第5話 確定石

 いつもは通らない道を歩いてみた。退院して久しく見ていなかったが、冬でも広場は綺麗だ。葉が枯れ落ちた木もまた荘厳である。おれは定期検査の結果を聞くために戻ってきた。長い時間いたはずだが、検査は数ヶ月に一度なので、なんだか新鮮味を感じる。慣れているはずなのに、主治医の先生に会うことを戸惑っている自分がいた。数人が腰かけているロビーチェアの中から誰もいないものを選び、端へ座って名前が呼ばれるのを待っていた。窓際は退屈しなくていい。植物が揺れる様子、人々がゆっくりと移動している様子。当たり前の景色だと思われるが、実はあまり見る機会がない景色のようにおれは思う。同じ景色は存在しない、だから退屈しないのだと。ほら、そうこうしている間に名前が呼ばれた。

「先生、お久しぶりです」

「そうか、久しぶりだね。検査の日は私が担当じゃなかったからね」

 そんな何気ない会話をよそに、看護師さんが数人、わらわらと集まってきた。

「えっと、沖野さん。結果なんですけどね、あまり良くないですね。ほら、これ見えますか?癌があちこちに転移してます」

 癌が再発した。おれは驚いた。それは自覚症状がないからなのか、直前の何気ない会話の雰囲気とのギャップからなのかは分からない。主治医の先生と看護師の表情は真剣そのものだった。なぜ病院はこうも無神経なのか。いつもより4人看護師が多いだけで緊張感は跳ね上がる。おれは、どういう表情していたのか覚えてはいなかった。

 初めて癌が発覚した時の気持ちと、さほど変わりはないように思う。その時と同じように先生は今後のことについて話している。唯一違うのは、手術という言葉が出てこなかったことだ。

 帰り道は、あの時と違っていたかもしれない。先々のことを考えながら歩いていた。おれはここが人生の大きな選択の瞬間のような気がしていた、なぜなんだろう。ただ、ここで出した答えで全てが決まる、そう思えた。

 家に帰るとベッドに横たわった。家族へ連絡をしようと、ポケットからスマホを取り出し文字を打とうとした。そのままぼーっとしていると、画面が暗くなったことに気が付き、おれはスマホを手ごと枕元に置いた。しばらくして、勢いよく起き上がり、机の引き出しから便箋を1枚取り出した。

 心を整理する目的で、思っていることをありったけ書いた。

 書いては消してを繰り返し、それは夜中まで続いた。書き終えたおれは、ゆっくりと布団に入り、静かに目を瞑った。

 この便箋が、おれにとっての確定石となる。


 初めてなのに初めてではない感覚、そんな心持ちで歩いていた。今日はチーム患者で病院外の場所で初めて会う日だ。癌の再発が発覚する数日前から、この計画は立てられていた。みんなに再発のことを打ち明けようとは思わなかった。そもそも、3人は癌のことを知らないし、せっかくの機会を壊すような真似だけはしたくなかった。いつも通りでいい、そう思っていた。

 集合場所の駅に5分前に着いたが、既に3人は到着していた。

「誰も遅れませんでしたね」

「皆さん優秀ですこと」

 優くんと一葉さんは笑っていた。優くんは15分前に着いていた。なんでも先輩より先に着いているのが当たり前だと部活で教えられたらしい。2番目に着いた一葉さんは感心していたようだ。

「彰人、これ見ろ」

 慎二さんはおれが到着するなり、ダウンジャケットのジッパーを勢いよく開け、格好を見せてきた。真っ白な皺1つないワイシャツにジーンズという、休日のイケおじファッションだった。

「あ、おれがあげたシャツ、やっと着てくれたんですね」

「ああ、お前に見せたくてな」

「やっぱり似合いますね」

「慎二さん、モテてきたでしょう?女の勘ですけど」

「いや、そんなことは。今日どこ行くんだっけ?」

 反応と話の逸らし方から、慎二さんがトレンディ俳優に見えた。病院で話した空気感と何も変わらず、おれは安心した。特に優くんは中学生だ。こんな大人に囲まれたら萎縮してしまいそうなものだが、気丈に振る舞っていた。おそらくここにいる誰よりも大人だったと思う。

