第6話 隅
いつも通り目を覚ましたおれは、会社へと向かい仕事をした。そして帰り道、メッセージの履歴に目を通して、おれもメッセージを送る。そんな生活を繰り返していた。
「沖野くん、痩せたか?」
「え、そうっすか?」
「ちゃんと飯食えよ」
「はい。あざっす」
先輩が笑いながらおれの肩にそっと手をやった。それをきっかけに深呼吸をして業務に戻った。面倒な事務作業を先に終わらせ、後輩の進捗と明日の予定を確認する作業に移行した。
寒さと乾燥が厳しくなってきたからなのか、枯れた咳が時折でる。風邪薬をコンビニで買い、職場の給湯室で飲んだ。それでも咳は止まらない。
「沖野先輩、マスクいります?」
「ああ、ごめん。もらおうかな。ありがとう」
この時期に咳はまずい、みんなに迷惑がかかる。そんなことを頭の半分で考えながら黙々と残っていた仕事をした。
咳は数日続いた。周りの目と、それを気にする自分の目にしか意識が向かず、仕事にならなかったので早退を申し出た。上司は、許可を出すのをずっと待っていたような反応だった。
おれは家の近所の公園のベンチに座った。痰が出そうな気がしたので木陰に向かって痰を吐こうと咳をした。どす黒い液体が口から飛び出てきた。おれは咄嗟に、誰にも見られていないかと周囲を確認した。ベンチから立ち上がり、鞄を胸に抱えて家まで走った。その時の風は、おれにとって冷たくも暖かくもなかった。
帰るとすぐに洗面台で口を濯いだ。ダムのような勢いで水が流れている。その勢いを目に映しながらおれは考えた、これで良かったのかと。そんなことを考えるには遅すぎるということは、自分が1番よく分かっていたのに。
おれは会社を数日休んだ。その間もおれはメッセージを送り、1日を締めることを欠かさなかった。一葉さんは物件の契約が済んだそうだ。
日を追うごとに、寝ているだけで身体の節々が痛い、それにお腹も。突き刺すような痛みと、鈍い痛みが全身を巡る感覚がする。おれは耐えられず、救急車を呼んだ。10分ほどで来てくれたが、その間、永遠の拷問を受けているようだった。ストレッチャーに乗せられて運び込まれた救急車の中で、質問に応じた。何を聞かれ何を答えたかはよく覚えていない。ここから病院へ行くまでのことは、頭から綺麗さっぱり消えている。結局おれは、近くの病院へ行くことになった。そう、あの病院へ。
スッと目が覚めた。おれはゆっくりと、状況を整理しようとした。首だけで周りを見渡す限り、ここは個人の病室だ。そういえば痛みがあったはずだ、だがなぜか薄くなっている気がする。5分から10分くらいの時間で頭を整理し終えた時、看護師さんが入ってきた。
「沖野さん、気がつきましたか。すぐに先生を呼んできます」
看護師さんの駆け足音が遠ざかっていく。おれは救急車の中で、運び込まれる病院が別の場所であってほしいと祈っていたことを思い出した。なぜならこのあとの最悪の展開を予想できていたからだ。
「沖野さん・・・」
主治医の先生だ。軽く肩で息をしながら病室へ入ってきた。
「君は一体どこで何をやっていたんだ」
責め立てるように怒鳴ることはせず、諭すような落ち着いたトーンで先生は話した。
「ご実家の近くの病院で抗がん剤治療を受けていたんじゃないのか。私の紹介状はどうしたんだ?」
おれのそばに置いてあった来客用の椅子に座りながら言った。おれは俯きながら黙っていた。
「もう抗がん剤で治療できる範疇を超えているよ。この状態じゃもう、痛み止めを打ち続けるしか」
おれは先生に、感情的になって横槍を入れた。
「先生、これでいいんです。良かったんです。これがおれの選択なんです。こうしたかったんです、たぶん」
「それは病気と戦わず、死を選びたいということかい?なぜなんだ?」
おれは黙り込んだ。長く淀んだ静寂が、2人の胸に絡みつく。
「私に君の死生観を否定する資格はない。だが、私は医者だ。患者を救うのが仕事だ。もう君の命は救えないかもしれないけれど、せめて苦しまないよう抗ってやるよ」
先生はそう言い残し、病室から出ていった。
