禁陵さんは遍在する

雑句

禁陵さんは遍在する

 私がその名を初めて耳にしたのは十代の半ば、秋分が迫る頃のことでした。


 当時の私はと言えばひどくぼんやりとした少女時代を送っており、ともすれば虐めの対象になっても不思議ではない程に抜けた子どもだったのです。そんな私が、人より数歩ばかり遅れつつも傍輩達と馴染めていたのは、ひとえに一番の親友がしっかりものの美津ちゃんであったからでしょう。

 彼女は女三人、男二人という五人きょうだいの長女で、我が家のすぐ向かいの家で暮らしていました。男勝りで活発ながら、年下や女の子達には面倒見の良さを発揮して、引っ込み思案でおっとりとした私のことまできょうだいの内であるように可愛がってくれたのです。


「あんた、もうちょっとしっかりしなよね」


 なんて、姐さんぶって顎を逸らしながら注意しつつも、美津ちゃんは何くれとなく頼りない私の世話を焼いてくれました。


 あそこの薮で野犬が出たから当分近付かない方がよい。

 級友の誰某の憧れの人は上級生の何とかいう人らしい。

 巷ではこれが流行っていて傍輩達が夢中になっている。


 彼女から齎される色んな噂話が無ければ、私は目の回る学生生活の中で、ぽつんと中洲にひとり取り残されるような心許なさを味わったことでしょう。


 なので必然、美津ちゃんに教えてもらうまで、私がその名前を聞くことはなかったのです。


「禁陵さん?」

「そう。今、うちの学校中でもちきりなの。知らない?」


 その風変わりな響きに、けれども学校でもちきりだと言うから、当初はてっきり歌手か俳優の類かと思いました。そういったものに疎い私は耳にした事がある筈もなく。つんと澄ました彼女へ首を左右に振れば、「だと思った」と途端に破顔して語ってくれました。


 曰く、「禁陵さん」は誰も教えてくれないことを教えてくれるのだと。


「コックリさんみたいなもんだよ。でもあれより凄いって。他校の子から聞いたって子もいるから、他所でも流行ってるんだと思う。あ、だけど試験の中身は教えて貰えなかったって。お説教されたらしいよ」

「お説教してくるコックリさんなんて初めて聞いた」

「だからコックリさんじゃないんだってば。禁陵さん」


 当時は今よりもずっと娯楽が少ない時代でした。なのでありきたりな怪談話など、流感のように広まることも珍しくはありません。

 美津ちゃんが言うに、禁陵さんには幾つもの決まりがあるそうです。


 ひとつ。禁陵さんを呼ぶ儀式を行う時は、必ずひとりきりでなければならない。

 ひとつ。禁陵さんへの質問は紙に書いて用意しておくこと。

 ひとつ。質問は複数あってもよいが、紙一枚に収めなければならない。

 ひとつ。鉛筆は先が尖った削り立てのものを使うこと。

 ひとつ。儀式に使ったものは、必ず禁陵さんの指示に従って破棄すること…


 ひとつ。ひとつ。ひとつ。


 全部で幾つあったでしょうか。私はなんだか途中からぽかんとしてしまって、注意事項の全てを頭に納めることが出来ませんでした。きっと、彼女の勢いに気圧されてしまったのでしょう。

 美津ちゃんはきりりとした面差しに興奮の色を乗せて、途中から捲し立てるような口調になっていました。熱狂の気配が、残暑なぞよりも余程じりじりと肌に伝うようです。遠くで気怠げに鳴く茅蜩の声が、そらぞらしく響いていました。傾き始めた秋の陽射しが美津ちゃんの肌を赤く染めて、黒いセーラー服をより黒に沈めていました。大きな目をらんらんと光らせながら、少しばかり大仰な身振り手振りも交えて私へと説く、その有り様。それらにどことなく見覚えがある気がして、話の内容から意識は逸れてゆくのです。

 何だったかしらと首を傾げて数秒。すとん、と胸に落ちるように気付きました。


 ──かみさまのことを語る人が、こんな目をしていた、と。


「美津ちゃん」

「なあに?」

「美津ちゃんは、禁陵さんに何か教えてもらったの?」


 珍しくも、私が彼女の言葉を遮って質問したからでしょうか。美津ちゃんはちょっとの間不思議そうに私の顔をまじまじと見つめてから、赤い唇の端をきゅうっと上げて、どこか自慢げな笑みを浮かべました。


