大好きな私のサっちゃん

まさつき

大好きな私のサっちゃん

 築二十年くらいのくたびれたアパートの206号室で、私は大好きなサっちゃんとふたりで暮らしている。築二十年というけれど、大家さんはとても熱心な人らしく、若い人のウケも良いようにしっかりリフォームもされている。立地もよくて交通の便もよく、最寄りの駅も急行が止まるものだから、郊外にありながら都心にも出やすくて、とても人気のある物件だ。おまけに、お家賃も相場よりだいぶお安いから、ちょっと空いてもすぐに次の人が埋まってしまう。


 だから、サっちゃんと一緒に此処に住めたのは、とっても運が良かったなと思うし、なにより私はサっちゃんが大好きなので、いつも一緒に居られて、この上なく幸せな暮らしをしている。


 サっちゃんの歳は今年で二十六歳ということだから、このアパートよりもちょっと年上ということになる。私の歳もそんなに変わらないものだから、それもあってふたりはとってもお似合いだよね、素敵なことだよねと、私はいつもいつもサっちゃんに語りかけていた。


 サっちゃんの仕事は医療事務とか言うそうで、いつも忙しそうにしているのだけど、最近はとりわけ遅くに帰ってくる。今の暮らしでそこだけが、少し残念なことではあった。


 午前様になることも多くなって、だんだんお酒を飲んで帰ってくることも増えていて、私はまったくそんなことは気にしないのだけれど、朝起きても鼻をつく饐えた匂いが酷いこともあったりして、サっちゃん綺麗な人なのにもったいないな可愛そうだなって、いつも心配してしまい、不安な気持ちが膨れあがって、私の細い体がいっぱいになってしまう。


 医療事務というのが、いったいどんな仕事でどうしてそんなに大変なのか、私は詳しく聞いてみたことがないけれど、私はサっちゃんと一緒にいられればそれだけで良いのだし、サっちゃんも一度だって私の仕事を尋ねてきたことがないのだから、お互い詳しく知らなくたって、それがフェアで素敵な関係だよねと納得している。


 私と同じくらいの歳なのに、素敵なお仕事を持っているだけでも素晴らしいと思えるのに、それに加えてサっちゃんは、とびきりの美人さんなのだ。はつらつとして健康そうで、スタイルもメリハリがあってお胸も大きいし、髪もサラサラとして綺麗で、着ているお洋服も持ってるお洋服もあれもこれも素敵なものばかりで、キラキラしたアクセサリーだって愛らしくて、ぼさぼさ頭でちょっと陰気な顔をして痩せギスで、くびれはあっても胸もお尻も小さくて貧相で、服のセンスも絶望的な私なんかと正反対のタイプの女性で、男の人だって女の人だってきっと放っておかない魅惑的な人のはずなのに、どうしてこんな私と一緒にいてくれるのか、ときどきとても不思議に思うのだけれど、きっとあべこべな形の積み木が合わせ目でぴったり嵌り合うみたいな、そういう相性の良さがあるのじゃないかなと私は想像して、そうしているだけでいつも幸せな気持ちでいっぱいになってくる。


 今夜も時計を見ればもうてっぺんを過ぎようとしているのに、私はひとりきりで何をするでもなく、ベッドの片隅に腰かけながら大好きなサっちゃんの帰りをひたすらに待っている。

 今夜もまた午前様なのかしら? さすがにそろそろ私の瞼も重たくなって微睡みかけて、とてもじゃないけどサっちゃんを、待っていたいけど待っていられなくなって、眠たくなってどうしようもなくベッドの上に横たわっていたところに、アパートの鍵を開ける音がガチャガチャと鳴るのが聞こえてきて目を醒ました。


「ただいまぁ……」

 サっちゃんが帰ってきてくれた。ひどく疲れた様子で、赤いヒールをいい加減に脱ぎながら玄関に無造作に脱ぎ散らかして、肩から掛けた小さなかばんも何キロもある重たい重りみたいに見えて、すらっとして綺麗な脚に鉛をぶら下げたみたいな鈍重な足取りをしてリビングに入ってくる。


