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 画面には、血塗れになって座っている女の姿が映し出されている。女は無表情で虚ろな目を見開かせ、呆然と佇んでいる。


 フルスクリーンにすると、一時的に雑踏や生活音などの音声は止む。ここだ。動画を一時停止してコマ送り。ここでズーム。


……駄目だ。不鮮明過ぎる。何度見ても人垣で見えない。もう一度。今のシーンをもう一度。


 さながらホラー映画のワンシーンを、ひたすら記憶に刻みつけるように、私は息を呑みながら、その動画を何度も何度も再生していた。画面の中の女は、私にとってただの映像ではなく、解き明かさねばならない謎そのものだった。動画の中で、女はいつも同じ表情だ。雑踏の中からいきなり血塗れで現れ、カメラが揺れ、周囲が騒然となって、また隠れる。


 周囲の人々が引くと、人垣から僅かに覗いた仰向けに倒れた男の死体が現れる。映像が血塗れの女にズームされる瞬間、映像は不意に、不自然に途切れる。これがギリギリなのだろう。


 既にサイトパトロールによって動画の閲覧には制限がかけられている。数分前には、この生々しくも残忍な白昼の悪夢は、何の検閲も情報統制もされないまま、同種の内容がいくつも動画サイトに投稿され、リアルタイムで何千人、何万人もの人々に視聴され、多くの人々を戦慄させたであろうことは想像に難くない。


 静止した、切り取られた世界の、緋色というにはあまりにドス黒い血の色を見つめながら、私は思わず呟いていた。


「この瞬間、何が起こったんだ?」


 私は目を細め、画面の一部を拡大する。画面の中の血塗れの女だけが知る、この事件の核というべき謎。その答えがこの動画のどこかに隠されている。再生ボタンを押す私の指は最初は震えていた。この残酷な光景の中で見た違和感が何を意味するのか、解明しなければ。


 時刻は既に夕方の16時を回っていた。電子版の記事をアップロードすると、私は風祭によって拡散された動画を何度も見返していた。


 夕方の地下街は、事件から三時間ほど経った今も人々で賑わっていた。既に制服を着た警官は少なくなっている。ショッピングバッグを手にした家族、急ぎ足で通り過ぎるビジネスマン、笑い声を上げる友人たち。家族連れの外国人旅行客達。そんな日常の一コマの中、あの事件が起こったのだ。


 柱に身体を預け、暫し天井を見上げて目を閉じると、私は大きく息をついた。周囲は照明のせいか殊更に明るく、圧倒的な広さと共に天井は地上階とそう変わらない高さの為、ここが地下街であることをつい忘れてしまいそうになる。気がつかないうちに迷宮に取り残されたような感覚だった。再び動画を再生しようと視線を手元に落とす。


 地下街の喧騒とは対照的に、私の意識は奇妙なほどの静寂に包まれており、血塗れの記憶をリフレインすることに集中させた。


 時間の許す限り。何度でも見るんだ。


 私が見つけた違和感。この突破口が決め手にならないか。私は風祭と口論になった際に自分で言った言葉を思い出していた。


「真相は内側にのみあるわけじゃない。真実を飾る装飾ですら、時に真相になることだってあるからです。装飾ですら価値に置き換え、呪いを祝福に変えられるのも人の言葉だからです」


 瓢箪ひょうたんから駒とは正にこのことで、あの発言が一種の閃きに近い着想をくれた。地下街の人々への取材はたまたま近くにいた後輩の間宮に頼んだ。西園寺達が足で稼いできてくれる捜査の情報を補強する形になればいいのだが、この着想自体に越えなければならないハードルが幾つもある難問にぶち当たった点は否めない。


 まったくもって不可解で不条理な謎である。


 地下街に突如として現れた他殺死体。死体の被害者はスーツを着て、白いワイシャツを着用した、おそらく公安の刑事。死因はこれもおそらく、頸部損傷による失血死。凶器は鋭利なナイフ状のもの。死体の近くには、なぜかトイレにいたはずの美波が車椅子もなく血塗れの状態で茫然自失して座り込んでいた。


 起こったことは本当にこれだけだ。明らかに美波しか犯行を行えなかったという点から、電光石火とも呼ぶような速さで美波は緊急逮捕され、身柄を拘束されて現在に至る。


 何なのだろう。この違和感は。


 謎が謎として成立する間もなく、いきなり強引に幕引きだけされたような妙な感覚なのである。何もかもが欠落した、なんとも不安定でいびつな形の、到底受け入れ難い醜悪にして異形なるモノを目にして胸のうちを掻き乱され、それがいきなり目隠しされたような。なんというべきか、警察の動きだけではなく周囲の状況全てが性急過ぎる気がするのだ。


 凶器は現場のどこにも見当たらなかった。あれだけの出血量だ。桜庭警部補のいう鋭利なナイフとやらはどこにいった?  そして美波はいつ、あの犯行現場に戻ってきたのだ? 私と西園寺が目を離した僅かな間に、あのトイレの周辺で何があってあの犯罪に至ったのだ? 美波が犯人ならば凶器は最初から所持していたのか? 僅かな空白の時間にすべての謎が収斂しゅうれんしている。


 私は俗に不可能犯罪と呼ばれるものに対しては、きわめて懐疑的である。不可能犯罪とは、現実的には当然得られない方法や状況で犯罪が行われたように見せかける物語上の犯罪のことで、そもそもがミステリーの中にしかないものと定義される。


 たとえば犯行現場に立ち入ることが物理的に不可能だった場所に他殺死体があったとか、通常あり得ない場所から不可解な死体が見つかったり、犯罪の手口が理解できないほど複雑であったりと、一見して解決不可能に見えるものが多い。


 逆に可能性犯罪といえば推理小説やミステリー作品でこれまたよく登場し、読者や視聴者が謎を肯定する楽しみを味わうことを前提にして物語が構築されている。


 故に可能性犯罪という言葉を極力使わずに、不可能犯罪という大袈裟な言葉でもって物語の謎解きの演出に使われるのだ。この謎を解くことなど到底不可能だ解けるものなら解いてみろなどと読者なり視聴者なりをいいだけ煽っておきながら、探偵なり刑事なり主役サイドが最後には平気で謎を解き明かして、解決してみせるわけである。


