マクガフィンの間

間 敷

マクガフィンの間

 深夜の二時過ぎ、玄関の呼び鈴が鳴った。私は我に返り、書き物をする手をぴたりと止めた。ペンを握ったまま固まり、数秒を数えた。さらに数秒後、浅く素早い呼吸をした。息をしたのが久しぶりのような気がした。

 遠くまで耳を澄ますと、やや強い風が吹いている。庭の大型収納庫の、自動車を何度かぶつけて建て付けの悪くなった戸が断続的に揺れているようだった。自動車というのは私にとって未知の乗り物で、旧い友人がここに預けていったきりのものだ。収納庫に入れられているとは聞いているものの一度も見たことはなかった。強風は霜の降りる地面と冷たい空気を想起させる。へこんだ鉄板が揺れる耳障りな低い物音は、毎晩眠りに就けずに明け方近くまで聴いている。近隣の家々も、我が家のあらゆる部屋も照明が落とされ、静まり返っている。

 首を持ち上げ、意味なく書斎を見渡す。書くのに熱中するあまり、鮮明な幻聴を体験したのだろうか。冗談ではなく、そう思うのにはそれなりの根拠がある。書斎には新聞紙を無数に重ねて拵えた鳥の巣のような一角があり、ベッドで眠れない日はそこを寝床にしていた。不思議とその巣ではよく眠れた。だが毎日そうするわけにもいかない。なるべく寝室に向かうことを習慣づけ、寝心地の良いベッドで眠るように努めた。睡眠を苦痛に捉え始め、夜を明かしがちになった私の脳が誤作動を起こしたとしても何ら不思議には思わなかった。

 もし来訪者が攻撃的で質の悪い人間であれば、ペンを銃に持ち替える必要があるか真剣に考えた。応接間の壁に掛けてある猟銃は銃口が完全に金属で固められた紛い物だが、強盗を怯ませる効力は十分あるだろう。ただし、相手が銃撃犯だった場合は考えないものとする。物盗りがわざわざ玄関で呼び鈴を鳴らすだろうかとも思ったが、どちらにせよ今この状況を生み出した行動こそ、常人の思考では計り知れない思いつきだ。もう一度ブザーが鳴れば、今度は部屋を出て、真っ暗な長い廊下を通過し、状況を確認しに行く必要がある。果たして二度目の音が響いた時、私は書斎を出て歩き始めていた。玄関の呼び鈴は有線式で、茶色く薄汚れたボタンには親指にぴったり沿うような窪みがある。長く押せばそれだけ不快な音が続く。来訪者はねちっこく親指を押しつけていたとみえるが、ようやく私が玄関先に足を下ろしたのを感じ取ってか振鈴が止んだ。


 その瞬間まですっかり忘れていたが、十二時間ほど前、つまり昨日の昼は来客の約束があった。時間を過ぎて少しした頃に、そういえば友人が来ないことに気が付いた。日付を跨いでも来なかったから後日なんらかの音沙汰があるだろうと踏んで、今夜のところは誰の来訪もあるまいと思っていたところに突然の、しかも見知らぬ来客の応対だ。心臓が痛いほどの鼓動を打った。ところが予想に反して、来客は昼間に会う約束をした友人だった。幸い暗がりになっている物陰に猟銃をそっと置いた。不審者でなかった安堵と、なぜ友人が約束をすっぽかし、なぜこんな非常識な時間にという狼狽が交錯し、声を上げた。が、意味のある言葉にはならなかった。やっと「きみ、どうして……」とだけ言った。

 私は友人を呼びたかったが、見慣れた濃褐色の瞳がこちらを見つめていても、どれほど過去を追懐しても、名前が思い出せない。ふとした瞬間に名を呼んだ覚えはあるのに、どんな響きだったかすら分からないのだ。これこそ私が避けたかったことなのに、残念な思いだけが砂を握る様に溢れ、胸中を告げることができなかった。声を発することができたとしても、きみの名前を思い出せないんだなんて言えるわけがなかった。

