八畔神ーやくろがみー

褥木 縁

八畔神ーやくろがみー

 その山を取り囲むように、その山だけを避けて通る様に四方八方が燃えている。そう、焼けている。


 読んで字の如く、焼け野原とその上に横たわる戦人いくさびとの死体。その数、百では収まらず、千を遠に超え、何万と広がっていた。さながら地獄絵図という言葉が合うも合ったり、更に言わせてもらうとするなら地獄みたいと言うより地獄そのものと言った光景だった。


 地に刺さる日本刀。血濡れの手に握られた重藤弓しげとうゆみやじり穿うがたれくだけたかぶと

 いつ来るかもわからない天下泰平てんかたいへいへの想いのもと散っていったであろう何万もの死体達を踏みつけ、中央から見下ろす山に向かう項垂うなだれた落ち武者が一人。


 死体の足を踏んで骨を折り、死体の首を踏んで肉を潰し、頭蓋が足に触れようものなら、ええい塵芥ちりあくたじゃ。と蹴り飛ばす。死体を死骸に変えんばかりか、気にすることもなく山に向かう。




 人心無じんしんなくしてやるや人外じんがい



 この男につける言葉としては似合いすぎるほどに似合っている言葉ではあるが、この男も戦の生き残り。死んでいった者と同じ様に、いな、死んでいった者以上に生き残ってしまったがゆえに苦しく、死者をとむらいつくしむ余裕が無いのも致し方なし。


 目指すは山頂。


 とは言うまい。

 隠れられればなんだっていい。高いところじゃなく深い所。川の近くなら尚も良し。鎧もげ落ち、背中には刀傷。名誉なんてものはない。ほまれなんてものも無い。恥を気にして死ぬなら、恥を忍んで生きていく。それが戦で死にきれなかった一人の落ち武者の。



 生き地獄なのだ。



 ◯

 真宵山ーまよいやまー。

 原生する木々の1つ1つが大きく高い為、昼でも射陽しゃようさえぎり黄昏時を彷彿させるほど薄暗く、朝日を弾き夕日を飲み込む。そう言われる程に光を全くもって受け付けない事から異名が付いた日ノ本名霊山ひのもとめいれいざんの1つである。その異常な特性が故、神域として外から拝む者はいれど、足を踏み入れる者は愚か、近づく者すらもまれである。


 中の風景はもう神域と言うより異界と言っていい。


 「黄昏時だぁ?いやいや、のぼせてちゃいけないぜ旅の人。ありゃどちらかと言うと逢魔ヶ時だ。常にな。怖いぜ、恐いぜ。」

 近くに住む村民の言である。


 そんな噂を気にもせず、意にも介さず。その鎧なき負け武人は林をき分け入っていく。奥へ、奥へ、その奥へと。

 暗い木々の間に1つの光をその男は見た。

 蛍火か、篝火かがりびか。


「わしと同じ考えの輩がおるようじゃ…。堂々と火を焚いてまるで他の人間は居ないであろうと高を括ったような考えの持ち主じゃ。」


 相対したなら切り捨てるのもいたし方なし。そう吐き捨てゆっくりと距離を詰める男。近づく視線。その時にやっと判断が出来た。

 それは火を焚いている人間なんて言う可愛いものではなかった。


 鹿。否、鹿神と言ったほうが正しいと思えるほど、神々しい光をまとった八角八足はっかくはっそくの白い子鹿だった。

 薄闇を弾き、凛として立つ姿には1つの違和感があった。


 尻尾の下。後ろ足のももの部分に三本の矢が刺さって黄色い血を流していた。

 黄金とも呼べる程に輝いた異様な血。

 

 見れば見るほど、見れば見るだけこの世の理とはかけ離れた事象。もはやそれは創造と言うべき生き物。否、物怪もののけを前に男の頭の中は戦から生き残るなどと命に関わる考えはするりと抜け落ち、あの血とあの見た目。とらえて見せ物にしてやればさぞ儲けるだろうと欲のままに思考を駆け巡らせていた。


 だが男は躊躇ちゅうちょした。動揺した。

 