「内緒」



◼︎



 なるほど、噂を一度聞いてしまえば、学内は確かに「禁陵さん」に纏わる話で溢れていることに気付きます。決して大人の耳には入らないように、けれども男女の区別なく。あれを聞いた、これを教えてもらった、と。


 誰某と誰某が懇ろと噂があるが双方に恋愛感情はない。

 音楽や芸能などを解するということは全く簡単でない。

 とある少年漫画の週刊誌は巻末から先に読むのがよい。


 私にしてみればてんで意味の分からない言葉も沢山ありました。ですが皆が皆、口を揃えては「誰も教えてくれないことを禁陵さんが教えてくれた」と喜びます。


「禁陵さんがこんな面白いことを言っていた」

「禁陵さんの声を聞いた。男性のようだった」

「禁陵さんは女の子の声でも話す事ができる」

「禁陵さんはどうやら関西に縁があるらしい」

「禁陵さんはこの世の全てをお見通しなんだ」


 いつしか皆の噂は、禁陵さんそのものへと遷っていきました。私がやはりそれをぽかんと口を開けながら眺めている内に、ひとびとの熱狂は増していくのです。


 ある女子生徒は、目に憧憬を浮かべながら言いました。


「私、この間学校の部室でこっそり禁陵さんをしたの。私の質問に丁寧に答えてくださった後、お帰り願おうとしたのね。そうしたらその直前に、紙の端の方に『気いつけて帰りや』って。不思議ね、いつも口語で答えたりなんてなさらないのに。どうしてだかその一言だけ、質問と全く関係なしに書き記してくださって。その帰り、もうすっかり暗くなった時分だったんだけど。あれは何だったのかしらと思って田んぼ沿いの道を歩いていたら、灯りのない自転車に轢かれそうになったのよ。幸い、ぶつかる直前に気付いて避けたのだけれど、側溝に足を突っ込んでしまって。自転車の人は私なんて放って、そのまま走って行くものだからこっぴどく腹が立ったのよ。でも、私が声を上げるより先にものすごい剣幕の怒鳴り声が響いたの。『何をしとんねん!女子供を轢きかけたんやぞ!』って。どこかのおじさんが見ててくれたのかしらと思ったのだけど、辺りが暗いのもあってそれらしい人影は見えないし、どこから声がしたのかも分からなくて。他にも色々…、うーん、凄い事を言って怒ってくれてたわ。自転車の人はびっくりしたみたいに、よろよろしながら一目散にどこかへ行っちゃったけど、声がまるでその人を追い立てるみたいで。あんまり不思議で、私ったらしばらくそのまま見送ってしまったわ…。でも私ね、ああして怒ってくれたのは禁陵さんじゃないかって思ってるの。本当よ?」


 ある男子生徒は、目に好奇を浮かべながら言いました。


「実は俺、禁陵さんの影を見たことがあるんだよね。家じゃ親父にあれしろこれしろって言われておちおち課題も出来ないからさ、学校に居残って済ませてたんだけど。そろそろ帰るかって片付けてたら、隣の教室から『禁陵さん、ありがとうございました!』って声が聞こえてきて、ああなるほど誰かが儀式してたんだなって気づいたんだ。一応、帰ってもらった後なら人に会っても大丈夫なんだろうけど、ちょっと気まずいじゃん?だからそのまま自分の机に座って、息潜めてたんだよ。そしたら、見ちゃった。廊下にさ、やたらデカい影が通ったんだ。いくら夕方だからって、変に長い影が伸びてさ。しかもそれがどうにも、人の格好には見えなかったんだよね。頭が丸くて、でも肩みたいなとこが無くて、がっしりして、ちょっとした小山みたいな…。ずるずるって、何かを引き摺るみたいな音までしてさ。そん時はなんか、見ちゃいけないもの見たような気分になって固まってたんだけど、後から思うと勿体無いことしたかなぁ。あれ、きっと禁陵さんだよ」


 ある人は禁陵さんが人の倍ほども身丈のある神獣だと言い、またある人は全知全能の存在だと言います。ともすれば、禁陵さんは昔どこかの学校に通っていた少女なのだとか、遥かな空の上から私たちを見守る超常的存在なのだとか語る人々もいました。はたまた、禁陵さんはその名の通り、封印された丘の上に留まっておられるのだとも。

