見せるなら、奥の手はきちんと用意しておくものですわよ?」


「くっ……最初からこれを狙っていたのね。なんて奴なの……」


「ええ、戦闘中の長台詞は禁止しておりまして、これで存分に喋れますわ。最近の探偵は、戦闘も推理も解説も、何でもできないと話になりませんの。一応こちらの手の内も解説してあげますと、鞭の先端が加速しながらターンをする。この時、先端は音速を越えます。音速以上の速さで動くと空気が圧縮されて、影として見える」


 美波は再びロッドを鞭に変形させた。改めて見ると、ロッドが内側に縮んで、隠された中身が剥き出しになるまでは一瞬だった。さっさと拘束した方がいいように思えたが、何かしらの考えあってのことだろう。


「先端の速さの秘密は鞭の構造にあります。鞭はその構造上、先にいくに従って細く軽くなっています。先端を徐々に軽くすることで鞭を振った際の手元の運動エネルギーが先端に無駄なく伝わる。その結果、先端にエネルギーが集中し、音速以上の速さで動かすことができる。振り方も重要で、ループを作るようにして振ると、鞭の先端だけ素早く動かすことができ、大きな音を出せる」


 パン、という音が周囲に反響した。私は先ほどの衝撃に思わず身体がびくり、と反応してしまった。パンチアイという後遺症がある。一度強烈な外部からの衝撃を受けると、同じ体験を連想して身体が強張ったり、恐怖のあまり過剰に目を閉じてしまうという症状だ。ボクサーがこれにかかると試合では使い物にならなくなるといわれ、音や光でも同じことが起きる。これこそまさしく後遺症の典型例だろう。


「鞭が破裂音を発するのは、ご存知? これは先端が音速を超えることにより、小規模な衝撃波ソニックブームを発生させるためです。これが音の正体。圧縮された空気が一気に広がることで、大きな破裂音となる。まずは派手な音に慣れてもらう必要がありました」


「貴女の切り札ね……」


「ええ、一部だけですが。私の得物は、そんじょそこらの暗器とは一味違いますのよ」


「私を殺さないの?」


「一瞬で殺してしまったら、勿体ないですわ。私は探偵ですが、エレガントよりスリルを求めます。こんな血湧き肉躍る素敵なバトルが、楽しめなくなるじゃありませんか。この世で最強の格闘家と呼ばれた人が仰るには、自分の身を守る最大のコツは、自分の命を狙う敵と友達になることだそうです」


「呆れた戦闘狂ね……」


「それはどうも。近接用の杖から、一瞬で中距離をカバーできる鞭へと変形する。この特性を利用すれば、鞭の動き一つで投擲系の武器を潰すくらいわけありませんわ」


「おい、警察にも質問させろ。奥の手だとしても爆弾なんて危ねえもん、どこから調達してきやがった?」


「ふふん、そんな物騒な殺傷兵器なんか持ってきませんわ。はるかに高性能で、女性や子供や老人の味方になる。いざという時の為の備えに携帯できる方が何倍もいいに決まっています」


 そう言って美波は、左耳を指で弾いた。そこにはあるべきはずのものがなかった。私はそれで彼女が何をやったか、瞬時に理解できた。


「そうか、イヤリングに仕込んでいたのか  目には目をだね」


「ええ、耳には耳を。私からのお返しということで」


「なにィ! また犯罪者が喜ぶようなもの作りやがって! そのイヤリングは何なんだよ?」


 これですか、と美波は残った右耳のティアドロップ型のイヤリングを指で弾いた。


「超小型の音響手榴弾……起爆と同時に180~190デシベルの爆発音と1.5メートルの範囲で100万カンデラ以上の閃光を放ち、突発的な目の眩み、難聴、耳鳴りを発生させる。いわゆるスタングレネードというヤツです。かの有名なバスジャック事件の犯人を制圧するのに、警視庁のSATが用いたものと同じですわ。多少、改造して小型化しましたが」


「味方を巻き込むんじゃねぇ!」


 美波は舌を出して西園寺を煽ると、傍らの紀子の様子を見ながら続けた。


「ただフラッシュバンを投げただけでは、すばしっこい貴女を無力化させられないと踏んでいました。そのチャクラムは貴女の切り札。手元の投擲武器を使い果たし、必殺必中のタイミングなら、貴女は必ず接近戦に特化したその武器を出してくるはずだと考え、自分自身を囮にしましたの。目には目を。耳には耳を。罠は人の心理の死角に隠すという戦法を、覚えておくといいですわ」


 紀子はようやく視力が戻ってきたのか、目頭を押さえていた。


「ふふ、これで今日から貴女も、晴れて身障者のお仲間。目と耳が不自由では、暗殺者としては再起不能ですわね。しょせん貴女は暗殺が多少お得意なだけの相手。動けないから一気に止めと接近したまでは良かったようですが、それこそ、こちらの手の内。まんまと引っ掛かってくれましたわね。言ったはずですわよ。身障者だと舐めてかかると、痛い目を見ると」