 要するに物語である以上は、謎や疑問に対する、何らかの予定調和的な解答は必ず存在するわけである。現実の事件を扱う記者の私からすれば、それらはことごとくが謎解きを娯楽とする恣意的な見解なり言葉遊びのような言い換えであって、現実の事件の多くには、不可能犯罪と呼べるような事象はそうそう起こらないものだ。


 殺人事件とて金銭目的の強盗殺人や劣情きわまっての強姦殺人や保険金殺人など、多くが短絡的で痙攣的な動機で引き起こされ、被疑者がやむなく人を殺してしまったような事件の方が圧倒的に多いし、ニュース速報の第一報でも多くの人々が殺人事件と聞けば、動機は金銭目的か、はたまた愛憎きわまっての痴情の縺れか対人トラブルかと勘繰って、家人や友人とすぐ話題にしてしまいがちだ。


 それでも敢えて不可能犯罪というものを定義するならば、常識として認識している人体の構造限界、または科学水準とも関連する人体の行動限界から当該事件又はその前後に起こった出来事を、人間には不可能であると判断した場合の犯罪といえるだろう。


 ただし、実際は人間の手によって構築された事件である事がほとんどであるため、ミステリにおいて不可能犯罪という言葉が使われるときには、厳密には偽装不可能犯罪とでも呼ぶほうが正しいのかもしれない。


 偽装されたものである以上、事件に関わる要素別に見ていけば、解決策は類型的に分類が可能なものであり、偽装の手段もまた謎によって実現可能な方法は自ずと限られてくるだろう。


 これを踏まえて、この不可解な謎へアプローチしなければならないとすれば、実際のところ使われたであろう手口を絞り込むことはそれほど難しくはない。使いたくない言葉を敢えて現実で使って論理的に説明するなら、どんなトリックなら実行可能であったかを考えればいい。


 私はスマートフォンを一度懐に仕舞うと代わりに取材用の雑記帳を取り出した。メモ帳にはヒョロヒョロとした筆跡ながらも、時間の許す限りで事件の内容を執拗にびっしりと書き殴ってある。事が現実の殺人事件であり、我ながらかなり異様な内容の文章が目に飛び込んでもきたのだが、私は基本的に集中すると周囲の物音や自分の状態など気にならない。傍らにバーボンの一杯でもあれば最高なのだが、今はそうもいかない。文字の羅列を眺めながら、私は再び沈思黙考に入った。


 休日真っ昼間の混雑する地下街の真っ只中で、多くの一般客の衆人環視の下、突如として出現した他殺死体と被疑者。


 誰が? なぜ? 何のために? どうすれば、この荒唐無稽な謎が実現可能なのか。地下街へ散開する前に刑事達と検討したいくつかの可能性も含め、再びそれらを整理して列記するとすれば、五つほど挙げられそうな気がする。


 中には実現不可能だと嘲笑されそうな説もあることは否めないが、まずはどんな馬鹿げた可能性でも否定せずに、あくまでどんな方法ならば、死体が出現したなどというトリックが実行可能だったのかを論理的に検討してみるのだ。否定や反証は後からでいい。


 まずはトリックの類別と、それらに付随した論理的可能性の数々から考えられる手口でもって事件の謎へとアプローチするという帰納的手法もまた、ミステリならば定番といえば定番なのである。


 一つ目の可能性は死体が事前に現場に隠されていたが、特定の仕掛けやメカニズムによって、ある瞬間に“現れる”ように設定されていた場合だろう。例えば、床下や壁に隠し扉のようなものがあって一時的に開くような仕掛けがあった場合である。これならば、死体がいきなり目の前に現れたようにしか見えない。


 二つ目の可能性は実際には“生きている人物”が死体であるかのように見せかけ、目撃者の注意が他に向けられている短時間に、その場に“現れる”というものだ。これならば死体が現れることは可能だろう。替え玉となる人物が必要だが、予め被害者は死亡しており、これが他殺死体であることが後に明らかになるような場合、死体と替え玉が入れ替わったタイミングが殊更に重要になる。中には替え玉がその場で死体となるケースもあるだろう。


 三つ目は死体を運ぶ場合だ。地下街への非常に迅速な移動手段などを利用して、死体を衆人環視の真っ只中という目的地へ“輸送”する。これならば死体を出現させることは可能だろう。例えば、地下街を移動する配送サービスや、一般には非公開の業務用エレベーターや下水道や天井のダクトや作業用のキャットウォークなどが利用される場合であり、トリックの実行者は目撃者のいない瞬間を見計らって死体を所定の場所へ移動させ、絶妙なタイミングを見計らって配置するという仕掛けがこれにあたる。


 四つ目は光学的錯覚や仕掛けを利用して死体が突如現れたように見せかけるものだ。例えば、ホログラムや特殊な照明効果を使用して、死体が突然“出現”したように感じさせる。実際には、死体は最初からその場にあり、錯覚が解けた瞬間に“発見”される。これならば死体はいきなり出現したようにしか見えない。中には、目撃した人物にしか死体は見えなかったのだという場合も、やや強引だがこの中に当て嵌められるだろう。


 そして、もう一つが。と、そこまで考えた時だった。私の肩がぽんと叩かれた。


「東城、ここにいたか。待たせたな」


 私は思わずニヤリと笑って、自信満々の笑みを浮かべている相棒の帰還を素直に歓迎した。


「待ってたよ西園寺。その様子だと、何か色々と収穫があったようだね」 


 彼は不敵な態度を終始崩さない男だが、こうした余裕と自信に満ちた表情をする時は、部下や己に何かしら満足のいく結果が出た時だということを、私はよく知っていた。


「ご明察だ。イヤホンはあるか?」


 何をするにも共有だ。まずICレコーダーの音声を聞けという意味だろう。私はスマートフォンを再び取り出すとBluetoothに接続した状態にしてワイヤレスイヤホンを耳につけ、ICレコーダーのアプリを起動した。