 普通、あれだけ矢を受けていれば、足を引きり、息が上がり、狼狽ろうばいする様に暴れるはずだ。

 それは痛みという感覚に対して人間が、動物が、生物が持っていなければ。否、備わっていなければいけない危機反応と言うべきか、生存本能と言うべき悪意ある刺激に対しての反応が、対応があるはずなのだ。


 それを白鹿はくろくはしなかった。まるで矢を受けていないかの様に、気にすることも足を気にかける事もせず。むしろ強く鋭い目線と目つきでこの男を見ていたのだ。


 何度も言おう、何度だって言おう。男は……躊躇した。


 自分と同じ様に傷を負って怪我を背負っている万全とは言えない動物を目の前に、同情・慈愛じあいこそするべき状況で。醜悪しゅうあくで罪と欲が深すぎる望み。否、たくらみを持った事を見透かされたような気がしたからだ……。


 

 その赤い目が…、怖くなったのだ。


 ○

 白鹿の後ろ脚に刺さった矢を放った主犯は山賊だった。山賊という言葉で表現して良いものかもわからない程に少人数であったが。


 その数、3人。山賊というより今の言葉で言ってしまえばチンピラと言って捨てた方がいささかあっている。似合っている程に見窄みすぼらしい身姿みすがたの痩せぎすの男達がいた。


 珍しい鹿を見て考える事は、目線の先で鹿と見合っている、今、巻き起こっている大乱の残党らしき風貌の男と大して変わらない。


 殺して素材として高く売る。

 単純にこれである。

 

 3人よれば文殊もんじゅの知恵とはよく言うものだが、そんな下賎げせんな人間が寄り合っても降りてくるのは菩薩ぼさつではなく悪鬼である。

 そしてその醜き鬼が授けるのは浅はかな悪知恵だけだ。


 その三人の男は知っていた。普段殺し慣れている鹿でさえ弓矢だけで、弓矢のみで殺しきる事はほとんどありえない事を。

 

 この三人の話をしよう。かの落ち武者とは違うがこの三人も大乱の犠牲者ではあった。


 一人の男は片親の母を亡くし。

 一人の男は二人の親友を亡くし。

 一人の男は三人の子供を亡くした。


 悲劇。惨劇。残酷劇。白鹿を狙う三人の男も、かつては好青年と呼ばれる飛ぶ弓矢の様に真っ直ぐな男たちだった。住む村では腕の立つ狩人かりうどの一人だったのだ。それぞれが。


 一週間。


 一週間かけて村は少しずつ無くなっていった。一層の事、一日で終わっていれば救いもあったかもしれない。だがそうはならなかった。大乱で食べる物も、戦う者も削られていた一軍が男たちの村を襲った。


 大物狩りで村を離れていた三人が帰ってくる頃には人はおらず、食べ物もなし。嫌な考えを助長じょちょうさせるだけの血の跡。

 ゆがんだ、ねじれた、捩じ切れたねじきれた。男たちの心が。そして赤く、黒く染まった心は狩人から落人おちうどに姿を変えたのだった。


 ◯

 相対する四人。否、一人と三人。白い子鹿に魅せられ、心を入れ替え、か弱きを守ろうと決めた負け武人。赤黒く染まった心は会心を知らず。悪魔・悪鬼・悪霊に魅入られた三人の落人。結果は早かった。




 多勢に無勢。

 


 世にはこんな言葉がある。技術や個の能力を数で補い、数で圧倒し圧殺あっさつする。それがまかり通り、それを良しとするための言葉が。だが言わせてもらうとするならそれは数で埋まる程度の能力差しか無い時のみ、力を持つ言葉であり状況である。この四人には。否、三人ではその言葉を使うにはあまりにも脆弱ぜいじゃくだった。


 落ちた首は3つ。横に転がる鎌となたもり


 力が吐出していた訳ではない。

 知識が無かった訳ではない。

 経験が少なかった訳ではない。


 ただただ、遠慮・躊躇・戸惑い。それらが相手たる負け武人には無かっただけの話だった。

 そう、人を斬り殺すという事に。

 

