5

 意識が遠のくと、目の前には広大なコンコースが広がっていた。人々が行き交う雑踏が耳をつんざく。私の手を握っていたはずの両親と兄の姿が突然、人波に飲み込まれてしまう。


 心臓の鼓動だけが異常に速く、小さな胸が激しく上下して、ひたすら焦る。周囲はまるで巨大な迷路のように入り組んでいて、多重構造の地下街の通路を思わせた。周りは全てが巨大で、その巨大さに圧倒され、どこへどう進めばいいのかさっぱりわからない。左も右も、前も後ろも、全てが人で溢れ返り、色とりどりの服で視界が埋め尽くされている。


 一歩足を踏み出せば、たちまちのうちに飲み込まれて、もみくちゃにされ、突き飛ばされ、押し合いし合いの狭い電車の中へと放り込まれて、檻に囚われるのだ。


 自由奔放に、縦横無尽に行き交っている暴力的な人並みに向けて、叫ぶ。


 けれど叫び声は、周囲の雑音にすぐにかき消されてしまう。涙が頬を伝い落ちるが、誰もその涙に気づかない。怖くて怖くて、足が竦む。膝を抱えて震えているとその時、白い制服を着た人が、私を見かねて目を留めた。彼は優しく微笑みながら、私に手を差し伸べる。


 何か。何か話している。


 彼の声は安心感に満ちており、私はその手を握る。彼に導かれるまま、人混みをすり抜け、安全な場所へと連れて行かれる。


 “だからお前は、駄目なんだ”。


 “浮ついてるから大事な時につまづく”。


 そんな風に言わなくたっていいだろ。兄さんのように、要領よくできないよ。


 “心配したのよ。こんな人だらけのところでぼんやりしてるから”。


 好きでこんなところに来たわけじゃないよ、母さん。東京なんてゴミゴミしてて人だらけで、大嫌いだ。


 “いいか、この国にかけられている呪いを甘く見るなよ”。


 一体、何の話をしてるんだ、父さん。


 こんなところで。迷子になるなんて。


 暗闇の中、意識がゆっくりと戻ってくる。目覚めた瞬間、私は大きく目を見開いた。


 真っ暗闇だった。


 頭はぼんやりと重く、舌に何か太い布かゴムで締め付けられたような感覚がある。その不快な感触が、何であるかを理解する前に、身体の自由が奪われていることに気がつく。


――あぁ、最悪だ。


 手も足もしっかりと何かに縛られ、動かすことができない。祈るような格好で、何かに閉じ込められている。


 猿轡さるぐつわによって口を塞がれているため、声を出すこともできない。ただ、ぼんやりとした意識の中で、自分が何者かによって運ばれている感覚を強く感じた。肩や腕には、時折ショックが走るような断続的な揺れが伝わってくる。それが歩く足音のリズムだと気づくのに、そう時間はかからなかった。


 ゴトゴトという音がする度に、身体全体が揺れる。足元からはゴリゴリと何かを摺り潰したり、パチッと何かを弾いたような音がたまに混じる。何かゴツゴツとした感触にぶつかって止まる。その度に体がリクライニングのように斜めになったり、かと思えば、時折、縦や垂直にされて横にスライドしたり、ターンまでする。


 三半規管が狂わされそうな、これは何かのアトラクションではないのか。まだ夢の続きを見ているのではないのか。私はそんな情けない夢想をした。よく見ると私の視界にジッパーのようなものが見える。“Maid in Japan”という小さな文字が読める。


 そこで、ようやくにして私は自分の状況を明確に悟った。狭くて暗い空間。おそらくは大型のキャリーバッグに手足を縛られて、閉じ込められている。


――スタンガンで気絶までさせられ、意識を失って、拐われて、次は何をされる?


 人質か。拷問か。それとも――。


 私は絶望と後悔に恐怖した。


 どうして。


 こうなった?


 まだ記憶は曖昧で、どうしてこんな状況になったのか、誰が私をここに閉じ込めたのかさえ分からない。身体の節々が痛む。


 バッグは時折、急な動きをするたびに私の体を揺さぶり、その都度痛みに顔を歪めた。


 ここはまず、どこだ? 誰がこのようなことをしたのか、そして何よりもなぜ私がターゲットになったのか。まず、今は何時だ?


――クソッ、駄目だ。腕時計さえ見られない。頑丈に縛られている。腕どころか指一本さえ動かせそうにない。


 懐を手探りで探ろうにも、これでは何もできない。バッグ自体を蹴り飛ばそうにも、ご丁寧に足は付け根の部分である足首のところで頑丈にロープで縛られており、さらに動かしたり揺らしたりする隙間もない。胎児のような姿勢で閉じ込められている。


 懐に入れていた、スマートフォンの感触もない。私が事件の作者か犯人なら、まずこの万能ツールを封じると考えていた矢先に、自分が奪われる側に回るとは皮肉な話だ。


 誰がこんなことをして、誰が運んでいるのか皆目わからないのだが、犯人は私が外部と連絡を取る手段など、とっくに計算に入れていたようだ。狭い中で何とか手掛かりを探そうともがくのだが、はりつけにされたように腕一つ足一つ動かせない。


 狭い。息苦しい。それに――酷く寒い。


 改めて私は、何者かの明確な悪意の真っ只中に陥れられたのだと感じた。西園寺はどうなったのだろう?


 時折、外から人の動きが感じられ、私がどこかに運ばれているのだと明確に気づく。舗装された道を歩いているのは分かるが、時折身障者用の点字ブロックにぶつかるのか、足元から頭へと衝撃が伝わるたび、改めて恐怖が増す。縛られた手足と全身の全ての感覚が、自分がキャリーバッグの中に閉じ込められているという救いようのない現実を教えていた。


 どうしてこうなったのか、何が起こっているのか、考える余裕もない。恐怖と痛みと寒さだけが、心を支配する。肌を刺す冷たい空気、耳をつんざくような静けさ、そして突然訪れる揺れや衝撃。これら全てが、ただただ、逃れられない現実を突きつけていた。


 私は強く目を閉じ、耳を澄ませる。真上から何者かの息づかいが聞こえる。


「ふう……あの関西弁の刑事、なんとか撒けたみたいっスよ」


「ああ、まさか、あそこまでしつこいとは思わなかったよ! 休憩したらコイツら……いや、荷物を積んでさっさと移動しよう。悪いが、いつまでも、ここにいるのはマズい」


 顳顬こめかみの辺りが熱くなった。


 金成と都丸だ! あの二人か! まさかICレコーダーどころか、肉声を直接聞く羽目になるとは。先ほどの不意打ちはコイツらか。敵側を追いかけるつもりが、まさか誘導されていたとは、なんという大失態だ!


「最初からこうすりゃよかったんスよ。まったく……ウチらは、あくまで運び屋じゃなかったんスか。行き先は例の“山荘”なんでしょ? これじゃあ今度は運送屋だ」


 例の山荘?  それが彼らの次の目的地なのだろうか。私は心底、恐怖を感じ始めた。彼らの計画が何であれ、確保されてしまった以上、私の身柄はその為に使われる予定になっているのだろう。


「しっ! あたしらはポーターだ。スピーカーにも釘を刺されたろう。互いに干渉し合わない為の取り決めには従うんだ」


「運び屋だろうがポーターだろうが、運送屋だろうが、やることは一緒でしょうに。人にこんなことさせておいて。意味ないっスよ。そんなしょうもないニックネーム。一昔前のバトル漫画じゃ、あるまいし」 


「ああ、あったねぇ。水兵シーマンとか狙撃手スナイパーとかね。まぁ、匿名の方が仕事はしやすいじゃないか。メディックもまさか、ドクターと呼ぶわけにはいかないしねぇ。何せ医療ミスで、人殺しまでやらかした先生だからさ。……そこはほれ、ね? お察しってヤツでさ」


 スピーカー? ポーター? メディック?


 彼らのニックネームか? それが彼らの役割に関係しているということか? だとしたら、他にもいるというのか?


 だが、これで間違いない。やはり彼らには何らかの計画があり、共通の目的の下で集められ、殺害計画まで実行したということだろう。


「いい加減、腹減ってきたっスね。途中でコンビニでも寄りましょうよ。……ったく、割増し料金でも請求しなきゃやってられないっスよ。

で、このあとはどうするんスか?」


「山荘に向かえとしか指示されてないんだよ。がいつまでも時間稼ぎしてくれるとは思えない。警察側が動き出す前に、全て終わらせる必要がある。計画に漏れがないことを祈るしかないよ」


「シャドウ……でしたっけ? 本当に信用できるんスか、そいつは? これじゃ苦労しただけ損じゃないっスか」


「それを言うなら、最初から皆、誰一人自分以外信用なんかしてないだろうさ。まぁ、繋ぎメッセンジャーの話じゃ向こうがたどり着く前に必要な場所を確保して、準備は整えておくそうだ。後は、コイツらがどれだけ抵抗するかだね。荒事は御免こうむるがね。悪いんだが、あたしは血を見るのも悲鳴を聞くのも苦手でね」


「まぁ、そいつはプロの皆さんにお任せしましょうよ。何せプロセッサーがお越しのようっスからね」


「ひゅー! 怖い怖い。あの文屋……じゃなかった、スピーカーの兄さんがうまくカバーしてくれれば、外部からの目は、まだまだ誤魔化せるだろう。向こうから出向いてくれるなんて、有り難い話じゃないか。アタシらは運ぶだけだろ? 後は報酬待ちの、気軽な身分さ」


 抜け抜けとよくもまぁ! プロセッサー……直訳すると処理屋か。なんてことだ! 銀政界までその山荘とやらに来るということか。


 その時、突然携帯の音が鳴った。はい、と都丸は素早く応答した。彼はどうやら金成にも聞こえるようスピーカーをオンの状態にしたのか、苛立った様子の女の声がざらざらとした雑音と共にこちらにも聞こえてきた。


「……しもし、もしもし! ちょっと、今どこにいるの? 移動中ならすぐに止まって。これ以上、電波の悪いところに入られちゃ堪らないわ。少し計画に変更があるわ。調達してもらいたい物があるの」


「ヘイヘイ。今、停めますよ。メモるんでちょいとお待ちを」


 通話に切り替えたようだ。何か応答を繰り返して確認してはその都度、何かに書き込んでいるような気配が伝わってくる。


「お姫様がおかんむりだそうだ。まったく女は一度キレ散らかすと、始末に負えないねぇ。この非常時にメイク落としだのエビアンだのが欲しいそうだ。まったく、あのくらい綺麗なら、こんな汚れ仕事なんか、わざわざやらなくていいだろうにねぇ」


「一度炎上してケチがついた芸能人なんて、そんなもんじゃないっスか。俺はあのオバハンの方が苦手ですね。あのワガママ女のお守りさせられて、いいだけストレス溜まってんのか、俺らに平気で当たり散らしてくるんだから堪りませんや。ちょっとアンタ達ポーターでしょ使えないわね、それで運び屋のつもり! 物を運ぶくらいしか役に立たないんだから邪魔なところにいないで! とかね。あのキンキン耳に響くヒステリックな声なんとかなんないっスかね」


「やれやれ、女は怖いねぇ。職業蔑視に職業差別にパワハラか。何でも、あの女も昔は芸能界で慣らしたクチらしいじゃないか。枕営業やってコネ作ってたような淫売共に差別されるんだから、世も末だよ。大人しく新宿で立ちんぼでもやってた方が稼げるんじゃないのかね」