 予め同じ機器やアプリケーションを登録していると、ペアリングも再生もスムーズだ。警察関係者が捜査上知り得た秘密や捜査情報は安全管理上、外部に漏らしてはならないというのが捜査関係者の決まり事なのだろうが、もう私のようにいいだけ深入りしてタレコミも多い捜査協力者にとっては今さらだろう。


 証言者達の声が生活音の中でもクリアに聞こえてくる。精度の高いノイズキャンセラや最新機種の優れたところは、雑音としか思えない生活音の中でも、拾える音声はきわめてクリアで、声を発した人物のトーンやアクセントやなまりや癖の強さまで分かるということだ。


 この辺りを甘く見てはいけない。予め考え抜かれた台詞というならまだしも、即興で作られたつたない嘘や辻褄の合わない供述や前後に矛盾した言動、言い淀んだり、言葉を詰まらせるといった挙動など、音声だけでも色々と分かってしまう情報は多いものなのだ。


 我々がICレコーダーを使うのもひとえに、証言者が記憶違いや思い違いをしたり、嘘や作為や奸計かんけいを働かせ、時には平気で揚げ足を取ったり、捜査妨害したりすることを熟知しているからなのだ。


 人は往々にして狡猾であり、臆病であり、嘘つきなのだ。言質げんちを取る為にも、証拠とする為にも音声は必要になる。様々なフェアプレーを期さないと心ない石つぶてが飛んでくるのは、今も昔も、現実もミステリもそう変わらない。


 私の予測はあたっていた。そして、私が感じた違和感が、確信に変わりつつあった。


 今さらだが、西園寺班の人材の豊富さと調査能力の高さは折り紙付きである。大越、中本、小宮刑事の三人とは私は初対面だったのだが、三人とも個性豊かなだけでなく、実に有益な情報をもたらしてくれたものである。


 事件現場の状況。美波の緊急逮捕と前後して起こっていた数々の出来事。部下の間宮とはまだ合流できていないが、旅客から集めてきてくれるであろう何かしらの情報も、事件に関係しているものがあるかもしれない。


 どうやら、ここに得体の知れない何者かの描いた絵が浮かび上がってきたようだ。


 改めて思うに、事件というのは顔の見えない何者かが描いた絵のようなものであり、パズルのようなものである。バラバラなうちはピースの形も向きも裏か表かどうかすら判らないし、四隅を揃えようともピースが欠けている場合や見つからない場合だってあるだろう。


 裏側にまったく別の絵が描かれていたり、余ったピースがまったく別の絵のピースだということだってありえる。その場合は二枚の絵がバラバラになって、とっ散らかっていたということになる。


 現実がことごとく論理パズルのように解けるものではないが、おおよその形や、誰がどう関わって、何が行われたのかというのは見えてくるものなのだ。謎の解明に際しては論理を重ねて結論を得るタイプと、心理的な盲点を突くタイプがある。


 この謎も人の構築した謎である以上、同じ人が解けないわけはない。


「解けたな、相棒」


「ああ、解けたね」


 私と西園寺は自信満々に互いに顔を見合わせて頷いた。肉体的にも精神的にも多大なストレスが溜まったであろう、目撃者達の証言をかき集めてくれた全員に、まずは一杯奢って労をねぎらってやりたい心境だったが、既に優秀な刑事達は次の布石へとそれぞれに動き出していることだろう。


「現段階で解ったことが幾つもあるね。もっとも、これほど明確で解りやすい解答もないだろうけどさ……」


「ああ、お前も気づいたか。俺もだ。奴らの証言……お前に聞かせて、頭の中をもう一度整理する気でいたんだがな。改めて、この事件のあからさまに嫌な真相ってやつがチラリとだが見えてきた気がする……」


「ああ、良くないね。この展開は非常に良くない。謎の答えはシンプルで単純なんだ。たった一言で済む。……そうそう、たった一言で真相が解ってしまう、こうした演出をミステリーの世界じゃとどめの一撃とか最後の一投ラストストロークとか言うんだっけね。……西園寺、僕は君も至ったであろう、この真相で間違いないと思う。ズバッと一言で君とハモれる自信だってあるよ」


「そいつはいい! 東城よ、お互いの認識を統一する意味で、一言で済ませようぜ。今回は真相を言う役目の奴が不在だ。たまにはダチの俺らがアイツの美味しいところを代わりに戴くってのもいいだろうぜ」


「せーの、でいいね?」


「ああ、せーの……」





 私達はお互いの顔を見合わせて、互いに互いを指差すと、ニヤリと笑った。我ながら絶妙なタイミングと呼吸だと思う。


「これ以外ねぇんだよなぁ……」


「うん。間違いないと思うよ。アガサ・クリスティーのアレを思い出したよ」


「ああ、アレか! アレは傑作だな。コイツは駄作だがな。まんまと嵌められたな! 下手くそ共が描いた下手くそ共による下手くそ共の犯罪にな。要するに馬鹿馬鹿しい自作自演劇だったんだ! 最高の舞台で最低に演じてくれたもんだぜ、畜生め! あの時の状況。そして、この事件。何から何まで最初から不自然だった。まるで俺達の行動を予め知っていたような手際の良さだった」


「うん、知っていたと思う。知っていたからこそ、彼らはアクシデントの中でも口裏を合わせられたんだ。だけど、それがやはり大きな仇になった。そもそも滅茶苦茶で、こんなアンフェアな話もない。一人一人が同じ事実を言っているだけなのに、辻褄が合わない矛盾が一人一人の証言のあちこちに散見されて実に酷い!  正に悪夢だよ。こんなに簡単に見破れる程度に露呈してしまっているのにだよ? これが舞台なら大袈裟な演出や派手な音楽や効果音やエフェクトでもあれば、それも成り立っただろうけどね! 彼らはこんな馬鹿げたことが成功すると考えている。事実は小説より奇なりってね。けど、こんなことがあっていいのかい! 無理矢理のゴリ押しもいいところだ。僕らを馬鹿にしているよ! 図々しいにも程がある」


「そう怒るなよ。しょせん下手クソ共の付け焼き刃ってことさ。ヘマをした間抜けが揃って間抜け共だったおかげで大いに助かったよな。

 警察を……いや、俺達を舐めてんのか。揃いも揃ってふざけたことしやがって!」


「事件記者だって舐められてるんだよ。君だって怒ってるじゃないか。僕はSNSに投げられて拡散されたことが、実のところかなり頭にきてる。こんな馬鹿げた卑怯な手口はないからね」