「ごめん……私はきみに……悪いことをした」

 吹きっ晒しに佇む友人を家の中に招いてやることも一時忘れて、ただそれだけ伝えるのが精一杯だった。私自身この謝罪がどういう意味を持つのか分かっていなかった。友人は抵抗もなく私の言葉に耳を傾けていた。受容も拒絶もない。そのどちらでもないあらゆる感情さえ、その表情からは読み取ることができない。壁にかけてあるはずのものがない──登場した以上、それはどこかで使うはずだった──舞台小道具がひとつ欠けた応接間で、私はワインを振る舞い、友人が持ってきたチーズを一緒につまんだ。友人は、電車が運行見合わせになり、地下鉄も人で溢れ、移住する人々の行列でバスにも乗れなかったことを話してくれた。人混みや待機時間をかわし、ようやく隣国からこの家へ辿り着いた時にはすっかり夜も更けていたという。

 外界がどんなことになっているのか、箱の中に閉じこもっている私には実感できないことだった。必要なものは電話で注文すれば、食料だろうと書籍だろうと螺子の一本だろうと段ボールに詰められていつの間にか玄関先に置かれているし、どこかへ出かけて遊行に興じる趣味もなかった。ここから離れることなど考えたこともない。「その人たちは、どこへ行くんだろう」と尋ねると「現実さ」と友人は即答した。

「皆、己の現実を生きたいと思っている。存在して体感することが理解できる唯一無二の現実を。あるいは有限をかな。ここに住む限り、そうした世界からは取り残されていくばかりだからね」

「ここに住む限り……」

「ハッと気付く時が来るんだ。そして細長い乗り物に乗って、境界を越え、果てしない道のりといくつもの分岐点を経て散り散りになる。世界は泡だ。無数のシャボン玉が高密度に押し合いへし合い、互いを圧迫して均衡を保っている。泡から泡へは容易に壁を突破できない。無理矢理に均衡を崩す強い力としての大移動が必要だ。突進して突き破る《ブレイクスルー》。たった一人が望むだけでは、悔しいが世界は動かせない。ちょうど今というタイミングが、皆がそのことに気付いた瞬間だった。ゴミだらけで、奇病が蔓延して、それでも放置されて荒れ果てていることに怒りと疑念を抱いたからだ。虚しくなると急に世界の真実に目が向く。真実というのは個においても社会にとってもひとつではないんだが、多くの人がひとつのものを信じたことが確度よりも重要だ。きみのように外界を絶ち切っていようと、世界は少しずつ確実に変化している。おそらくいずれきみも身をもって知るくらいに」

 白ワインの入ったグラスを目線と同じ高さに掲げ、友人は目を細めた。彼が世界と呼んだところの、どんな小さな気泡も見逃すまいとしているかのようだった。良い切り返しが思い浮かばず、「きみは行かないのか」と呟いた。

「この家に来たるべきマクガフィンに挨拶しておかなくてはならないからね」

 私はここが歪んだ創造の場であることを思い出した。クラシックな邸宅風の応接間や書斎、壁に絵画のかかった長い廊下と赤い絨毯、緑色のタッセルと銀糸で縁取られた分厚いカーテン。それに不相応な、集合住宅風の玄関先とうず高く積まれた段ボール。不相応でも不自由はない。この「世界の裏側」はどれだけ滅茶苦茶だろうと誰も困らない。迷路のような家の構造を頭の中で思い描くうちに、友人の言うマクガフィンという名に思い当たる部屋を思い出した。何といっても元の家主が目の前に居るのだから、私より彼のほうがこの家に詳しいのは当たり前だった。

「マクガフィンに用があるのかい」

「いや、挨拶は礼儀程度で、じつはマクガフィンの間に用があって来たのさ。この家はどれだけ複雑にしてくれても構わないが、あの部屋を見失うとちょっと困る」

 友人は濃褐色の髪と目の色をした若者から、長い癖毛に無精髭に片眼鏡といった面長な男へと風貌を変え、立ち上がった。その顔にならピンとくるかと思ったが、私はまだ友人の名を思い出せない。廊下のランタンを手に取り赤い絨毯を足音を立てず滑るように進んでいく。迷いのない足取りだった。一瞬、もうあの古新聞の鳥の巣や、書斎に書きかけの物語のもとへ戻れないのではないかという懸念が脳裏をよぎり、後ろを振り返った。小窓がひとつ、やけに明るい。親指の爪のような形をして、窓枠が十字に区切られている。月の明るい晩だ。覚えておいて何の役に立つかわからないが、およそあの窓の方角が東なのだろう。風の音は聞こえない。