 しばしの沈黙があった。女は観念したのか、俯いたまま誰にも視線を合わせず、話し始めた。


「お嬢様は、きちんと戦闘訓練まで受けてきたのね。体術に歩行術に、様々な武器の扱い方まで……相対して分かったわ」


「ええ、幼い頃から。ウチは教官達が、割とスパルタでしたわ」


「そう……。私は子供の頃の記憶なんてほとんど覚えていない。記憶は途切れ途切れで……」


 彼女は静かに、しかし断片的な記憶をたどるように話し始めた。彼女の声は遠く、過去の風景を辿るかのように低く響いた。


「私の家族はカーキ色の軍服を着た兵士から逃れるような身の上だったらしいとしか解らない。亡命者だったのか、それとも犯罪者だったのか、それは知らないわ。川を渡る途中で、姉が溺れて死んだのは覚えてる」


「なっ! き、君はまさか……」


 西園寺が私の肘を掴んで静かに首を振った。私は頷いた。聞く……べきなのだろう。今は。


「一ヶ月余り、静かで汚い小屋に閉じ込められた時の風景はぼんやりと覚えてる。木の根や草とか、食事とも呼べないような粗末な物を食べて、命を繋いでいたのは覚えてる」


 女の目は遠くを見つめ、その声には苦痛の余韻が残っていた。周囲は静まり返り、女の話は虚空を切り裂くように鮮明に響いていた。残酷な思い出が、女の瞳に暗い影を落としていた。


「列車の中で親戚の叔父さん達が、軍服を着た兵隊達に捕まったことは覚えてる」


 彼女の言葉は、過去に戻る扉を開けたかのように部屋に響いた。


「父さんが追手から逃げる為に、私を置き去りにする時、母さんが私の口をふさいだことは覚えてる。音を立てれば見つかる。きっと殺されてしまうって……」


 彼女の声は震え、彼女自身が再びその瞬間を体験しているかのようだった。


「泣くことさえ許されなかったのは覚えてる。後ろから銃声が聞こえて、母さんがそれ以来、言葉を話せなくなったのは覚えてる」


 彼女は一瞬、言葉を失い、深く息を吸い込んだ。


「ほんの少しでも不自然な言動があれば、自分自身も拘束されてしまうこと、生きるか死ぬかの状況であることは悟っていたわ。幼い時に覚えているのはそれだけよ。自分の責任で両親が拘束されないように、感情は心の底に押し殺すように努めていたような気がするわ」


 女は瞳を伏せながら続けた。


「長い間、船に乗っていたのは覚えてる。お腹が空いて死にそうになっていたのは覚えている。ある家に引き取られてそれからは、普通の子供と同じように過ごせと言われたわ」


 彼女の声はわずかに震えていた。その言葉には長年の重みと、見えない鎖が感じられた。


「日本の家族は私を、何か怖がっているようだった。家庭教師をつけられて、こんな生活をさせられるのは日本人が悪いんだと教えられた。何度も何度もそう言われたわ」


 彼女の表情には、過去への恐れと怒りが浮かび上がっていた。


「日本人が私達の何もかもを奪った。奴らの汚れた血であがなわせろ。奴らには何をしても、何を奪っても許されるってね」


 彼女は冷たく、吐き捨てるようにしそう言い放った。


 その言葉には深い憎悪と、教育された偏見が込められており、周囲の空気が一層重くなった。彼女が語る過去は、不条理と苦痛に満ちており、そこには何一つ救いがなかった。彼女の話は、私たちにもある種の絶望を感じさせ、彼女がどのような状況で育ったのか、その一端を垣間見せていた。


 その衝撃は頭を死角から思いきり殴りつけられ、ショックが足に突き抜けた感覚だった。


 この片桐美波の顔をした女は日本人ではない。日本人と見分けがつかず、日本語を話し、日本人として生きながら日本人を憎んでいる。


 私の脳裏に最悪な単語が浮かぶ。そう、この女なら……この女だからこそ出来たのだろう。この女の言葉だったからこそ、殺された者達は半ば強引でも従わざるを得なかったのだ。


 鏑木の言っていた、彼らの間にある強力なネットワークとは、そういう意味だろう。殺された彼らの共通点に、私はすぐに思い至った。


 まさか、失われた円環ミッシングリンクが存在していたとは、想像だにしなかった。


 この女の語っている現実は、マスメディアに携わっている私にとって。いや、日本の歴史や政治的バランスを鑑みるに、ある種、最大級のタブーともされている核心に触れていたからだ。それは、日本の安全を根幹から揺るがしかねない危険性さえ孕んでいることになる。