「いつから気づいてた?」


「そりゃもう最初からだね! SNSや報道機関への噂の広がり方で確信した。君だって警察の介入のタイミングを疑ってたよね。当然だ。キャスティングの段階から疑うべきなんだよ。こんな偶然は、あり得ないからね!」


「ああ、第一発見者やその身内を疑えってのは、昔からミステリの犯人当てじゃ常套手段だが、今回の事件は衆人環視の真っ只中での犯行。第一発見者が複数人いるというところが、状況をただ、ややこしくしていただけなんだ」


「そうだね。今回の場合、厳密な意味では、第一発見者というものが特定できない状況下で行われた犯罪というのが最大のキーポイントだ。犯行を複数人が見ていて、その結果に犯人は一人しかいないなどというシチュエーションの場合、犯行そのものを見た人間達の証言というのは相当に重要になる。いくら人数が多くても、犯行をはっきり目撃した人間が複数人いるのなら証言は同じ状況、同じ凶器、同じ格好の同じ人物でならなければならないのに、それがどこかチグハグだった。しかも証言者達は奇妙なことに口を揃えてこう言っている」


「人だらけで何も見えなかった……ってな!」


 西園寺は思いきり舌打ちをした。私も頷いた。この何気ない一言に、どれほどの卑劣な作為や嘘が込められ、隠れた悪意が紛れているものか。ミステリーでも、こんなアンフェアな事件はそうそうない。無関係な人間を装いながら、無関係な人間に紛れ込み、無関係な人々も利用するわけである。


「つまりここに証言者達が決定的に隠したい嘘や作為があり、僕達が付け入るべき穴だってあることになる」


「目撃者の中に、死刑囚を擁護してSNSで盛大に炎上した弁護士がいたな?」


「いたね。杉山完二だ。テレビ局に知り合いの多そうな芸能人モデルに、そのマネージャーまで最初からいたことになるね。ご丁寧に徒党を組んだ暴力団の二次団体の構成員達と、おまけに外科医の先生まで弁護士のそばにいた。確か龍堂明といえば、東都大学病院で心臓バイパス手術に関する医療ミスの疑いがあって、三ヶ月ほど前にこれまた世間で炎上した経緯のある有名な外科医だ」


 後輩の間宮が追っていた医師なので私はよく知っている。心臓バイパス手術の患者を、故意に死なせた外科医という話題が写真週刊誌ですっぱ抜かれ、東都大学病院側が過失を認めなかった為、大いに炎上した案件だった。私の所属する写真週刊誌も扱い、担当は間宮だった。


 間宮夏希は去年、大学を出たばかりの後輩で私が世話役になっているのだが、小柄な割にエネルギッシュでアグレッシヴな女性で、もう単独で取材に出ている。間宮が近くにいたのはたまたまではなく、その龍堂明を取材していたからなのだ。偶然とは思えない。


 ふん、と西園寺は盛大に鼻息を吹くと盛大に顔をしかめ、頭をかいた。


「銀政会といや、表向きは産業廃棄物処理と環境保護を謳うNPO団体って肩書きだが、構成員達の実態は、山城組系の直系蜷川にながわ会の二次団体で元ヤクザだって話だ。ほれ、直参の加藤組ってのは、例の殺された宗教団体の幹部と繋がってた実行部隊の組さ。組長の山本銀次ってのは結構な年寄りだが広島出身の昔気質むかしかたぎのイケイケで、若頭の鏑木正勝かぶらぎまさかつって奴は相当キレるインテリらしい。銀政会は福岡きっての武闘派ヤクザの六道会の組員達と最近、地元の飲食店で抗争寸前までバチバチにやり合ったって噂もある。メンツからして臭すぎるぜ」


「だいぶヤバい連中が揃っているね」


「ふん、そして警察キャリアの桜庭大介警部補様に事件記者の風祭純也だ。コイツは一体、何の冗談だ? そいつらが一斉に組んだら、何が出来るのか? ガキでも解る展開だったぜ」


「ああ、証言するべき人間が全員嘘をついているんだから、もう疑いようがない。医者と弁護士とマフィアと警察とマスコミと芸能人がグルになればできること。僕らは完全犯罪を仕組まれている側だ。美波さんは嵌められたんだ!」


「それだ。これが予め綿密に練られた上での計画だったとは思えねぇな。恐らく大まかな役割だけが決まっていて、周囲の何の関係もない人達の動きに合わせて対応すれば、それでよかっただけの事件のはずだ。奴らの予定が大幅に狂ったんだ。でなければ、ここまで辻褄の合わない矛盾は次々に起こらねぇ」


 そう。先ほど私が検討した可能性の最後の一つがこれなのである。


 その五つ目の可能性とは、多重のアリバイによって偽装する工作であり、犯人が複数の人物と共謀して死体の“突然の出現”を偽装するというものだ。


 例えば、一連のアクションや何らかのイベントが予め計画されており、それによって観察者の注意が逸らされている間に、死体がいつの間にか配置されているというものだ。あらゆる証言の矛盾や胡散臭い人物達の登場が、図らずもこの悪質な事件の可能性を示唆していた。


「ランバージャックデスマッチってルールがプロレスにあるよね。事件が起こった時、僕はまるでアレみたいだなと思ったんだ」


「ああ、ロープの代わりに人が囲んでるやつだろ? 中で戦ってる奴らの決着がつくまでは、出られねぇって元々のストリーファイトのルールだわな。確かに中の様子が外側から見えないのじゃ、人で作られた密室そのものだ」


 西園寺はそこでタバコの箱を取り出し、思わず咥えようとしたが、喫煙所でもない上に中身の様子にも気づいて、空かよとボヤくと、赤いラークの箱をそのまま握り潰した。苛立ちを隠せない様子で西園寺は続けた。


「試合結果を壁役全員がねじ曲げることができるなら勝敗だって捏造できる。八百長も偽装もやりたい放題だ。外側の人間には、中は見えないってのが悪質過ぎるぜ。証明しようにも、アンフェアな人選で選ばれた、信用の置けない第一発見者達の証言の前では、極端な話、どんなに冤罪を叫んだところでくつがえすことは不可能だ」