「サっちゃん、おかえり」と私は声をかけたけど、サっちゃんは本当にくたびれているらしく、ろくに返事もしてくれない。一緒に暮らし始めた頃よりも少し痩せたようにも見えて、私はとてもとっても心配している。


 あんまりにも疲れているのか、シャワーも浴びずにお化粧も落とさないまま、サっちゃんはベッドにばったり倒れ込んで、「うぅん」とちょっと唸ってからすうすう寝息を立てはじめる。

 寝息の匂いを嗅ぎたくなって、疲れちゃってるサっちゃんには悪いのだけど、私はどうしようもなく我慢ができなくって、サっちゃんのぷっくりとして可愛らしい唇に鼻を寄せて、すーすーと息を吸い込んでみる。


 今日もお酒を飲んでいるのか、少し酒精の香りが漂って、サっちゃんはお酒を飲んでもタバコは呑まない人なのに、素敵なお洋服からは少しヤニの臭いがして、そんな人と一緒にいないでよと残念な気持ちが湧くのだけど、でもサっちゃんの大切なお友達にそんなことを思ってしまう自分があさましくなって、反省しながら寝息の匂いを吸い続けた。


 身づくろいもしないまま眠ってしまったサっちゃんを、仕方のないひとだねと愛おしく思いながら、私は汗をかいてべったりと額に張りついた前髪を、そっと払ってあげたのだけど、仕事でよっぽどしんどいのか、やつれて青白くなった顔に私が触れると、サっちゃんは目をつむったまま眉根を寄せて、少し苦しそうな表情をしてみせた。


 だから私は、サっちゃんは眠ってしまってひとつも返事をしてくれないと分かっていたけれど「ごめんね、サっちゃん、私なにもしてあげられなくて……沢山寝て元気になってね、疲れが取れて元気な美人さんに戻ってね、また明日ね」と、できるだけやさしく耳元で囁いてあげてから、少し体を離して目をつむると、この世で一番大好きなサっちゃんと一緒に眠りに落ちていった――。



「だから、そんなんじゃないって、さっきから!」

 私は荒らげたサっちゃんの声で目を醒ました。私たちのお部屋は強い日差しで照らされて、だいぶ蒸し暑くなっていて、時計を見ればお昼もとうに過ぎていた。

 せっかく目が醒めたのだから、ゆうべサっちゃんが取り寄せてくれた食べそこないの宅配ピザを、ふかふかに温め直し、一緒に食べて楽しみたかったのに、サっちゃんの雰囲気はそれどころじゃなくって、私は困り果ててしまった。


 ねえサっちゃん、そんなに大きな声を出してしまって、いったいどうしたの? とても不思議に思ってサっちゃんの様子を伺うと、スマホを片手に誰かとお話ししているようだった。あんなに激しい声をあげるサっちゃんを、私は初めて見たものだから、びっくりしながら電話の相手にも興味があって、黙って見つめて話の中身を聞いていた。


「だって……そんなの、仕方ないじゃない――」

「人手が足りなくて、患者さんは多くて――」

 お仕事の話を、しているのだろうか?

「大事じゃないだなんて、そんなことあるわけないじゃん……」

 サっちゃんの言葉だけだから要領を得ないのだけど、なんだろう? まるで、誰かと喧嘩しているみたいに聞こえる。


「私だって、逢いたいんだよ……」

 え? 私だって逢いたいって、どういうことなんだろう? 涙声で話すサっちゃんの言葉を聞いて、私はどきどきと緊張を覚えた。


 サっちゃんは私と一緒に暮らしているのに、お外には、私以外に誰か好きな人とか付き合っている人とかがいるってことなのだろうか? 私というものがありながら……と思いかけて、でもサっちゃんはいつも私に寄り添ってはくれるけれど、一度だって面と向かって好きだと言ってくれたことはなくって、それはきっと気恥ずかしいからに違いなくて、でも私が欲しいのはそんな言葉なんてものではないし、ただ一緒にいてくれるサっちゃんそれだけが好きなのだから、ずっとそれでもいいとしていたことを思い出して反省し、サっちゃんごめんね、でも喧嘩はしないでねと独り言ちた。