死生観。そんな尊い考えではないような気がするが、おれは人生というものを、楽観的だが絶望的にとらえている人間だと思う。
おれは今まで自分の意思で生きてきたという感覚がない。それは流れに身を任せていたからなのだが、それは自分の未来に希望がなかったからだ。こうありたい、こうしたい。夢というような、壮大なものだけではなく、目的がなかった。小さな出来事が、生きる上での動機にならない感覚があった。人は目先の幸せに引っ張られるように生きるのが普通だ。例えば、明日のアニメを観るために勉強を頑張る。来週の飲み会のために仕事を頑張る。友だちと遊ぶためにバイトを頑張る。来年の大会のために練習を頑張る。つまり、自分の未来を良くするために自分を成長させる、人生を変えるために自分が変わる、そう思うのが普通なのだが、おれはそう思えなかった。それがなぜなのかは分からない。
しかし、その絶望感を引きずりながらも、なんとなく生きてきた。おれは他人の人生に影響を与えることが多かったから。程度の差はあるが、それでも誰かにとって何かしらのきっかけになることが多かった。パーティーの3人が、いい例になるかもしれない。手術を受けること、好きな相手に告白すること、夢だった店をオープンすること。気持ちが前向きに変わる時、好転する時、おれはそこにいた。
かく言うおれは、今までずっと、他人の言葉や言動から影響を受けることがなかった。生きる動機、頑張る動機にならなかった。だから流れに身を任せているしかなかった。人に興味がないのかと言われるとそうではない。もしそうなら、距離をとってきたと思う。
流れながらも、おれはモヤモヤしていたのかもしれない。他人に影響を与えて応援する、だけど自分自身は何も変化しない人生に。動機がある人は、精神的にも身体的にも成長している。考え方を身に付けたり、夢に必要なスキルを身に付けたりだ。動機がある人間は等しく素晴らしい、そう思っている。
おれが流れに身を任せていたのは、そうしていればどこかで動機が見つかると思っていたからだ。実際みんなそうだった、偶然の産物だ。
しかし、あまりにも果てしない。それが人生の醍醐味なのだろうが、おれには辛いものだと思えた。
運も実力のうちという言葉がある。この言葉は嘘だと思っている。実力は運のうちだとおれは思う。なぜなら、実力とは不確かなものだからだ。自分に合った方法を見つけるのも運、実際に実力が上がるのも運、実力が出せるのも運、全て運の中に実力が存在している。夢を掴むのも運、それどころか夢が見つかるのも運。
人間は、運という盤の上に生きている。真っ白な輝かしい人生を生きるか、真っ黒などん底で苦しむ人生を生きるか。楽しい人生だけど、時々嫌なことがある人生、楽しいことは時々しかない、嫌なことに溢れた人生。どう生きられるか、それはどこに身を置くか、置けるかで決まるのだと思う。
だから、病気というものが唯一おれの人生をひっくり返してくれる一手だと思った。実際のゲームルールには存在しない、人生というゲームだからこそ可能なこと。それが好転か暗転か、白か黒か、どちらでもいい。人生が、運の上に成り立っていると考え始めた時点で、おれは詰んでいたのかもしれないのだ。
「リバーシの隅のような人生だった」
ベッドの上で涙を流していた。右頬をつたい、すうっと静かに落ちた。
「彼らのように、おれもひとりで」
そう呟いた。
その後のおれは、側から見れば、死を待つ人間とは思えないほどあっけらかんとしていた。たぶん、死への恐怖を紛らわすためと、憐れみの目を少しでも減らすためだったと思う。生きている人間が、死にゆく人間に対して何と声をかけたらいいか、どう接したらいいか分からなくなるのは当然のことだ。
「沖野さん、点滴替えますね」
「ありがとうございます。あ、あとで少し散歩に出ても大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫ですよ。ナース室に寄って声かけてくださいね」
「分かりました」