「優くん、脚はもう大丈夫?」

「はい、おかげさまですっかり良くなりました。激しい運動でなければ問題ありません。彰人さんは術後どうなんですか?なんかお腹の病気でしたっけ?」

「そういえば、わたしとも病気の話をしたことなかったわね、大丈夫?」

「俺も詳しくは知らねぇな」

「全然大丈夫ですよ。もう経過観察で数ヶ月に一度通院するくらいで」

 別に癌だったということを話したとしても何も問題はないのだが、再発した手前、ふとした拍子に口走ってしまう可能性がある。おれはそれを危惧し、適当に返事をした。一葉さんと優くんは不思議そうな顔をしていたが、慎二さんは分かっていた。おれが、こんな日に心配させるようなことを言うタイプではないと判断したようだ。長い付き合いから生まれる阿吽の呼吸というやつかもしれない。

「ま、元気になったんならなんだっていい。俺も元気になったしな」

「慎二さんも病気だったんですか?」

「ああ、心筋梗塞」

「まあ、初めて聞いたわ」

「いや聞いてくれよ。その時、手術にビビっちゃってさ。彰人が背中を押してくれたんだよ」

「そうだったのね」

 慎二さんは自分の病気の話を赤裸々に語り、見事なミスディレクションをやってのけた。おれは少しの間、黙って慎二さんの話を聞くことに徹した。熱りが冷めるのにはまだ時間が必要だと感じたからだ。再び俺の話題に戻ってくる可能性がないわけではない、完全に消え去ったタイミングを見計らって会話に参加しようと思っていた。

 おれたち4人は、都内にある芝生の綺麗な公園にやってきた。冬の寒さを耐え忍ぶ黄色味の芝生が、歓迎するかのように風に揺られて小さく立ち上がっている。ピクニックシーズンではないが、日向はポカポカと暖かく、慎二さんと一葉さんのように、花粉症持ちの人にはちょうど良かった。犬を連れたカップル、老夫婦、多くの人たちがニット帽とマフラーと手袋をして自然を満喫する姿は、冬の景色の中で最も好きだ。冬の風物詩と言われたら、おれはこの景色を挙げたい。

「このあたりでいいかしら」

 一葉さんは持ってきたシートを広げ、四隅に荷物を置いた。おれはリュックを置き、そこから水筒と短めのバドミントンのラケットを出した。

「さ、やりますか」

「あ、彰人さん持ってきてくれたんですね」

「うん。この間、100円ショップで買ったんだ」

 大の男がバドミントンのラケットを抱えてレジに並ぶというのは、かなりの恥ずかしさがあった。その恥ずかしさを緩和するために、家庭を持っている人間に見られようと、別に欲しくもないキッチン用品をいくつか一緒に買ったことは内緒にしておこうと思う。子どものクリスマスプレゼントのためにレジに並ぶ、世のスーツ姿のお父さんというのは、おれと同じように多少の恥ずかしさも抱えているのかもしれないと感じた。

「あら、いいわね。わたし学生時代バドミントン部だったのよ」

「おい、マジかよ」

「ええ、県大会で優勝したこともあります」

「えっと、手加減してくださいね」

 遊びだと分かっていても本気になってしまうのが大人というもので、慎二さんはバドミントンをやったことないにも関わらず、自分の体力の限界も忘れるほど本気だった。息は切れ、膝が笑っていても、何度も一葉さんに勝負を挑んでいた。優くんと一葉さんはいい勝負だった。持ち前の運動神経が遺憾なく発揮されていた。やはり何をやっても器用にこなす。

「次は、彰人くんね」

「お願いします」

 おれは体育の授業と遊びで少ししかやったことなかったものの、意外とラリーが続いた。慎二さんと優くんは、試合を終えた選手のように息を整えながら2人を応援していた。

 一葉さんはシャトルを天高く突き上げた。おれはその下に入り込み、打ち返す姿勢を取ったその時、おれの視界が歪み始めた。コンタクトレンズの不調かと思い、素早く瞬きをしたが視界は変わらず、おれは気が付くと尻餅をついていた。