「マルさん、そりゃ女性蔑視っス。しこたま怒られるっスよ。昔は綺麗だったけど、今や鏡で自分すら見れない独身女性さんにね」


「それを言うならナリ君、ちゃんと女優アクトレス繋ぎ役メッセンジャーと呼んであげないと。盛大に炎上して仕事も来なくなった人達が仕方なくやってる仕事なんだから!」


 運び屋達は一頻ひとしきりゲラゲラと笑った。下品で不快きわまりないその雑音は、聞いているだけで気分が悪くなった。


「どれ、大事な荷物だ。窒息されても厄介だから、ジッパーは少しは開けといてやろう」


 電話が終わってしばらくすると、私のすぐ横で車のエンジンがかかる音と共にアイドリング音が聞こえてきた。


 嫌な予感がする。まさか――。


 案の定、突然、体が浮き上がる感覚があった。運び屋たちは一瞬の掛け声と共に、私の入ったキャリーバッグごと持ち上げて、事もあろうに、車のトランクに投げ込むようにして押し込めた。


 覚悟して総身を亀のように丸めて備えると、再びの衝撃が私の全身を包み込んだ。瞬間、暗闇の濃密さと狭さが私を圧倒した。キャリーバッグの内部は非常に限られた空間で、相変わらず身動き一つ取るのも困難だった。


 せめてもの救いは、日本製ポリカーボネート素材のキャリーバッグはかなり優秀で、耐衝撃に強く、機密性も申し分なく、怪我一つなく、人間さえ輸送可能だという点を身をもって実証できたことだろう。


 目を閉じて、状況を把握しようと集中していると、今度は隣に何か大きな物がぶつかったのが聞こえた。耳がキーンとする。何か固く、重たいものが私のキャリーバッグにぶつかり、そのままトランクに滑り落ちたような音だった。


 コイツらと先ほど都丸は言ったが、だとしたら隣の荷物もキャリーバッグか? だとしたら中身は西園寺だろうか? 彼は無事なのか? 頑丈でタフな男なのは知っているが、いかんせん二人とも、この状況ではどうしようもない。


 なんとかコンタクトを取りたいところだが、今声を出すのは非常に危険だ。意識を取り戻しているとバレたら何をされるかわからない。息を潜め、できるだけ静かにしようと努力しながら、私は周囲の物音に再び耳を傾けた。


 車のエンジン音と低い会話が聞こえる中、微かにタイヤが砂利道を走る音が混じってきた。一体どこに向かっているというのだろう?


 例の山荘とはどこのことだろう? 彼らのアジトか。察するに、私たちがそこへと近づいていることを暗示している。


 私の心は恐怖でいっぱいだった。だが、それ以上に怒りも湧いてきていた。こんな悪辣な企みが許されていいはずがない。何としてもこの状況を生き抜き、彼らの企みの全てを暴く必要があった。相棒の気配を感じながら、私は次の一手を考えた。


 この一連の計画がどれだけ恐ろしいものであれ、このままただで利用されるわけにはいかない。


 車が一時停止するたびに、私は緊張で体が固まった。運び屋たちがいつトランクの様子を見にくるか分からないため、一切の音を立てずに耐え忍ぶしかなかった。この静かな抵抗が、もしかしたら最後の抵抗になるかもしれないという思いが頭をよぎる。


 トランクの中で時間が経過するにつれて、疲労と不安が増していったが、諦めるわけにはいかなかった。山荘とやらに到着するその時まで、私たちは息を潜めて、彼らの次の動きを待つしかない。


 それにしても――。


 私は先ほど感じた怒りが、急速に首をもたげてくるのを感じた。


 なぜ、こうなったのかだって? 私は己の顔面を、思いきり殴りつけてやりたい衝動に駆られた。後悔しても、もう遅い。遅すぎだ。


 考える時間ならあった。選択肢だって冷静に考えれば、きちんと存在していた。あの時ああしていたら、あの時こうしていれば、と。本当に情けない! 先に立たない後悔が、私を責めさいなんでいた。暗闇の中で、怒りと後悔と絶望が私を滅多打ちにしていた。


 判断を誤ることは即、己の身に返ってくる。下手をすれば命に関わる。これはそうした事件だったのだ。


 私はの警告にすぐに従うべきだった。私と西園寺の冒した最大のミスは、あの女を追ってしまったことだ。


 気絶する前に見た、あの女の顔。


 迂闊だった。嵌められたのだ、我々は。


 あれは間違いない。


 先ほどの会話で私は全てとはいかないが、容易に彼らのやったことが想像できた。味方に繋ぎ役メッセンジャーがいれば、容易に味方との情報の共有は、可能だったろう。


 味方に女優アクトレスがいるなら逃走を手助けする為に別人になりすませばいいのだ。血塗れの服だって、交換すればいい。メイク落としという台詞が聞こえたが、要はそういうことだろう。何せ味方に警察官がいるのなら、脱走の手引にはうってつけだ。なんの苦労もいらないのだから。 

 

 なぜ犯人は、国体にも出場した柔道の達人ともいうべき、屈強な公安刑事の津田洋介を難なく殺すことができたのか?


 なぜ、あのタイミングで殺人事件が起きたのか? なぜ、あの場で、あの方法でなければならなかったのか?


 少し考えればわかることだ!


 彼は無抵抗だったからだ。


 予め気絶していたのだ。


 スタンガンによって!


 殺害された津田のそばで、トイレで気絶させられた美波が凶器のナイフを手にして、倒れている。本来はそういう計画だったはずだ。計画の変更を余儀なくされたから、彼らは今度は我々を人質に取る強引な手段に出たのだ。おそらくだが、美波の誘拐の方に失敗したのだ。


 私は己の身を呪った。謎解きなどもはや時間の無駄だ。既にそんなレベルの問題ではなくなっている。我々が人質にされたことで、既に事件は次のステージに移されたのだ。絶望と後悔の中で、私は繰り返し己の無能さを呪った。


 どれだけの時間が経っただろう。


 車とすれ違う音が明らかに少なくなっている。時折ガタガタとした砂利道に入っているのが分かる。確かなのは、この車は首都圏から確実に離れていっているということだ。人の手の及ばないところで、何らかの取引が行われるということか。ならばそれは当然、我々の命と引き換えにする、何らかのろくでもない取引だろうということだ。


 カーナビのテレビを付けたのか、音声がこちら側にも聞こえてくる。しめた――。時間がこれで分かるかもしれない。


「七時になりました。ニュースセブンス。夜のニュースをお伝えします」


 カーナビのテレビから流れるアナウンサーの声が、トランクの中のキャリーバッグに閉じ込められた私にも聞こえてくる。アナウンサーの声が車中に響き渡る中、続く言葉に私の心臓は一瞬で跳ね上がった。


「本日午後二時頃、東京駅の近くにある八重洲地下街で発生した殺人事件について、警察は現在、若い女性を主要な容疑者として追っています。被害者の男性は地下街で倒れているのが発見されました。発見時、既に男性は死亡しており、犯人と思われるこの女性は警察の追跡を振り切り、現在も逃走中です」


 私の心は沈んでいく。それは美波に罪を着せる為に仕組まれた犯罪なんだ! 警察官が事件に関わっているんだ! 彼女に罪を着せるための事件なんだ! 一方的に、ただ流されるだけの情報に、どれほどの真実が含まれているというのか。理不尽な犯行に対して叫び出したくなるような怒りが、再び沸々と込み上げてくる。


 運び屋たちがどう関与して、どう加担したのか、その全貌が明らかになった今、私は改めて髪の毛が逆立ちそうな怒りの感情が湧いてくるのを感じた。


 金成が傍らの都丸に、まるで嘲るような口調で話しかける声が聞こえた。


「へへえ、八重洲地下街ですか。おっかない事件もあったもんっスねぇ。ひひ……これでめでたく、警察も脱走犯に注力することしか出来なくなりますなぁ」


「まったくだよ。警察には、せいぜい彼女に手を焼いてもらわないとねぇ。陽動作戦と誘拐はこれでバッチリだよ。悪いんだが、これで片桐美波もチェックアウトだね」


「マルさん、それ言うならチェックメイトっスよ。チェックメイト。あのお嬢様も、これからは一流ホテルに泊まるような余裕なんか、もあなくなるでしょうけど」


「あれま、そうだっけ? 人生フォールアウトになっちゃったね。荒廃し過ぎて、アタシの髪の毛と同じじゃないか!」


 ギャハハハハハ、という不快な雑音が聞こえてくる。この男達の笑い声は、とにかく無神経で癇に障る。


 彼らの会話は冷酷で、この誘拐も一連の犯罪計画の一部であることが明確に伝わった。私はキャリーバッグの中でじっと耐えながら、彼らの次の手がどうなるかを必死に考えていた。


 ニュースの声が聞こえる。


「この女性を見かけた方は、直接の接触を避け、すぐに警察へ通報してください」


 私達にとって絶望的な呼びかけだった。それにしても、この情報がどれほど美波にとって不利になるものか。恐らく彼らの仲間であるスピーカーとやらの役目は、SNSや動画サイトを使っての情報操作も担っているのではないだろうか? ならば、そんなことが巧みに、なんの気なしに出来る人間を、私はよく知っている。


「もうすぐ着くなあ。それにしても、この時期に雪とはツイてたねぇ」


「ええ、タイミング的にはバッチリでしたが、予報よりちょいと早いのは不味いっスよ。スペアのタイヤは向こうにありますからねぇ。車がここでスリップされて立ち往生じゃ、またどやされるっス」


「ああ、先月の大雪の時も、この辺りは酷かったらしいからね。なんでも平成26年雪害なんて大層な名前まで付くらしい。この先の山荘付近でも孤立集落が多く発生してね、警視庁や自衛隊の協力でようやく復旧したらしいよ」


「ひゃあ! 路面凍結なんて起こった日にゃ、ただじゃ済まないっスね」


「ああ、さっきまでいた大手町でさえ、雪が20センチも積もったくらいだ。これから行く奥多摩町の辺りなんて1メートルは積もったらしいからね。今年は異常だよ」


 奥多摩町? 山荘というのは奥多摩湖畔の辺りにあるということか? では、都心から二時間と経ってはいないことになる。私が逡巡していると、ガタガタとした砂利道から、一転して今度は舗装された道に入っていくのが分かった。しばらくすると、ゆっくりと減速して、ターンをするような動きと共に車が停まった。


 雪が降る中、どうやら私たちは、その山荘の駐車場に着いたらしい。私は慌てて、周囲を警戒した。車のドアを閉める音がして、トランクの外に人の気配がする。我々を出すつもりらしい。


 先ほどと同じような掛け声と共に、まるで空港の荷物のように乱暴な動作で、私は再びふわりと浮いたような感覚に包まれた。覚悟して身を固めると全身に再び衝撃が伝わった。これが何かのアトラクションや、どこかの観光地のアクティビティなら最低の演出だ。足腰が痛む。


 かと思うと、急に頭上の視界が開いて夜の暗闇と雪が微かに舞っているのが見えた。キャリーバッグからはようやく解放されたが、私の口には相変わらず猿轡が噛ませられ、縛られている。話すことは許されず、周囲は仄暗い薄闇の中、しんしんと雪の音だけが支配していた。


「縛り直す。下手なことはするなよ」


 この男が金成だろうか。長い前髪に青いツナギを着た若い男が、私を牽制した。キャリーバッグは開かれたものの、頭上だけが目の前に広がっていて金縛りにあったように動けない。何とも奇妙な体勢で、私は街灯がいくつか点いた、駐車場と思われる場所の夜空を見ていた。