 言い方を変えるとするなら、見方を変えるとするなら、優しい方が負けた。そうゆうことになる。死の間際で三人は命と引換えに心を…取り戻したのだろう…。


 


 木にもたれ掛かり、刀と肩の荷を降ろした一人の負傷兵に白く幼い八角の子鹿は寄り添い、柘榴ざくろの様な赤い目から金が溶けたような綺麗な涙を流す。その顔を負け武人に近づけ、啜れすすれと言わんばかりに鼻を上下に揺らす。それを察したのか負け武人は『ありがたや。まことありがたいことじゃ。』と雫を両手に溜め、一息に飲み干した。


 不思議や不思議。当たり前といえば当たり前。傷が塞がり、れがひいた。返り血も流れ落ち、血生臭さも霧散むさんしていった。知ってか知らずか、身綺麗になった男は両の手を合わせ、この山と白鹿を始め、この山に住まう生き物を守り続けると誓い瞼を閉じる。その姿は眼の前の白鹿に合掌をしているようだったと。


 男が目を開けた時。眼の前にいた八角八足の白鹿の姿はもう無かったという。




 ◯

 って言うのが、おじいちゃんがいつも私に話してくれる真宵山に関しての伝承だ。あーあ、もう何回・何十回も聞かされた、聞き慣れた話だ。小さい頃から成人をたどって社会人になった今の今までずーっと。


 わかる。わかるよ。確かに私の家系。大可鹿おかろく家が土地として管理している山なんだもんさ。それは愛着も湧くだろうし、信心深くなるのも理解出来る。私も全然信じてないって訳じゃないし、もし本当ならすごい素敵だとは思うけれど盲信もうしんまではしていない。所々矛盾も見え隠れしているし。


 伝承の時代が戦国時代だっていうんなら武将や軍が村を襲うことなんてほぼ無いし、なんなら逆。村民が落ち武者狩りや追い剥ぎをすることの方が多かったなんて文献ぶんけんすらあるのに。

 まぁそんな小さい辻褄つじつまのズレなんて言い出したらきりが無いし、日本にあるほとんどの伝承や神話なんて矛盾だらけになっちゃってしまうじゃない。でもなぁ…。おじいちゃんってあの話をする時、すごい楽しそうに、誇らしそうにお話しちゃうんだもん。


 「そうだぁ?ここからだんべ。」

 「なんだって?ボンベ?」



 「だーんーべっ!ここから!よぉ聞きなぁよ!それがよ~。」

 「どれだぁよぉ?じっちゃん。」


 こんな調子で続けるから可愛くって最後まで聞いちゃうんだけれど。


 って今の今まで直に聞いてきた様に話しているけれどそれはいつもの、そう家族皆が、親族全員が起きて団欒だんらんを繰り広げている時のお話なんだよね。


 今はそうじゃない。なんだって今は早朝そうちょう、夜明けであり朝焼け始めの午前5時。今から仕事って訳でもなく、なんなら今日はお休み。華の金曜日を過ぎたつぼみの土曜日だ。折角の休みにゆっくりもせず、せかせかと愛車のバイク。クロスカブ110を引っ張り出して、乗る前の点検と拭き掃除をしていると車庫とキッチンをへだてる扉が開いた。


「ねぇ、文日ふみか。またツーリング?あんたも変わってるわね。そのバイク買ってからずっとじゃない。好きなのはわかるし否定はしないけど。」

 

 大きな欠伸を混ぜながら、いかにも今起きましたよって感じで声をかけて来たのは唯一の理解者。いや理解というより妥協というのかな。なんにしても、全員がめた真宵山へのツーリングに行くことを呆れながらも止めなかった一人。


 お母さんだった。

 

「あ、もうおきたの?早いね。」

「あんたほどじゃないわよ。朝の支度もあるんだから。」


 そっか、とそっけなく返してヘルメットを被る。


「ねぇ、おじいちゃんは真宵山の伝承を語るのは好きだけど、むやみにあの山に向かうのは良くないって口酸っぱく言ってるじゃない。毎回あんたが休みの日、朝ご飯のたびにバイクがない理由を誤魔化すお母さんの身にもなってよ。」