 サっちゃんはまだ電話をしていて、どきどきしながらしばらく様子を見ていると、どうやらやっぱりサっちゃんは、電話の相手と喧嘩をしているということだけは確かなようだ。


「ごめん、大きな声出して――」

「今度、ちゃんと、時間作るから――」

 とっても切なくて辛そうで苦し気な声を絞り出して、サっちゃんはようやく電話を切り上げた。


 仕事だけでも大変そうなのに、サっちゃんはほかにも悩みを抱えてとてもとっても可愛そうだなと思い、私は立ち上がってサっちゃんのほうに足を進めたのだけど、サっちゃんは私のことを無視するみたいにして、スマホを投げ捨てるようにガタりとテーブルに置いてしまうと、私を置きざりにしてひとりでアパートの部屋から飛び出してしまった。


 なんだか泣いていたみたいだから、涙を流して台無しになった美人のお顔を私に見せたくなくて、お外で頭を冷やしてこなきゃとか、きっといろんなことを思っていたのかもしれない。私はそんなことをちっとも気にしていないと、サっちゃんは知っているはずなのだから、独りでお外になんか行かないで、私の胸でいっぱいいっぱい泣いてくれたらどんなにかうれしいのになって考えて、薄くて貧相な胸のあたりがとてもとっても苦しくなってしまう。


 私は本当に心配になって、寂しくなって、どうしようもなく心がチクチクしてしまったけれど、サっちゃんにどんな言葉をかけてあげればいいのかちっとも賢い考えがうかばなくて、追いかけていくこともできずに、そうする勇気も湧かなくて、また独りでベッドの上に横になり、いつものようにしくしくと泣き出してしまった。


 こんな私をサっちゃんは、見捨てもせずにどうしていっつも一緒にいてくれるのだろう? ごめんね、サっちゃん、私ちっともあなたの力になれなくて、こんなにいっぱいたくさんとっても、世界で一番、どうしようもなく大好きで大好キで大スキでたまらないのに、ほんとうにホントにごめんなさい――。


 ――そうだ、私が相手の人に事情を聞いてみたらどうだろう? 私にしては素敵な名案を閃いて、パッと明るい気分になって、でもなんて話をしたらいいのか、なんて名前の人なのかすら分からないし、どうやって切り出せばよいのかも分からないけど、話をしてみればきっと良い考えを思いつけて、サっちゃんが相手の人と仲直りができるかもしれない。


 そんなことができたのなら、いっつもサっちゃんの役に立てない私なのに、きっとサっちゃんも私のことを見直してくれて、でももしかして、その相手の人というのが、サっちゃんのいい人とか、恋人とか、人生での大切な約束をしている人だったら、私はいったいどうしたらよいのだろう……。


 こんな風にうじうじしているから、私はいつもサっちゃんのために何もしてあげられないのだと思い直し、なけなしの勇気を振り絞ってベッドから立ち上がって、テーブルの上に置いてけぼりになっているサっちゃんのスマホを勝手に使うのはとても気が引けるのだけど、通話履歴をたどって電話をかけてみることにした。


 サっちゃんの大事な大事なスマホに勝手に触ってしまうと思うだけでひどく緊張してしまい、私の手はぶるぶると震え出して止まらなくなって、ちょっと大ぶりで薄べったいスマホを細い指先で取りあげるのにとても苦労してしまう。


 それでもどうにか拾いあげて、いつも横から見ていて知っていたパスワードを入れてみて、不慣れな操作でなんとか履歴を見てみると、相手の名前が電話帳に登録されているようで、名前はミサキというらしく、私はまず電話をかけて相手が出たらどんな風に話を始めるべきなのかを考えて、練習することにした。