 西園寺の述懐に私は深く頷いた。そうなのだ。この事件を不可能犯罪たらしめているのは、複数の悪質な証言を突き崩すことが論理的に不可能だという点なのだ。シンプルにして凶悪なこの犯罪だが、そこで出てくるのが私の見つけた突破口だ。


 聡明な友人の言葉を借りるならば、永久氷壁やダイヤモンドのような一見砕けないようにみえる謎でさえ、必ず亀裂クラックや脆い一点があり、それを突き崩せば人の手でどんな謎でも瓦解がかいさせることは可能なのだ。この隙間を縫うような論理が、雷神トールのハンマーになればよいのだが――。


「それなんだけどね西園寺、これを見てくれないか?」


「ん? コイツは……あの時の動画だな」


「見づらいんだけど、ここに映っている彼女の耳に注目してくれないか?」


 私は女が血塗れで鳶座りしている動画をストップして、大きな丸いリング状のイヤリングを示した。


「あぁっ! イヤリングが……違うッ! 美波がしていたのは涙みたいな形の、確かティアドロップとかいう……」


「その通り。これが恐らく凶器だ」


 驚きと冷静さと尊敬の入り混じったような、相棒のその表情に私は確かな手応えを感じた。


「根拠はあるんだろうな?」


 私は頷いた。先ほどまではただの違和感でしかなかったが、得体の知れない絵のような形で見えているパズル。その、いくつかのピースと断片で見えているおぼろげな絵柄が、私にこの謎を解けと要求している。その謎の先に訪れるべき真相、その先に希望の灯火があると私は半ば確信していた。


 端的に言えば勘である。これは彼女が着けるような趣味の物ではない。派手すぎる上に服装のバランスと合わない。私の知っている彼女ならこんなコーディネートはしない。私は直感を信じるタイプではないが、そこは何故か素直にそう思えた。ここから先は文字どおり、隙間を縫うような緻密な論理が必要になってくる。


「映像が粗くて判別は難しかったんだけど、この映像を見た時から妙な違和感を感じてはいたんだ。どの動画も悲鳴が起こってから被写体を追っているんだけど、いずれの動画も人垣の中から血塗れの女が出てきたって衝撃映像を映しているだけ。いわば犯行の瞬間を捉えているものは皆無なんだよ。そりゃ騒ぎになってからカメラを構えて映すって手順を考えれば当然だけど、その動画が夥しい数で複数人によって短時間で同時にアップロードされているのは、いくらなんでもタイミングが不自然だよ」


 畳みかけるようにして私は続けた。


「決定的だったのは桜庭警部補だ。彼は事件直後に、なぜ凶器を鋭利なナイフだと断定したんだろう? おかしくないかい? 現場からは、今もそうだけど凶器は未だに発見されていない状態なんだ」


「あの鉄面皮がなぜ、そんな嘘をついたのかってことだよな。同じく凶器をちゃんと見たような証言をした女がいたが、自信がなかったのか、曖昧なうちにすぐにそれを否定した」


「そう。二人の人間がナイフと言いながらも現場にはないことで、その事実は否定されている。この妙な矛盾はなぜか? これに付随して、刺突か切り裂いたかで、同じものを見ているはずなのに、明らかに殺害の仕方に矛盾がある証言者達もいたね。ちなみに、この二人は物流関係の仕事についている人物達だった」


「怪しい証言と矛盾する証言が出てきたな」


「では、複数人に同時に目撃されているにも関わらず、矛盾した嘘をつかせなければならない謎の凶器と中の状況とは、一体何だったのか?  証言者達が仮にグルで、何らかの真実を隠蔽しているのだとすれば、その証言はまったくアテにならない。記憶違いだと否定されればそれでおしまいだ。誰が、どこで、どう関わっているかがまったくわからない。これでは謎の凶器は謎のままだ。そこで考えたんだ。現場に残された状況から証拠を辿ることができないのなら、発想を逆転させて素直に考えればいいってね」


「逆転させてだと? 」


「うん。つまり複数人が壁役になれば、中でどんな状況が起こったところで結果は変わらないというふうにまずは仮定してみるんだ。彼らの目的がなんであれ、結果はただ一つであり、それは被害者の殺害と片桐美波の確保。そしてマスメディアやSNSまで使って、彼女を社会的に追い詰める為だったのではないのか」


「わざわざランバージャックデスマッチにしたその中身……目的は何なのかってわけだな」


「そのとおり。人の囲みで無理矢理に作られた密室の中で、何が起こったのか。何をどうすれば、今の状況になるのかを、全員がグルだったという状況のもとで推理してみよう」


 私はそこで一息ついた。


 彼女のこの血塗れの映像を見る限りでは、人だらけの中で躊躇なく鋭利な刃物は使用されたことになる。出血の程度その他の状況から、死因は頸部損傷による失血死。人の囲みの中でも扱うことができて、尚且つ仲間を巻き添えにしてはいけない上に、一撃で被害者に致命傷を与えねばならないとする。


 謎の凶器そのものを隠さなければならない理由はひとまず置いておくとして、壁役の共謀者達は凶器と犯人をはっきりと見ているはずなのに、その犯行そのものを見て見ぬ振りしていることになる。


……では、なぜ凶器の存在を隠さなければならないのか? それは凶器そのものが通常の刃物とは違う、もっといえば、それを扱える者が限られてくるほど特殊な形状であり、それがバレてしまうと計画そのものが破綻してしまいかねないからではないのか。殺害の前後で、隠さなければならない、が生じたからではないのか。


 しかし、計画のチャンスはこの一点にしかない。被害者を閉じ込めて抹殺する機会は、この時しかなかった。ならば、凶器の存在は隠して、まずは殺害の事実をもって動きを封じるのだ。


「以上のことから、信じられないことだけど、この凶器は一見アクセサリーにしか見えないほどの小型。しかし、きわめて殺傷能力の高い武器で、元国体選手の柔道の達人に致命傷を与えられることさえ可能な武器だと考えられる。このイヤリング……僕はチャクラムだと思う」