「それは凄く感謝してる。ありがとう。でもやめられないんだー。朝の山って気持ちがいいもの。それにあたしの山でもあるんだから。」


 親族全員のね。そう付け足し欠伸を噛み殺す母さんは、お礼を言われて少し。ほんの少し嬉しそうな呆れ顔を私に向けた。


「早く戻るのよ。帰ってきたらおじいちゃんに弁明べんめいしておきなさいよ。上手く言っておくから。」

「わかった。ありがとう。行ってきます。」


 またがった愛車の具合は悪くない。お母さんに見守られながら私は家をあとにした。



 冷たい金属が腿に当たる感触とグリップを捻ったぶん強く当たる向かい風の感覚。実家を出てまだ寝静まっている人々と、静まり返った町を分断するように伸びる国道。

 車どころか人一人ひとひとり居ない車道を一時間ほど爆走した後に、囲む山々の中で一際ひときわ大きく高い山のふもとについて、缶コーヒーを飲んで一息。

 伝えていなかったが季節は秋初め。いや、夏終わりといった方が多分あっているよね。


 昼過ごすには残暑ざんしょがあるけれど、早朝なら。ましてや山なら涼しく、ツーリングするにはもって来いだ。


 そして時間は6時。少しずつ太陽が昇ってきて山の頂上から麓にかけて朝日が照らす。うん、今日は晴れだ。予報通り。最高だね。

 山に入って半刻。ツーリングって言ってるだけあって目的なんてものはないし、道を攻める訳でも無い。ただただゆっくりゆったり愛車を走らせて、木々から差し込む木漏れ日をかき分け物思いにふける。そう、ただそれだけ。この時間が好きで、だからこそやめられないのさ。

 

 分かれ道はあるけど、何度も来ているし、ナビやマップもいらない。だから携帯も今日は持ってこなかった。小銭入れだけ握りしめて来た。いや、握ってるのはグリップだね。


「あれ、勘違いかな。それか見間違いかな。こんなに分かれ道多かったっけ。」

 

 土地勘がにぶった訳ではないと思うけれど、いつも走っているときより分かれ道が多い感じする。なんだろ。不思議な感覚だ。でも道なりに行けばいずれは自分の町か、最悪でも隣町に出ることは知っているからまぁいいや。進め、進め私の愛車。なんたって今日は調子がいいみたいだから。




 ◯

 九十九折ーつづらおりー。

 

 山でよく見かけるグニャグニャと連続で際どいカーブが続く山道をそう呼ぶのだけれど、その九十九折が異様に多いのがこの真宵山の"特徴の1つ"だった。

 その道の攻めづらさたるや、ライダー泣かせと呼ばれるほどだ。だからこそ日中には腕試しのバイク乗り。深夜には若く新進気鋭しんしんきえいの荒くれ者達が、付けるはくの為に訪れる事も多くあった。訪れる者が多ければ、攻めるのが難しければ、自然と行方不明者も増えてくる。聞くだけでも想像出来てしまう、当たり前のことだけれど、とにかく危険だからだ。すべり、こすれた跡が残る道路に、裂けて穴が空いているガードレール。それらは、いくら修理を頼んでも、途絶とだえる事はない。新たに増えるたびに、その数だけ帰って来る人間は減っていく。



 おっと、1つ明記めいきし忘れていた事があった。この噂は他県から、多方面からくるバイク乗り達の間で広まっているいわば"表向き"の噂だ。




 ゆっくりと走らせていた文日は事故を起こす心配は少なかったが、この山には一箇所、九十九折の途中、綺麗な直線道が現れる。その長さは3キロ程。少しのカーブも無く、先の分かれ道の看板までうすらと見えるほどに真っ直ぐな道がある。その道に差し掛かった時、流石の文日でもグリップを捻りスピードに乗る。

 