こういう状況になっても、おれは散歩をした。食欲があまりなく、徐々に痩せ、筋力も体力も落ちてきてはいるが、できる限りで。相変わらず、外は気持ちがいい。そう思いながら点滴スタンドをゆっくり転がしながら歩いている。少し歩き、息切れするとベンチに腰をかけ、芝生と木々が、同じ方向に風に揺られている姿と音を楽しむ。また少し経つと、歩き始め、病室へと戻っていく。これが今の日課となっている。
そして就寝前はメッセージを残す。
「彰人、仕事終わったか?お疲れ!」
「彰人くん、お疲れ様」
「彰人さん、お疲れ様です」
「ありがとうございます。今日は後輩と外回りした後に、社内会議が2つあって、疲れましたね」
文字を打ちながら、時折心が苦しくなる。おれは何をやっているんだと。画面越しの会話をしている時、あれは間違った選択だったと思わされてならない。
「大変だったな。2人は今日どうだったよ?」
「わたしは、業者さんと内装の打ち合わせをしました。家具のレイアウトやら何やら着々と決まりつつあって、開店が楽しみです」
「おお、そうか。家具の話はどうよ?」
「いいメーカーさんが見つかって、テーブルと椅子を発注しました」
「それはよかった!」
「ぼくはテストが近いので勉強してましたね。さやかに数学を教えながら、ぼくは英語の勉強を」
「あら優しい。2人とも頑張ってね」
「ありがとうございます。慎二さんは?」
「俺は山登りしてきたよ。今まで嫌いだったから運動なんてしたことなかったんだけどよ、病気もしたし酒も減らしつつあるから、もっと健康的なことしようと思ってな」
「すごいわ!慎二さん」
「500mくらいの低い山だったけど、息苦しくて大変だったなぁ。でも楽しくてな、他の登山客が背中を押してくれて。今度はもう少し高い山を登ってみようかと。行く行くは富士山に挑戦したいな」
各々が、何かに向かって頑張っていた。真っ直ぐ生きているなと若僧ながら感心していた。感心しながらも、自分も何かを頑張ろうと思えないことに、やはりと思った。おれは静かにスマホの電源を落とし、窓の外を向くように横向きの体勢になって、丸まりながら眠りについた。
2度目の入院生活だが、この生活に関して何とも思っていない。なぜなら普段の生活と何ら変わりないことのように思えたからだ。朝起きて、会社で仕事をして、帰って寝る。これが日常化していた。今は朝起きて、点滴を変えて、散歩をして病室へ帰る。これが日常化しただけだ。しかし、この日常が非日常に変わっていることを感じつつあった。日に日に体に痛みが走る時間と強さが増している。日によっては散歩どころではない日がある。徐々に状態は悪化していき、1週間のうち2日は必ず寝込むようになっていった。
今日は散歩に出られそうもない。自分の身体の様子を伺いながら、共用スペースまで行ってみることにした。ソファに置きっぱなしになったテレビのリモコンを手に取り、5分ほど、真っ黒い画面を見つめて、ただぼーっとしていた。点けてみると、テレビドラマの再放送が流れた。偶然だろうか、余命宣告され、入院している女性が主役のドラマだった。家族や友人と過ごした回想シーンで涙を流し、夢を諦めなければならないことに絶望し、死ぬことへの恐怖を口にしていた。そして生きたかったと叫んでいた。そのタイミングでコマーシャルに切り替わった。
「生きたい、か」
死ぬことを覚悟した日から、そう思ったことはない気がする。思ったとしてももう遅いとも言えるのだが。生きたいというより、関わってきた人たちの支えの一部になりたいという思いがあった。人は忘れる生き物だ。卒業や転職、数年間連絡を取らないことによって、関わった人の半数以上を忘れる。だからこそ、おれが死んだとしても、生きよう、頑張ろう、誰かがそう思えるなら、それだけでいい。
おれはテレビを消し、ゆっくりと病室へ戻っていった。もう今日はこれが限界だと悟った。身体の節々が痛い、何も出来そうにない。そう思いながら、布団の中で目を閉じた。