 ミサキさん、私の名前は――いや違う、急に名前を名乗ったら、ただでさえ喧嘩をしているかもしれないサっちゃんには、もしかしたら浮気相手がいたのかとミサキさんに思われて、もっとややこしいことになってしまうかもしれない。そんなことになるのは心底イヤだけど、でも、ずっと一緒に暮らしている私からすれば、ミサキという人のほうがサっちゃんの浮気相手かもしれなくて、それが本当ならもっともっとイヤになって、相手の声を聴いたとたんに私は嫉妬のあまり怒りだしてしまうかもしれないし、第一そんな気持ちをサっちゃんに知られでもしたら、私はもう本当にどうしたらいいのかわからなくなり、何をしでかすか想像もつかないなとか、あれこれ考え始めたら気持ちが明後日の方向へとザワザワ動き始めてしまい、下手な考えを堂々巡りにしたところで仕方がないのだから、私はもう思い切って通話履歴からリダイアルをして、何も考えず、とにかく相手が何を言うのかを待つことに決めた。


 ピポパポピポピパッ――トゥルルルルットゥルルルルッ――。

「はい?」

 繋がったっ!

「あ……の……ミ……キ……ん……で……か?」

 私は電話なんてろくに使ったことが無いし、ふだんはサっちゃんとしか、お話しなんてしたことないものだから、緊張で舞い上がってしまい、言葉にすっかり詰まってしまって、自信がないから声も小さくなって、まるで通じたのか通じなかったのかさえ分からない言葉をどうにか絞り出し、ミサキさんかもしれない人の返事を待った。


「……えっと、これ、サチコの電話だよね? サチコ? 違うの?」

 親し気に私のサっちゃんを呼び捨てにするこの女の声、これがきっとミサキさんなんだと私は気がついて、よし、これでサっちゃんの心の重荷を降ろしてあげられると少し安心したけれど、私の大事なサっちゃんを呼び捨てにする女のことが許せない気持ちがふつふつと煮え湯のように沸いてしまい、そのことをきちんと伝えたくなり、また電話に向って声を絞り出した。


「あ……なた……っき、わた……のサっ……んとけ……かし……せん……か……」

 あの、あなたさっき、私のサっちゃんと喧嘩してませんでしたか? と問い詰めたかったのだけど、私はまたしても気持ちが昂ってしまったのか、言葉がちっともまともに出せなくて、自分でも気持ち悪いなと感じる呻きみたいな音しか出せず、でもきっとどうにか通じてくれるだろうとお祈りしながら、ミサキに向かって気持ちを込めた。


「気味悪いな……いたずらならやめてもらえません?」

「ち、ちが……ぅ」

「ちょっ、なんなのあんた?」

「み、み……さ……き?」

「……そう、ミサキ、だけど……あんた、誰なの?」

「あ、ああ、あのぅ……」

「サチコは? ねえ、サチコはどうしたのよっ!」

 ミサキが電話の向こうで金切り声をあげて怒鳴り散らかすものだから、私は心底怖くなってしまい、いったいどうやって返事をしたものやら、最初にこれはきっとうまくいく素晴らしい考えだって自信を持っていたはずなのに、すっかり気持ちが塞いでしまって、意気消沈し、これ以上何も言えなくなって、ずっとぶるぶる震えていた指先は腕ごとガタガタと振動しだして、うっかりスマホを落としてしまった。


 しかもその上、間の悪い事この上なく、出ていったサっちゃんが帰ってきたのだ。さらになおさら酷いことに、落したスマホは床に跳ねてしまい、パキりとイヤな音を小さく立てて、大事な大事なサっちゃんのスマホのガラス画面に、蜘蛛の巣が張ってしまった。


 サっちゃんは玄関扉を半開きにしたまま突っ立って、床に落っこちてガラスの割れたスマホをじっと見つめたまま動かなくなり、怒っているのやら悲しんでいるのやら、美人のお顔を複雑に歪めてしまい、嗚呼……お願いだからそんな顔をしないで、そんなお顔をされたら私だって一緒に悲しくなって、私の醜い顔がますます醜くなってしまうから、どうかお願い、せめて普通にしてちょうだいと私はサっちゃんに懇願をしていた。


