大好きな私のサっちゃん

まさつき

大好きな私のサっちゃん

 築二十年くらいのくたびれたアパートの206号室で、私は大好きなサっちゃんとふたりで暮らしている。


 築二十年というけれど、大家さんはとても熱心な人らしく、若い人のウケも良いようにしっかりリフォームもされている。立地良しで交通の便も良し、最寄りの駅には急行も止まるから、郊外なのに都心にも出やすい。おまけに、お家賃も相場よりだいぶお安いから、ちょっと空いてもすぐに次の人が埋まってしまう。


 だから、サっちゃんとここで一緒に暮らせるのは、とっても運が良かったなと思うし、なにより私はサっちゃんが大好きなので、この上なく幸せなのだ。


 サっちゃんの歳は今年で26歳ということだから、このアパートよりもちょっと年上だ。私の歳もそんなに変わらないので、それもあってふたりはとってもお似合いだよね、素敵なことだよねと、私はいつもいつもサっちゃんに語りかけていた。


 私と同じくらいの歳なのに、私と違ってサっちゃんはとびきりの美人さんだ。はつらつとして健康そうで、スタイルもメリハリがあってお胸も大きいし、髪もサラサラで、着ているお洋服も持ってるお洋服も素敵なものばかりで、キラキラしたアクセサリーだって愛らしくて、ぼさぼさ頭でちょっと陰気な顔をして痩せギスで、くびれはあっても胸もお尻も小さくて貧相で、服のセンスも絶望的な私なんかと正反対の女性で、男の人だって女の人だってきっと放っておかない魅惑的な人のはずなのに、どうしてこんな私と一緒にいてくれるのか、ときどきとても不思議に思うのだけど、きっとあべこべな形の積み木が合わせ目でぴったり嵌り合うみたいな、そんな相性の良さがあるのじゃないかなと私は想像して、そうしているだけでいつも幸せな気持ちでいっぱいになってくる。


 見ているだけでも素敵なサっちゃんは、医療事務という仕事をしているらしい。いつも忙しそうなんだけど、最近、日ごとに帰りが遅くなっている。午前様になることも多くなり、お酒を飲んで帰ることも増えていて、私はそのこと自体は気にしないのだけど、朝起きても鼻をつく饐えた匂いが酷いこともあったり、サっちゃん綺麗な人なのにもったいないな可愛そうだなって、いつも心配してしまい、不安な気持ちが膨れあがって、私の細い体をいっぱいにしてしまう。


 今夜もだ。時計を見ればもうてっぺんを過ぎようとしているのに、私はひとりきりで何をするでもなく、ベッドの片隅に腰かけながら大好きなサっちゃんの帰りをひたすらに待っていた。


 また午前様なのかな? そろそろ私の瞼も重たく微睡みかけて、「おかえりなさい」と一言声をかけたいだけなのに、どうしようもなく眠たくなって、いつもふたりで寝ているベッドに横たわっていたところに、アパートの鍵を開ける音がガチャガチャと鳴るのが聞こえてきて、私はパッチリ目を醒ました。


「ただいまぁ……」

 サっちゃんだ! ひどく疲れた様子で、赤いヒールを無造作に脱ぎ散らかして、肩から掛けた小さなかばんを何キロもある重たい荷物みたいにして、すらっとして綺麗な脚に鉛をぶら下げたみたいな鈍い足取りでリビングに入ってきた。


「サっちゃん、おかえり」と私は声をかけたけど、サっちゃんは本当にくたびれているらしく、ろくに返事もしてくれない。一緒に暮らし始めた頃のぷっくりとしたほっぺは痩せて萎んでしまい、私はとてもとっても心配している。


 あんまり疲れているからなのか、シャワーも浴びずお化粧も落とさないまま、サっちゃんはベッドにばったり倒れ込んで、「うぅん」とちょっと唸ってからすうすう寝息を立てはじめた。


 生ぬるいサっちゃんの寝息の匂いがして、私は匂いを嗅ぎたくなって、疲れきったサっちゃんには悪いけど、どうしようもなく我慢ができなくて、サっちゃんのぷっくりとした可愛らしい唇に鼻を寄せて、すーすーと息を吸い込んだ。