「うぉお…。やっぱり楽しいね。いいよ、いいよ。最速最高だね。」


 自然と浮かべた笑みは直線の終わりにある分かれ道の看板が見え始めてふと消えた。

 1つは剥げた丘の中、山頂に続くスカイロード。

 もう1つは下に降りる様に続く深い木々に覆われた下山道。


 文日の眉をひそめさせたのは下山道の木々の違和感だった。

 深い。いつもよりやたら深くて道が暗いように感じたからだ。流石にあり過ぎる違和感。一度愛車のクロスカブを止めて、黒を纏う下山道をじっと見つめる文日。いくら薄暗い早朝だったとしても日はもう出始めている。此処まで暗いと躊躇するのは当然と言えた。


「うーん、道中の分かれ道も多い気がしてたけれど、気のせいにして受け流すにはちょっと異常な怖さがあるなぁ…。」

 立ち往生して少し悩む文日だったが、持ち味である好奇心が背中を押した。


 「まぁ、大丈夫か。もしかしたら今は変わった気候で見たこと無い顔が見られるかも。家族に自慢できるかもしれないし。」

 あ、おじいちゃんには伏せておいたほうが良いかも。羨ましがられる前に怒られちゃう。そう呟く文日の口角はもう上がっていた。


 深すぎる、高すぎる木々が囲む下山道に入り始めて直ぐ。文日の気のせいは、気の迷いだったと思いいたることになる。




 見覚え、いや通り覚えが全くと言っていい程、寧ろ初めて通る道としか思えない山道と、上がる太陽とは真逆に進めば進むほど木漏れ日は段々と淡く、光は弱くなっていく。まるで冬の夕刻みたいに早々に光を閉じ始める。気がつけば周囲は青の混ざる薄闇うすやみに変わり、バイクのヘッドライトの明かりがはっきりと分かるほどには暗くなっていた。

 そのいくつも重なった異常が作り出す異界に、段々と襲ってくる言いようのない恐怖は文日の好奇心を捻り潰していく。それもそうだろう。頭によぎるのは管理をしている大可鹿家に伝わるこの大山の別名であり、怪異としてのいわれ。



 「ー迷い山ー。九十九離れば、異界なりつづらはなれば、いかいなり。」



 入った者を迷わせ、闇で包み、神隠し。否、山攫いやまさらいに遭わせるとの噂。

 それが親族のみが知っている、知っていなければならなかった"裏の噂"である。そして文日の祖父を初め、大可鹿家の人間が文日を止める理由がこの言葉に起因きいんしていた。

 勿論、文日も知らなかった訳ではなかったけれど、伝承は所詮、伝承。どこまでいっても言い伝え。楽観的で好奇心が旺盛おうせいな文日にとってはそんな事で行動理由が、活動範囲が狭くなることの方が嫌だった。だからみんながまだ寝ている早朝に山へ足を向ける事が多くなっていった。

 


 ◯

 此処まで暗くなっちゃってるんだから、多分おじいちゃんが言う所の迷い山の噂って奴なんだろうけれど…。


 「今、朝だよ。夜明け。そんな事ある?」


 だってさ。

 だって、だってさ。妖怪、ましてやおじいちゃんとかお母さんが言う迷い山の怪異的な語り伝承かたりでんしょうって、総じて夕方か夜。深夜の話が殆どだし。朝に出会った、行き遭ったなんてまるで聞かなかったからツーリングを朝にした理由のひとつなのに。

 なんて後悔の念から来る思考を巡らせていても多分出口は見つからないし、周りを見渡せばその暗さはもう夜じゃん。産まれたてのお天道さまはどこに行ったのさ。出口がないなら一度停めて、入口まで引き返したほうが可能性はあるんじゃないかな。


「よし、引き返そう。素直に、怖いもんね。もう。」


 バイクをかたむけた時、身体が動かなくなった。



 だって、道の先にいるんだもん。



 

 白い光を放ってたたずむ、アルビノのように全身が白い鹿がさ。

 おじいちゃんがいつも話す、伝承に出てくる白鹿。最初は安直で安易な考えだけれど、外灯なのかって思っちゃってじっと見てたんだ。でも違った。汚れもない白い体毛に柘榴のような赤い目。そして左右に四本ずつ別れた緑というか翡翠のような綺麗な色をした八本の角と八足の脚。