「君は……在日朝鮮人であることすら騙っていたというのか……。それも……脱北者……」


 檻の中からの私の問いかけに、彼女は静かに頷いた。


「工作員、この国ではそう呼ぶそうね。半分正解といったところかしら」


 女は苦笑いを浮かべながら言った。その言葉には過去の影がちらついているようだった。


「よく血は水よりも濃いって言うわよね? 人は同じ星の下に生まれてくるって」


 彼女の声は、遠く思い出にふけるように低く沈んだ。


「笑えるわ。あなた達、平和で呑気のんきに暮らしているのが当たり前の日本人には、ほんの少し海を隔てた先にある地獄の姿なんて、解らないでしょう?」


 彼女は私たちを順番になぞるように見ていた。その目には、底知れない絶望と憎悪が映っていた。


「私達がどれだけ憧れても、日本を夢の世界の出来事としか思わないように、あなた達、日本人には悪夢の世界の出来事など、想像すらできないでしょう?」

 

 彼女の声は静かだが、その中には鋭い憎しみと批判が込められていた。空間には重い沈黙が流れ、その言葉がじわりと私の心に沁み入っていった。


 ガン、と西園寺が格子戸に拳を叩きつけた。その音は、冷たい空間を突き抜けるほどの鋭さで響き渡った。


「だからって、この国で何をしてもいいってことにはならねぇだろうが! この頭のイカレた化け物が!」


 彼の声は怒りで震え、その怒りがこの閉ざされた空間に圧力をかけるようだった。


「日本人を憎む自由なら、自分達に許されてるとでも言うつもりか。許せねぇ……! 俺はテメェを絶対に許さねぇぞ。犯罪に手を染めたってことも許せねぇが、仲間をこんな風に虫ケラみてぇに皆殺しにして、その罪をまた美波に被せて片桐家を乗っ取ろうとしただけじゃなく、死んだ奴らに罪を被せて、とんずらしようってのか! ふざけやがって!」


 私はその隣で息を呑みながら、怒りと共感の中で彼に続いた。


「そうだ! 君の出自がどうあれ、この国で暮らしている在日韓国朝鮮人は、今や三世や四世が当たり前だ。君だって、既に国籍は日本人なんだろうに!」


 私の声は自然に高まり、怒りが波のように押し寄せていた。


「なぜだ!? なぜ、普通の日本人として当たり前のように生きて暮らしてきた仲間達まで巻き添えにできるんだ!? こんなことが……こんなことが許されていいはずがない! 許されて堪るものかッ!」


 私の叫びは、彼女への絶望と怒りを込めて、響き渡った。


「何とでも吠えるがいいわ。現実はいつだって残酷なものよ。何度でも言ってあげるわ。人間なんて獣と同じよ! 奪うか奪われるかしかない。たった一度しかない、死ねば終わりの人生なら、命を賭けて徹底的に奪ってやる! あなた達はここで死ぬ! 片桐美波はこの私! 現実はそれだけよ」


 西園寺は怒りに震えながら、尚も叫び返した。


「ふざけるな! それで何人殺しやがった! テメェの理屈は、ただの独りよがりな思い込みだ!」


「何とでもほざけばいいわ! やはりあなた達、日本人は生粋のお人好しで甘ったれね。お陰様でだいぶ回復したわ」


 格子戸を強く握りしめ、私はその姿をじっと見つめた。その言葉があまりにも残酷で、胸が締め付けられるようだった。そして、私は静かに絶望した。人が人を憎み、殺すのにさした理由など必要ない。諦めにも似た、その絶望の前には抗う言葉もかけるべき言葉もない。人はこうして、何度でも同じ過ちを繰り返すのだ。


「それにね、その女には私を批判する権利もあなた達に守ってもらう資格だってないのよね。……そうでしょ? 片桐美波さん。あなたも、他人の命を奪った側の人間なんだから」


「ど、どういうことだ?」


 私は声を震わせながら尋ねた。


「ふふふふ……。私達が何も考えず場当たり的に、この遠大な計画を立てたとでも思っているの? 私達には、国籍も法も正義もない。用が済めば消すだけのことよ。最初からこの計画に、奴らの居場所なんか存在しなかった。そう言い換えてもいいけどね」


 状況の重さに私は圧倒されていた。この上、まだ何かあるというのか。


「テメェ……美波の何を知ってるってんだ。それ以上、ほざいてみろ。俺がテメェを黙らせてやる」


「西園寺、美波さんが? え……ど、どういうこと?」


 私は何か知っている様子の西園寺と女を交互に見つめていた。


「さあ? どういうことかは、そこにいる女に直接聞いてみなさいよ。八年前に自分の姉を殺して血の海に沈めた、そこの狂った女にね」


 紀子の言葉が終わると、一瞬の静寂が訪れた。その後、彼女は少し嘲るように笑った。


「ふふふふ……」


 美波は急に苦しむように俯いていた。痛みに顔を歪めるように、彼女はかすれた声で言った。


「やめて……。やめ……なさい……」


 金属質の音が響き渡り、美波が杖を落とした。右手で自らの頭を鷲掴みにして、左手は胸元に押し付けられている。その手は恐ろしいほどの痛みに堪えているかのように、震えているのが見えた。


「駄目……。くっ……!」


 周囲が美波の異変に気づいた。格子戸の向こう側からは、私たちの息が詰まるような静けさが続いた。美波の体が震え、彼女が何かに耐えている様子が、はっきりと見て取れた。



「イヤああぁァアあアアアああぁアアアァァァッ!!」



 その叫び声はただの痛みや恐怖を超えて、何か別の存在が、彼女の内部から引きずり出されたような凄まじい叫びだった。


 ズルリ、と突然、美波の頭から髪が地面に滑り落ちた。その瞬間、長い長い、腰まで伸びた白い髪が露わになった。


 ガクリ、と膝から崩れ落ちるように白髪の美波が地面に両手をついた。


 私は一体、何を見ているのだ!?