何だか今日は元気だ。珍しく目覚めがいい日だった。おれは散歩に出て、病院の入り口まで歩いてみた。目印の赤いポストにタッチし、広場の大木の下までゆっくりと歩いて行った。硬い赤黒い土から明るい茶色の落ち葉のクッションへのグラデーションが、実にこの時期らしいと感じながら、根元で腰を下ろした。いつもベンチから眺めているだけだったので、こんなに近くで見たのは初めてだった。おれは幹をパンパンと叩いた。その後の記憶はない。おれはどうやらそこで倒れたらしい。たまたま通りかかった女性に助けられ、病室へと運ばれて行ったようだ。そこからおれが、目を覚ますことはもうなかった。
凍てつく風が落ち葉を攫っていく中で、おれは先生と看護師さんに囲まれて、最期を迎えたようだ。
辺り一面、真っ白な雪景色。遠くで車のエンジン音が聞こえる長閑な広場。
「彰人、今日も一段と寒いな。こういう日は熱燗に限るよな」
「慎二さん、酒やめたって言ってませんでした?」
「ただの冗談だよ。よく飲んでたから。優が飲めるようになれば、飲ませてやりたい日本酒があるんだがなぁ」
「うちの店にもあるわよ。お客さんには出さないけど、慎二さん用に」
「一葉さんは気が利くなぁ」
4人は和気藹々としていた。白い息が、空気の温かさを物語っている。
「まさか亡くなるとは思わなかったなぁ」
「驚きました。いつもぼくらと連絡取り合っていたのに」
「優くんから話は聞いていたので、私も会ってみたかったです」
「きっと、さやかちゃんもすぐに仲良くなれたと思うわ」
少々の沈黙があったが、冷たく強い風がびゅうっと連れ去っていった。
「俺たちは、彰人をなんとかしてやれたのかなぁ」
「みんな、彰人くんに変えられたものね。何かしてあげられたかもしれないって、悔やみますね」
亡くなった後のことは全て、弟の大和夫婦の息子に向けた便箋に書いてあった。ようやくポストに手が届くようになったことが嬉しくて、よく新聞や郵便物を取りに行くということを聞いていた。彰人が亡くなる直前に出した手紙を、嬉しそうに開けたそうだ。しかし、漢字だらけで読めず、不満げに両親に差し出したことがきっかけとなり、家族はすべてを知った。
葬儀は家族だけで執り行われ、遺骨は実家近くの山へ散骨した。それが希望だった。
「墓参りできないから、結局ここに来てしまいましたね」
「そうね。彰人くん、ここに居そうだしね」
一葉さんは、雪の被ったベンチを指差した。
「いや、あそこかもしれねぇぞ?」
慎二さんは、広場の中央にある大木の天辺に雪玉を投げた。
「どこに居ても、ぼくらみたいな迷ってる人に、寄り添ってあげてるんですかね」
優くんは、さやかちゃんのマフラーをそっと巻き直しながら言った。
「そうかもなぁ。でも彰人自身も、誰かに変えられてるといいけどな」
「大丈夫よ、彰人くんなら」
一葉さんの言葉で、慎二さんの心を堰き止めていた何かが決壊した。
「おれはやっぱり、納得できねぇよ。自分だけ胸の内に隠したままでよ。なんでだよ」
大の男が膝から崩れ落ち、腕で目と鼻を拭った。心情とは裏腹に、青空と太陽に照らされた雪が、反射したその男の涙は、この世のものとは思えないほど綺麗だった。
「慎二さん、それは言わないって約束したじゃない」
一葉さんは、慎二さんの肩を優しく抱いた。その時の声は、壊れそうなほど震えていた。 優くんは慎二さんを静かに見つめていた。その優くんのマフラーを、さやかちゃんがゆっくりと巻き直した。
「自動車整備の技術がなくたって、自分の店を持ったり、弁護士を目指すという夢がなくたって、そのままの彰人でよかったのによぉ」
ここにいた全員が、他人の幸せを願うことが必ずしも自分の幸せとして返ってこないことを不条理だと思ってしまった。当たり前のことだと分かっていたはずなのに。
人は、自分のために生きる生き物である。孤独である。だが、自分の成長のために、他者が必要である。ひとりなのに、ひとりでは生きていけない、それが人間だ。彰人のように、変われない人間は、他者がいても生きにくいのかもしれない。
「彰人・・・祐介・・・」
慎二さんにとって彰人という存在は、少し特別だったのだと思う。飲み友だち以上の何かだった、一緒に生きていきたい、いや「いかして」あげたいと思う存在だったのだろう。