 「き、綺麗。」


 見ているだけでさっきまでの恐怖を安心が押し出して心を満たしていった。不安なんてものはまるで無くなってた。私に気がづいたのか白鹿がこちらを向いた。遠目でも目があったと思った瞬間、白鹿は前足を出して首を下げてお礼でもするかのように頭を下げた。


 「あ、ありがとうございます。」

 無意識。そう、無意識に呟き、私も頭を下げる。すると、その白鹿は振り返り歩き出した。その姿はついておいでと言っているように見えたからバイクのエンジンをかけて跨った。


 エンジン音が聞こえたのか、白鹿が私を一瞥いちべつして走り出した。後を追って走っていくと夜のような木々の影から太陽の光が徐々に差し込んでくる。


「え、もしかして…戻れる?」


 木漏れ日が多くなって周りが段々と明るくなっていくたびに、白鹿は太陽に混ざって見えづらくなっていく。そして山道を抜けて、国道が見え始めた時には、陽の光に溶けて神々しい鹿の姿は見えなくなってしまった。





 ◯


 ガシャン。

 零れ落ちる湯呑み、否、茶飲み。

 落としたのは文日の話を聞き、呆気に取られる祖父のもの。

「だから、じっちゃん。真宵山で白い鹿を見たんだって。助けてもらっちゃったんだって。」


 今朝の話を淡々とそして嬉しそうな笑みを浮かべ話す少女。否、女性は鹿に出会った、行き合った文日そのだ。

 あまりの急展開に祖父はとがめる事を忘れ、怒る事をやめた。それもそうだ。怒る前に、責める前にやるべき事を、文日にさせるべき事があったからだ。一言で言ってしまえば。


 伝承の上書き。


 ここ何十年どころか祖父が生まれ落ちて今の今まで、ましてや祖父の両親を始めそのまた両親。簡単に言ってしまえば祖父の祖父母達ですら"真宵山での白鹿"の存在を伝承の中でのみ知っていて、伝説上での創造物という認識と認知の域を出ることはなかったのだ。


 だからこそ。文日の祖父はせない様に、すたらせない様に、信じる信じないを一旦棚に上げて、文日に声をかける。


「おめぇの出会った事を混ぜて伝承を新しくしないとなんねーんだべ。」

 意味深な言葉と共に文日へ纏屋書店まといやしょてんという。

 伝承と言うよりもはや伝説というべき話達を作り・つむぎ・与える。

 そんな古すぎる物の語りと、怪しすぎる元の起こりを取り扱うという古書店の名前を教えてくれたのだった。



 場所はわからないという。けれど夕方。黄昏時と呼ばれる時間を狙って、人通りが少ない路地を散歩がてら巡っておいで。

 もう、出会うはなしは持っているからいずれと言わず、早ければ今日にでも行き着くはずだと…。


 それを聞いて、この町の人通りが少ない、道路と言うより畦道といった方が近しい場所を片っ端から歩き尽くしている女性が文日だった。


 「まぁ、聞くところによると、一応お店らしいから畑と山に囲まれた此処ここらへんにあれば直ぐにわかりそうな感じがしたんだけどもう…。書店どころか家屋かおくや倉庫すらないじゃん。うーん。確かに夕方の散歩って普段見ない景色が見られて楽しいけど、目的の店が見当らないんじゃなぁ。」


 

 目線と視線をキョロキョロさせ、周囲を見ながら家路につこうと商店街に差し掛かった時。妙に気になる。というより、目を引く細い路地が表れた。少し覗くと一際ひときわ薄暗い。その続く薄闇の途中。赤い行燈あんどんが淡く、怪しい光を漏らしていた。

 

 

「おぉ…。怪しい。気になる。」

 ここに来て、やっぱり素直な文日である。


 

 にこやかに、いやどちらかというとニンマリと口角を上げて。ウキウキで、ランランで常人なら躊躇ためらいそうな薄暗い路地に入っていった。


 近寄ると其処には磨り硝子すりがらすめられた、両の引き戸があった。斜め上に掛けられたその行燈の下に白いあさのような生地に綺麗な行書で『纏屋書店』と書かれていて、流石の文日も後ずさりをする。