 これは夢か。うつつか。幻か?


 これは、現実の光景なのか?


 絹糸のような白髪が風に靡いている。


 それはあらゆる女の性を纏っていた。


 着ているものすら価値に置き換える。


 ランウェイを歩くモデルのように。


 生と死の狭間にいるかのように。


 総身の毛がよだつほどに儚く。


 ゾッとするほどに。


 美しかった。


「白い……獣……」


 アレは本当に美波なのか? 檻の向こう側にゾッとするほど白く美しい獣がいた。私の全身に震えが走っていた。カタカタと人形のように自分の膝がくずおれていきそうだった。


 周囲は一瞬にして静まり返り、その場にいた誰もが息を呑んでいた。


 私は信じられず、ただただその変化を見守るしかなかった。私が目撃したのは、人間が怪物へと豹変する光景だった。


「チッ! 何だってのよ!」


 紀子はディスク型の装置を素早く拾って強く握るとチャクラムが高速で回転した。紀子はそのディスクを地面に手をついた美波の、恐らく首元へと向け、狙いをつけた。


 危ない!  と、思ったのも束の間。


 いない。


 暗がりの向こうに白い影だけが見えた。


 いつの間に動いた? 気付いた瞬間、もう目の前にはいなかった。あの体勢から? あの距離を? 一体、どうやって……!


 暗闇の中、長い白髪が美波の動きに合わせ、別の生き物のようにゆっくりと揺れている。


「この、化け物!」


 女は叫びながら、黒いドレスの裾をたくし上げると太股のホルダーに隠された拳銃を取り出した。


 発射する。一発、二発、そして三発。響く銃声が、残響音を残して地下に跳ね返る。


 しかし、尋常ではない速さで動く美波にはまったく当たらない。白い獣と化した美波の動きは幻影のように素早く、まるで真白な影が一瞬にして高速で位置を変えているかのようだった。


 まるで弾丸が見えているかのように最小の動きで避けつつ、狭い空間を利用して徐々に距離を詰めている。そのたびに、乾いた銃声が響く。弾丸が空を切り、行き場をなくした弾丸が壁に跳ね返り、空の薬莢が地面に落ちる音が響いた。


 硝煙が辺りに立ち込める中、白い髪が揺れている。白いドレスの裾が舞い上がり、その下から怪しい瞳が無表情に黒い影へと睨みを放つ。


 再び銃声が響いた。


 私は見た。弾丸の発射よりも一瞬早く白い獣は空中に舞い上がり、なんと壁に張り付くように両手両足をつけた。


 思い切り四肢に力を矯めたその一瞬の反動で壁を蹴り上げると、恐ろしいスピードで女との間合いを一瞬で詰めた。


 距離を詰めた瞬間、白い獣は体を回転させて弾丸を躱し、同時に銃を持って伸ばした女の右腕の関節部分へと拳を叩き込んでいた。


 ぐしゃりと厭な音がした。拳銃が床に落ちる。女の腕がへし折れる音と共に、恐ろしい悲鳴が地下全体に響き渡った。それは正に一瞬の出来事であり、一方的な蹂躙の始まりだった。女の絶叫は極限の痛みと恐怖に満ちていた。


 獣はまだ満足していないかのように、仰向けに倒れた女に近づき、今度は彼女の右足に手をかけた。女が恐怖に顔を歪めながら蹴り飛ばそうともがく姿を無視し、白い獣は無表情にその右足を掴み、力強く引っ張ると伸ばしきった状態で、まるでレバーを倒すように反対側に折り曲げた。


 生木を踏みしめたような骨の折れる音と共に、女の極限の悲鳴がさらに響き渡った。彼女の足は不自然な角度で曲がり、その痛みに女は涙さえ浮かべていた。


 白い獣はその痛みを一層引きずり出すかのように、折れた右足を外側にねじり上げた。地下の壁が女の苦痛に満ちた叫びに震えていた。


 それはまるで地獄絵図の一部を切り取ったかのように、非情にして残酷で一切の慈悲もない凄惨な光景だった。私は震えながら、その場から目を逸らすことができず、白い獣の圧倒的な暴力を目の当たりにしていた。