「チャクラム?」


「うん。実際はもっと大きい。日本では戦輪や飛輪、円月輪と呼ばれる武器だよ。かつて忍者が投擲とうてき武器として使用していたものさ」


 私は素早くチャクラムと入力して画像検索にかけて西園寺に示してみせた。こういう事件の時でも、あらゆる情報の共有に使える、このスマートフォンというものはすこぶる万能過ぎると思う。私が事件の犯人やミステリ作家なら、まずこの万能ツールを封じることを考えると思う。西園寺は鋭利な刃が円環となっている武器の画像をじっくりと見ながら私の方へと再び視軸を向けた。


「投擲? このデカい輪っかを投げるのか?」


「そう、充分に回転させた上で投げるんだ。投げて使う投擲武器としては珍しく、これは斬ることを目的にしているんだよ。元々は古代インド由来のものでね。携帯する際はケースなどに入れず、腕や首にアクセサリーのように通したり腰から下げたり、円錐形の帽子に差し込んだりしていたらしい。エチオピアのショーテル、インドや中近東のタルワールやシャムシールにシミターといった刀剣は、湾刀や曲刀というカテゴリーに代表されるんだけど、丸い湾曲した刃というのは凄く切れ味が鋭くて、その形状から人の身体の露出した部分を易々と斬りやすくしているものなんだ」


「ああ、切りやすく薄く研いだ日本刀なんかはその代表格だろうな。急所をピンポイントに狙って殺そうってのなら、刺し殺すより斬り殺す方法だってあるわな。海賊映画なんかでも見たことあるぜ」


「カットラスだね。そのとおり。海賊とは目のつけどころがいいね。海賊が洋上の密室であるところの船上で襲撃して荷物を略奪するような場合、揺れる船や狭い場所での戦いでは、相手に致命傷を与える凶器の方が向いているからね。湾曲した刃は正にもってこいというわけさ。今回の事件のようにね……」


「なるほど。証言をした人間達が壁役となれば、実行犯は難なく首をピンポイントで切り裂くことが可能だったというわけか。……でもよ東城、俺には今一つピンとこないぜ。忍者の投擲武器ってのは手裏剣だろうがよ。ほれ、あのクナイとかいう投げ物とか。十字型のギザギザしたヤツとかよ」


「そっちの方が有名だね。要は用途だよ。暗殺という手口をあからさまに示して確実にターゲットを仕留めたいなら、刺殺より失血死の方が成功率が高いと考える人間だっている。少なくともインパクトは抜群だよ。頸動脈を一瞬で切り裂くわけだから血飛沫ちしぶきだって派手に飛ぶ。むしろ、その特殊効果こそが必要な要素だった」


「なるほど。残虐極まりねぇ話だが、視覚的なインパクトを狙ったわけか。地下街に死体と血塗れの女ってのはインパクト抜群だもんな。その後の展開を見越した上で選んだ殺し方だったわけだな」


 敢えて結論を知りながらも、核心に触れないところに西園寺なりの慎重さが窺えた。もちろん私とて、結論は既に出ているのだが、未知の凶器によって齎されたこのが何を意味しているのか、おぼろげながら見えてきている、この殺人者の存在が未知数であるが故に、我々も困惑しているというのが大きい。


「どうやって投げるんだ?」


「投げ方は二通りあってね、円盤の中央に指を入れて回しながら投擲する方法と、円盤を指で挟み投擲する方法があるらしい。でも、見た感じ、この得物はもっと使いやすくしているはずだよ。たとえば、一瞬で刃を高速で回転させる仕掛けが仕込んであるとかね。少なくともターゲット以外を巻き込むような使い方はしていなかったはずだ。敢えてこの画像を見せて長々と説明してきたのは、これらは暗器と呼ばれる武器に非常に近いと考えたからなんだ」


「あの中国人の暗殺者が、ヒラヒラした服装の中に、爪だの毒だの飛び道具だの、色々と仕込んでるようなヤツか」


「まさにそう。非常に計算高くて残虐で巧緻な方法で殺害した。そして、ここが肝心なんだけど、殺害の凶器がバレてはいけなかった。もっと言えば、殺した人物が玄人そのものだとバレたら、計画が破綻するかもしれないから即興で何か別の計画に切り替えた」


「なるほどな。正にランバージャックデスマッチと同じ構造だったわけか。上手いこと言うな」


「そう。実際に観戦したことあるんだけど、アレはリングの中で戦っているレスラーが、客席からは凄く見づらくて、現地に行くプロレスファンからは割と不評なんだよね。テレビ中継のような引きの映像にすることを前提にしているエキシビジョンマッチなんだろうね。それに近いことが、あの現場で起こった。囲みを作っていたのは共犯関係にある者達であり、公安刑事の津田洋介を予め計画的に殺害し、美波さんにその罪を被せる為の犯行だったと考えられる。しかし、どこかまだチグハグなんだ。彼らの証言には何か、僕達の知らない隠したい事実がまだ眠っている。それが解れば……」


「そこなんだよな。奴らのアクシデントの中身が何だったのかが。連中全員がグルだとして、それで次に何が見えてくる?」


「まぁ、今さらなんだけど、犯人は美波さんじゃない。物流の仕事をしていた二人の身柄を、まずは押さえるべきだと思うね。彼らの足取りでもいい。彼らが一番矛盾した、辻褄の合わない証言をしている」


「車椅子に座ったまま殺しなんか出来やしないからな。車椅子はトイレにあった。おまけに奴らは被害者や加害者の見た目を聞かれ、妙に詳しすぎた。しかも片側しか見えていなかったような証言をしている。奴らはなぜ、そんな辻褄の合わない矛盾した証言をしたのかってことになるんだが、奴らのいたであろう位置関係から、ある疑惑が生じてくる」


「その分だと、もう気づいてるよね? 都丸光一と金成陽一。彼らが事件現場において、どんな役割を果たしていたか?」


「当然だろ。物流関係って時点で疑わない方がおかしい。被害者と加害者がよく見える位置にいながら、両方同時に見ることができなかったという矛盾は、そのまま奴らが加害者と被害者を運んできた可能性を示唆していることになる。お前が桜庭に突き飛ばされた時にぶつかりそうになった、駅で使う大型のカート……アレで加害者と被害者を同時に運んできたんだろう。奴ら共犯者達がそれを取り囲むことで出来あがった即興の密室トリック。すっかり騙されたが、奴らの正体は運び屋だ」