 今夜もお酒を飲んでいるらしく、酒精の香りが漂って、サっちゃんはお酒を飲んでもタバコは呑まない人なのに、素敵なお洋服からはヤニの臭いが漂って、タバコ呑みなんかと一緒にいないでと残念な気持ちになるのだけど、サっちゃんの大切なお友達にそんなことを思ってしまう自分があさましく思えて反省し、それでも誘惑には勝てず、寝息の香りもヤニの渋味も全部綺麗に吸い続けた。


 身づくろいもしないまま眠ってしまったサっちゃんを、仕方のない人ねと愛おしく想って、私は汗の浮いた額にべったりと張りついた前髪をそっと払ってあげたのだけど、仕事でよっぽど辛いのか、やつれて青白くなったお顔に私が触れると、サっちゃんは目をつむったまま眉根を寄せて、息苦しそうな表情を浮かべた。


 だから私は、サっちゃんは眠ってしまってひとつも返事をしてくれないと分かっていたけれど「ごめんね、サっちゃん、私なにもしてあげられなくて……沢山寝て元気になってね、疲れが取れて元気な美人さんに戻ってね、また明日ね」と、やさしく耳元に囁きかけてから、やわらかくふんわりと気づかれないようにサっちゃんの体を包みこんで抱きしめて、ふたり一緒に溶け合うようにしながら、深くて昏い、真っ黒な眠りの底に沈んでいった――。


   §


「だから、そんなんじゃないって、さっきから!」

 私は荒らげたサっちゃんの声で目を醒ました。

 私たちのお部屋は強い日差しに照らされて、じっとり蒸し暑くなっていて、時計を見ればお昼もとうに過ぎていた。


 せっかく目が醒めたのだから、ゆうべサっちゃんが取り寄せてくれた食べそこないの宅配ピザをふかふかに温め直し、一緒に食べて楽しみたかったのに、サっちゃんの雰囲気はそれどころじゃなくって、私は困り果ててしまった。


 そんなに大きな声を出して、いったい何がどうしたの?

 サっちゃんの様子を伺うと、スマホを片手に誰かとお話ししているようだった。

 あんなに激しい声をあげるサっちゃんを私は初めて見たものだから、びっくりしたけど電話の相手にも興味が湧いて、黙って見つめて話の中身を聞きはじめた。


「だって……そんなの、仕方ないじゃない――」

 涙声に、鼻をすする音が混じっていた。

「人手が足りなくて、患者さんは多くて――」

 お仕事の話を、しているのかな?

「大事じゃないだなんて、そんなことあるわけない……」


 サっちゃんの言葉しか聴こえないからよく分からないけど……なんだろう? まるで、誰かと喧嘩しているみたいに聞こえる。


「私だって、逢いたいんだよ……」

 え? ……逢いたいって、どういうこと? 嗚咽混じりで話すサっちゃんの言葉を聞いて、私はいきなりどきどきとした緊張を覚えた。


 私というものがありながら、サっちゃんはお外に私以外に誰か好きな人や、付き合っている人がいるってことなの? まさか浮気だなんて――と思いかけて、でもサっちゃんはいつも私に寄り添ってはくれるけど、一度も面と向かって好きって言ってくれたことはなくって、それはきっと恥ずかしいからなんだけど、でも私が欲しいのは言葉なんてものではないし、ただ一緒にいてくれるサっちゃんそのものが好きなのだから、ずっとそれでいいだって決めてたことを思い出して反省し、サっちゃんごめんね、でも喧嘩はしないでねとお祈りをした。


「ごめん、大きな声出して――」

「今度、ちゃんと、時間作るから――」

 とっても切なくて辛そうで潰れてしまいそうな声を絞り出し、サっちゃんはようやく電話を切り上げた。


 仕事だけでも大変そうなのに、サっちゃんはほかにも悩みを抱えてとてもとっても可愛そうだなと思い、私は立ち上がってサっちゃんのほうに足を進めたのだけど、サっちゃんは私のことを無視するみたいにして、スマホを投げ捨てるようにガタりとテーブルに置いてしまうと私まで置きざりにして、ひとりでアパートの部屋から飛び出した。


 泣いていたみたいだから、涙を流して台無しになった美人のお顔を私に見せたくなくて、お外で頭を冷やしてこなきゃとか、きっといろんなことを思っていたのに違いない。私はそんなことちっとも気にしていないとサっちゃんは知っているはずなのに、独りでお外になんか行かないで、かわりに私の胸でいっぱいいっぱい泣いてくれたらどんなにかうれしいのになって考えて、私の薄くて貧相な胸のあたりはとてもとっても苦しく締めあげられた。