数十年前、慎二さんが整備士として働いていた頃、現役バリバリという言葉は、この人のためにあるのではないかと思うほど仕事に熱心だった頃だ。慎二さんは感情を表に出さない寡黙なタイプ、いわゆる職人だった。
「優秀社員賞、東慎二殿、おめでとうございます」
社員の大きな拍手の中、静かに賞状を受け取り、社長に一礼し、自分の席へと戻っていった。
「慎二さん、すごいですね。まぁ仕事速いですもんね」
「いや、別に」
作業スペースに向かう途中、歩きながら後ろから後輩に声をかけられたが、歩みを止めることなくチラッと後ろを見て答えた。仕事以外に楽しいことなんて何もない、何を考えているか分からない、そんな印象を他の社員から持たれていた。当然だ、勤務して40年以上のベテランだが、会社の忘年会などの行事には一度も参加したことがなかった。仕事を終えると、社内のシャワーで汗と汚れを落とし、着替え終えると、社員と雑談することもなくすぐに会社を出た。その後はだいたい、コンビニで缶ビールと弁当を買って帰宅するか、近所の小さな居酒屋で一杯やってから帰宅するかのどちらかだった。この生活で十分な幸福を感じることが出来ていた。
「おい、野口!ラジオペンチ持ってこいって言ったよな?これめがねレンチだろうが!」
「あ、はい!すいません!」
慎二さんが作業する横で社員に怒鳴られていたのは、野口祐介という新人だ。24歳で1年前に入社した。他の新人は、先輩社員と実務に勤しんでいるが、彼はいまだ研修業務をさせられていた。慎二さんは、聞いていないのか聞こえていないのか分からないほどの集中力で業務をこなしていた。
「部長、野口の奴、他んとこに移動させてくれませんかね?俺の仕事が進まなくて残業三昧なんすよ」
「あー、そうだな。おい慎二、お前のとこは?」
軽自動車のタイヤを外していた慎二さんは、最後のタイヤを降ろし、呼吸を整えてから答えた。
「あ?ああ、いいよ」
部長と慎二さんは同期だ。慎二さんの同期は5人いたが、今は部長だけだ。
「おーい、野口!今日から慎二に教えてもらえ!」
「はい!」
遠くでタイヤを運んでいた野口くんは、すぐに慎二さんの元へ走ってきた。
「東さん、野口です。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
慎二さんは彼を一瞥もせず、タイヤの点検をしながら答えた。
昼休憩のチャイムが鳴った。
「野口、昼休憩入って」
慎二さんはスパナを床に投げ置き、そう言い残して社内へ向かっていった。コンビニ弁当とペットボトルの緑茶が入った袋を片手に、作業スペース横のベンチへ腰かけた。緑茶を一口飲み、冷めて固くなった米から食べ始めた。そこへ、野口くんがやって来た。
「東さん、隣いいですか?」
「ああ」
慎二さんは、弁当を見つめ、口をもぐもぐさせながら答えた。
「すいません、のろまで物覚えも悪くて」
「別に構いやしねぇよ」
少し鼻で笑うような感じで、ぶっきらぼうに答えた。そこから2人は、何も話すことなく、ただただ咀嚼音だけが聞こえた。慎二さんは、何となく野口くんの目を見た。コンビニの惣菜パンを童心で食う目は、若さなのか分からないが、とにかく輝いて見えた。
「お前、なんで整備士になったんだ?」
「あ、えっと、車が好きなのもありますけど、父が整備士だったんです」
「だから何だってんだ?」
「僕、不登校だったんですけど、その時に父がドライブに連れて行ってくれたり、仕事場を見せてくれたりしてて、父みたいになりたいなと。それで高卒認定試験を受けて、整備士の専門学校へ行きました」
「不登校?学校に行きゃダチの1人や2人いただろう?」
「いえ。結構ナヨナヨしてたので、なんか気持ち悪いって」
「あ、そう。で、整備士になって親父さんに恩返しでもしたいってか?」
「ええ、そう思っていたんですけど、3年前に病気で亡くなりました」
「そうか、悪かったな」