 さすが相棒。私は大きく頷いた。


「実際はトイレで何かが起こったと考えた方が自然だね。その間に殺人事件が起こった」


「そういうことだわな。つまり、ことになる」


「そう、本物の美波さんの行方が心配だ」


「本人がいない中で本人を追い詰めるのが目的なら、本人は一体、どこに行ったってんだ? そして、美波じゃない人物が警察に……いや、本物の暗殺者ヒットマンが桜庭に押さえられている今の状況がマズい」


「ああ、非常にマズいね。美波さんの行方がわからない今、人質に取られている可能性が非常に高い。最悪の事態を想定して、僕らも行動するべきだ。血塗れの人物の正体こそが僕達が追わなきゃいけない本当の殺人者であり、あの女の犯行であることを証明しなきゃ美波さんの冤罪を立証できない。ねぇ、西園寺。美波さんにかけられている容疑は殺人罪だ。美波さんが嵌められなければならない理由、つまり彼らの動機に、何か心当たりがないかい?」


「美波が社会的に失脚することで奴らに何の得があるかって意味だよな。動機なんざ考えるだけ無駄に思えるが、そりゃ第一に財産の搾取じゃねぇのか? 無限大とはいかねぇが、打ち出の小槌のような世界最高峰の金持ちが使うようなブラックカードで、おまけに丸の内価格でホイホイ爆買いできるような奴は、まずいない」


「そうだね。美波さんが財閥令嬢で元モデルで芸能界にいたって情報もかなり信憑性が高い。あとは彼女が誘拐されたとして、身柄自体が身代金を要求する方としては莫大だ。僕達はこの間から、それなりにいろんな事件を解決してきた。前回の事件もそうだけど、狙われる理由には事欠かないしね」


 日曜日の夕暮れ時、地下街はいつものような喧騒で賑わっていた。家族連れやカップル、ショッピングバッグを手にした若者たちでごった返し、レストランの匂いが空気を満たしている。どこからか子供達の笑い声が聞こえ、店頭では土産物の新商品の宣伝が繰り返されていた。


「つまり、真相はまだ闇の中ってわけか……」


 西園寺が重い口を開くと、私もうなずいた。ようやく事件の全貌が一部でも見えかけてきたその時、けたたましい音で私の携帯電話が突然、鳴り始めた。


 私は思わず目を見開いた。画面には“片桐美波”と表示されており、そのタイミングの良さに、私は思わず上ずった声で息を呑みながら電話に出た。


「美波さん? 美波さんかい? 今どこ…」


「東城達也だな」


 見知らぬ男の声に、私は思わず心臓を鷲掴みにされたかのようにハッとした。


 ドスの利いた。怒りを押し殺したような。不気味なトーンの。静かな声。 

 

 目を見開き、一瞬で緊張の走った私のただならぬ様子を察したのか、電話を代わろうとした西園寺を私は片手で制した。


「君はまず誰だ? 何の話だ? そのスマホは美波さんのものだろう」


 私が立て続けに問い詰めると、電話の向こうから男はあからさまに舌打ちをした。


「いいか。これが最初で最後の警告だ。女を追うな。お前達は何もするな。余計なことはせず、黙って手を引け」


 私は反射的に地下街の周囲を見渡していた。そこには、私たちが見慣れているヤエチカのカフェや飲食店街が立ち並ぶだけだった。周辺の人々を見ても、今まさに通話している様子の人物は視界には入らない。


 下手な間は命取りだ。何とかして、この男から情報を引き出さなければ。


「おい、美波さんはどこだ? 君が誰なのかはどうでもいい。彼女は無事なのか? それだけでも答えてくれ」


「警告はした。死にたくなければ手を引け。わかったな」


 電話は一方的にそのまま切られ、私の中に得体の知れない緊張感が走っていた。今の声は。確か、どこかで。


「東城、今の電話は? 美波からか?」


「違うよ。美波さんの携帯からだけど若い男の声だった。最初で最後の警告だ。お前達は余計なことをせず手を引け。死にたくなかったら女を追うなと……」


「なんだと? 脅迫か? 美波はじゃあ……」


 その時だった。


 突然、何か硬いものが倒れ、何かが割れるような耳障りな大音響が響き渡り、一瞬の沈黙の直後にあちこちから悲鳴が一斉に上がった。


「クソがッ! 今度は何だ!」


 西園寺が私の袖を引く。彼の表情が一気に真剣なものに変わった。


 何が起こったのかを確認しようと慌てて私が顔を上げると群衆が一瞬で静まり返り、次の瞬間、パニックが一気にさざ波のように広がるのがわかった。


――なんてことだろう!


 視線の先では、一人の女が脱兎の勢いで走り出していた。その女の服は血で濡れており、その手に何かを握りしめているようだった。私はそれを見て、一瞬で青褪めた。 


「西園寺! あの女だっ! クソッ! アレを人混みの中で振り回されるのはマズいっ!」


「分かってる! 振り回す隙なんか与えねぇ! 追うぞ、東城!」


 私たちは顔を見合わせると女の後を追い始めた。その途中、倒れたディスプレイの残骸や、散乱した商品が足元に転がっていた。全ては一瞬のうちに起こった。


 女は、恐怖に駆られた目で凍りついている人々の間を縫うようにして、逃走を始めた。気付かない者の横をすり抜け、他人とぶつかることなど最初から気にしていない様子に、私は心底恐怖した。


 地下街は一瞬でパニックに包まれた。乱雑な足音と怒声、叫び声が交錯する大混乱に変わった。やまない赤ん坊の鳴き声や悲鳴が後方からも聞こえる。


 人々は恐怖と混乱に顔を歪めながら、どの方向へ逃げるべきか分からず右往左往していた。離れろだの避けろだの待てだのと喚く警察官や、男の怒声や罵声や女の悲鳴があちこちで鳴り響く阿鼻叫喚の中、何かが砕ける音や落ちて割れたような音や乱暴な音が響き渡った。