 なんてことだろう、どうしよう、私の大事なサっちゃんの大切なスマホを傷モノにして、サっちゃんを悲しませてしまうなんて……。私はこれまでの記憶にないほど動転して、もうどこへやらでも構わないから逃げ出したくなり、でもこのお部屋以外に行く場もなくて、またいつものようにベッドの片隅へと慌てて駆け込むと、このお部屋から消えてしまいたい、でもずっとサっちゃんと一緒でいたいから、本当に消えてしまいたい訳などないけれど、それでもただ今この時だけは、どこか真黒い隅っこの世界に閉じこもってしまいたいと願って願って小さくなって、ゴマ粒みたいに小さくなった気持ちになって、やがて気が遠のいて、ごめんなさいごめんなさいと胸の中で叫びながら、心がぷつりと途切れてしまう――。



 寒かった。外では雪が降っていて、ときおり屋根から落ちる雪の音がバサリと響く以外、物音らしい物音もなく、夜の静けさが耳に痛くて、私はまたシーツにくるまり、隙間から目だけを出してじっとしていた。


 サっちゃんまだ仕事がたいへんなのかな、あれからミサキさんとはどうなったのかなと考えながら、私はうじうじとした気持ちを転がして、大大大好きなサっちゃんの帰りを待っている。


 最近のサっちゃんは、ますますやつれてしまって、どれほど仕事が忙しいのか、それとも、どれほどミサキさんとの関係がうまくいっていないのか、私の愚かで小さな脳みそではとうてい知ることはできないのだけど、せめて帰ってきたら温かいものをサっちゃんには食べて貰って、心もあったかくなってほしかったから、電子レンジで昨夜の残りのシチューをあっためておいてあげたり、お部屋に暖房を入れておいたりして、私なりの精一杯の気持ちを込めてお迎えの準備を済ませて、ベッドの上でじっとしていた。


 私がいっつもめそめそと泣いてしまうものだから、大切なサっちゃんのベッドの上に、薄暗い染みをいっぱいこさえてしまったのだけど、サっちゃんは仕事が忙しすぎてろくにお部屋のお掃除もお洗濯もできなかったり、だからいっつも私はこっそりお部屋を綺麗にしてあげて、びっくりしているサっちゃんの愛らしいお顔をこっそり眺めるのが好きで好きで大好きで、たまらなく幸せな気持ちになるのだけど、それでも大きな洗濯物を洗ったりするほどの力は、この貧相な身体では出せなくて、シーツもお布団も薄暗い染みだらけのままで、結局いつものようにサっちゃんを困らせてしまう。


 ガチャリ――重たく扉が開いて、げっそりやつれて真っ青な顔をしたサっちゃんが帰ってきてくれた。外はたくさん雪だから、さぞかし寒くて、唇も紫色になって、がちがちぶるぶると震えていて、綺麗な髪も私ほどではないけどバサバサとして、よかったお部屋をあっためておいて、御飯の支度をしておいてと、私はとってもほっこりとした気分になっていた。


 私たちの素敵なお部屋に帰ってきてくれたサっちゃんは、ただいまの言葉こそ無かったけれど、いつの間にかあったかくなっていたお部屋や、あったまったシチューに気がついて、本当にびっくりした様子で、これがきっとサプライズってやつなんだよねと私はひとりで悦に入り、いそいそと「おかえりサっちゃん、お部屋をあっためておいたんだよ、あったかいでしょ、うれしいでしょ、いっしょに御飯を食べようよ」と言ってサっちゃんに近づいていったのだけど、サっちゃんは急に大切な用事を思い出したのか、ガラスの割れたスマホを取り出して、大事なお話をするために浴室のほうへと向かうと、電話をかけてこそこそと、小さな声で誰かと何かを話し始めた。


 電話を終えて浴室から出てきたサっちゃんは、本当に何か大事な用事が出来たのか、せっかく温めたお部屋で身体を暖めることもなく、せっかく用意しておいたシチューを口にすることもなしに、いっぱい雪の降ってるお外へ出かけてしまい、私はまた独りで、ひとりぼっちで、お部屋に取り残されてしまった。