再びの沈黙が訪れた。しかし、慎二さんは少し揺らいでいた。彼の置かれた環境と動機が、慎二さんと全く同じだった。慎二さんの父も、整備士をしていて、不登校の慎二さんとよく遊んでくれていたのだ。慎二さんが整備士を目指し、やっとの思いで整備士になった時、父は病気で他界してしまった。ちょっとした思いに耽っていると、昼休憩の終了を知らせるチャイムが鳴った。慎二さんは、スッと立ち上がりゴミを持って社内へ戻っていった。野口くんは半分入った缶コーヒーを一気に飲み干し、その後を追いかけた。午後も午前と変わらず、野口くんは慎二さんにあちらこちらへと遣わされていた。
翌日、慎二さんは珍しく残業していた。他の社員が挨拶をして続々と帰宅する中、慎二さんと野口くんは黙々と業務に取り組んでいた。終わったのは22時。定時から4時間ほど過ぎていた。2人は無言のまま着替えていた。横目で確認しながら、慎二さんよりワンテンポ遅れて着替える野口くんの素ぶりは、申し訳なさの現れだろう。
「お前、家遠いのか?」
「いえ、近いです」
唐突に聞こえて来た声に、野口くんは少しビクッとした。10秒ほど間があったが、再び慎二さんが口を開いた。
「飲みにでも行くか?」
「え、あ、はい!」
野口くんは、突拍子も無い言葉に対し、あからさまに驚いた。
「じゃ、外で待ってんぞ」
慎二さんはそう言い残し、ロッカールームを出ていった。野口くんはテンポアップし、インナーがズボンから飛び出るくらいの乱雑なスピード感で着替え、タイムカードを切って外へ出た。
慎二さんより2歩下がり、後を追いかける様は、部下というより奥方のそれだった。ただ、この距離感は、尊敬や愛情からではなく、申し訳なさからだ。
「ここでいいか?」
「あ、はい!」
慎二さんがよく飲みにくる店だ。カウンター席しかない、常連の溜まり場的な雰囲気のある店だ。
「大将、ビール。お前は?」
「あ、僕も」
2人とも黙ったまま、おしぼりで手や顔を拭いた。
「すいません、僕のせいで残業になってしまって」
「あ?別にお前のせいじゃねぇよ。欠勤の奴がいたからその仕事が回って来ただけだ」
会話を終わらせるように、キンキンに冷えたビールが到着した。
「ほら、乾杯」
慎二さんたちは、飲み始めたものの、距離感がグッと縮まる様子はなかった。しかし、久しぶりに顔を合わせた親子のような安心感がそこにはあった。慎二さんも野口くんも、自然とその空気に居心地の良さを感じ、適度に酒が進んだ。
「お前、仕事以外に何かやってみたいこととかねぇのか?」
「あ、はい、えっと、東京へ行ってみたいです」
「は?東京?」
慎二さんはてっきり趣味の話だと思って聞いたので、渋さからは想像が出来ないような上擦った声が出てしまった。
「行ったことないので行ってみたいっていうだけなんですけどね、ビルだらけの街並みを見てみたいです」
「俺もテレビでしか見たことねぇが、あんなの何でもねぇだろう」
「まあ、そうかもしれませんが、ただ夜の綺麗な街を歩くだけでも楽しそうだなって」
「ああ、そうか」
慎二さんは、残りのビールを一気に飲み干した。野口くんは緊張しているのか、おしぼりや箸を落としたり、むせたりしていたが、他人の機微に敏感に反応し、よく気が利いた。慎二さんのビールが残り半分になると、サッとメニューを差し出し、飲む時にグラスから垂れる水滴が服に溢れないように、おしぼりでガードした。終いには、貧乏ゆすりを始めた慎二さんに、トイレの位置を教えたりしていた。慎二さんは、介護されているみたいだと多少の不愉快さを感じたが、これは彼の良さなのだと気がつき始め、受け入れることにした。
野口くんが慎二さんの下についてから半年ほどが経った。野口くんは以前よりも動きは機敏で、何より明るくなっていた。優秀な社員の下でイキイキと働いている姿に、野口くんの同期や他の社員たちは、いい顔をしてはいなかった。野口くんが工具箱の整理を黙々と行っていたところへ、野口くんを投げ出した先輩社員が通りかかった。
「野口何やってんの?」
「工具箱の整理です。こうしておかないと工具がダブったりして使いにくいんです」
「お前は整備士としての仕事をいつになったら始めるんだ?それで整備士としての能力は身につかないだろ。それじゃあ同期との差は広がる一方だぞ?」
「すいません」