 警察が脱走させたなど、誰も信じてくれないだろう。事態はもう最悪だ。美波に脱走の罪まで加わることになる。


 警察の包囲網は既に敷かれ始めているようだが、女は巧妙にその隙間を縫って逃げている。見るとカフェの椅子が倒れ、ドラッグストアの商品やガラスの破片が地面に散乱し、店員や客も避難する姿が見える中、私は血染めの白いブラウスを着て走っている女を見つけた。


「西園寺、あれだ!」


 私が叫ぶと、私たちは迷うことなくその方向へと走り出していく。


――くそっ! とにかく走りにくい。


 地下街は入り組んでおり、通路に滞留している旅客もかなり多くいる。大型のスーツケースを持っている旅客は機敏には動けない上に、通路も枝分かれしている。飲食店や雑貨店や洋品店などの店舗が互いに連なり、旅客はそれぞれに密集してもいたからだ。見失ったら一巻の終わりだ。


 しかし、地の利はこちらにある。執念と地下街の地理に対する理解が、徐々に女へと迫っていく。


 後ろを振り返ることなく脱兎の勢いで駆け抜ける女が通ろうとすると悲鳴が聞こえ、まるでモーセの海渡りのように人垣が割れた。誰一人として血塗れの犯罪者を止めようとする勇気のある者などいなかった。無論のこと、血塗れで凶器まで手にした犯罪者を避ける彼らを責められるわけもない。


 彼女が逃げ込んでいるのは、地上へと続く階段の方向だった。これ以上、混乱させるわけにはいかない。


――しめた!


 私は素早く西園寺に向けて、人差し指を上に向け、次いで自分を指差し、ターンをするような弧を描くサインを送った。すぐそばにあったエスカレーターを指差して、そちらへと駆けた。相棒は無言で頷くと、さらに追走した。


 このまま西園寺に追ってもらい、二手に分かれた私が地上から挟み撃ちにすれば、二人がかりで取り押さえられるはずだ。


 暗がりを利用して、女の姿が一時的に姿を消したが、私は諦めなかった。息を切らしながら、エスカレーターを駆ける。それなりに事情を察してくれたらしい旅客が数人、右側を開けてくれた。ローカルルールと親切な人々に感謝しながら私は息せき切って地上階に出ると、そのまま外の道路を挟んで反対側へと駆け抜けた。


 外堀通りの片側は4車線。横断すれば8車線で距離にして約20メートル。横断歩道もなく、完全に危険きわまりない歩行者の飛び出し行為なのだが、ここは賭けだ。幸いにも地上の鍛冶橋通りは、信号待ちの状態だったのか車通りはなかった。


 パトカーのすぐ横を駆け抜ける。狭い階段。地上から私はついに彼女を追い詰めた。


「待ちやがれッ!」


 遠くから西園寺が声を荒げる。彼女は一瞬立ち止まり、私と目と目が合った。血塗れのワンピースとその顔を見たその瞬間、私は凍りついた。私は自分たちがこの一連の事件にどれほど深く関わってしまったのかを一瞬で理解した。


「お、お前は……」


 その時だった。


 何かが爆ぜるような音と共に瞬きする間もなく、世界が白く閃いた。全身に鋭い痛みが走り抜け、私は打ち震えた、筋肉がおこりがついたように自分の意志に反し、心は未知なる恐怖に震え上がった。それは私の左のわき腹の辺りから、まるで無害な玩具のように黒い筒から押し当てられ、繰り出された一閃の青い光の暴力であり、私の体は全く抵抗の余地なく凍りつかせられた。


 スタンガン! しまった!


 気がついた時には、もう手遅れだった。


 焼けるような電流が私の体を走り抜け、一瞬で全てが何者かに支配される恐怖に私はおののいた。私は思わず叫んでいた。その刺すような痛みは無情にも私の意志を奪い、思考を狂わせ、身体を制御不能にする。


 刹那の中で時間がゆっくりと流れる錯覚の中、西園寺の驚いた表情が見えた。彼もまた背後から現れた人影から発せられた暴力で苦悶の表情を浮かべていた。


 そのスローモーションのような光景が、私をさらなる絶望と苦痛へと誘った。


 したたかに胸と顎を打って私は硬い地面に前のめりに倒れた。突然の痛みが心臓を跳ねさせ、私の心と魂は一瞬で静かな絶望に包まれた。意識の片隅で、私はひたすらにビクビクと生まれたての子馬か何かのように四肢を痙攣させている己の手脚の震えを感じた。


 思考が繋がらない。


 理解が追いつかない。


 恐怖感の中で、ただただ生身の痛みを訴えているだけだった。


 焼けるような電流が私の体を走り抜け、一瞬で全てを支配していた。それは無情にも私の意志を奪い、思考を狂わせ、身体を制御不能にした。時間がゆっくりと流れる中で、私はただ苦痛と戦うことができるだけだった。


 その後の平穏は、突然の静けさにも似ていた。何も聞こえない。


 電流の奔流が終わり、痛みがぼんやりとした無感覚に置き換わっていく。意識はまだボヤけていて、私は弱々しい思考をつかみながら立ち上がろうとした。しかし、四肢はまだ頑なに地面にくっついていて、全身はまるで水中にいるかのように重い。


――ああ、こりゃ駄目だ。


 瞼が重くなっていく。立ち上がるのに全力を尽くしても、世界はぐらつき、頭は鉛のように重い。もう指一本動かせそうにない。


 それは時間にして実際には数秒間のうちの出来事であっただろう。だが、始めて体験するそれはまるで一瞬の絶望と共に訪れる永遠の責め苦のように感じた。電流の奔流が終わり、痛みがぼんやりとして無の感覚が徐々に暗闇に置き換わっていく。


 無限に広がる暗闇の中、霞んでいく意識の中、私は必死で彼女の名前を呼んでいた。


――パズルを集めて、解く時間さえ与えちゃくれないのか。


――こんなアンフェアな事件に当たるなんて。


――まったく! 現実はなんて残酷なんだ。


――こんなところで。死にたくないよ。


――僕はまだ君に。何も。何一つ。


 そんなことを思いながら。


 私は意識を失った。



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