 春に越してきた時には、あんなにふたり寄り添って仲良く暮らしていたのに、どうして今ではこんなことになってしまったのだろう? 私は考えるほどに悲しく切なくなってきて、またしてもさめざめと泣きだしてしまい、大事なサっちゃんのお布団の上に暗い染みをまたいくつもいくつもいくつもいくつも増やして増やして増やしてしまって、いつまでもひとりでごめんなさいごめんなさいと、ずっとずっと謝って――。



 あれからサっちゃんは、私たちのお部屋に帰ってこない。どうしたんだろう? 私とってもがんばって、サっちゃんのためにがんばって、たくさん褒めてもらえるようにがんばったのに、私の何が悪かったのだろう? お外はもう雪は去ってお花が咲き出しているのに、ベッドの上でシーツにくるまっていても、ちっとも温まることはなく、私の心はまた、冷えたままになった。


 悲しくて、たまらなく悲しくて寂しいものだから、もうとっくに枯れたかと思っていた私の涙がまた湧きだしてきて、カビて饐えた臭いを放つサっちゃんのお布団の上に黒い染みをまた増やしてしまい、それがまた堪らないほど私を悲しく寂しい気持ちにさせて、だから、突然玄関の扉が開いて、痩せこけて髪もばさばさで、綺麗なお顔が見る影もなくしわしわで、心なしか白髪もできたように見える、それでも綺麗で、美人さんで、私の大切なサっちゃんが顔を見せてくれたときは、それはもう天にも昇る心地がした。


「サっちゃん、おかえり!」


 私は大喜びして、悦び勇んで、くるまっていたシーツを風にのせるように大きく振り払って、ベッドの端から玄関まで駆けだし、髪を振り乱しながら、テーブルやら椅子やらに大きくぶつかって、家具を次々倒したけれどそんなことは無視をして、両手をいっぱいに広げて、満面の笑みを作りたくて口の端を裂けるほどに大きくし、涙で濡れていた目をちぎれんばかりに開いて見せて、大好きだよおかえりなさいと叫びながらサっちゃんに飛びつこうとしたのにそれなのに、半開きの扉が全部開いて、サっちゃんの後ろから見たことのない端正な面立ちの背の高い女性が現れて、心臓が破れるかと思うくらいに驚いてしまう。


 サっちゃんは、あろうことか、信じられないことに、その女性の手をぎゅうっと握って手をつないだままでいて、私にだって一度も見せたことのない、すがるような表情をしてその大女の顔を見上げると、その愛らしい唇から私がきっと一番聞きたくなかった名前を、サっちゃんは口にした。


「ミサキ……わかる?」

 あの人が、ミサキ!?

「ああ、わかるよ……確かに、いる」


 どうしたわけか、ミサキは私の目をまっすぐに見つめていて、こんな風に見つめて欲しかったのは、この女なんかじゃなくて大好きな私のサっちゃんなのに、どうしてサっちゃんこっちを見ないで大女のほうばかりを見ているのと、とてもとってもイヤな気持ちになったけれど、サっちゃんの大切なお友達には違いないのだから、私は暗い気持ちを頑張って抑え込んで、初めて会うミサキさんに、丁寧な挨拶をすることにした。


「こんにちは、はじめまして、私がサっちゃんと一緒に暮らしている――ぎゃぁあぁ!」

 私は大大大嫌いなミサキに、せっかく大大大好きなサっちゃんのためだからと、イヤな気持ちを精一杯に堪えて、一生懸命丁寧な挨拶をしていただけなのに、あろうことかこのミサキは、何か意味の分からない気持ち悪い言葉を呟いたかと思うと、私に向って白い粉のようなものを投げつけてきたのだ。