 今度は隣の方から大きな物音がした。キャリーバッグから引き出された西園寺が、燃えるような目で都丸と金成を交互に睨みつけていた。


「ヤバっ! マルさん、コイツ暴れる気満々ですよ! さっさと……さっさとガレージの中にでも、ぶち込んどきましょうよ!」


「おぉ、怖っ! 悪いが二人とも。ここから先は歩きだ。足は自由にしてやるから、二人とも下手なことは絶対にしないでくれよ。この雪の中、どうせ逃げられやしないんだ。蹴ったり暴れたりしたら、また気絶してもらうからね」


 青いツナギを着て禿げた太った男は、私達の意識を奪った、あの忌まわしい黒いスタンガンをひらひらと動かして、私を威嚇していた。


 金成によって、先ずは私の足のロープが外され、私は強引に立たされた。長時間、拘束されていたせいか、足元がふらついた。腕の前で縛られたロープが外されたが、今度は強い締め付けと共に、後ろ側で両方の手首をがっちりと固定された。猿轡を外すつもりはないらしい。


 手慣れている様子の二人だが、私はここで始めて運び屋ポーターの二人を目にできた。


 スタンガンを持って、私の動きを警戒している、やや肥えたこの男が都丸光一だろうか。確か愛知県出身で37歳の独身男らしいが、実に特徴的な見た目をしている。その外見は、彼の荒んだ生活を物語っていた。偏見を承知でいうなら夜遊びが好きで好色そうな男、というのが私の第一印象で、身長は175センチの私を基準に165センチほどだろうか。体型はやや肥満気味で、顔はふくよかで肉付きがあり、かなりビール腹のブヨブヨした体型である。


 彼の顔には常に皮肉っぽい笑みが浮かんでおり、目は小さく、やや釣り上がっている。ちらちらと時折、こちらに向けられる猜疑心の強そうな黒ずんだ瞳は、しばしば人を見下すような鋭い視線を投げかけてくる。


 ほぼ禿頭に近いかなり後退した彼の髪は無造作に後ろに流され、こめかみの白髪が彼の遊び人としての夜遊びの疲れを隠せていないように思えた。紺色のツナギのような作業服上下はしわくちゃで、かなり不潔な印象を与える。そういえば、音声では彼の発言は政治的にかなり右寄りで、保守的な意見を強く主張して、金成と対立していたような気がする。


 では、もう一人の目にかかった前髪が異様に長い黒髪のこの男が金成陽一だろう。確か旭川出身の27歳で、こちらも独身の男性ということらしい。まさか、大越刑事が何気なく引き出した情報がここで生きてくるとは思わなかった。私はまるで伏線が回収されたような奇妙な感慨を覚えつつ、それとなく彼を観察した。


 どちらかといえばスマートで洗練された外見で、身長はスラリと高くスリムな体型をしている。だが、前述のように彼の前髪は長く質感も硬めで目を覆い隠すように先端が垂れている為、常に鬱陶しそうに首を回す仕草が印象的だった。そこまで邪魔なら切ればいいようなものだが、何か拘りでもあるのだろうか。


 視界を遮るように長い前髪の奥の目は細く、口調は軽いが、どちらかといえば陰気で影のある瞳は冷静で計算高い印象を与える。彼の言動はそれなりに教育を受けた知識人を思わせる。だが、その落ち着いた外見の下には左寄りの政治的な発言があり、都丸と正反対の激しい議論になっていたのが印象的だった。都丸とは対照的にこちらは真新しい紺色の作業服にきちんとアイロンがかけられたズボンを着用しており、その外見からは殺人事件に関わっているとは思えないほどだ。


 視界は限られ、寒さが身を切る。都丸がスタンガンを金成に渡すと、彼は今度は西園寺の閉じ込められたキャリーバッグから彼の両肩を持って強引に引き出した。二人の様子からして、私より西園寺に対して異常に警戒しているのが分かる。一挙手一投足も見逃すまい、といった警戒心がありありと滲み出ていた。


 西園寺の足のいましめが解かれ、彼が地面に立たされた。しばし私達は互いに睨み合っていたが、西園寺は抵抗はしないとでもいうように、黙って下を向いて、背中を向けた。都丸はホッとしたのか、西園寺のトレードマークである白いソフト帽を彼に被せた。


「そうそう、いい覚悟だよ刑事さん。さすが丸の内のカミソリ西園寺。白いスーツの似合うイケメン刑事デカは伊達じゃないねぇ。悪いんだけど、手は後ろで縛らせて貰うよ。リード代わりだ。あたしらと一緒に、山荘まで散歩でもしようじゃないか」


 西園寺は僅かに私の方を見て、目で合図を送っていた。彼の瞳は冷静で、何かを伝えようとしていた。それは明らかに“動くぞ”というサインだった。


 西園寺は突然、力を込めて隣にいた都丸に体当たりを試みた!


――だが、その行動はすぐに阻止された。いきなり現れた白い塊が――いや猛然と突っ込んできた何者かの体当たりによって、彼は雪に押し倒された。白いソフト帽が宙に舞うのを、私は呆然と見つめていた。


「おい、手間かけさせんなや。見張りがコイツらだけの訳ないやろうが」


 西園寺の抵抗が虚しく思えるほどの、圧倒的な存在感のある男が目の前に現れた。白いスーツを着た大柄な男が低く構えたまま、ドスの利いた関西弁の声でひげに覆われた口元を擦った。


 この男が鏑木正勝か! 私は思わず息を呑んだ。表向きはNPO法人の代表で産業廃棄物処理を請け負うが、その裏の顔は元ヤクザ。今は関東最大の暴力団山城組傘下の二次団体を束ねる若頭。最も関わりたくない人間に、遭遇してしまったらしい。


「ヒヒ、始めましてやな、お二人さん。まさか、こんだけの人数相手に敵うとは思ってないやろうな? 無駄な抵抗はやめなさいっちゅうやつや」


 鏑木は西園寺と同じ白いスーツを着ているが、その風貌はまるで別世界の人物のようだった。いくら手を縛られているとはいえ、西園寺を強烈なタックルで一瞬で転ばせるだけあって体型はガッシリとしており、プロレスラーのような肉体からは途轍もない力が感じられる。


 五分刈りのオールバックにしたこわい髪質とその顔には濃い鬚が生え、威圧的な男らしさを際立たせている。彼の目に宿る光は冷たく、薄く笑った不敵な表情には計算し尽くされた冷酷さが宿っていた。


 しゃがんで威圧していた鏑木はゆっくりと立ち上がり、周囲を改めて一瞥した。私たちを一つの物体として見下ろしているかのような冷たい視線に、私は一瞬で気圧けおされた。彼の存在感は圧倒的で、ただ立っているだけで、周囲の空気が凍り付くようだった。


「大人しくせえ。痛みも少なくて済むで」


 鏑木は駄目押しのようにドスの効いた声でそう言った。彼の声は低く、腹に響くようで、言葉一つ一つが重みを持って私の耳に届く。彼の表情からは、これまでの生活や犯罪の世界で培われた非情さが滲み出ている。元ヤクザという肩書は明らかに嘘だろう。背中にとんでもない模様の刺青が彫ってあっても不思議ではない。


 人には大なり小なり、危険を感じ取る能力が生まれつき備わっているものだ。犯罪記者としての私の直感が――否、野生の本能が最悪の危険信号を発していた。


 雪の中で身動きが取れなくなった西園寺は、猿轡の噛まされた状態で苦悶の表情を浮かべていたが、一転して憎しみと敵意の眼差しで鏑木を睨みつけた。明らかに他の組員とは雰囲気の違う屈強な男は、西園寺を見下ろすと、傍らに落ちた彼のソフト帽の雪を丁寧に払って、西園寺に被せ、都丸のいる方へと押しやった。


「もう暴れてくれんなや。ほれ、一張羅が台無しやないか。おい、コイツらは大事な人質や。くれぐれも丁重にな」


「は、はいッ!」


 私の背後にいた金成が鏑木の意図を汲み取り、何か行動を起こそうとしないか、すぐに私を押さえつけられるように、体に力を込めたのがロープ越しに伝わった。


 迂闊だった。私は改めて、暗闇の中の駐車場と思われる広いスペース全体に視線を送った。そして、改めて絶望した。トランクとスーツケース。二重の檻から人質を出すという時に相手が警戒しないわけがない。待ち伏せというより、駐車場を完全に押さえられていたのだ。


 暗闇で車種やナンバーまでは見えないが、数えて四台の車に銀政界の構成員と思われる男達が控えていた。


 都丸と金成を除けば、この場にいるだけで五人。スーツの懐に手を入れた者。長ドスの鞘を抜こうと今にも柄に手をかけている者。拳にブラスナックルを嵌めた者に、中指に湾曲したカランビットナイフを付けた者。サップと呼ばれる細い鈍器を手にした者もいる。


 私たちの前には、既に武装したスーツ姿の男達が立ちはだかっていた。これから向かうのであろう山荘。駐車場という唯一の脱出路は既に塞がれ、逃げ場は完全にないのだと告げていた。


 と思うや否や、鏑木は部下たちに向けて低く、厳しい声で命令を下した。


「おぉ、お前ら、こっからの外の見張りは最低限でええぞ。哨所しょうじょで防犯カメラの監視体制に切り替えや。仮眠は交代で車の中でせえ。トランシーバーは持っとるな? 定時連絡は忘れんなや。食い物や飲み物は母屋から運ばせる。侵入者が入れるはずないとはいえ、何かあれば、いの一番に知らせるんや」


 彼は冷静に周囲を見渡し、次に私と西園寺を睨みつけた。


「さて、アンタら二人には、もう一回念を押しとこか。抵抗を試みたところで、無駄や。森の入口にも、ワシらの味方が待ち構えとる。ここから一歩でも外に出れば、命はないと思いなや」


「兄貴、この二人はどうしますかい?」


 部下の一人が緊張した面持ちで尋ねる。鏑木は一瞥すると、淡々と答えた。


「ガレージに連れて行く。ワシ一人でええ。ワシらの図面に必要な駒や。大事な客人にも、一役買ってもらわなな」


 彼は再び私と西園寺を見据え、言葉を続けた。


「理解しておくんやな。今、アンタらの命は、ワシの手の中にある。少しでも変な動きをすれば、即座に後悔することになるで。静かに従えば、もしかすると生き延びるチャンスもある。……だが、それもアンタ達次第やな」


 周囲は静まり返り、ただ鏑木の低い声だけが響いていた。彼の言葉は明確で、その場の空気が一層重くなるようだった。生殺与奪の権利を握られるというのは、こういうものなのか。まるで心臓にくさびの付いた鎖を巻きつけられたかのようだった。私はひたすらにおののいていた。


 西園寺の瞳が再び私を捉えていた。私は彼の意図がアイコンタクトだけで伝わった。すまないしくじった、と。その中には謝罪と共に新たな決意が光っていた。彼の視線は、状況を変えるための次の一手を探る決意を示していた。相棒はまだ希望を捨ててはいない。


 私達の完全な敗北を告げるように、一陣の冷たい風が真新しい雪を吹き散らして暫し視界を覆い尽くした。私たちは無言で再び立ち上がり、後ろ手に縛られた重い足を踏み出すしかなかった。私たちの未来に何が待ち受けているのか、その全てが未知の白い霧が溶け込んだ、その濃密な山の暗闇に閉ざされてしまったかのように感じた。