野口くんの動きはピタリと止まった。急所を突かれたように、神経が遮断され、脳からの指令がストップしたようだった。捲し立てる先輩社員に対し、俯いたまま何も出来なかった。
「おい、うるせぇぞ。おれの役に立ってればそれは立派な仕事なんだよ。口挟む暇があったら自分の仕事に戻れ。また優秀社員賞逃しちまうぞ?」
慎二さんは、作業の手を止めず、相手を見ることなく相手の急所を突き返した。相手もまた、ピタリと止まった。
「うっす、すいません」
周囲の金属音にかき消され、慎二さんに聞こえるか聞こえないかくらいの声量だった。
「おい祐介、ラチェット持ってこい」
「あ、足元に置いておきました!」
「おう、すまねぇ」
慎二さんが足元に手を伸ばすと、側には手順書に沿った必要な工具が既に準備されていた。しかも慎二さんが動く範囲も計算されているようで、足蹴にしない位置に置いてあった。慎二さんは鼻で笑って作業を続けた。その鼻はとても高かった。
ある暑い日の昼休憩。慎二さんはいつもの場所で弁当に食らいついていた。そこへ野口くんがニコニコしながらやって来た。
「なんだ、祐介?」
「慎二さん、今日誕生日らしいっすね。事務所のボードに書いてありましたよ」
「ああ、そうだったな。64になるな」
「おめでとうございます!はい、これ」
野口くんは、袋に入った何かを手渡した。袋を開けてみると、黒のTシャツが入っていた。
「先日、水族館へ行ったんで、お土産っす。作業着の下に着ている白Tシャツ、煤で黒ずんでいるじゃないですか。なのでこれ着てください!」
「ああ、ありがてぇが、なんだこれ、イカ?」
「ええ、飲みに連れていってもらった時、よくゲソ食べてたじゃないですか」
「だからってイカがプリントされたTシャツを渡すかね。どんなセンスしてんだよ」
慎二さんは、野口くんにあーだこーだ言っていたが、満更でもなかった。これが勤務して初めてのプレゼントだったから。
この日の慎二さんは、いつもと違っていた。スーツを身に纏い、実家に帰って来ていた。母が亡くなり、喪主として健気に振る舞っていた。寡黙な慎二さんだが、葬儀の参列者1人1人と言葉を交わし、そうしながらも、職人気質の側面を覗かせるように、頑固な表情でいた。会社から1週間ほど忌引きを貰い、葬儀やらその他の後始末やらを淡々とこなしていた。近親者を亡くしたことと不慣れなことで、息つく暇もなく、仕事のことは一切頭にはなかった。
たかが1週間だと思っていたが、本当にそうだった。一応休暇ではあるが、身体も心も1週間前よりもだいぶ疲れていた。軽い朝礼が終わり、社員が各々の持ち場に移動を始めた。
「行くぞ、祐介」
慎二さんは覇気のない声を出した。朝礼の時はいつも慎二さんの後ろにいた野口くんだが、今日はまだ来ていないようだった。
「遅刻か、あいつ」
慎二さんは、近くにいた他の社員を呼び止め、野口くんからの連絡の有無を確認した。
「いや、その・・・。部長に聞いてください。ぼくの口からはちょっと・・・」
そう言うと、急ぎ足で行ってしまった。慎二さんは、怪訝そうな顔をして走っていった社員を睨みつけた後、部長のいるフロアへと向かった。
「ああ慎二、お前今日から復帰だったな」
「祐介は休みか?他の奴がお前に聞けっていうもんで」
部長は、長いため息をついてから小声で言った。
「野口な、亡くなった。自殺だってよ」
慎二さんは、自分の耳に入って来た言葉が予想の斜めを行き過ぎていたので、一瞬の呆れ笑いが出てしまった。
「は?何言ってんの?」
「お前が休みをとっている間な、加藤と山下、田辺と木村の4人の下で働いてもらってたんだが、酷く詰められたようで」
その4人は、慕われない4人集と陰で呼ばれていた。すぐに怒号を浴びせる人たちで、3日も経たないうちに部下が辞めてしまい、そう呼ばれるようになった。
「てめぇ、なんであんな奴らの下に付けたんだ!あのバカどもが祐介と仕事なんて出来るわけねぇだろうが!」
慎二さんは、部長の机を蹴飛ばし、胸ぐらを掴んでそう言い放った。咄嗟の出来事に部長は何も出来ず固まっていたが、報告書を持ってきた他の社員が慎二さんの大声を聞き、止めに入った。