 言っておくが、恐怖や不気味さから来る後ずさりではない。現に口角は上がっている。どこまでも好奇心の女性である。

 

「じっちゃん凄い。嘘だと思ってたのに、本当にあった。」

 失礼であり、失言である。これは祖父には黙っておいたほうがよさそうだ。きっと追加で雷が落ちる。

 

 

 硝子越しに見る屋内は暗く、やっているかもわからないが取り敢えず片方の硝子戸に手を掛け、引き開けた。

 夜を、黒を、闇を。塗り固めたような暗い廊下の先に九畳程の畳間が見えた。その奥座敷おくざしき四ッ端よつはじから火の光が漏れ、中央にある帳場ちょうばにも立っている蝋燭の灯がゆらゆらと揺蕩たゆたっている。


 

 その帳場には店主であろう一人の美少年にも、美少女にも見える美しい御仁ごじんが片膝を曲げて腰をえていた。

 

 

 オーバーな白いYシャツ、毛先に銀が混ざる黒髪、黒鳳蝶くろあげはが舞う袖広そでひろのカーディガン、そして棒銀の片耳ピアスと青琥珀あおこはくの入った銀煙管ぎんぎせる

 どれも決して綺羅きらびやかではないが、1つ1つが洗練されているように文日には見えた。

 薄暗い店内に浮かぶ2つの白銀の眼が煌々こうこうと、戸を開け訪れた若い客人を見つめる。


「いらっしゃい。お嬢ちゃん。」


 そんな風に、まるで男性のような口調で語りかける店主の声は、女性の低音と言ったような中性的で蠱惑的こわくてきな心地の良い声。口角を緩く上げ、銀煙管をくゆらせ吐き出された煙は、頭を痺れさせる程に甘い紫煙だった。

 

 思わず、肩が落ちる文日。魅惑の煙、蠱惑な声。自我と理性が外側からゆっくりと溶けて無くなっていくのを感じた。


 それを見た店主はゆっくりと話しかけてくる。

「ようこそ怪異を纏う物の語屋もののかたりやへ。おや、怪訝けげんな顔をしてるね、此処は【物語】を紡ぐお店だ。売ったり、貸し借りをさせてやれるわけじゃない、ただ紡がれるのを待っている【物語】たちの住まう場所なんだ。」


 そんな説明のような語りを聞いた後、文日は咄嗟とっさに返す。店主の。否、どちらかというと店のコンセプトと真逆な言葉を切り返す。

 「い、いえ。今日此処に来たのは物語を買ったり、紡ぎに来たんじゃないんです。私の不思議な話を…。聞いてほしいんです…。」

 

 そんな文日を見て、店主の女性は『あぁ、構わないよ。聞かせておくれ』と笑みを浮かべて月を閉じ込めたような綺麗なガラスペンを取り出した。


 

 ー月の彫られた透明なガラス玉が付いた細く長い螺旋を描くガラスペンー。


 店主の座る帳場の蝋燭の火が綺麗な翡翠色に変わった時、ペン先を揺らめく炎に当てる。するとそのガラスペンは翡翠の炎を取り込む様に吸い上げガラス玉の中を火の色で満たしていった。

 



 ◯

 此処で余計な、余分な注釈だが聞いてもらおう。読者の少年少女達よ。

 

 どう言う理屈で、どんな原理なのだろう。


 そんな事を気にするのは野暮だ。此処は人の歴史と怪異の意志が交差する場所だ。摩訶不思議で不可思議な事も起こるし、起こせる。当然だろう。今回の主人公になっている。否、になっている文日ですらもそんな事は承知で受け入れている。受け取っているわけじゃ決して無い。受け入れているのだからそれまでの話だ。


 

 

 ◯

 その翡翠色のインクが硝子の螺旋を辿って、帳台の上に広げてあった巻物に数滴ポタリとれた時、その巻物に浮かび上がった文字を見て店主が私に言ったんだ。

 