「ひっ……ヒィィ……た、助け……」


 女が地面を引っ掻くようにして腹這いになって前へ出ようと試みたが、逃さないとでもいうように白い獣は女の左足を片手で無造作に掴み上げ、ズルズルと手前に引き寄せた。


 紀子は這うようにバタバタと逃げようとするのだが、まるで砂の渦から抜け出ることの叶わない憐れな蟻のように地面を引っ掻きながら、もがいている。


 瞬間、女の身体が宙を舞っていた。


 獣は恐るべき膂力りょりょくで、なんと掴んだ女の足を片手で身体ごと軽々と半円を描くように振り回し、思い切り壁に叩きつけた。それから、返す刀で女を冷酷にも反対側の壁に向かって、まるでゴミでも捨てるかのように容易く放り投げた。女の体が壁に激突する音が鈍く、重たく響いた。


 偽りの名と姿を持つ女は、仰向けになったまま身体をビクビクと震わせている。


 完全に失神していた。


 恐怖を顔面に刻みつけ、白目を剥いたまま、あっという間に紀子の抵抗は終わった。


 美波はその場に立ち尽くし、そんな獲物を見つめていた。立ち竦む彼女の顔からは表情が消えており、その眼差しはゾッとするほどに空虚で冷たいものだった。その様は正に獣が獲物の様子を観察しているかのような目にしか思えなかった。


 私と西園寺は格子戸の向こうから、その一部始終を目撃し、言葉を失った。その場にいることすら信じられないほどの恐怖と衝撃を受け、彼女がどうしてここまで変わったのか、理解することができなかった。


 その時だった。


「割と距離があるぞ。いけるか?」


「問題ない」


 後方から、そんな声がいきなりした。私が振り返ろうとした瞬間、乾いた銃声が響き渡り、私達の目の前を塞いでいた格子戸がゆっくりと開いた。


 いつの間に、そこにいたのだろう? 私達の後ろに黒いスーツ上下に、同じく黒いネクタイをした長身の男が二人、立っていた。


 一人は目つきが鋭い、どこか野性的で逞しい風体の男だが、端正で上品な顔立ちが見事に野性味をカモフラージュした優男で、もう一人も若いが上品な佇まいと髭を蓄えたがっしりした体格の男だった。


 髭の男の右手には拳銃が握られており、今まさに発砲したであろう硝煙の匂いと煙が辺りに立ち込めていた。


 私は戦慄していた。


 銃声の先にはシャッターボックスのパネルが見えた。あれを撃ち抜いたのだろうか。この距離で? この暗さの中で? 視認性にも乏しく、約50メートル近くも離れた位置からシャッターボックスの小さなボタンを正確に撃ち抜くなど、信じられない射撃の腕前だった。


 呆然とする私と西園寺を尻目にいきなり現れた二人の男達は、開いたシャッターの向こう側へと足を踏み出した。


「な、何をするつもりだ!?」


 私はその危険な雰囲気のする男達の背中に向け、思わず問いかけていた。


「決まってるだろ」


 鋭い目をした男は無表情にハッキリと言った。男の手には銀色に鈍く光る警棒が握られていた。


「殺すんだ」


「こ、殺す……? 美波さんを殺すって……」


「あの人が望んだことだ」


「舜、喋り過ぎだ」


「隆之。お前は黙ってろ」


 赤川舜。黒田隆之。それが彼らの名前なのだろう。私はもちろん彼らを知っていた。まぎれもなくハスターの。あのショットバーにいたバーテンダー達だったのだ。


「てめぇら……いきなり出てきて何のつもりだ?」


「雑魚は引っ込め」


 立ちふさがった西園寺が怒りを込めて叫んだが、赤川は彼に一瞥をくれただけだった。


「雑魚だと……てめぇ、ふざけんな!」


 西園寺が怒鳴り返す。


「死にたくなきゃ引っ込んでろ」


 彼の声は冷たく、少しも動じない。


「ンだと……この野郎……!」


 とうとう西園寺は、赤川の襟首を掴んだ。


「なら今すぐ死ね。足手まといが」


 赤川の声が静かに響く。彼は西園寺の腕の下部を掴むように親指に力を込めた。瞬間、西園寺の顔が苦痛に歪んだ。


 赤川は緩んだ西園寺の腕を両手で払い除け、そのまま彼のガラ空きになった腹部に拳を入れた。


「ぐふっ……!」


 一切の迷いも躊躇もなく鳩尾みぞおちへ正確に叩き込まれた強烈な拳に、ガックリと西園寺が膝から崩れ落ちた。


 速い…!