「彰人、大丈夫か!」

 慎二さんと優くんがおれに駆け寄り、顔を覗き込んだ。

「ああ、大丈夫です。太陽の光が眩しくて視界が真っ暗になっちゃって」

「彰人くん、ごめんなさい。大丈夫?」

 一葉さんも一足遅れて駆け寄ってきた。すぐに視界は戻ったが、あれが何だったのかはよく分からなかった。

「ちょっと休憩しません?みんな病み上がりなのに動きすぎですよ」

 優くんは気を利かせ、おれに水筒を手渡しながらそう言った。ちょうど昼時になっていたこともあり、昼休憩を取ることにした。

「皆さん、どうぞ召し上がれ」

「いただきます!」

 一葉さんが弁当を作ってくれていた。おにぎりと唐揚げ、卵焼き、ブロッコリーとプチトマトがタッパーにぎゅうぎゅうに詰められ、3人は運動会の昼食さながらの食欲で頬張っていた。その姿を見ながら、水筒の紅茶を紙コップに注ぎ一口飲んだ。その時の一葉さんは、母の顔をしていた。

「まさか、一葉さんがあんなに強いとはなぁ」

「いえいえ。体力も落ちているし、年齢のせいで全然動けませんでしたよ」

「学生の時はどんな練習をしてたんですか?」

「優くんと彰人くんからしたらあり得ないんでしょうけど、ラケットで叩かれたり、水かけられたり、結構キツイ練習をしてたわね」

「時代だよな。俺は部活じゃねぇが、近所の爺さんにケツ叩かれたりしてたなぁ」

 昭和の怖い話は、食欲が増すような話題ではなかったが、優くんは興味津々だった。弁護士を目指しているからか、正義感にあふれた真っ直ぐな目をしていた。

 弁当を食べ終え、おれと一葉さんと優くんはお茶を飲みながら雑談をしていた。日差しの心地よさも相まって、慎二さんは横になってウトウトし始めた。

「彰人さんは、将来の夢とかあるんですか?」

「30歳だったわよね?そろそろ結婚とか仕事とか諸々、方向性を定める時期って感じかしら」

 おれは2人からの質問で、改めて30歳という年齢であることを自覚した。おれは3年前、大学のサークルの仲間と飲んだ時のことを思い出した。みんな結婚していたり、人生の目標を持っていた。それから3年、おれは何も変わっていない。今はみんなどうしているのだろう、何か変わっているだろうか。

「いやー、何もないんですよね。結婚したいって気持ちもないし、仕事一筋で頑張りたいってこともないし。分からないです」

「ぼくが言うのも何ですが、まだ若いですしね」

「いや、そんなこともねぇぞ。気づいたら、あっという間にジジイになってる。俺はそんな感じだったな、仕事に生きてたら趣味もなく、結婚もせず、ジジイになってた」

「人生が意外と短いっていうのは、わたしも同感ね。20代で結婚して家庭に入って子育てして、落ち着いたらカフェやろうと思ってたけど。結局離婚しちゃったし、カフェが始められそうなのも50歳手前だし」

 慎二さんはあくびをし、目を瞑りながら答え、一葉さんも慎二さんに続いて答えた。人生経験がおれと優くんより長い2人が語る言葉は、妙に刺さった。というよりも分かっていたことを改めて再確認させられた感じだ。かといって焦りが湧かない、これはなぜなのだろう。

「若いうちに出来ること、やりたいことは色々やった方がいいんですね」

「そうだな。色々やった結果、仕事に生きるのがいいのか、結婚して仕事から離れるのがいいのかとか、自分に合った方向に取捨選択できるのが理想ではあるな。俺は若い頃の経験が、年齢を重ねた時に物を言うと思ってる」

「弁護士を目指す気持ちは変わりませんが、今のうちから視野を広くしておいた方がいいなって思いました」

 優くんの言葉は、いつも以上に強かった。

「いいんじゃないかしら。でも、経験を重ねても上手くいくか分からないのが人生なんですよね、慎二さん?」

「そうなんだよなぁ。昔付き合っていた女と結婚しておくべきだったかなぁ」

 一葉さんは笑いながら、寝転んでいる慎二さんの腿を叩いた。

 恐らく慎二さんの言う若い頃というのが20代から30代くらいということなのだろう。20代で経験したことを30代で固めるというのは世間一般的に言われていることだ。だから一葉さんも30歳のおれに、方向性を定める時期と言ったのだ。