 【八畔神】ーやくろがみー。


 その神様であろう名前を語った店主が続けざまに口を開いた。


「ほう、君は戦国時の謂れ子いわれごの家系だったのか。八本の角を持った白鹿を見たんじゃないのかい?」

 店主は懐かしそうに微笑んで、私が出会ったあの綺麗な鹿の事を言い当てた。

 

 「な、なんでわかるんです?もしかして、貴方も出会ったことがあるんですか。確かに綺麗な鹿でした。」

 「いいや、実際に見たことはないよ。君のように行き合った人間から聞いただけさ。君と同じようにね。」

 

 そう告げると、その白い鹿について教えてくれた。言葉とは裏腹に全てを知っているように。


 「此処を取り囲む山々に伝わる鹿の怪異でね。出会う者によって死を運ぶあやかしにもなれば、救いを差し伸べる慈愛神じあいしんにもなるという。2つの異名からくる怪異の中でも少し変わった奴らでね。」

 

 そう話す店主さんがその怪異の名前を教えてくれた。


 


 八畔【やつくろ】・鹿神【しかがみ】。 ーー八畔神『やくろがみ』ーー。



 「君と、いや君の家系と深く長い縁がある怪異だよ。守護霊と言ってもいい。」

 「い、いや私は産まれた頃から霊感も無ければ、一度も幽霊とか妖怪とか見たことも、出会ったこともありません。なのになんで。」


 そうだね。とうなずき教えてくれた。繋がりを。


 「鹿の怪異っていうのはね。人間の世界や人間に干渉することは殆どと言っていいほど無い。だけれど、関わると世話焼きな所があったりするんだ。かつて君と同じで白鹿に出会った人間がいると言ったがまさにそれだ。その人間は君のご先祖だ。その人間はまだ小さかった八畔神を狩ろうとしていた山賊から助けたんだよ。其処から幾星霜いくせいそう。助けられた恩を忘れず今の君の代まで憑いているのだろう。律儀りちぎな事にね。」

 

 感謝することだ。それが"対話"の1つになる。それに君の噺はもううかがえた。

 そう告げるといつの間に書き上げたのだろう。置かれたペンの硝子玉の中は綺麗に無くなっていて、巻物をスルスルと巻き縛っていた。

 

 「さぁ、もう帰りなさい。此処は人の感覚を鈍らせる。もう宵の口も閉じる頃だ。この巻物を取りに来るモノも近い。」

 そう不気味に微笑むと蝋燭が揺らめき、後ろから冷たい風が背中をさする。振り返ると両の硝子戸が開いていた。

 

 風の音に混ざり鈍い鈴の音がジリンジリンと聞こえてきた。その音は分かりにくいが、だんだん近づいている様に聞こえて急に怖くなり、急いで家路についた。

 時計を見ると21時。家を出て3時間も経っている。そんな長居をしたつもりはなかったけれど…。



 ◯

 次の日。私はじいちゃんに連れられて、真宵山の林の中。ひっそりとたたずやしろに連れて行かれた。お礼をしようと思っていたから素直についてきた。

 おじいちゃんは、纏屋書店に行き遭った事については何も言わず。

 まさか生きてる内に、聞くことがあるとはなぁ。本当に在ったんだなぁ。と意味深に頷くだけだった。

 

 「へぇ、こんな所あったんだ。初めて知ったよ。」

 「まぁ、あんまり来ることもすくないかんら。間違ぇたら、おめぇの母ちゃんも妹の叔母ちゃんもしらねぇかもしれんのぉ。」

 

 

 そう言って、じいちゃんがほこらを開ける。

 其処には、纏屋書店で店主が開いていた巻物が確かに置かれてあった。見間違いじゃない。翡翠色の巻物。

 あの綺麗な炎を取り込んだ、美麗びれいな月のガラスペンで書かれた書物。それがおいてあった。


 そして、じいちゃんが上に掛かる2つの本坪鈴ほんつぼすずを動かし鳴らす。



 

 

 "ジリン ジリン"。





 

 その音は昨日の夜。帰り際に聞いた、あの鈴の音に酷く似ていた。

 

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