 腕の急所を突いたのだ。中国拳法の動画で見たことがある。確か中国では人間の身体のあちこちにある人体の急所は、点穴と呼ばれている。肘付近にある急所は点晦と呼ばれ、襟首を掴んだ西園寺の両手を突いたのは明確だった。


 西園寺の懐からこぼれ落ちた赤い煙草の箱を、私は半ば現実感の伴わない焦りと震えの中で茫然と見ていた。


「生かしておいてやる。今はな」


「西園寺! くっ…! 一体、何なんだアンタ達は! 美波さんを守らなきゃいけない時に……こんな……」


 こめかみに一瞬鋭い痛みがしたかと思った次の瞬間、頭に閃光が走って、私は地面に倒れていた。倒れて始めて、殴られたのだという衝撃に気づいた。


 拳が……見えなかった。私は痛みも忘れ、ただ驚愕していた。


「東城!」


「守るだと? ふん、素人共が。二人揃って、自分の身もまともに守れないような為体ていたらくだから、こんな目に遭う。その様で刑事に事件記者だと? 笑わせるなよ。よく今まで生きてこられたな」


「その声……電話の……。そうか、あの警告。君達が美波さんを救っていたのか……」


「ようやく気づいたか、馬鹿が。あちらでくたばってる奴らが、とことん間抜けで良かったな。おかげでお前らは殺されず、生き恥だけは晒せるんだ。喜べよ」


 赤川舜は冷たい目で、物言わぬ死体となった風祭を見下ろしていた。


「形振り構わず全てを奪おうとする側にとって邪魔なのは無能な味方だ。弱い奴らは死に方すら選べず、呆気なく死ぬ。警官だって記者だって例外じゃない。中途半端な力は己の身を滅ぼす。このクズ共の末路は素人共にはいい教訓じゃねぇか」


「舜!」


「役立たず共は、オフィスで原稿とにらめっこでもしてろよ。ピーピーやかましい口先だけの奴らに出る幕はねぇ」


 赤川は銀色の警棒のような物で己の肩先を叩きながら言った。彼の表情は厳格さに満ちており、目は鋭く私たちを睨み据えた。動作一つ一つに揺るぎない自信と余裕が滲み出ていた。


「お前ら、まさか俺達が助けに来てくれたとでも思ってるのか。ハッ! だとしたら、とことんお目出度い奴らだな。何がロイヤルガードだ。ただの無能で足手まといの、弱いコンビがいいとこだ」


「舜、もういいだろう。やめろ」


「お前らが捕まらなきゃ、こうはならなかった。あの死体の山は、お前らの無能の証だ。お前らが警告に従ってあの女を追わなければ、奴らは黙っていてもここに誘き出されて全員確保だってされていたんだよ。お前らは最後まで馬鹿共の寄せ餌でしかなかったんだ。守るべき女一人守れず、救えもせず、おまけにこんな非力な役立たず共とはな。このまま黙ってくたばってくれるか? その方がこちらも助かる」


 赤川の声がエコーのように広い空間に響き渡り、黒田は彼を止めようと肩を掴んだ。しかし、赤川は黒田の手を振り払い、さらに一歩前へ踏み出した。その姿は戦場に赴くような荒々しさと、覚悟を決めている兵士の冷静さが共存しているかのようだった。


「舜! いい加減にしろ。この人達に当たり散らしても無意味だろう」


 黒田の言葉にもかかわらず、赤川はまるで聞こえないかのように無表情で西園寺と私を見据えていた。


「お前だって腹が立つだろ? コイツらは、あの人が命を賭けてまで守る価値のある奴らじゃない。あの人は自分の力のなさを責め、ここまで来た。コイツらを助ける為にな。まんまとあの女に誘き出されたんだ」


「よせ。この人達が死ねば、あの御方が困る。今は助け合わなきゃならない身内同士で、こんなことをしてる場合じゃないと言ってるんだ。

……東城さんに西園寺さん。失礼しました。私の相棒は、この通り口が悪い」


「一体、あなた達は何者なんだ? あの御方っていうのは一体、誰の……」


 黒田祐介は私の言葉を人差し指の動きだけで制した。拳銃を突きつけられないだけマシだが、危険というなら、この男も充分に危険だ。無言の圧を伴った殺気に私は文字どおり気圧けおされた。


「色々と言いたいことはおありでしょう。だが、それはこちらとて同じ。突然で訳が分からないでしょうが、この場はせめて我々に預けて下さい。悪いようにはしませんよ」


「説明してる暇はないということですか?」


「あの方の本当の恐ろしさを貴方達は知らなすぎる。我々は知っている。察して下さい」


 その時、周囲の空気が一変した。突然、美波が苦悶の声を上げながら膝をつき、両手で頭を抱え込んでいた。彼女の肩が激しく震えているのが、ぼんやりとした照明の下で明確に見て取れた。その姿は、言葉にできないほどの苦痛を再び体験しているかのようだった。


「祐介、マズい。もう壊れる」


「こ、壊れる……? み、美波さんが……ど、どうなるというんです!」


「答えられません。事態は貴方達が思っている以上に深刻かつ危険な状態だと言っているんです。もはや勝ち負けや逃亡や逮捕といった次元の話じゃない。全員の命が危ない。我々全員がこのままだと死にます。あの女では、ああなった美波様は止められません。すぐに殺される。あの女の次は貴方達の番で、その次は我々だ。最後にはあの方も死んでしまうでしょう。そう言っています」