 山荘へはちょっとした坂道を行くようだった。舗装された道路が緩やかな傾斜で駐車場から延びているのがわかる。


 私は駐車場の最も見晴らしの良い角に、ドアと窓が付いた監視小屋のようなものが建てられているのを見つけた。窓からは明かりが漏れている。あれが鏑木の言っていた哨所だろうか。自衛隊の駐屯地の営門を通り抜けた先に必ずある、警衛所と呼ばれる建物によく似ている。


 外観は一見すると、ただの幅広いプレハブにも見えるが、道路を通って駐車場へ至ろうとすれば、必ず窓際を通ることになる。人、物、車両の出入りを管理するには最適な場所に思える。位置的に外部からの侵入を効果的に阻止するよう設計されていた。


 小屋の正面には、小さなロゴが掲げられ、大手の警備会社のシールが貼ってある。山荘の所有者が正式な契約を結んでいるということだろう。夜間に無人になる場合は、警備セット一つで建物の出入管理をまかなえるサービスだってある。


 この山荘が奥多摩湖畔のどの辺りかは分からないが、侵入異常や機器に異常があれば、警備会社のパトロール員が時間内に駆け付けてくるような仕組みになっているに違いない。おそらく小屋の内部は、照明が完備されており、監視機器が設置されているのかもしれない。


 モニターが複数並び、周囲のカメラからの映像がリアルタイムで表示されているような場所が敷地の中にあっても不思議ではない。複数の防犯カメラが駐車場全体を映しているとすれば、映像をモニターしている場所だって必ずあるということになる。


 どうやら山荘の周辺には至る所に防犯カメラが設置されており、一見の者には見えない警戒網が敷地全体を囲んでいるようだ。正規の警備会社と契約しているとすれば、外部からもモニターされている可能性は非常に高い。皮肉にも、我々の敵に優秀な警備システムが奪われている状況は、きわめて最悪である。この厳重な警備体制が、この家がどれだけの価値を持っているかを物語っていた。


 切り裂くような風が冷たい。西東京の山間では三月も末なのに雪が降る。朝方にそんな馬鹿げた予報を聞いた私が、まさか虜囚となってその只中へと置かれるのは、ある意味で最大級の皮肉のように感じた。奥多摩湖畔と思われる周囲の山々には、夜半に関わらず白い霧までが立ち込めていた。


 誰も、何も、一言も発せず、淡々とした足取りで私達は、都丸と金成に繋がれた状態で歩かされていた。突然の雪の訪れと共に、世界はいつの間にか白い静寂に包まれている。眼前の坂道の上に、煌々と明かりが灯っている場所がうっすらと見えた。あれが件の山荘だろうか。


 山荘までの道は薄く雪に覆われていたが、既に何組かの足跡がついていた。我々の足跡がその真新しい一面にさらに深く刻まれていく。この雪と暗闇に閉ざされた陰鬱な山荘は、何層にも重なった秘密を隠しているかのようだった。


 木々は重たい雪を支えきれずに傾き、その枝が時折、重みに耐えかねて落ちる音が静寂を破る。母屋へと向かっているのだろうが、既に夜のとばりがすっぽりとこの場を覆い尽くしていた。


 冬に逆戻りしたような寒さがスニーカーを通して足元に染みる。レザージャケットを着ていても、容赦なく吹き付ける凍てついた山の風と絶え間ない夜気が体温を奪っていく。振り返ることを許されない物理的な恐怖を背後に感じながら、文字どおり虜囚となって進む。


 先導する者はなく、目の前に広がるのは、雪に覆われた未舗装の道と、その先の小高い山道の向こうに佇み、淡い光を発する山荘のぼんやりとした輪郭だった。樹海と呼ぶほどではないが、密集した木々の合間に見える空は曇っており、星の光も月の光さえも届かない。


 駐車場は山荘の建物からやや離れた場所にあり、周囲を高い木々が囲んでおり、木々の間を縫うようにして、ほんの数メートル幅の道が山荘へと続いているようだった。その天然の螺旋らせんのような坂道は、濡れた雪で滑りやすく、歩くたびに足が沈み込んだ。猿轡を噛まされている上に、手は背後で縛られているため、バランスを取るのも一苦労だった。


 山荘は二階建ての木造建築で、高台の見晴らしの良さを活かした片流れ屋根のダイナミックなフォルムだった。展望台のような円形のサンデッキを備えている。華美な要素より森と一体化したような、その瀟洒な外観は何十年もの歴史を感じさせながらも、その度に改築を繰り返したであろう洗練された造りで、金持ちの避暑地ともいった様相である。


 冬の厳しさを乗り越えた建物の頑丈さは、周囲の自然と妙に溶け込んでもいた。大きな窓は厚いカーテンで覆われており、内部からの光はほとんど漏れ出してはいない。しかし、その静けさとは裏腹に、中からは低い話し声や物音が断続的に聞こえてきていた。


 山荘に近づくにつれて、その大きさが目に入る。重厚な木製の扉は半開きで、その隙間からわずかに温かい空気が漏れていた。この山荘は密会や取引の場にはもってこいだろう。今宵ここは運命が交錯する場所かもしれない。あるいは生死がかかっているからこそ、不気味で堅牢な住居に感じてしまうのか。どこか時間が止まったような静寂が漂っていた。


 重い雪が山荘周辺を静かに覆い尽くしている。眼下に、先ほど私たちが車から降り立った駐車場と監視小屋が見える。山荘の母屋からはおそらく全体が見下ろせるだろう。かなり広い駐車スペースが設けられていて、雪に覆われた車が何台か無造作に停められている。見張りをしているヤクザの姿がちらほらと見え、彼らが母屋に向かおうとする侵入者を厳しく監視していた。救助を期待するのは、もはや絶望的な状況といえた。


 やがて、我々は山荘にたどり着いた。母屋へと続く小道を歩きながら、その二階建ての建物を改めて見上げる。重厚な木造の扉や窓には明かりがともり、暖炉の煙が薄暗い空に静かに立ちのぼっている。対照的に、私たちが向かうのであろうガレージは、母屋から少し離れた場所にあり、周囲を高い木々が覆って孤立したような印象を与える。その距離感は、この静かな夜の中でさらに際立っていた。


 ふと頭上のバルコニーに目が行った。そこにはスーツ姿の二人の男が立っており、どこか憎悪にも似た眼差しで、こちらを見下ろしていた。


 一人は外科医の龍堂明だろうか。グレーのスーツに白いワイシャツを着た、鬢やこめかみに白髪が交じった頭髪をオールバックにした、長身で50代前半くらいの男である。ネクタイもしていない、さっぱりした身形ではあるが、感情の籠もらない冷たい目で私達を無言で見下ろしている姿は、休日の外科医とは思えない不気味な印象を与える男である。


 その隣には40代半ばぐらいの、こなれたダークブルーのスーツを着た男が、バルコニーに片手を添えて我々を見下ろしていた。黒い髪を丁寧に七三に分けて、黒い眼鏡をかけた神経質そうな目が、猜疑心の塊のような印象を与える男である。休日だというのに、スーツの胸元にはご丁寧にも弁護士バッジを着用している。この男が杉山完二だろう。


 それにしても銀政界の構成員達もそうだが、二人揃って休日にスーツとは、あまりに周囲の景色とは馴染まない。あくまで、仕事やビジネスの延長だとでもいうのだろうか。


 我々にじっとりとした視線を送ってくる彼の目は冷ややかで、その視線は鋭く私たちを捉えていて、計算高く、時折周囲を見渡し、駐車場の方に視線を送っていた。物見の監視役だろうか。彼らが私たちの運命にどれほど関与しているのか、そのことを改めて実感する。


 彼らの視線は、しばらく私たちに向けられていたが、すぐに何事もなかったかのように彼らの間で何か会話しているのが見えた。まるで虜囚か奴隷のように扱われている我々の姿など、既に彼らの計画の一部であるかのような淡々としたその振る舞いに、ぞっとするほどの計算された冷徹さを感じた。


 私は母屋に近づくにつれて、龍堂と杉山の存在が頭から離れなかった。彼らも地下街の殺人で壁役だったのは間違いなく、ただの傍観者ではない何らかの役割を与えられているはずだ。何が起ころうとも、彼らはその計画の一部であり、それが私たちにとって何を意味するのか、現時点で皆目分からない。


 この短い一瞬が、私たちがただの駒であることを暗示しているようで、この山荘で起こるであろう事態の重大さを改めて思い知らされる。何が起ころうと、龍堂と杉山も彼らの仲間であることは間違いない。


 どうやらガレージとやらは、母屋を通った裏口の先にあるらしい。


 私と西園寺は、猿轡を噛まされ、相変わらず後ろ手に縛られた虜囚か犬の散歩のように母屋の内部へと先導させられた。そこには、二人の女が私達を待ち構えていた。


「あら、人質になった間抜けなお兄さん達じゃない! ご機嫌いかが?」


「紀子、少しふざけ過ぎよ。もう酔ってるの? 一杯やるならもう少し後に……」

 

「別にいいじゃない。従順なワンちゃん達にかんぱーいってね! あはははは!」


 そう言って冴島紀子は高々とワイングラスを掲げてグラスの中身を飲み干した。顔の火照り具合からして既に何杯か引っ掛けているらしい。


 母屋の中は暖炉の火が輝く豪華なダイニングルームで、テーブルには様々な料理が並んでいた。大皿に盛られたオードブルにパンやリゾット、ピザにチキンにシーザーサラダにローストビーフ。傍らのスープジャーからは温かいスープの匂いがする。あまりに場違いな場所にいきなり放り込まれた理不尽さにも腹が立ったが、空腹と疲労が限界に達している私達にとって、その光景はまるでちょっとした拷問だった。


 冴島紀子と一ノ瀬綾子は、すでに晩餐の準備をして、仲間たちと前祝いでも始めるような体勢に入っている。車の中で都丸に何かしら調達するよう指示していたが、二人は既に先行してここに先回りしていたのだろう。


 ICレコーダーで彼女達の音声は聞いていたが、私はここで始めてこの二人を仔細に観察することができた。


 冴島紀子はボブカットの髪型とふっくらとした唇が印象的な美人だった。アメリカ人と韓国人のハーフらしいが、その容姿は確かに異国情緒のある魅力を放っている。彼女は深い色のバーガンディのシルクのシャツを着ており、彼女の白い肌と鮮やかなリップカラーを引き立てていた。やや透け感のあるそのシャツは、大胆ながらも洗練されたセンスを感じさせる。下にはタイトなレザーパンツを合わせ、彼女のスリムで長い脚を強調していた。アクセサリーはゴールドの大ぶりのイヤリングと複数のブレスレットで、彼女の華やかな性格を表していたが、そのイヤリングに、私は思わず嫌悪の表情を浮かべてしまった。


 一方、一ノ瀬綾子は大人の女性らしい落ち着いた装いで、そのスタイルと存在感が彼女の過去のキャリアと内面の強さを感じさせた。彼女はエレガントなカシミアのニットを着用しており、その深いネイビーの色合いが落ち着いた性格を感じさせる。ニットはボディラインに優しく沿うデザインで、洗練された大人の魅力を演出している。下には快適で動きやすいウールのスリムパンツを合わせており、寒さから保護しながらもスタイリッシュさを保っている。