 私は本当に心配になり、寂しくなり、心をチクチクと針で刺されるようで、でもサっちゃんにどんな言葉をかければいいのかちっとも賢い考えが浮かばず、追いかけていくこともできずに、勇気の一粒も湧かなくて、また独りでベッドの上に横になり、気づけばいつもみたいにしくしく泣いていた。


 こんな私をサっちゃんは、見捨てもせずにどうしていっつも一緒にいてくれるのかなあ? ごめんね、サっちゃん、私ちっともあなたの力になれなくて、こんなにいっぱいたくさんとっても、世界で一番、どうしようもなく好きで好きで大スキでたまらないのに、何もできなくてホントにほんとうにごめんなさい――。


 ――そうだ、私が相手の人に事情を聞いてみたら? 私にしては素敵な名案を閃いて、パッと明るい気分になって、でもなんて話をしたらいいのか、相手の名前も分からないし、どう切り出せばよいのかも分からないし、でも話をしてみればきっと良い考えを思いつけて、サっちゃんは仲直りして明るくなるかもしれない。


 そんなことができたのなら、役立たずの私をきっとサっちゃんも見直してくれて、でも相手の人がサっちゃんのいい人とか恋人とか人生での大切な約束をしている人だったら、私はいったいどうしたらよいのだろう……。


 こんな風にうじうじしているから、私はいつも何もしてあげられないのだと思い直し、カスみたいな勇気を振り絞ってベッドから立ち上がり、サっちゃんのスマホを勝手に使うのは悪いことだと分かっていたけど、通話履歴をたどって電話をかけることを心に決めた。


 サっちゃんの大事な物に触れてしまうと思っただけでめちゃくちゃ緊張してしまい、私の手はぶるぶると震えてしまい止まらなくて、ちょっと大ぶりで薄べったいスマホを細い指先で取りあげるのにひどく苦労をしてしまう。


 どうにか拾いあげると、いつも横から見ていて知ってたパスワードを入れて、不慣れな操作で履歴を見ると、相手の名前が電話帳に登録されていたらしく、名前のとこにはミサキと表示がしてあって、私はまず電話が繋がったらどんな風に話を始めるべきか、切り出す言葉を考えはじめた。


 ミサキさん私は――いや違う、サっちゃんの電話で私がいきなり名乗ったら、ミサキさんはサっちゃんに浮気相手がいたのかと勘違いしちゃって、もっとややこしいことになるかもしれない。そんなことは心底イヤだし、でも、ずっと一緒に暮らしている私とっては、ミサキさんこそサっちゃんの浮気相手かもしれなくて、相手の声を聴いたとたん私は嫉妬の狂って怒りだし、何をしでかすか想像もつかないなとか、あれこれ考え始めたら気持ちが明後日の方向へとザワザワ動きだして、下手な考えを堂々巡りにしても仕方ないから、考えることを止め、思い切って通話履歴からリダイアルをして、相手が何を言うのか待つことに決めた。


 ピポパポピポピパッ――トゥルルルルットゥルルルルッ――。


「はい?」

 繋がったっ!

「あ……の……ミ……キ……ん……で……か?」

 私は電話をかけただけで緊張で縮みあがり、すっかりのどが詰まって、自信がないから声も小さくて、通じたのか通じなかったのかさえ分からない言葉を絞り出し、ミサキさんかもしれない人の返事を待った。


「……えっと、これ、サチコの電話だよね? サチコ? 違うの?」

 親し気に私のサっちゃんを呼び捨てにするこの女の声、これがきっとミサキさんなんだと私は決めて、よし、これでサっちゃんの心の重荷を降ろしてあげられると少し安心したけれど、私の大事なサっちゃんを呼び捨てにする女のことが許せない気持ちがふつふつと煮え湯のように沸いてしまい、そのことをきちんと伝えたくなり、電話に向って声を絞り出した。


「あ……なた……っき、わた……のサっ……んとけ……かし……せん……か……」

 あの、あなたさっき、私のサっちゃんと喧嘩してませんでしたか? と問い詰めたかったのだけど、私はまたしても気持ちが昂って、自分でも気持ち悪いなと感じる呻き声しか出せず、どうにか気持ちだけでも通じて欲しいと願いながら、ミサキに向かって祈りを吐いた。