 私と西園寺はただ、美波が苦しむ姿を目の前にして絶望しか感じなかった。無力感が増すばかりで、何をして良いのかさえ分からなくなっていた。


「なぁ、お前らはこんなクズ共に狙われ、喚くだけしか能のない有象無象共に妬まれるだけなのに、それでも一生遊んで暮らせるだけの金が欲しいか?」


 赤川の言葉が重く空気を圧迫した。彼の言葉の間、緊張が部屋全体に張り詰めていた。


「じゃあ、明日自分が狂って死ぬかも知れないと解って生きてる奴の、本当の姿を見たことはあるか?」


 赤川の言葉に呼応するかのように、黒田は無言でリボルバーの弾倉に弾丸を装填していた。手慣れた動作で、カチリと音が響くたびに、死の重みが身に染みた。


「これが現実だ。怖気でも人は死ぬ。人は狂う。この先を知りたいなら……お前らも選べ」


「な、何をするつもりだ?」


「拳銃は脅しの道具じゃない。抜いて引き金を引いて殺す。ただ、それだけのものです」


 黒田の態度は厳かで、ある種の厳粛な決意が感じられた。彼の言葉が終わると、装填が完了したのか、黒田は赤川へと向けて頷いた。赤川は無言で頷きを返すと、再び私達を静かに威圧した。


「西園寺とかいったな。その懐の立派な帳面で振り翳す、その遵法精神や正義だの国家権力だのってのは、本当に正しい存在か?」


「何だと……」


 西園寺の声が震えた。彼の拳がぎゅっと握りしめられたのが見えた。隣で、私も呼吸を整えるのが精一杯だった。


「警察の掲げる正義はいつだって都合がいいよな。そいつを好きに振り翳して捜査する頃には、何もかも手遅れだってことさ。味方の同期は組織を裏切り、守るべき人間達は口やかましく喚くだけで何もかも他人任せな、平和ボケした只のクズ共。書類一つに時間をかけてる間に、バタバタ人は死ぬって時に警官も自衛官も命令なしじゃ動けもしない」


 赤川は今度は私へと視軸を向けた。


「東城さんよ、アンタもそうだな。他人のゴシップを飯の種にしてるうちはかわいいもんだが、組織立った本当の殺しのプロなら、真っ先にそんな余計なことを書き連ねる奴の口を塞ぎにくる。日本のマスメディアが外国籍に乗っ取られたのはなぜだかわかるよな? 簡単に金や暴力に屈したからだ。弱かったからさ。これも、そこの風祭がいい例だ。金を握らされ、家族を人質に取られて計画に手を貸していた。誰かが自分を守ってくれるなんて甘ったれたことを考えてたらな、そいつと同じで死ぬんだぜ」


 赤川の言葉が、この静寂の中で余計に重く響いた。それぞれに向けられた言葉が、暗闇を切り裂くようにして私たちの心に突き刺さった。


「いいか、現実を見ろ。何もできねぇ素人共は黙って見てろ。吐き気のする連中と正面から渡り合う為に必要なものはな、結局は暴力なんだよ。正義だの大義だの平和だのなんて生温い後付けの繰り言は要らねぇ。獸みてぇな人間のクズ共が現実にいて、そいつらを殺らなきゃ殺られる。それだけのことだ」


 そう言って赤川が警棒を振ると空気を切るような音が周囲に響いた。キン、という金属的な音と共に、彼の持つ警棒が伸びる。その動作には違和感がなく、まるで手慣れた動作のように自然だった。直感的に私は美波の杖と同じ材質の武器のように感じた。


「……獸を狩る、えげつねぇ戦い方ってのを、せいぜい見て学ぶんだな」


 赤川が一歩踏み出すと黒田もそれに応じた。彼の声は冷静で、落ち着きを保っていたが、目の奥には緊張が隠されているのが見て取れた。


「ふっ……お前らしくもなく苛ついてるな。いつになく口数が多いのは、あの二人に期待してるからか?」


「猫の手ならいらないんだよ。さっさと始めて、とっととズラかるぞ」


 その言葉に、黒田は頷きながらも警戒の色を隠さなかった。戦いへと向かうその背中は、静かな決意に満ち溢れていた。


 私たちは、その場に立ち尽くすしかなかった。胸の内には恐怖と希望が複雑に交錯していた。何が待ち受けているのか、それを知るすべはないが、この二人ならば、何とかしてくれるかもしれないという微かな信頼が心のどこかで灯っていた。


「西園寺! 大丈夫かい!?」


「あ、ああ……赤川に黒田といったか。あのバーテン野郎共、何を考えてやがる……」


 何か思い詰めた様子で俯く西園寺の肩を揺さぶりながら、私は必死に彼の反応を促した。何かを猛烈な勢いで考えている様子の彼の表情は、普段の冷静さが欠片も感じられなかった。


「西園寺、どうしたんだよ! 美波さんを助けないと!」


「あ、ああ。そうだな。俺達が助けないとな……」


 彼は自らを奮い立たせるように身体を起こし、痛みを顔に浮かべながらも、何かを決意したかのように前を向いた。


「東城、聞いてくれ。これから何が起こっても、お前が最後には美波を守れ」


「何を当たり前なことを言ってるんだよ! こんな時に!」


「聞けよ! いいか、これからこの先で信じられねぇことが起こる。何が起こっても俺を信じてくれ。そして、美波を信じるんだ。今生の別れみたいな台詞だが、今度ばかりは本当にそうなるかもしれねぇ……」