 まるでおのおのの頭の中に、それぞれの禁陵さんがいるようだと私などは思ったものです。それとも遍く全てに、禁陵さんというものがあるのでしょうか。


 彼らの熱は、上級生のひとりが作文で賞を取ってから更に加速しました。穏やかな笑みを湛えた彼は、級友達にこう話したそうです。


「僕が賞を取れたのは禁陵さんのお陰だよ。元々、これは禁陵さんへのお礼のつもりで書いた作文だったんだ。うっかり提出物と混ざってしまったのが先生の目に留まって、大ごとになってしまったけど…。禁陵さんのことを考えてると、どんどん文章が湧いてくるんだ。きっと、禁陵さん…いや、禁陵様からの託宣のお陰でどんないいことがあったか、どんな風に僕が感謝しているのか、毎回奉納していたからかな。それはもう、書けば書く程湧き出てくるみたいな心地なんだ…」


 うっとりとした、どこか夢見心地でさえある彼の言葉に、皆が筆を執りました。儀式の度にお礼の言葉を口にしてこそいたものの、その上級生のように『奉納』という形でお礼や報告をしていた人はいなかったそうです。

 この出来事をきっかけに禁陵さんは禁陵様になり、儀式の際の決まり事には必ずお礼の手紙を供えるというものが追加されました。そしてそれはいつしか、禁陵様を讃えた、或いは禁陵様の活躍を描いた文章や絵画を供えると素晴らしい才能を授かる、という風に噂も変わっていったのです。


 学生達は誰も彼も禁陵様のことで頭がいっぱいで、授業の折もうんうん唸りながら禁陵様へよりよい文章を奉納しようと躍起になり、先生方の話なんて聞いていませんでした。授業なんかでは教えてくれないことを、禁陵様は教えてくれるからです。

 すっかり統制の取れなくなった生徒に疲れ切った先生方が、惰性のままうつろに教科書を読み上げるのがその頃の授業風景でした。級友達が黒板の文字に見向きもしない中で、私はぽつねんと朗読の声を聞いていました。


 私にあれこれとものを教えてくれる美津ちゃんはもういません。彼女は熱に浮かされたように、禁陵様へ捧げる詩をごりごりと書き綴るばかりです。脇目も振らず、目を赤く血走らせながら。

 愚鈍な私へものの道理を語るより、禁陵様というものから言葉を賜る方が、彼女にとって心地よくなってしまったのでしょうから。これも仕方のないことでした。


 けれども私とて、一度は美津ちゃんに縋ったのです。


「今日、禁陵様の儀式するから一緒には帰れない」


 あっさりと言い放つ彼女に、寂しいと。このところ随分、二人でゆっくり話すことすらしていない。美津ちゃんの小母さんも、近頃帰りが遅いと心配している。彼女の弟妹達も寂しがっている、と。

 辿々しく話す私に美津ちゃんはいっそ冷ややかな笑みを見せて、「だから?」などと宣いました。


「仕方ないでしょ、家じゃ出来ないんだから。あんなとこ、一人になれる部屋なんてありゃしない。母さんはあたしに家事させるし、ちび達には絶対邪魔されるし。いちいちトロ臭いあんたといるよりも、禁陵様とお喋りする方がずうっと良いんだから」


 まるで、なにか硬いもので頭を殴られたような心地でした。がん、と衝撃すら走った錯覚を得て、胸の奥のほうがどくどく言い出して。鼻がつんとした辺りで、美津ちゃんはえらく意地悪そうな顔で笑います。


「禁陵様に聞いたの。鬱陶しい幼馴染に纏わり付かれないようにするにはどうしたらいいですかって。河原で四角い石をふたつ探してね、嫌なやつの家の玄関先に積むだけ。それでおしまい。難しいことなんてなんにもないの、それだけであんたといつでもお別れ出来るのよ。あたしには禁陵様がいるから、もうあんたはいらない。さっさと出てってよね。この教室、あたしが使うんだから」


 恥ずかしながら、そこからどうやって校舎を出たのかは随分と朧げでした。ただ気が付けば、私はただひとり、夕暮れの川縁にぼうっと佇んでいたのです。

 ええ、ええ、知っていました。禁陵様などというものに聞くまでもなく、彼女が、内心で私を疎んでいたことは。それでも私は、美津ちゃんを親友だと思っていたのです。だって、彼女とて私の他に友人と呼べる相手などいなかったのですから。


 面倒見が良くともお節介で、少しばかり物言いのきつい美津ちゃんは、思春期に入った辺りから周りに敬遠されるようになっていきました。本人は持ち前の勝ち気さで、完全に交流を絶ったつもりもなく傍輩達に話し掛けてはいましたが。