「仕方ないだろう。部下がいないのあいつらのところだけなんだから」
「自分で減らしていった結果だろうが!ろくに仕事も出来ねぇくせに一丁前に吠えるだけで、そんなバカに祐介の活かし方がわかるわけねぇだろ!」
慎二さんはどんどんヒートアップしていった。あと一歩で手が出る、そんな予感がした。部長はいつもと違い、諭すような口調で話した。
「落ち着けよ、お前だってずっと部下がいなかっただろう。いや、その話はいいとして、俺だってまさかこうなるとは思わなかったよ。社長は方々への謝罪対応に追われてるし、この会社どうなるんだか」
体型からは想像できないほどの弱々しい声だった。部長のその声で、慎二さんは真っ赤になるまで握り込んでいた拳を少し緩めた。その拳に集まっていたワイシャツの全ての皺が、その隙に逃げていった。寡黙な職人の慎二さんを入れて5人集と呼ばれていたが、野口くんがきっかけで、他の社員の慎二さんを見る目が変わりつつあった。彼は、慎二さんにとって最高の一手だった。
「あいつらはどうした?」
「当然クビだよ、置いておけるわけがない」
それを聞き、慎二さんは制していた社員の腕を振り払って、静かに作業スペースに戻ろうとした。
「お前はどうするんだ?この仕事辞めんのか?」
「続ける。どうせあと1年で定年だ」
言葉通り、残り1年、慎二さんは職務を全うした。その1年間は、以前の慎二さんに戻ったように仕事に明け暮れた、誰とも話さずに。この整備会社は、なんとか存続は出来たものの、年々人手は減っていき、あと数年持つかどうかという状態となった。この会社での最後の日、慎二さんは、朝礼で社員から拍手を送られていたが、記憶に残る様な日にはならなかった。
帰宅すると、いつも通り缶ビールを開けた。部屋には、小さな折りたたみテーブルしかなかった。慎二さんは以前から、定年したら別の場所へ引っ越すことを考えていたのだ。 ひとりでゆったりと暮らせるどこかへ。ビールを飲みながら、管理会社に返すスペアキーを探そうと鞄に手を入れた。クシャクシャの書類や丸めたティッシュペーパーでなどで散らかった中から鍵を引っ張り出すと、鍵についたキーホルダーに何かが引っかかって付いてきた。野口くんからもらったTシャツだ。カバンの奥で荷物に押し潰され、シワシワになっていた。鞄から出すのをすっかり忘れていたと思いながら、慎二さんはパンパンとはたき、皺を伸ばした。そのTシャツと、仕事を全うした達成感からなのか、涙が溢れた。無感情だった男が、感情と涙を垂れ流した。時間も食欲も、全てを忘れ、ただただ泣いたのだった。
数年後、慎二さんは都会の街をうろうろとしていた。
「何か違うんだよなぁ」
ぶつぶつ言いながら、何かを探していた。日が暮れ始め、街灯や店の灯りが街を照らし始めた。
「ああ、ここいいじゃねぇか」
そう呟くと、カウンターしかない木造の薄暗い店へと入った。
「大将、とりあえずビール」
注文し、店を見回した。隅でビールとモツ煮を嗜みながら、漫画を読んでいる青年がいる。何でか分からないが、声をかけたくなった。人と話したいなんて思ったこともないのに。昔と変わっていた。
「にいちゃん、この辺の人?」
これが、Tシャツを着た男性と青年の不思議な出会いであった。
「もう帰りましょう。寒さがきつくなってきましたよ」
「そうだな。帰ろう」
優くんの一声で、慎二さんは目と鼻をもう一度大きく拭い、立ち上がった。鼻の頭は赤く染まり、目は水面のように輝き、膝だけがまだ泣いていた。風がビュウっと吹くと、ダウンジャケットから白いワイシャツと黒いTシャツが顔を出した。彼らは、広場の大木を一瞥し、それぞれの道を進んでいった。その年の春、慎二さんのミヤコワスレは、真っ白で凛とした花が咲いたそうだ。
人生はゲームだ。
ひっくり返し、ひっくり返され、生きていく。
幸福の絶頂と、不幸のどん底で、生きていく。
同調する者と、反論する者が、生きていく。
どこに身を置いて、生きていこう。
リバーシ 耀 田半 @tahan_yo
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