「マクガフィンなる者がどのような人柄や身分なのかも定かでない。現れるまでは決定されない事柄なのだよ」

「それで、いったい誰がマクガフィンか見分けがつくの?」

「簡単だよ。教えようか」

 もったいぶるので仕方なく「それは?」と尋ねると「次に私たちが会うのがそうだからさ」と返ってきた。

「そして私がマクガフィンにならないためには、きみの友人で居続けること。きみ自身に語らせる話の中に居るために、あえて少しだけ困るような仕業をすること。そうすればきみは原稿用紙から目を離して純粋な意識を取り戻すからね」私は若干、無理矢理ひきずり出された舞台で似合わない服を着て踊らされているような気分になった。しかも観客に見られながら、先輩の役者に指導されている。しかしすぐに、同じことを彼らに強いてきた記憶に直面し、赤面の意味が変じた。演じさせられる腹立たしさが罪悪感へと変わり、力が抜け、放漫と前をゆく背中についていった。

 友人が鍵のかかっていない半開きの扉を見つけて、あれだと言った。部屋の中から微かに明かりが漏れており、扉の前に佇む存在の輪郭を浮かび上がらせていた。

「今回は猫だな」

 青い瞳に灰色の毛並みの猫だ。よく見ると首輪をしていた。金板のネームプレートには凹凸が見て取れ、文字が刻まれているのが分かった。裸眼だったらまず凹凸の機微に気が付けない自信がある。が、読めるほど近づく前に猫は素早く室内へ駆けていった。

「ま、いいさ。こちらには気付いたようだから」

 室内の掃除はむろん行き届いておらず、埃を被った布の下には本の塔がにょきにょき生えていた。本棚にもぎっしりと、帯や背表紙もばらばらな本が並ぶ。マクガフィンは窓の下の四つ脚の椅子と、椅子に無造作に掛けられた白いブランケットの陰に座り込んでいた。

「名前が分かるようなら呼んでやりたい」

「好きにするといい。私は用事を済ませるよ」

 金板にはルナとあった。首元のタグは猫がちょっと動くたびにきらめきながら表裏ひっくり返って揺れる。裏には何も書かれていない。もう一度表が見えると今度はミスティになっていた。友人は一冊の本のどこかに挟まっていた紙片を抜き取ってこちらへ寄越した。

「きみがマクガフィンに与えた一切はここに折り畳んである。ルナとミスティで迷ったらしいな。どちらでも良かったか、途中で命名に飽きたか」

 私はとりあえずズボンのポケットに紙片を入れた。二人が床を歩くたびに垂れ下がった掛布の端のどれかを踏んでしまうので、猫はいちいち衣擦れの音に油断なく反応していた。私はどちらの名前も呼んでみたが、布が気になることもあってかどうも反応はいまひとつだった。

「分かっていると思うが、三つ目の真実の名前は与えてはならない。マクガフィンからの逸脱はなるべく避けてくれ」

 友人が本棚に手を伸ばしながら私の方を見ずに釘を刺した。

「なるべくで良いなら」

「絶対だ」

 友人はなおも本棚を吟味しながら答えた。手持ち無沙汰なのでふと自動車のことを尋ねてみた。友人が家を訪ねて来たら、毎回聞こうと思ってつい忘れる。どんな自動車があの屋外大型収納庫に入っているのか。自動車には詳しくないが、乗らないなら乗らないなりに定期的に手入れをする必要はあるのではないか。

「ああ、あれはもう使わないから気にすることはないんだけれど、きみがここを発つ時にでも必要ならば整備しよう」

 私は友人が道案内を始めたあたりから、ずっと言おうと思っていたことを言うべきか迷った。迷いはすでに実行の前段階だ。言うべきと決まっていて、まだ腑に落ちていないだけなのだ。

「ここは私の部屋だ」

 私が何も言わないのに、友人は本の表紙を撫でながらこちらの心を読むようなことを言った。

「分かっている。本来のマクガフィンは私だ。私の役割こそ、誰が代理をしたって大差ない。現に私は真実の名無しだ。その点、猫は猫だからね。猫にしかできないことをするために居るし、いや、何もしないでただそこに居るためにかな……分からないけど。名前だっていくつも持っているくらいがちょうどいい。誤解はしないでほしいが、自分の役割が不服だから身代わりを立てたとか、そんな話をしたいんじゃない」