 周囲との軋轢が増えるごとに、彼女は私に依存していきました。「あんたはあたしがいないと駄目なんだから」と事あるごとに口にして、私が他の級友と話そうとすれば「この子にはあたしが教えるから」と引き剥がして。

 美津ちゃんのお陰でひとりぽっちでなかった私は、美津ちゃんのせいでふたりぽっちでした。

 それでも、あんなにもしっかりもので、頼り甲斐のある美津ちゃんがさも私しかいないように振る舞うものですから、私は私で仄暗い優越感を満たしてもいたのです。私達はまさしく破れ鍋に綴じ蓋であったのでしょう。


 けれども、私の蓋はどこかにいってしまいました。綴じ目もないほど綺麗に繕える得体の知れない何かがあるから、破れたままの愚鈍な鍋など要らないと。そのままそこで捨てられていればいいと。


 なんて愚かな私の美津ちゃん。自分が友人を捨てることはあっても、まさか私に捨てられるなんて、きっと彼女は夢にも思っていない。

 いつでもお別れできる、だなんて。自分にだけその権利があるだなんて。


 ふらふらと河原の石が転がる辺りへ彷徨い出た私は、赤い斜陽の中で四角い石を探しました。どこもかしこも真っ赤に染まる中、角の取れた丸い石を掻き分けて手を伸ばす私は、さぞかし滑稽だったことでしょう。

 けれども幸い人に見咎められるということもなく、なんとか日が落ち切る前。直方形…というには些か歪ですが、崩れずに積み上げられそうな掌ほどの大きさの石をふたつ、河原の隅っこから拾い上げました。


「ばいばい、美津ちゃん」


 美津ちゃんの家の玄関先。彼女の家族が蹴り飛ばしてしまわないよう、植木鉢の影の辺り。私はそうっと石を積み上げて、幼い頃からの友人に別れを告げました。




◼︎




「何だか恥ずかしいわ。あの頃は本当に、私も子供だったんだと思います。あんなことでやり返した気になって」


 ころころと上品に笑うのは、そろそろ初老に差し掛かろうかという年頃の婦人だった。彼女は小説家志望である僕の友人の叔母君で、「子供の頃に経験した不思議な話を聞きたい」という取材に応じてくれた一人だ。

 彼女との会合に選んだ喫茶店は空調がよく効いていて、粟立つ肌を誤魔化すように僕は捲り上げていたワイシャツの袖を手首まで下ろした。


「でも、こんなお話で参考になりましたかしら。つい、友人の話まで余計にお喋りしてしまって…。大して怖くなかったかもしれませんね」

「いえ、とんでもないです。コックリさんの亜種なんかは本当に幾つもあるので、どれだけ例があっても有難いです。ご友人のことも、当時の空気感のひとつとして受け止めさせていただきました」


 事実として、コックリさんを遊んだ子供達の中で集団ヒステリーが起きた例は複数ある。彼女の語った『美津ちゃん』は、そんな中の一人だったのかもしれない。


「ちなみに、その後ご友人とは?」

「喧嘩別れみたいなものでしたし、殆ど口も利かないまま疎遠になりました。ちょうど、と言っていいのか分かりませんが、その年の冬に父の兄が体を壊してしまって。実家の商売を継ぐ為に、一家揃って次の年度になる前に他の地方へ引っ越したんです。だからそれっきり、すっぱり縁も切れました。あの頃は、禁陵様のお力かしらなんて思ったこともありましたね」

「あの頃は、ということは、今はそう思っておられない?」

「ええ。伯父の不調は数年前から患っていた持病の悪化でしたし、それが又聞きのおまじないをした結果だなんて。因果を見出すには、少し無理筋じゃないかしらと思っております」

「そう、ですよね。…ではあなたは、『禁陵様』は何だったと思いますか?」

「さあ…。色んなことを言う人がいましたけれど、私にはどれもぴんとこなくって」


 彼女は目尻に柔和な皺を刻んで、おっとりと微笑んだ。当時を思い出しながら話しているのだろう、その口調は緩やかだ。


「だってね、あの儀式はひとりでするものだとみんな言っていました。だから、禁陵さんが教えてくれたことも、その人しか知らないの。それだと、儀式が上手くいったか分かるのも自分だけ。儀式に使うものも、処分の仕方はその時々で変わったそうですけれど…、燃やしたり、流したり、捨てたり。処分することには変わりませんでしょう。質問の中身も、答えも、儀式をした本人しか主張できないんです」