「気味悪いな……いたずらならやめてもらえません?」

「ち、ちが……ぅ」

「ちょっ、なんなのあんた?」

「み、み……さ……き?」

「そう、ミサキだけど……あんた、誰なの?」

「あ、ああ、あのぅ……」

「サチコは? ねえ、サチコはどうしたのっ!?」

 ミサキが電話の向こうで金切り声をあげて怒鳴り散らかすものだから、私は心底怖くなってしまい、いったいどう返事をしたものか、最初にこれはきっとうまくいく素晴らしい考えだって自信を持っていたはずなのに、すっかり気持ちは塞いでしまい、ずっとぶるぶる震えていた指先は腕ごとガタガタ暴れ出し、私は大切なサっちゃんのスマホを取り落してしまった。落ちたスマホは床に跳ね、パキりとイヤな音を立て、私の気持ちみたいにガラスの画面は割れてしまい、無残な蜘蛛の巣模様を刻んでしまう。


 しかもそこへ――間の悪い事この上なく、出ていったサっちゃんが帰ってきた。 サっちゃんは玄関扉を半開きにしたまま突っ立って、床に落っこちたスマホをじっと見つめたまま動かなくなり、怒っているのか悲しんでいるのか、美人のお顔を複雑に歪めてしまい、ああ……お願いだからそんな顔をしないで、そんなお顔をされたら私だって一緒に悲しくなって、私の醜い顔がますます醜くなってしまうから、どうかお願い、せめて普通にしてちょうだいと私はサっちゃんに懇願した。


 なんてことを、どうしよう、私の大事なサっちゃんの大切なスマホを傷モノにして、サっちゃんを悲しませてしまうなんて……。私はこれまで覚えのないほど動転し、どこでもいいから逃げ出したくなり、でもこのお部屋以外に行く場もなくて、またいつものようにベッドの片隅へと慌てて駆け込むと、このお部屋から消えてしまいたい、でもずっとサっちゃんと一緒でいたいから、本当に消えてしまいたい訳などないけれど、それでもただ今この時だけは、どこか真黒い隅っこの世界に閉じこもってしまいたいと願って願って小さくなって、ゴマ粒みたいに小さくなった気持ちになって、やがて気が遠のいて、ごめんなさいごめんなさいと胸の中で叫びながら、心がぷつりと途切れてしまって――。


   §


 ――寒い。寒かった。外では雪が降っていた。ときおり屋根から落ちる雪の音がバサリと響く以外、なにも聴こえてこなかった。夜の静けさを耳に入れないように頭から布団を被って、隙間から目だけを出して揺れていた。


 サっちゃんまだ仕事がたいへんなのかな、あれからミサキさんとはどうなったのかなと考えながら、私はうじうじとした気持ちを転がして、大大大好きなサっちゃんの帰りを待っている。


 最近のサっちゃんは、ますますやつれてしまって、どれほど仕事が忙しいのか、どれほどミサキさんとうまくいっていないのか、私の愚かで小さな脳みそではとうてい知ることはできないのだけど、せめて帰ってきたら温かいものをサっちゃんには食べて貰って、心も温かくなってほしかいから、電子レンジで昨夜の残りのシチューを温めておいたり、お部屋に暖房を入れたりして、私なりの精一杯の気持ちを込めてお迎えの準備を済ませ、ベッドの上でじっとしている。


 私はいっつもめそめそと泣いてしまうから、大切なサっちゃんのベッドに薄暗い染みをいっぱい作ってしまって、サっちゃんは疲れ果ててろくにお部屋のお掃除もお洗濯もできないから、だからいっつも私はこっそりお部屋を綺麗にしてあげて、びっくりしているサっちゃんの愛らしいお顔をこっそり眺めるのが好きで好きで大好きで、たまらなく幸せな気持ちになるのだけど、それでも大きな洗濯物を洗ったりする力は私の貧相な身体では出せなくて、シーツもお布団も薄暗い染みだらけのままで、結局いつものようにサっちゃんを困らせていた。


 ガチャリ――重たく扉が開いた。サっちゃんが帰ってきてくれた。げっそりやつれて真っ青な顔をして唇も紫色で、外はたくさん雪だからさぞかし寒くて、がちがちぶるぶると震えていてから、よかったお部屋を温めておいて御飯の支度をしておいてと、私はとってもほっこりとした気分になっていた。