 足元は機能的でありながらもスタイリッシュな革のアンクルブーツを選んでおり、雪の山荘での移動に適している。モデル出身なのだろう。彼女の髪は柔らかくウェーブがかかったロングヘアを緩く一つに束ねており、その優雅さが一層彼女の落ち着いた美しさを強調している


 紀子は高慢な態度で、私たちを一瞥もせず、ただ顎で裏口の方向をしゃくった。


「ガレージへの道はそっち。キッチンの裏よ。さっさと行ったら? 後ろの怖いオジサマ方に張り倒されるわよ」


 紀子が茶化すように事もなげに言った。一ノ瀬綾子は腕を組みながら、私たちを見下ろすように立っていた。彼女の目は冷たく、まるで私たちを一切の哀れみも感じない、ただのモノか障害物としてしか見ていないようだった。


「随分と汚らしい人質ね。さっさと目の前から消えてくれない? これから盛大にパーティを始めるんだから」


 傍らにいる西園寺の眉がピクリ、と動いたのが分かった。高飛車な女はさらに追い打ちをかけた。

 

「ねぇポーター、頼んでたものは調達してきてくれた?」


 西園寺を繋いだロープを持った都丸が甲高い声で応じた。


「ええ、姐さん。この二人をガレージに繋いだら、すぐに取ってきますよ」


 揉み手でもしそうな声音である。裏表のある男の処世術を見せられながら、今度は最後尾にいた鏑木が反応した。


「ヒヒ、楽しそうやないか。後で盛大に宴でもせなな。まったく……敵地でご馳走並べるとは、悪趣味なお嬢さん方や」


「あら、管理人のお爺さんには、ちゃんと許可は取ってあるわよ。この日の為に手配してたみたいだし。今日は親分もいないんだから、若頭も存分に愉しみましょうよ」


「ワシはバーボンがええ。仲間ともども後からお邪魔させてもらうわ」


 私達を蔑ろにする無関心と冷酷なやり取りに腹が立ったが、私たちはゆっくりと指示された方向へと歩き始めた。


 ガレージはキッチンの裏手にある勝手口を通っていくようだ。おそらく離れにある場所なのだろう。山荘という場所には、およそ似つかわしくない広い駐車場に感じたが、ここが片桐家の別荘と考えるとすぐに納得がいった。あの駐車場は来客用で、敷地内にある家人の使うガレージは、中庭を通って離れの別の場所にあるということなのだろう。


 未知の場所を繋がれながら歩かされる行程は、疲れ切った体には一層の苦痛を加えるものだった。後ろで紀子と綾子の笑い声が響き渡る中、私たちはただ黙々と進まされた。彼女たちの嘲笑に耳を塞ぎたくなるほどだ。


 勝手口を抜けると真新しい新雪を湛えた中庭が広がっていた。左右に冬囲いがまだ施された植物が、等間隔に配置されている。中庭には足跡はなく、母屋の屋根付近には黒い防犯カメラがあった。赤いランプが点灯している。ということは、今も監視中ということだろう。


 新雪を踏みしめて、ガレージに近づくにつれ、その建物の孤立感が目立ち始める。かなり真新しいドアと大きなシャッターでしばらく使われていないようだ。雪の重みで建物が歪んでいるのか、慌てて先導するように西園寺の前に来た都丸によって、シャッター脇にあるドアが軋むような音を立てて開かれた。


 照明のスイッチが押され、ちかちかと二、三回明滅した後、仄白い光の下でガレージの全景が我々の前に現れた。


 ガレージは車二台が余裕を持って収まるほどの広さがある。コンクリートでできた床は所々油が沁みており、壁には工具がぶら下がっている。一角には大きなブルーシートが敷かれていて、その下には何が隠されているのか一見では判断できない。ガレージの天井は比較的高く、白いLEDの蛍光灯が冷たい光を放ち、空間全体を照らしている。


 ガレージの片隅には、古い木製のワークベンチがあり、その上にはさまざまな機械部品や工具が無造作に置かれている。壁沿いには古ぼけたキャビネットが並んでいる。恐らく、塗料の缶や清掃用品が詰め込まれているのだろう。


 ブルーシートの一部は少しめくれ上がっており、下からは何か大きな物体の輪郭が窺える。芝を刈る為の作業機械か何かだろうか。しかし、ガレージのこの隅はこれから違う目的で特別に使われる空間になるだろう。全体に漂う油や金属の匂いが、この場所が長年にわたって使用されてきたことを物語っている。


 静かながらも、この空間は何か秘密を隠しているような、不穏な雰囲気を醸し出している。未知の恐怖へと遭遇する予感がみるみると膨れ上がり、私の不安が増していく。そして、再びの慚愧の念に堪えない後悔が私の心に深く、濃く刻まれていくようだった。


 広いガレージの奥側にはちょうどいい支柱があり、どうやら私達はそこへと繋がれるようだった。私と西園寺は、手足をしっかりと縛られた状態で、支柱に背中を向けて立たされた。鏑木が一言、冷たい声で指示を出した。


「ここに縛り付けておくんや。足は伸ばして、動けないよう、背中合わせにしっかりとな」


 運び屋の一人、金成が私たちの手首を支柱に結びつける間、もう一人の都丸がサディスティックで不敵な笑みを浮かべていた。彼は私たちを一瞥し、鏑木に向かって言った。


「この二人、案外素直に従うじゃないですか。悪いんですが、抵抗も少なくて楽勝ですね」


「油断すんなや。周りの余計なもんは、念の為に身体から離しておくんや。脱走されたら、かなわんしの」


 鏑木は彼の言葉を無視し、冷静に状況を確認している様子だった。都丸が私たちの縛り付けを終えると、鏑木はさらに命令を続けた。


「よし、その辺でええやろ。猿轡を外してやれ。しばらくは、人質二人きりで、ご歓談してもらおうやないか。これが今生の別れになるかもしれんしのう」


 金成がにやりと笑って答えた。


「まぁ、ガレージの先はただの山。どうしたところで、ここからは逃げられやしませんがね」


 私と西園寺は無言でそのやり取りを聞いていた。西園寺と私は背中合わせで足を伸ばした状態で座らせられた。金成が足の届きそうな位置にある工具類を、まとめてワークベンチに片付けているのを淡々と眺めていたが、都丸は無造作に私たちを支柱に押し付けた。彼は何とも言えない冷たい笑みを浮かべながら、私たちの口から猿轡を外した。


「名残惜しいんだが、あたしらの仕事はここまでだ。悪いんだが、相棒とここで最後の会話でも楽しむといいよ」


 都丸が冷たく言い放った。彼の声には明らかな軽蔑が滲んでおり、それが私の怒りをさらに深めた。猿轡が外されたが、私は力なく彼らを睨むことしかできなかった。何とかしてここから脱出しなければならないが、どう考えても見込みがないという絶望が頭を掠める。


 金成は靴で小石を蹴飛ばしながら、前髪を唐獅子のように振って、冷たく微笑んだ。


「何かあれば、すぐにでも飛んでくる。無駄なことはするなよ」


 と脅迫的に言い放った。


「まぁ、どうせここからは出られへん。大人しく待つんやな」


 鏑木は意味ありげに不敵な笑みを浮かべると、金成と都丸を伴ってドアから出ていった。私と西園寺は彼らが去った後、力なく頭を下げた。どっと疲労が一気に押し寄せた。無理に歩かされることはなくなったが、雪に閉じ込められ、誰の助けも来ることはない。飢えと寒さ、疲労と先の見えない不安と拘束が、私たちを圧倒していた。


 ガレージに押し込められると、冷たい空気が肌を刺す。暖房器具一つとてない閉ざされた空間の中で、私は西園寺を見る。彼の目には不安がちらついていたが、それでも彼は冷静さを保とうとしている。押し黙ってしまった西園寺になんと声を掛けるべきか、わからなかった。


 ガレージの硬いコンクリートの床は外の冷たい風と冷気をいいだけ吸い込んで、私達の体温を根こそぎ奪っていくようだった。薄暗い部屋。切り裂くような表の風の音。時折、パチパチとガレージの窓や壁を叩きつけるような音。ひょうが降っているのか。


 寒さが骨の隙間にまで染みてくるようだった。古びた薄暗いガレージの頼りない蛍光灯の灯る中、私たち二人は完全に孤立してしまった。


 壁には古い工具が無造作にかかっており、交換用のタイヤやオイル缶やペンキなどの容器がごちゃごちゃと置かれていて、油の匂いがつんと鼻をつく。


 私と西園寺は、柱に磔にされたように背中合わせになっていた。


「こんなことになっちまうなんてな……。すまねぇな、東城」


 相棒は静かに私に詫びた。西園寺の声は、自責の念に満ちていた。背中から声の振動が直接伝わってきたので、私は黙って首を振った。


「人質の交換条件が俺達じゃ、美波が危険に晒されちまうことになるな……」


 私もまた、心中穏やかではいられなかった。敵の計画を事前に読み取れなかったこと。それが今、美波を危険な状況に追いやってしまっている。彼女は常に犯人の計画の一歩先を行くほど賢いが、後手に回ってしまった今回ばかりは、どうにもならないだろう。


 相手は殺人さえも集団で遂行するほどに連携している。計画的に天候まで睨んで、我々をここに監禁している。付け焼き刃でも、それが互いの利益になると本気で信じている。形振り構わずに、自らの役割に徹して、味方をカバーさえしている。付け入る隙がない。


 仮に彼女が彼らと人質の取引や何らかの交渉をする場合、それがまさに敵の罠に嵌まることになるという恐怖が、私達を襲っていた。


「すまねぇな……。刑事の癖に無力でよ……」


 この男は本当に昔から変わらない。頑固さと己を曲げない一途さと、こんな時でも他人を思いやれる優しさは、美波といい勝負だ。人は正しさではなく、心が通じ合うことの大切さを痛感した時に、相手に心を許せるのだろう。美波も当然そうだ。様々な事件を通して、いつの間にか私達には、こんな仲間意識が生まれていたのだと、私は改めて驚いていた。


「よしてくれよ。僕がもっと事件の構造に早く気づいていれば、こんなことにはならなかったんだ……」


 言葉が詰まる。この際だ。相棒には、きちんと話しておこう。自分自身の為に。


 聞いてくれるかい、と私はそう言って続けた。


「さっき気絶させられた時にさ、夢を見ていたんだよ。うんと小さい子供の頃の……そう、五歳くらいの時かな。父さんや母さんや兄さんと東京駅に始めて旅行に来た時にさ、僕は迷子になってしまってね。あの時は心細かったなぁ。一人ぼっちで人だらけの、東京駅の朝方のラッシュアワーの時間帯でさ。あの日は一週間で誰もが殺伐としてる月曜日の朝だった気もする」


「へぇ、始めて聞いたな。ってか、めずらしいな、お前が家族のことを話すなんてよ」


「まぁ、こんな時だからね。その時にさ、真っ白な制服を着た駅員さんに助けてもらったんだ」


「白い英雄の登場だな。迷子の案内放送でも流してもらったってところか」


「うん。それでね、ウチの兄貴からその時、こう言われたんだよ。浮ついているから肝心なところで躓くんだってさ……。母さんからは、こんな人だらけのところで迷子になるなんてって理不尽な叱られ方までしてね。父さんの話じゃ僕は不貞腐れて、しばらく口も利かない有り様だったらしいよ。あの時は困ったらしい」