 一人のマクガフィンが、現実以下の世界から現実そのもので生きるには、アイデンティファイを携行することで個人とならねばならない。個人を証明するもの。猫について書かれた紙片を抜き取ったその本を携えて、友人は部屋をあとにした。マクガフィンの間に用があると言っていた理由はそれだった。

「むしろ私は、間に立つ者であろうとしている。マクガフィンであり、マクガフィンでない。便利な代替物でありながら、唯一無二の自己であろうともしている。立派な行いではない。道理に反して野蛮だと思うよ。それでもきみの目の前に立つ必要があった。分かるかな。原稿用紙の中の私ではなく、きみに、きみにだよ、この私が直接会いに行くことこそ、理を脱するために不可欠だった。そしてきみに語られる中で、私は私の原本を手に入れる。もちろん同時に、私は誰とでも代替可能だ。現にさっきから代替は行われているし、今この時だってその用意はできている。だが、個を手に入れた私は、誰かと入れ替わる代わりに消えはしない。そしてきみを裏切ってもいない。約束の時間に遅れはするが、きみから居場所ややるべきことを取り上げるなんてこともないだろう」

 だからこの行いを認めてくれと言わんばかりの言い様だった。私は聞いているうちに言い知れない不安を感じ、椅子に腰を下ろした。足元をこちらを見上げて警戒しながら猫が通過する。猫の瞳の中に、霧のようなものが漂っている。見つめ合ううちにそれはたちまち色濃く、宝石のような瞳の青い輝きを覆い尽くした。そして猫が人の顔をしているのを見た。「具合でも悪いのか?」黒く艶のある髪を腰までまっすぐに伸ばした長身の女が問う。姿を変じた友人はスーツのポケットから煙草を取り出して、「中庭へ行こう」と親指で外を示した。

 

 人の背丈よりうんとでかいボトルシップが横たわり、ひび割れた瓶底が砕け散っている。ぼうぼうと生えたペンペングサや、春によく見る青や紫色の小花たちが水やりもしていないのにたくましく咲いていた。草花の隙間に飛び散ったガラス片がもう何年もそのままにしてある。白んだ空から注ぐ朝陽にかすかに照らされて、中庭の色彩は全体をして淡い。ガラス瓶は薄汚れてぼんやりとしか向こう側が見えない。元家主の、そういう有り様を見ても片付けろと小言を言わないところが好きだ。私たちは瓶底の割れたガラスの突起に気をつけながら、ボトルの内部に足を踏み入れ、細長い鉄線と生成色の布で作られた帆船の模型をぐるりと一周して歩いた。海に見立てた青い砂粒を靴で踏むたび足首まで浸かった。友人はボトルのコルクを内側から押し出そうと試みていた。私も一緒になってつるつる滑り、二人は何度も砂粒の海に尻から落ちた。笑い合い、久々に身体中の筋肉が動くのを感じた。なにかひとつこの家の風景を形にして持っていけるとしたら、書斎で寝起きを共にする物語たちではなく、ここで友人と語らった思い出を選ぶだろう。ついさっきまでここを出ていくことなど考えもしなかったのに、帆船を見ていると海原へ駆け出したくなるような、飽くなき外界への無邪気な空想が踊り出すのだった。絶望しなければ別の世界へ行くことができないなどと誰が言ったろう。

「なあ、さっきからずっと、きみの名前が思い出せない」

 冷たくも温くもない海水浴をしながら、私はついに白状した。「ごめん。こんなことを言ったら、その、きみとの楽しい時間が台無しになるんじゃないかと思って隠していた。本当にどうしてか分からない。ただ、もし遠からず互いに旅に出るなら、どこかへたどり着いた時に手紙くらい出したいと思って。住所が分からなくてもせめて名前だけでもと。思い出そうと努力したんだけど……」