 私たちの素敵なお部屋を見てもサっちゃんは、ただいまの言葉も無いけれど、いつの間にかほかほかしているお部屋や、あつあつになったシチューに気がついてびっくりした様子で、これがきっとサプライズってやつなんだと私はひとりで悦に入り、いそいそと「おかえりサっちゃん、お部屋を温めておいたんだよ、温かいでしょ、うれしいでしょ、一緒にご飯を食べようよ」とサっちゃんに近づいたのだけど、サっちゃんは急に大切な用事を思い出したのか、ガラスの割れたスマホを取り出して、大事なお話をするために浴室のほうへと向かうと、電話をかけてこそこそと、小さな声で誰かと何かを話し始めた。


 電話を終えて浴室から出てきたサっちゃんは、事な用事が出来たのか、せっかく温めたお部屋で身体を休めることもなく、せっかく用意しておいたシチューを一口も食べもせず、いっぱい雪の降ってるお外へ出かけてしまい、私はまた独りで、ひとりぼっちで、お部屋に取り残されてしまった。


 春に越してきた時には、あんなにふたり寄り添って仲良く暮らしていたのに、どうして今ではこんなことになってしまったのだろう? 私は考えるほどに悲しく切なくなってきて、またしてもさめざめと泣きだしてしまい、大事なサっちゃんのお布団の上に暗い染みをまたいくつもいくつもいくつもいくつも増やして増やして増やしてしまって、いつまでもひとりでごめんなさいごめんなさいと、ずっとずっと謝って――。


   §


 あれからサっちゃんは、私たちのお部屋に帰ってこない。

 私とってもがんばって、サっちゃんのためにがんばって、たくさん褒めてもらえるようにがんばったのに、私の何が悪かったの? お外はもう雪は去ってお花が咲き出しているのに、ベッドで布団にくるまっても体はちっとも温まらず、心も凍えてしまい、氷みたいになっていた。


 悲しくて、たまらなく悲しくて寂しいものだから、とっくに枯れたはずの涙がまた湧きだしてきて、カビて饐えた臭いを放つサっちゃんのお布団の上に黒い染みを増やしてしまい、染みが増えるほどに悲しく寂しい気持は増してゆき、だから、突然玄関の扉が開いて、痩せこけて髪もばさばさで、綺麗なお顔が見る影もなくしわしわで、心なしか白髪もできたように見える、それでも綺麗で、美人さんで、私の大切なサっちゃんが顔を見せてくれたときは、それはもう天にも昇る心地がした。


「サっちゃん、おかえり!」

 私は大喜びして、悦び勇んで、くるまっていた布団を風にのせるように大きく振り払い、ベッドの端から玄関まで駆けだし、髪を振り乱しながら、テーブルやら椅子やらに大きくぶつかって家具を次々倒したけれど、そんなことは無視をして、両手をいっぱいに広げて、満面の笑みを作りたくて口の端を裂けるほどに大きくし、涙で濡れていた目をちぎれんばかりに見開いて、大好きだよおかえりなさいと叫びながらサっちゃんに飛びつこうとしたのにそれなのに、半開きの扉が全部開いて、サっちゃんの後ろから見たことのない端正な面立ちの背の高い女性が現れて、心臓が破れるかと思うくらいに驚いてしまった。


 サっちゃんは、あろうことか、信じられないことに、その女性の手をぎゅうっと握って手をつないだままでいて、私にだって一度も見せたことのない、すがるような表情をしてその大女の顔を見上げると、愛らしい唇から私がきっと一番聞きたくなかった名前を、サっちゃんは口にした。


「ミサキ……わかる?」

 あの人が、ミサキ!?