「五歳なら仕方ないわな」


「けど、一方でこうも思ったんだ。まったく、僕はあの頃から何も変わってないってね……」


「ンなことはねぇだろ。あんまり自分を責めるなよ。俺まで責められてるような気分になるだろうがよ」


「はは、ありがとう。けど、自分を責めたいわけじゃないんだ。チームとして、相棒にはきちんと知っていてほしいんだよ。僕の決定的な弱点ってやつをね」


「お前の……弱点?」


「以前に美波さんからも似たようなことを言われたんだよね。僕はいつもいいところを突くんだけれど、肝心なところで今一歩、詰めが甘いってね。彼女に言わせると、僕は記者らしく洞察力も分析力もあるし、閃きも思考の過程も理路整然としていて、それを支える言語化の仕方や論理的な説明の仕方も一定以上の水準に達しているんだけど、それはあくまで平均レベルの人間の話であって、こと犯罪事件の犯人を追跡し、断罪できるような探偵のレベルには、まだ達していないってね」


「容赦ねぇな、あいつも。警察じゃねぇんだぞ。探偵役が強くなきゃいけねぇ決まりなんかねぇし、思考を唯一の頼りにする専売の探偵と一緒にするなって話だぜ。記者は情報収集担当で、足で捜査して証拠をかき集めてくる刑事とも違う役目と立ち回りが求められるだろうに」


「そうだね。僕らは彼女の手足にならなきゃいけないわけなんだけど、美波さんの得意とする探偵方法ってね、犯人の思考の痕跡を辿って、そこから導き出される論理から次に取ったであろう行動と何をされたら嫌なのかとか、これから次にどんな行動をとるのかとか、基本的には犯人を狩る為に罠を張るような、そう……まるで獲物を追い詰める、狩人ハンターのような思考をしてるんだよね」


「ああ、この半年で俺もわかったよ。あいつの安楽椅子探偵としてのレベルは普通じゃねぇってな。俺達警察を、アイツは本当に上手く使う。俺が、というより捜査一課でも、アイツには一目置いてんだよ」


「そう思うと、彼女の指摘は本当にいつだって正しかった。彼女の言葉が、今は本当に身に沁みているのさ。犯罪事件の記者として犯人の思考をトレースして、犯人に到達できても、最終的にその犯人の立場や環境に同情したりしてるようじゃ、そのうち足元を掬われることになるってね。非情に徹しきれないのは、優しさではなく、甘さや弱さだってさ……」


 私は俯いた。情けない。悔しい。美波のあの時の表情が目に浮かび、私は縛られた腕の拳を固く握り締めていた。


「美波さんを、こんな危険に晒してしまうなんて……僕は自分が情けない。それ以上に、アイツらが許せないよ。アイツらの本当の目的は恐らく、美波さんを誘拐することだったんだよ。都丸と金成の会話も聞いたよね。組織だった犯罪なら当然だけど、彼らは目的の為に、それぞれ形振り構っていない。片桐美波に復讐できる上に、報酬を山分けにすると聞かされて動いているんだろうね」


 西園寺が深く息を吐き出し、頭を振ったのが分かった。


「あいつ、絶対に助けに来るよな。あいつは自分のことは必ず棚上げにする。危険な目にあっても俺たちがこうして無力なのをいいことに、一人で何とかしようとするだろう。クソッ! 足手まといになるなんて情けねぇ!」


「ああ、本当にね。まさか、ここに来て舞台が吹雪の山荘になるとはね、洒落にならないよ」


「ああ、まったく皮肉なもんだぜ。ミステリーじゃ定番の舞台に、ミステリ好きの刑事と記者が揃ってぶち込まれるとはよ」


 ガレージの扉の向こうで、強い風が吹くのが分かった。窓にはバチバチと爆ぜるような音を立てて雹が当たる音が聞こえる。それはまるで時計の針のように、刻一刻と過ぎ去る焦燥の時間を我々に告げているようだった。捕まってから、一体、何時間が経ったのだろう?


 西園寺班の面々は頼りになるメンバーばかりだが、こちら側に集結している敵の位置や数、足取りや彼らの動機まで正確に掴めているとは思えない。第一、こんな山奥の別荘のような場所には辿り着けないし、仮に私達が行方不明だと判明しても、この雪では捜索だって断念せざるを得ないだろう。


 美波が動く前に、何とかこの場から脱出し、彼女を止めなければならない。一刻も早く西園寺の部下達と合流して、事件の真相を明らかにした上で彼らを逮捕しければならない。その不可能な重圧が、私たちの肩に重くのしかかる。


「俺たちにできることがあるなら今、考えることしか出来ねぇよな」


 後ろからは見えなかったが、西園寺の目には決意の光が宿っていた。そうだ、絶望するにはまだ早い。


「美波を守るのは、俺たちの責任だ」


 何としても、ここから脱出しなければならない。それが、今の私たちにできる唯一のことだ。まずは一度、状況を整しして。と、そう考えた。


 まさに、その時だった。


 母屋の側にあるドアが開き、桜庭大介が鏑木を伴って入ってきた。彼の顔には得意げな笑みが浮かんでいる。私は白いスーツを見た途端に先ほどの恐怖が蘇り、総身が震え上がった。


 西園寺が一瞬驚きの表情を見せたが、突然大声で笑った。背中から大きく揺らされる感覚がする。一頻り爆笑した後で、西園寺は今度は冷笑を浮かべて言った。


「桜庭、お前がこんな裏切り者に成り下がるとはな。今頃、現場の指揮を取ってるはずの男が、銀政界なんかと手を組んで……一体どういうつもりだ?」


 凶悪な犯罪者が潜伏していると聞いてなぁ、と桜庭大介は嘲笑を含んだ歪んだ笑みを湛え、彼に答えた。


「西園寺、お前には理解できんだろうな。しかも呆れた無能ときた。俺は最初から、この立ち位置にいたんだがな。地下街にいた時から、お前をマークしていたのは俺だったのさ」


 偶然にもな、と桜庭は西園寺を煽るように顎を突き出して薄く微笑んだ。へっと西園寺は吐き捨てるように言った。


「お前とは根本的なところで合わねぇと思ってたが、まさか悪党のお仲間とは恐れ入ったぜ。いつだって世の中の悪党ってのは、権力とズブズブなんだな。権力者が最後にたどり着くのが、正義を振り翳す組織との癒着ってのは皮肉だな。しかもヤクザと蜜月の関係とはな」


「この世界は、正義だけじゃ何一つ動かせないということさ。それに、正義の反対は別の正義だ。高邁な理想を掲げて人心を煽ったところで、最後は力と金だけが全てを動かせる構造なんだよ。多少、頭は切れても、お前みたいな理想論者は時代遅れで無力だ。力を行使しようにも、人道と平和主義に阻まれて満足に噛みつくこともできない。武装した組織の前で立ち竦むしかない。これが俺とお前の力の違いだ」


「刑事が刑事を力づくで拘束する展開がか? エレガントさの欠片もねぇ話だ」


「そうだろう? こんな皮肉はない。警官など所詮、死ぬまで刑務所の塀の上で歩いているようなものさ。ちょっとふらついて塀の内側に落ちることがある。善良でいたいなら、退職するまで塀の内側に落ちないように祈るだけだ」


 桜庭大介は事もなげに西園寺の被った白いソフト帽を脱がし、クルクルと指で回しながら、手元で弄んだ。


「刑事がなぜ帰りに私服を着てるか分かるだろう? 自宅に帰るのに、2件や3件は寄り道しなきゃ自宅を探られてしまうからな。警察に恨みを持つ人間など吐いて捨てるほどいる。いつも同じルートを使えば、たちまち待ち伏せされて刺されるのがオチだ」


「警官だって人間だからだろうが。お前らのような奴が、警官の家族を人質に取って脅し、身内の情報を、ヤクザに売るようなことまで平気でしやがるからだ」


「本当にそう思うのか? こんな状況下でも、本庁の奴らなんぞ、家族と一緒に、平和でただの幸せな日曜日を満喫してるんだぞ。現場のキャリアが一人、これからこの世から消えていくかもしれんというのに、奴らは何の手も講じようとしないし、兵隊の命など顧みもしないだろう。今頃、現場の捜査で右往左往している警官や刑事達なんぞ、日曜日に緊急で呼び出されて、やらされることといえば、ただの駒だぞ。憐れなものさ。本日はもう、引き上げ命令まで出ている。彼らは今頃、束の間の休息中さ。どうだ? 今なら、こちら側に来れるぞ、西園寺。明日には何事もなく捜査に戻れる。俺の役をお前がこのまま引き継げばいいだけだ」


「くだらねぇ。この期に及んで、見え透いた外道へのスカウトなんざ聞きたかねぇぞ、このゲス野郎。テメェがどれだけ口を尖らせて息巻いても、結局は金と欲望のために、汚職に手を染めてんだろうが! 」

 

「汚職? 欲望? それも違うなぁ。俺は野心家で欲に忠実なだけさ。俺達はいずれ、この国に新しい秩序を作るんだ。お前ら中途半端な正義の味方が何をやったところで、この社会から腐敗の仕組みを作るゴミ共は消えない。だから俺が一人一人じっくりと掃除してやるのさ。腐った奴らを放っておかない為の力の行使こそ、俺がたどり着いた唯一の正義さ。力なき正義など、踏み潰されて終わりだからな」


 桜庭は手元で弄んでいた西園寺の白いソフト帽を、ポトリと床へ落とし、足で踏みつけながら言葉を続ける。


「おっと! 足が滑った。これもまた、時代遅れの象徴だな、西園寺。クールなダンディズムを気取ったところで、お前は所詮、警察官僚のお坊ちゃま育ち。ただの時代遅れな甘ったれの道化でしかなかったのさ」


 桜庭の声にヒヒ、と鏑木が笑った。


「ほんまやなぁ。かっこええ白いスーツが台無しや西園寺はん。そういや今日のワシも白やで。似合うやろ? アンタとワシとで、同じ色を纏っても意味合いがまるで違うわなぁ。ワシの白は、強さと権力と恐怖の象徴や。アンタに言わせりゃ、悪党のワシは少しも汚されもせんのに、丸の内の狂犬の二つ名まで持つ刑事のアンタは、泥まみれで人質の身とは、つくづく世の中は皮肉なもんやで。狂犬も檻にぶち込めば、多少吠える声がやかましいだけで、可愛いもんなんやな」


「吐き気がするぜ。テメェの下品な白を俺の一張羅と一緒にすんじゃねぇ。腐ったテメェらに俺の拘りを理解してもらおうなんざ思ってねぇが、ここは吠えさせろよ。その帽子のように正義ってのはよ、いつだって振り翳す奴のやり方次第でふらふらして、時には掲げた理屈が地に落ちて汚されることもあらぁ。だがな、泥臭くても筋を通して、最後まで己を貫き通すことこそ、俺が選んだ道だ。平和でいたい奴らの盾になる為に、俺達は生きてるんだからよ。俺は死ぬのなんざ怖くねぇ。俺の屍を踏み越えて、俺の仲間がお前らを取りに来るって分かってるからだ。 ほれ、さっさと俺を殺さねぇと、お前らの喉笛を噛み千切ることになるぜ」


「ははは、囚われの狂犬が一端に吠えるやないか。どうやら話に聞いてたんとは、ちょいと違うようやなぁ桜庭はん。呆れるほど自分の志に忠実な熱血漢やで。むしろこの手の真っ直ぐなアホは好感が持てる。ワイはてっきり、もっとキレ散らかした鉄砲玉みたいなんを想像しとったが、警視庁も優秀な番犬を飼ってるようやないか」