 なのに誰もが禁陵様に教えてもらった、禁陵様のお陰だと口を揃えて主張する。それが異様であったと彼女は言う。


「見たものも聞いたものも違うのに、そのどれもが禁陵さんなんですって。お互いに食い違うようなことを言っていても、どちらも間違っていないと。誰が嘘をついていてもおかしくない状況だったでしょうに。それが、私にはどうにもしっくり来なくって。もし私自身が儀式に手を出していたら、私の禁陵さんが現れたのかも知れないですけれど…、なんて。きっと、誰かが言い出した幻だったんだと思います。悪ふざけだとか、こうだったら面白いのに、だとか。みんながみんな、自分でそれに肉付けをしていって、それぞれの中に遍在した幻を見ていた…。禁陵さんってね、きっと夢の名前なんですよ。だからみんな見るものが違って、でも誰もそれを否定はしなかった。夢見たものを繰り返し形にしていたから、段々と上手くなって。その結果だけを掬い上げられて、あの先輩は才能を授かったと思ってしまったのかもしれません。そうして、みんなが禁陵さんの活躍を書き始める内に、熱に呑まれてしまったんでしょう。…あの年の夏は随分と暑かったから。秋になって現れた、季節外れの陽炎みたいなものです」


 そう告げる彼女の言葉に迷いはなく、禁陵様に纏わる出来事はとうに過去のことなのだろうと僕にも理解できた。

 彼女にとっての禁陵様は、幻のような捉えどころのない、よく分からないもののまま終わったのだ。神様でも、恐ろしいものでもなく。彼女は夢を見なかった。

 だからこの人の前には、もう禁陵様は現れないだろう。



◼︎



 友人の叔母君に改めてお礼を伝えた後、喫茶店を出たところで彼女とは別れた。我知らず、緊張で固まっていた肩を少し回してから自分のスマホを取り出す。

 あるSNSで、数ヶ月前くらいから見ているひとつのアカウントがあった。

 たまたま流れてきた、ちょっと妙ないじられ方をしている面白いアカウント、くらいの認識だったそれをフォローしたのはほんの気まぐれだ。当のアカウントや周りの人たちのやり取りが楽しそうだったから、興味が湧いて。

 その人が実は人間ではないだとか、筋者だとか、うら若き少女だとか。最初から皆が与太話だと分かって和気藹々と楽しんでいる、そんなもののはず、だった。


 ただ、ここしばらくの間はやり取りの流れがなんだかおかしい。

 某氏の活躍を書きましたと、何人もの人がSNSや投稿サイトに文章を書き込んでいる。某氏をモデルにしました、某氏に着想を得ました、某氏のお陰で書けました。

 内容は多種多様であり、一人の人物をベースに作ったとは思えないような…けれどもそれらは間違いなく、その人物に纏わる物語で。中には彼の物語を日々書き続けたお陰で、小説賞を獲得したと語るアカウントまであった。


 僕は小説家志望だ。けれど、未だかつてまだ芳しい評価が得られたことはない。新人賞に応募しても鳴かず飛ばず、投稿サイトに作品をアップしても評価は一桁つけば良いところ。だから、こうして話題になっている人に乗っかれば、もしかして僕の作品も少しくらい見てもらえるんじゃないかと──。


 遍く人の脳裏に存在する幻。彼の為した出来事を形にして奉納すると、素晴らしい才能が得られるという。


 そんなはずはない。だって、禁陵様なんてあるはずない。僕はただ、小説のネタを取材するために彼女と会っただけなのだから。数十年前、まだあの人が女学生だった頃に起きた、コックリさんのようなものを教えてくれると言われて。彼女自身、あれは夢幻のようなものだと言っていたじゃないか。

 それに、彼に宛てられた小説やファンアートだって、あれらはただの悪ふざけで。まさか彼の活躍を描いたなんて、そんなことがあるはずないのだ。そんなはずない、だってあの人はただの一般男性で、だから作品に出て来るようなことはできないはずで。


 あの年の夏は随分と暑かったから、と、婦人の穏やかな声が脳内で嘯いた。そうですね、と、魘されるように僕は頷く。今年の夏は、随分と暑かった。


 震える指でSNSのアプリをタップする。フォロー欄から、某氏のアカウントを開いた。


 たとえその名前の音が禁陵トドオカ様と同じでも、関係なんてないはずだ。

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禁陵さんは遍在する 雑句 @MaryLewis

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