 私は彼の言葉に困惑しながらも、彼の真剣な眼差しに圧倒された。そこには、今まで見たことのないほどの真剣さがあった。


「西園寺、何を考えてるんだ、君は!? まさか……まさか、美波さんの目を覚ます為に、犠牲になるつもりじゃないだろうね? 馬鹿な真似はよすんだ!」


「認めなくちゃいけねぇようだ。この世には、あんな力があることを……。SFじゃねぇんだぜ。受け入れるしかねぇ。自分が死ぬかもしれねぇ目の前の現実ってやつをよ。東城よ、この世にはな……いや、俺達の中にはきっと、俺達が知らない方がいい力ってのがあるんだよ。アイツは今、苦しんでる。アイツは今、怒っている。そして、もうアイツじゃねぇ。形振りかまわなくなった人間が、自棄になって過ちを冒すことはあるさ。けど、アレはそんなもんじゃねぇ。別人だ。いや、人ですらねぇんだよ。人の姿をした別の何かなんだ。アイツは多分……そういう奴なんだ」


 私はいつかの事件で犯人が残した言葉を思い出していた。


 それは人を越え、獣を越え、阿鼻叫喚の血の叫びと地獄の中で、人が人の内にまま見出だすであろう黒い黒い衝動。


 赤黒く極限までこごった結晶石の塊のような“叡智えいちで”。


 人の内側からやって来る、常ならぬ恐ろしい姿をした、この世のものならぬ人の一面であり、本性でありました。


「後は頼んだぜ、相棒」


 それが西園寺が私に向けて残した言葉だった。私が手を伸ばし、呼びかける間もなく白いスーツの背中が遠ざかっていく。


 黒田は素早く獣へと銃を構え、次々と発砲した。乾いた銃声が響く中、弾丸は悉く空を切り、白い硝煙が立ち込めた。銃撃の全てが彼女には届かなかった。獣のような速さで彼女は動き、まるで影を踏むような速さで黒田との間合いを詰めていった。


 赤川はその様子を見て、鋭い叫びと共に戦いに割り込んだ。彼の手には先ほど銀色の警棒が握られており、美波へ一撃を繰り出そうと目論んでいた。


 しかし、恐ろしく素早い動作で横一線に袈裟懸けに逆袈裟に蹴りと次々に連撃を繰り出すも、彼の動きでさえ及ばなかった。美波は反射で全て躱し、赤川へ目掛けて腕を振り払った。咄嗟に防御したが凄まじい膂力で繰り出された一撃で、赤川は後方へと跳ね飛ばされた。


「美波ぃッ!」


 その時、西園寺が叫び声を上げて彼らの間に飛び込んだ。彼は全力で美波に飛びかかろうとしたが、その一撃は空を切り、美波によって容易く壁際に吹っ飛ばされてしまった。


 西園寺の体が固い地面を転がる。痛みに顔をしかめながらも、彼は立ち上がろうとしていた。


 再び銃声が鳴った。獣が黒田の方へと視線を向けた。


 その時、黒田の間に割り込むように西園寺が美波へ背を向けて大の字に手を広げ、立ち塞がった。


「かまわねぇ。俺ごと撃て! 終わらせろ!」


 西園寺が叫んだ瞬間、緊迫した静けさが一瞬、周囲を包んだ。


 微かに黒田が笑ったように見えた。冷たい静寂を切り裂くように、銃声が響き渡った。


 一瞬の出来事だった。


 それは、まるで地面に落としたインクが破裂したかのような、一瞬の飛沫の爆発にも似ていた。黒田の弾丸の発射音と同時に、美波の前に立ち塞がった西園寺の白いスーツの胸が、弾けたように真っ赤に染まった。


 まるでスローモーションを見ているかのように、私は西園寺が目を見開き、細く息を吐き出して、大の字のまま仰向けに倒れる姿を呆然と見ていた。


 西園寺の倒れた先に、美波が驚愕の表情のまま固まっていた。その美波もまた、ガクリと膝から崩れるようにして前のめりに倒れた。


 腰まで伸びた長い白髪が、地面に広がるのを私はただ呆然と見つめていることしかできなかった。


 カキッという音がした。倒れた美波の肩越しに警棒を持った赤川が立っていた。


 彼はニヤリと笑った。


「迷えば敗れる。いい覚悟だ」


「次はあなたの番です。東城さん」


 黒田の声に私は振り返った。


 未だ硝煙を発している黒光りのする拳銃の銃口が、今まさに私を捉えていた。


。 ……この意味が、お分かりですね?」


 乾いた銃声と共に、首筋に微かに皮膚を切ったような痛みが走った。


 後の始末をお願いしますよ、と美波を担いだ赤川の声が頭上で聞こえるのと同時に、私は急速に目の前が暗くなっていくのを感じていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る