 コイツはこういう奴さ、と桜庭は西園寺を見下ろしながら煙草に火をつけた。


「筋と度胸はなかなかのもんやな。桜庭はんの言うとおり今からでも遅くない。ワシらの仲間に入れ。鼻っ柱の強い男は歓迎やで。人を動かせる力のあるモンはワシらには分かる。アンタは使われる男やない。人を使う男や」


「へっ、熱烈なスカウトだな。だが、人を使うんだったら法の外側にいたくはねぇぜ。金で手に入るようなモノなんか、俺もコイツも求めちゃいないんでな」


「ふん、強情な奴だ。例のICチップを残して死んだ川崎も、拷問されても吐かなかったからな。お前のようにいいだけ吠えて、最後は俺達を呪って死んでいった。人間なんて、くたばればそれまでなのにな。馬鹿な奴だ。どんなに名のある功績を残そうとしたところで、仲間に裏切られて呆気なく死ぬ。死んでも誰にも悲しまれない。家族にすら知らされず、この世からいなくなるとはな。公安の刑事なんぞ、無駄死にする為に生きていたような因果な存在だな」


 私の脳裏に最悪の情景が浮かんだ。


「し、死んだ川崎? ICチップ? ま、まさか……この間の事件でI、Cチップの入っていた頭蓋骨というのは……」


「そうさ。お前らが世間に晒してくれた、あの頭蓋骨と中身のチップこそ、警視庁公安部外事第2課の川崎弘樹巡査部長だ」


「ワシらがこの山荘で骨にした、な!」


 あまりの衝撃に、私は思わず息を飲んだ。あの頭蓋骨が? 公安の刑事?


「反吐が出るぜ、この腐れ外道共が。殺して、この山荘の周辺にでも埋めたのか?」


「おいおい、ワシらの仕事を忘れてへんか? ワ シらはプロ中のプロやで。産業廃棄物の処理なんてお手の物や。何せ優秀な解体屋ブッチャーかておるしな。ちなみに、この山荘の管理人もワシらの仲間や。ワシらにはながあんねん」


「全員グルかよ……呆れたぜ」


「……どや? 最高にアンフェアやろ? だが、世の中こんなもんやで。お上の税金と同じで、なんやかや理由つけて金を吸い上げる仕組みさえ作ったら、後は関わる者を奴隷か養分にするだけや。仕組みに気付いて噛みついたりしたらアカンがな。ワシらに仕事させるような奴が悪いねん。しょせん財閥なんぞ、下々のことなんぞ気にかけもせんのやな。この山荘のキッチンには、ごっつい寸胴鍋があっての。骨まで溶かせる溶剤ならほれ、アンタらの後ろにも仰山ぎょうさんあるやろ?」


 見たくもない。私は胸が急速に苦しくなるのを感じた。あの被害者は……川崎弘樹は、では殺されて解体された上で……。頭蓋骨に至ってはチップの容れ物にされていたというのか!


 耳塞ぎたい話やろがまぁ聞けや、と有無を言わせぬ低い猫撫で声で鏑木は――処理屋プロセッサーは続けた。


「処理屋の朝は早いってなもんや。プロの仕事っちゅうのは、いつだって妥協がないもんやでぇ。淡々とこなすだけや。まず内蔵を抜いて、皮を剥ぐ。肉は綺麗に削ぎ落としてな、冷蔵庫で保管しておいて、犬の餌にしたるんや。犬に生肉与えるんは感染症や病原菌が出るからアカンとか言われるんやが、本来的に犬っちゅうのは狼の血統を継いでるもんやし、生肉は大好物やねんで。特に内臓は新鮮なうちが喜ぶんや。ガツガツ食いよるで。人間と同じで、食い物の好き嫌いはしたらあかんわな? その犬だって最後には人間様が食う国かてあるんやから、人間の髪やら皮やら肉やら骨かて一切無駄にはならんのや。食用にされる犬かて、育てて売るルートもきっちり確立されとるからのう」


「へぇ、お隣の国にでも送るのかい? この俺様も犬の餌にでもするのかよ」


 アンタはさしずめ共喰いやな、と鏑木は再び笑った。


「犬肉の鍋は確かポシンタンとかいうらしいが、さすがに食うたことはないのう。ルートも明かすわけにはいかへんなあ。まぁほんでな、肉や内臓は比較的、処理は簡単なんやが骨となると、これがなかなか困るねん。ちょっとずつちょっとずつ砕いて、川原の砂利や肥料の石灰に混ぜんねん。ところがな、この片桐家所有の山荘と同僚の行方を嗅ぎつけた奴がおってな。事もあろうに、管理人が不在の隙に、あのボケが未処理の川崎の頭蓋骨やらを見つけて証拠写真まで撮って、持ち出しよったのやから堪らんわ。刑事の癖に泥棒とは、笑わせる話やのう」


「それが……津田洋介だったのか」


 私の吐露した名前に鏑木はニヤリと笑った。西園寺が鏑木を睨みつけた。


「頭蓋骨にした川崎はどうした? 追いかけて、捕まえて、拷問して殺したのか? 手下を放って嬲り殺しか? ヤクザの本領発揮だな」


 正直面倒くさい仕事やったわ、と鏑木は眉間に皺を寄せ、再び薄く笑った。私は背筋に冷たいモノが走るのを感じた。


「人体で最も処理が難しいと言われるのが頭蓋骨でな、どんな高熱でも残ってまう。溶かすには1600度の熱が必要でな、たとえば溶鉱炉の熱が1200度といわれとっての、溶鉱炉で事故が起これば、骨は溶けへんから誰かが溶鉱炉に落ちたんやろっちゅうことで、すぐに誰かは分かるのやな。ちなみにある年のとある製鉄所では546件、工員の事故が起こっとる。……どや、勉強になるお話やろ? 地中の底を流れとるマグマの熱ですら約1400度と言われとるのに、1600度の高熱を出せるもんなんざ自然界にだってあらへんのやわ。まぁ、人一人消すんがどない大変かっちゅう話で、そいつが死んだと思いなや。ところが死んだ川崎刑事ときたら!」


 同僚に証拠のICチップを渡してたいうややこしい話になってのう、と鏑木は顎をさすって煙草を吹いている桜庭の方へチラリと視線を向けた。桜庭はあからさまに嫌なしかめっ面をしてジロリと鏑木に目線を送った。


「じゃ、じゃあ津田刑事が、あの地下街でこ、殺されたのは……」


 私はそこで上ずった声を出した。声がどうしても震えてしまう。彼らにとっては私の存在など、最高のリアクションをしてくれる観客くらいにしか思っていないことだろう。桜庭はポトリとタバコを床に落とし、事もなげに踏みつけた。


「察しがいいな。まぁ、そういうことだよ。津田は行方不明になった川崎の行方を追って、この山荘にたどり着いたんだろう。警察組織に裏切り者がいることもな。川崎の頭蓋骨とICチップが津田の手で隠されたのはすぐに分かった。証拠固めすら一人でしていたのは、こちらとしては幸いだったがな。俺を告発しようとしつこく追跡を始めたから、消すことにしたのさ」


「どうもそれだけやのうて、大企業のお偉いさんを脅して、金をせしめるようなセコいことはやっとったようやの。まぁお陰でワシらにお鉢が回ってきた。アンタらが世間に晒すまで、あのICチップが公になることはなかった。……ほんま、警察っちゅうのも色々やで」


 まさか! あの事件が終わってから、まだ十日も経っていない。いくらなんでも早すぎる。戦慄する私の恐怖など意に介さず、桜庭は顎を突き上げ、西園寺を見下すようにして言った。


「ICチップを晒されたお陰で、組織のアガリには莫大な穴が開いた。協力者達を根こそぎ奪われた上に、公安刑事に裏切り者の存在まで暴かれては、意趣返ししない訳にもいかなくなってしまってなぁ…」


「片桐美波はワシらにとっても不倶戴天の敵やで。一月の聖創学協会の事件の影響で、関東では山城の直系だった銀政界の加藤組はお取り潰しや。加藤忠雄はウチの親父と兄弟分で昵懇じっこんの間柄での、ワシらも加藤の叔父貴にはよッく世話になっとった身ィや。親父は怒り狂ってるで。面子を潰してくれたガキ共は、容赦するなと言われとる」


「ちっ……逆恨みもいいところだぜ。まさか、他の連中も同じ理由で美波への復讐に手を貸してたなんてぬかすつもりじゃねぇだろうな?」


「その、まさかや」


「ンだと? 金の為に集められたんじゃねえってのかよ」


「当たり前や。理由が金だけなら、わざわざ危ない橋は渡ったりはせん。金だけで動いてるのは、女遊びに入れあげて多額の借金をこさえた都丸とオンラインカジノでギャンブル狂の金成の、あの二人くらいや」


「美波個人に恨みがある上に、身代金まで手に出来て一石三鳥って訳かよ? この不景気に随分と豪気なことだな」


「まぁ探偵なんぞやっとったら、大なり小なり恨みは買うわな」


「あのICチップを公にしてくれた片桐美波の行動まで押さえられたのは最高だった。西園寺、そういう意味でも、お前はお手柄だったんだぞ。お前を押さえれば片桐美波の所在がわかる。片桐美波を追えば、津田が俺についてくる。ならば、邪魔者はまとめて始末すればいい。これは、それだけの事件だったんだよ」


「へっ! 暗殺者に頼むだけの簡単なお仕事はいいなぁ。お前にも、どうせコードネームがあるんだろ? さぞかし素敵で立派なお名前が」


「知りたいか? 俺は足止め役ストッパーさ。公安に限らず警察の捜査の過程で組織に手が及ぶようなら、止める人間だって、消す人間だって必要になる。適材適所だよ。戦後から今まで、この国で秘密裏にどれだけの外国籍のスパイや犯罪者や産業スパイが暗躍し、国家機密や貴重な技術さえ売り飛ばされそうになって、それを誰が止めてきたと思っている。スパイ対策もガバガバなこの国の国家機密など、今や平気で外国に売り飛ばされ、垂れ流しにされている状態だぞ。例のICチップとて時間はかかったが、今頃は組織に回収されているはずだ」


「ここまで腐った蛆虫だとは思わなかったぜ。身内を裏切り、犯罪組織と手を組んで、自分達に近づくようなら平気で消すのかよ? 犯罪に手を染めて、この期に及んで国の為や仕組みを変えるなどと自分を正当化するつもりか? 化けの皮が剥がれてみりゃ心底、気持ち悪ぃな。悪魔に魂を売り飛ばした、醜い獣の集団はよ」


「獣か。そいつはいい! お前のような正義感だけの輩が何をほざこうが、結局は生き残った勝者が歴史を作る。ちっぽけな正義の為に巨悪に噛み付いた狂犬は今日、組織の忠実な番犬に噛みつかれて死ぬ。お前はただの負け犬だ。二階級特進の名誉だけは得られるだろう。喜べ」


 鏑木が厳しい声で言葉を続けた。


「この山荘が昔から片桐家の所有やというのは、ワシらの世界じゃ周知の事実やってん。ここの地下にはがあってのう。たまたま刑事と記者が死んで、たまたまその地下から白骨死体が見つかって、盛大に世間に暴露されるっちゅうシナリオな訳やな」