 白いのが私の痩せギスの体にまぶされた途端、体中のあちこちに酷い痛みが走って、焼け爛れるみたいになって、しゅうしゅうと肉の焼けるようなイヤな臭いが立ち昇って、私は知らない人と話すのがとても苦手なのに、がんばって自分の名前を伝えようとしたのを遮られた上に、ひどい苦痛を味わってしまい、我を忘れてどうしようもなく、腹の底から怒りの声をあげてしまった。


「お前がーあっ、ミサキっ、ミサキミサキミサキミサキミサキっ!」


 サっちゃんが、ひどく怯えた顔をして、きつく目を閉じたまま、ミサキの後ろで震えていた。私が声を荒らげたものだから、サっちゃんをあんなに怖がらせてしまったんだ……ごめんねサっちゃん、サっちゃんに怒ったんじゃないんだよ、ミサキが私に酷いことをするから、それで思わず声をあげてしまったの、サっちゃん怖がらないで、お願いだからその人から離れて私のところに戻って来て「サっちゃん、一緒にいてくれないと、私とっても寂しいよ、一緒にいようよ、私はここにいるからね、いつまでもいつまでも、私はあなたと一緒にいたいの、一緒に居たいだけなの、お願いだから、私をひとりにしないで、ねえ、大好きなの大好きだから、私のサっちゃん、大好きな私のサっちゃん、サっちゃんサっちゃんサっちゃん……」


 泣きじゃくって取りすがって、それでもミサキが白いのを投げてきて、気持ち悪い言葉を次々に私にぶつけてきて、そのたびに私の体は真っ赤に燃えて、燃えて燃えて燃え尽きてしまうようだけど、細い身体から力を振り絞って、腕を伸ばして、手を伸ばして、指先を伸ばして、伸びるものなら爪先だって伸ばそうとして、サっちゃんの目をしっかりとみつめて、でもサっちゃんは一度だって私の目を見てくれず、この腕にサっちゃんの全てを抱きしめようと、取り込もうと、枯れ枝のような足を前へ前へと進めていった。


 ミサキはとうとう、めちゃくちゃに慌てた様子で取り乱してしまい、サっちゃんもなにがなにやら分からない顔ですごく混乱してみせて、とにかくばたばたしっちゃかめっちゃかになりながら、ミサキがか細いサっちゃんの腕を無理矢理に引っ張ると、ふらふらに足を縺れさせながら、やっとこさっとこ倒れないように、歩くやら走るやらしながらアパートの扉に手をかけて、ガチャリとドアノブを回し、跳ね飛んでしまうかと思うほどの勢いで扉を開け放つと、なんだかよく聞き取れないわけのわからない声をふたりして、なんだかかんだかと喚き散らかしながら、そのままサっちゃんはミサキと出て行ってしまった。


 私はいったい何が起こったのか、私が何か悪いことをしたはずがないのだから、どうしてこんなことになったのか、心底わけがわからなくなって、わあわあおうおうと泣き出してしまい、近所に聞こえてしまうことなんてひとつも思いもせずに大声をあげて、泣きに泣いて喚くに喚き、そのうちにミサキを呪うどす黒い言葉をありとあらゆる古今の文言を尽くしてありったけ吐きだし、ぎゅうぎゅうにすりつぶして、練りに練り上げて言霊に込め解き放つと、そのうちにふつふつとサっちゃんを心配する気持ちが湧いてきて、もうどうしたらよいのか本当に分からなくなってしまい、へたへたと床にへたり込んで、ぐったりと押し黙ってしまった。


 涙がぼろポロぱたパタ床に落ちて跳ねる音だけが、私の嗚咽に交じって誰もいなくなったお部屋に木霊して、私の気持ちはどんどん冷えていってしまい、だんだん眠たくなってきて――やがて目の前が真っ暗闇になって――。



 私は何も無いがらんとしたお部屋で、独りぼっちでいた。

 いったいどうしてここにいるのかしら? 独りでいるのは、イヤなのに。

 誰か来てくれないかなあ――。

 誰か一緒にいてくれるといいのになあ――。

 私と一緒に居てくれたら、いっぱい尽くして幸せにしてあげるのに。

 ただ、それだけを、そればっかりを、考えて。

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