「言ったろ。私はマクガフィンだと」

「役割じゃないほうの名前」

「確かに、半分名無しだね。個としての名はこれから決めるさ。それともきみが決めてくれる? ルナとミスティで迷うのは止してほしいけど」

「きみに相応しい名はそれこそ候補が多すぎるよ」

 友人はその後二日ほど滞在した。と言っても、自動車の鍵を取りに戻っていたので四六時中家にいたわけではない。家にいる間に少なくとも二回は本人が代替と呼ぶ入れ替わりが起こり、私は虎や幽霊を友人と呼ぶこともあった。友人は室内に篭もる質ではない。食事の時間は共にし、それ以外は大抵屋外収納庫で自動車の整備をするか、中庭で煙草をくゆらせていた。私のためにありがとうと言うと、照れくさそうに笑った。こうも記憶に具体性がなく、主体に一貫性のない友人付き合いでも、さして困ることがないのが面白おかしかった。どんな姿をしていても友人であることが私には嬉しい。二人で地図を広げ、自動車でどこまで行けるだろうかと相談もした。ひとまず隣国までは走ってみて、移住者たちをまとめて輸送するバスか電車に乗ることができそうであれば、自動車はそこで売り払ってもいい。はした金だろうが、どうせ金銭でどうにかなるだけの旅ではない。どの便も指定席だそうだが、乗車率は少なくとも満員時の二倍には膨れ上がっているという。蔓延する奇病〈亞莫あな病〉の患者たちを収容する廃線区画の車輌とどちらが混み合っているか、友人は軽い口調で私にとって想像を絶する光景を語った。亞莫病の患者は、身体が黒い穴だらけになって最期には消えてしまう。痕が残るのではなく、跡形も残らないのだ。患者は、日毎に身体の質量は減っていくのに動作が利かない分、身体がかえってどんどん重く感じるらしい。私の、そして友人や数多の移住者たちが目指す外界の現実とは、理不尽な目に合わずに済むところだろうか。おそらくは、純粋な希望も学習性の諦念もどちらも持ち合わせて、人々は長い旅路をゆくのだろう。どこへ行ったって困難が待ち受けているのは必至で、ここよりましか、少なくとも移動中は希望を持っていられることで気持ちを保つひとも少なくはないはずだ。

 私はついに書斎を開け放ち、自分の寝相を鋳型に取ったような古新聞の巣を捨てた。それでもまだ身軽にはなりきれない。寝室で少し眠り、キッチンへ行って乾パンをジャムで食べた。いつものように食糧庫を見回し、足りないものを注文しようとして、やめておいた。鞄にはまだ地図と着替えのシャツと靴下を放り込んだきりだ。

 友人は簡素な荷造りをすぐに終えた。ぼろきれを纏い、革帯で縛った己が源である大事な本を肩から斜め掛けにし、ランタンと紛い物の猟銃を装備していた。友人が猟銃を見つけた時、隠し事をしたまま別れることにならずに済んでむしろほっとした。長い旅になりそうだ。気をつけて。友人は駆けてきて、手を振って見送ろうとする私の肩を抱き、ふざけるように笑って煙草の箱を押しつけた。今度こそ振り返らず去っていく。空き箱かと思ったが振ってみるとかさかさと乾いた音がする。細く巻かれた紙片に、ひとつの名前が記されていた。私は急にどうしても煙草が吸いたくなった。火の元になるものは家の中にない。友人が今ここに居たらさすが創造主とからかったかもしれない。友人が居た痕跡の残る屋外収納庫ならどうかと思って行ってみると、軍手やらパンタグラフジャッキやら色々の工具や道具を無造作に隅に寄せた周辺に灰皿や煙草やマッチ箱が置いてあった。煙草の銘柄は〈イリュージョン〉だった。灰皿の中の、一口二口吸っただけのような喫いさしを一本選んで咥えた。マッチも湿気っているのか、火が着くまで何度も擦った。この際動作だけでも真似られれば満足だった。深く吸わず緩やかに吐く。薄い煙は慕わしく辺りを漂って消える。友人のしたことがすべて分かっているかのように、私は自動車の運転席に着き、目を閉じた。これですぐにでも旅に出ることができる。没頭するのは得意だ。そういうふうに眠るものだと思えばうまくいきそうな気がした。

 まあ、要は一人芝居だからな。

 そんなことはない。

 ああ、そんなことはない。

 並走する思考が場所性を超えた対話を可能にしているようで、自覚せざるを得ない高揚感に酔いしれた。玄関を出るまでに段ボールの山を何とかしなければならないが、誰かとお喋りしながらだったらきっと退屈しないだろう。思い出を反芻するのでもかまわない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マクガフィンの間 間 敷 @awai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