 絶望的なシナリオを鏑木は続けた。


「……はてさて、ここでそんな血腥ちなまぐさい事件でも起これば、脱走した片桐美波の件も含めて、片桐家は大損害やなぁ。ちなみにニュースの一部報道では、片桐家としては、そんなとんでもない不祥事を起こした娘なんぞ、もう絶縁するそうやけどな。お見合いも破談になったそうで、可哀想な限りやなあ」


 美波が――後ろ盾を失ったのか。私の中で、また一つ何かが音を立てて壊れた。


「ここはな、ワシらの行動を覆い隠すためにはまったく最良の場所アジトや」


 私は彼らの言葉を聞きながら、内心で沸々と沸き上がる怒りとこの上ない嫌悪に耐えていた。己の職務を全うする過程で犠牲になったであろう、二人の刑事に憐憫の情を覚えていた。


 まさか、警察組織に裏切り者がいて、暴力団と手を組む絵空事のような現実など……いいや、こんな悪夢のような現実など一体、誰が信じるというのだろう。


 彼らがこれから何を企んでいるのか、その計画を聞き出さなければ。それが、私たちがこの状況から抜け出すための鍵になるかもしれないと、私は淡い希望を抱く。案の定、私のそんな思考を読んだように鏑木はニヤリと笑った。


「どうして、こちらの不利になることを現職のキャリアとヤクザの若頭が並んでペラペラ喋ったか、不思議やろ?」


「サービス精神が旺盛なおホモ達同士だからじゃねぇのかよ。ケツ穴までズブズブの関係たぁ嫉妬で卒倒しちまいそうだ」


 鏑木は一頻り豪快に笑うと、西園寺の腹を蹴り上げた。押し殺したような呻き声と共に、西園寺が咳をすると、私の心臓は飛び出しそうなほど動悸が早まった。


「アンタは分かるか? 東城さん」


 桜庭がにやりと笑いながら問いかけてきた。その冷たい声に、私は心底からの恐怖を覚えた。彼と鏑木が、こうも自らの秘密を明かす理由が、私にはまるで計り知れなかった。私は静かに首を振った。事実上の敗北宣言のようなものだ。


 鏑木が静かに答えを口にする。


「ワシらがこの情報を話すことでアンタらがどう動くかなんぞ、もう計算済みっちゅうこっちゃ。今更どう足掻いたところで、このゲームの結末は変わらんねん。それがわかっているから、安心してすべてを話せるわけなんや」


 桜庭が続けた。


「俺からの要請で、ここに来る為の検問は既に張ってある。誰もここには入っては来れない。逃げようにも、この大雪では逃げ場はない。反撃しようにも、既に手遅れ。俺達の張った網にかかったお前らは、もうただの魚だ」


「俎板の上の鯉っちゅうわけやな」


 その言葉に、私は何度目かの息を呑んだ。桜庭と鏑木――警察のキャリアと暴力団の幹部によって交互に繰り出される言葉は、あまりにも残酷で、私と西園寺に逃れられない現実を突きつけていた。


 私達は今日。


 ここで死ぬ。


「この真実を知ったことが、お前らの最後の自由だ」


 目の前がさあっと暗くなった。


 詰みの一手を突きつけられ、私は完全な絶望感に覆われた。私の運命など既に決定づけられていることを痛感し、桜庭と鏑木の計算高い策略に完全に翻弄されていることを理解した。私の前に広がるのは、逃れられない暗闇のみだった。


 その時だった。母屋へと続くドアが静かに開かれ、私たちの視線が一斉にそちらへと向かった。ドアの向こうから現れたのは、風祭だった。彼は少し倦み疲れたような表情をしていた。桜庭と鏑木も一瞬で彼の存在を認め、その場の空気が変わった。


「少し話がある。ここから先は俺に任せてくれないか?」


 桜庭と鏑木は突然の訪問者に一瞬顔を見合わせたが、やがて鏑木が小さく頷き、ゆっくりと立ち上がった。すれ違い様に鏑木は意味ありげに風祭の肩をポンと叩くと、二人は部屋から退出した。


 その背中がドアの向こうに消えた途端、私は心底ほっとするようなため息を心中で漏らした。風祭は軽く首を横に振りながら、私たちの方へと歩み寄ってきた。


「あなたまで連中の仲間だったんですね、風祭さん。いや、煽動屋スピーカーと呼んだ方がいいですか?」


 私はそう言って、やや責めるような口調でかつての師匠に問いかけた。努めて冷静になろうとはするのだが、相棒と手首を縛られているという状況下と鏑木の先ほどの行動を見るに、彼がどんな目的で現れたのかは察しがついた。


 風祭は、私の問いかけに少し顔を曇らせた後、重い口を開いた。


「娘の……乃亜のためなんだよ」


 彼の声は震えており、その表情は痛々しいほどに真剣だった。片膝をついて私たちと同じ目線の高さで話す彼の姿は、かつての師匠としての威厳と地下街で公論した際の傲慢さは感じさせないものだった。


 私は、彼が何かに追い詰められているのを痛感した。何か、見捨ててはいけない確かな何かをその表情に感じた。袂を分かったばかりで我ながら甘いとは思ったが、何か事情はありそうだった。


「どうやら、桜庭と違って、ただアイツらの仲間をやってるってわけじゃなさそうだな。聞かせてくれよ」


 西園寺が判断のつかない私を察して、彼に水を向けた。


「一年前、乃亜が……娘が難病に侵されてな。手術が必要なんだが、保険ではカバーされず、莫大な費用が必要で……」


 風祭は声を詰まらせた。その声は途切れ途切れになり、苦悩が窺えた。


「乃亜が罹っているのはシストイノーシスと呼ばれる難病なんだ」


「シストイノーシス?」


 西園寺の問いかけに、私が代わりに答えることにした。幸いにもというべきか、その病気を私は知っていた。


「体内でシスチンというアミノ酸が正常に代謝されず、蓄積してしまう遺伝性の病気だよ。父と母で一対ずつの、ある劣性遺伝子が、不幸にも子供に受け継がれて発症してしまうんだ。全身の臓器に影響を及ぼし、特に腎臓に重大なダメージを与えることが多い。透析治療しなければならなくなる。治療には特定の薬剤が必要で、一部には高額なものもあるんだ。現在の医学では、症状の進行を遅らせる治療が一般的で、薬だけでも莫大な費用が必要なんだよ。そうですよね?」


「ああ、保険ではカバーされない特別な治療法を試すためには、天文学的な金額が必要だ。正直、俺には払えない。だが、彼らはそれを請け負うと言った。彼らの要求を飲まなければ、乃亜の病気はどんどん悪化していく一方なんだ。俺は……俺は、娘を救いたかった。だからこそ、迷わずこの道を選んだ」


 そう言って風祭は、懺悔するような憔悴した目で私を見上げた。


「許せ、とは言わないよ……。我ながら最低だとは思っているからな」


「続けてください」


「そんな時、彼らから声がかかったんだ。アイツらの中に外科医がいて、娘は診断後できるだけ早くにシステアミンという薬を内服することで、症状の進行を遅らせることができると聞いて……。すぐに投薬療法で症状は緩和した」


「その医者が龍堂明……彼らの間では治療屋メディックと呼ばれている医者なんじゃないですか?」


 私の問いかけに風祭は黙って頷いた。


「その薬は今年認可される予定の薬で、まだ出回っていない薬らしい。奴らは俺に対して、娘の投薬を工面する代わりに、連中のために情報を流したり、マスコミを上手く使う手段を要求してきた」


扇動屋スピーカーの誕生か」


「そして、もう一つ、俺が拒否できなかった理由がある」


 風祭は一息ついてから続けた。


「アイツらは俺も脅している。乃亜の薬だけじゃなく、俺の妻も人質にすると言われた。俺には選択の余地なんか最初からなかった……」


 西園寺が彼の話に耳を傾け、私も彼の言葉を静かに聞いていた。裏切りという言葉が頭をよぎるが、風祭の苦悩を目の当たりにすると、彼の行動をただ責めることができなかった。


「一度手を染めてみたら楽な仕事ではあった。今やマスメディアなど金でいくらだって転ぶ。ゴシップの情報など簡単に売り買いされる時代だ。政治家や芸能人のLINE履歴など今や筒抜け。誰しもが映像の記録と録音が出来るこの時代、スクープだって数の力でどうにでもなる」


「それに協力しろというんですね?」


「そうだ。東城、西園寺さん、俺たちは同じ船に乗れるはずだ。ここで抵抗するのは無意味だ。奴らの力は想像以上に大きい。抵抗しようとすれば、必ずしっぺ返しが来る。俺達にできるのは、内部から奴らを切り崩すことだけだ」


 風祭は――静かに提案した。


「俺はもう、戻れない道を歩いている。だが、お前たちにはまだチャンスがある。俺達に協力して、もっと多くの情報を掴め。片桐財閥と協力して一時的にでも奴らの仲間に入るんだ。それが、最終的には奴らの組織を暴く鍵になる」


 彼の言葉は重く、その場の空気を一層濃密にした。私と西園寺は互いに視線を交わし、この提案にどう対応するか、心中で葛藤していた。


 その時。突然外から大きな物音が聞こえてきた。まるで何かが倒れるかのような、重低音のドンという音だ。それはガレージの頼りない壁を微かに震わせるほどの衝撃で伝わってきた。


 もう一度、今度は明らかにガラスが割れるような物音がして、私達は揃って母屋の方へ顔を向けた。 西園寺が訝しげに眉根を寄せた。


「何だ? 何が起きてる……?」


「様子を見てくる。お前達はここにいろ」


 風祭さん、と私は思わず呼び止めた。何も言えずにいる私を察して立ち上がった彼は言った。


「東城、お前の力が必要なんだ。俺に協力しろ。絶対に悪いようにはしない」


 そう言って、風祭は立ち去った。


 彼が部屋を出ていくと、西園寺と私は再び音に耳を澄ませた。何かが急いで移動する足音が聞こえてきた気がした。ドサリ、と今度は私の頭上から大きな音がした。屋根からまた雪が落ちた音のようだ。どうにも、物音に敏感になっている。


「分かりやすい飴と鞭って感じだったな。どう思う?」


「分からない。信じたい気持ちと罠かもしれないって気持ちの間で葛藤してるよ。何せ、僕は弱くて甘いからね。乃亜ちゃんは僕も知ってる。職場に遊びに連れて来たことがあってね、まさかあの子がそんな病気に……」


 もう八方塞がりなのだろうか。


 その時だった。


 突然、ガレージ内に焦げ臭い匂いが充満し始めた。一瞬の静寂。私と西園寺が固唾を飲んでいると。


 私はそこにとんでもないものを見た。


 シャッターに火花が走っている!


 それはもう、物凄い速さで!


 それも――真四角に!


 勢いよく! 灼け熔けているッ!


「おいおい……」


「まさか……!」


 私と西園寺は、その信じ難い光景に釘付けになっていた。


 縦横に火花が鮮やかに走り、真四角の焼けた亀裂が目に見えて形成されていくその様子は、まるで大掛かりなマジックショーのステージの一幕のようだった。シャッター全体に広がる火花と熱気が、金属を溶かす音と共に、ガレージ全体を包み込んでいた。


 その明滅する光は、まるで長いトンネルの出口に突然現れた明かりのように、外の暗闇を一際眩しく、切り裂くように白く輝いていた。


 一際冷たい一陣の突風と共に、真四角のシャッターが内側に倒れる。


「さあ、反撃開始ですわ」


 一人の女がそこには立っていた。

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