「ああ、わかるよ……確かに、いる」

 どうしたわけか、ミサキは私の目をまっすぐ覗き込み、こんな風に見つめて欲しかったのはこの女じゃなくて大好きな私のサっちゃんなのに、どうしてサっちゃん私を見ないで大女だけを見ているのと、とてもとってもイヤな気持ちになったけれど、サっちゃんの大切なお友達には違いないのだから、私は暗い気持ちを頑張って抑え込み、初めて会うミサキさんに、丁寧な挨拶をすることにした。


「はじめまして、私がサっちゃんと一緒に暮らしている――ぎゃぁあぁ!!」

 私は大大大嫌いなミサキに、せっかく大大大好きなサっちゃんのためだからと、イヤな気持ちを我慢して、一生懸命丁寧な挨拶をしただけなのに、ミサキは意味の分からない気持ち悪い言葉を呟くと、私の体に白い粉らしきものを投げつけた。

 白いのが私の痩せギスの体にまぶされた途端、体中のあちこちに酷い痛みが走って、焼け爛れるみたいになって、しゅうしゅうと腐った肉の焼ける臭いが立ち昇って、私は知らない人と話すのがとても苦手なのに、がんばって自分の名前を伝えようとしたのを遮られた上に、ひどい苦痛を味わってしまい、我を忘れてどうしようもなく、腹の底から怒りの声をあげてしまった。


「お前があぁっ、ミサキっ、ミサキミサキミサキミサキミサキっ!」

 サっちゃんはひどく怯えた顔をして、きつく目を閉じたまま、ミサキの後ろで震えていた。私が声を荒らげたものだから、サっちゃんをあんなに怖がらせてしまったんだ……ごめんねサっちゃん、サっちゃんに怒ったんじゃないんだよ、ミサキが私に酷いことをするから、それで思わず声をあげてしまったの、サっちゃん怖がらないで、お願いだからその人から離れて私のところに戻って来て「サっちゃん、一緒にいてくれないと、私とっても寂しいよ、一緒にいようよ、私はここにいるからね、いつまでもいつまでも、私はあなたと一緒にいたいの、一緒に居たいだけなの、お願いだから、私をひとりにしないで、ねえ、大好きなの大好きだから、私のサっちゃん、大好きな私のサっちゃん、サっちゃんサっちゃんサっちゃん……」


 泣きじゃくって取りすがって、それでもミサキが白いのを投げてきて、気持ち悪い言葉を次々に私にぶつけて、そのたびに私の体は真っ赤に燃えて、燃えて燃えて燃え尽きてしまうようだけど、細い身体から力を振り絞って、腕を伸ばして、手を伸ばして、指先を伸ばして、伸びるものなら爪先だって伸ばそうとして、サっちゃんの目をしっかりとみつめて、でもサっちゃんは一度だって私の目を見てくれず、この腕にサっちゃんの全てを抱きしめようと、身体に取り込もうと、枯れ枝のような足を前へ前へと進めていった。


 ミサキはとうとう、めちゃくちゃに取り乱し、サっちゃんもすごく混乱した顔をして、しっちゃかめっちゃかになりながら、ミサキはか細いサっちゃんの腕を無理矢理に引っ張ると、ふらふらと足を縺れさせ、どうにか倒れないよう踏ん張り、歩くやら走るやらしながらドアノブに手をかけると、跳ね飛ばす勢いでアパートの扉を開け放つやふたりは飛び出して、わけのわからない言葉で喚き散らかしながら、それきりサっちゃんとミサキは、消えた。


 私はいったいどうして、悪いことなんて何もしていないのに、どうしてこんなことになったのか、心底わけがわからなくなって、わあわあおうおうと泣き出してしまい、近所に聞こえてしまうことなんてひとつも思いもせずに大声をあげ、泣きに泣いて喚くに喚き、そのうちにミサキを呪うどす黒い言葉をありとあらゆる古今の文言を尽くしてありったけ吐きだし、ぎゅうぎゅうにすりつぶして、練りに練り上げてミサキに届けと言霊に込め解き放つと、そのうちにふつふつとサっちゃんを心配する気持ちが湧いてきて、どうしたらよいのか何もかも分からなくなってしまい、へたへたと床に座り込み、ぐったりして泣くことしか出来なくなる。


 涙がぼろポロぱたパタ床に落ちて跳ねる音だけが、私の嗚咽に交じって誰もいなくなったお部屋に木霊して、私の気持ちはどんどん冷えていってしまい、だんだん眠たくなってきて――やがて目の前は真っ暗闇にぼやけて――。


   §


 私は何も無いがらんとしたお部屋で、独りぼっちでいた。

 いったいどうしてここにいるのかな? 独りでいるのは、イヤなのに。

 誰か来てくれないかなあ――。

 誰か一緒にいてくれるといいのになあ――。

 私と一緒に居てくれたら、いっぱい尽くして幸せにしてあげるのに。

 ただ、それだけを、そればっかりを、考えて。

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