「まあ色々言ったが、1日1日を大切に生きることだな。世の中にはそうしたくても出来ない奴、出来なかった奴もいるしな」

 ピクニックで話す話題にしては、この芝生以上に壮大だった。そう思いながら、おれは気が付いたのだった。

「そうだ、おれは定まっているんだ」

 おれは慎二さんの言葉の後に、この言葉を置いた。

 陽がオレンジ色に輝き始め、風も鋭くなり始めた。

「もう行きましょうか、寒くなってきましたよ」

 優くんはそう言うと、静かに立ち上がった。慎二さんは再びあくびをしてから徐に立ち上がった。せっせと後片付けをし、4人は芝生を踏みしめて歩いた。

「この後はどうしますか?」

「優くんは中学生だから、あまり遅い時間になるのは良くないわよね?」

「遅くなるかもとは言っておきました」

「というか、今日おれたちと遊ぶって話をしたんだよね?よく親から許しを貰えたね?」

「はい、大丈夫でしたよ。母は彰人さんのことは知っているし、病院で仲良くなった人たちだって説明したら、楽しんできなさいって」

「まあ確かに、誰からも犯罪の匂いはしないけど」

 出会った場所が病院という、出会いに特化した場所ではないから安全だと判断されたのだろうが、優くんの両親の寛大さをひしひしと感じた。おれが親なら、30代のサラリーマンと40代女性と70代のおじいさんと一緒に、中学生が何をするのかと不思議に思うだろう。

「なぁ、なんか甘いもん食いたくないか?パフェでも食おう」

 慎二さんは、話の流れを無視して本能のままに提案した。優くんも一葉さんも、慎二さんのこういう振る舞いには慣れてきたようで、スッと受け入れていた。おれは近くのカフェをスマホで調べ、行ってみたが満席だったので、近くのファミレスへと入った。

「ファミレスなんて何年も来たことねぇな」

「おれもないかも、1人だと牛丼屋とかラーメン屋にしか行かないからな」

「ぼくは最近、さやかと来ました」

「ふーん、ん、今なんて?」

「さやかちゃんと来たって言ったわよね?」

「お前ら、もうそういう感じ?」

「あれ、言ってませんでしたっけ?」

 優くんは、ただの同部屋の人というわけではなく、恋バナをした仲だったことをおれはすっかり忘れていた。優くんと初めて出会った時の情報が、綺麗な一本線で今の状況まで辿り着いた。その時間は1秒もなかった。

「そっか、よかったね」

 結果がどうであれ、好きな人に告白するというのは簡単なことではない。それが出来たというのは、人として大きく成長しているはずだ。おれには今まで告白するという経験はないが、恋愛が人生における何かしらの糧になっていたことは間違いないだろう。これはイメージの話なのだが、告白した側と告白された側では、経験値の差があると思う。気持ちを伝える時の表情、伝える言葉、声のトーン、全てに自分という人間がギュッと凝縮されている。告白によって自分100%を搾り出すと、新たに成長した自分という容器が出来上がる、そんなイメージだ。おれも告白をしたら、人生において何か変わっていたのかもしれないと思うと、しておけばよかったと思う。この時に飲んだコーヒーは、いつもよりも少し苦かった。

「お待たせいたしました、いちごパフェです」

「お、きたきた!いただきまーす!」

 細長いプラスチックの容器に、赤と白が何層にもなった、立派なパフェだ。頂上にはいちごアイス、そのアイスを囲うようにいちごがふんだんに盛られていた。慎二さんは、いちごアイスをスプーンで掬い、一口で全て食べた。素早く身体に糖分を与えようと頬張る慎二さんの姿は、この中の誰よりも若かった。

「東京タワーみたいなパフェだな」

「確かに。2人で行ったの懐かしいですね」

「あれで東京の街を好きになったからなぁ」

 おれと慎二さんは、東京タワーから観た街の景色の思い出話をしていた。すると、一葉さんが紅茶を一口飲み、質問した。

「そういえば、ずっと気になっていたのだけど、お二人はどうして仲良くなったのですか?」

 おれと慎二さんは、今更すぎる質問に少し驚いたが、確かに今までそんな話をしたことがないことに気が付いた。ただ、人間はなぜ生きるのかという質問のような、当たり前なことだったのですぐに答えが出てこなかった。

「あー、何でだっけか?初めて会ったのは飲み屋だよな?」

「ええ、おれ慎二さんに話しかけられたんですよ」

「そうだった、そうだった」

「見知らぬ人に急に話しかけるって凄い勇気ですね。ぼくには出来そうにないです」

「何で話しかけたんだろう、酔ってたんかな?」

「そんな理由だったのかよ、ガッカリですよ」

 おれが半笑いでそう言うと、慎二さんはおれの肩に手を置き、冗談だよと目で言った。

「でも、素敵な出会いよね。もし2人が出会っていなかったら、皆さんに会うことはなかったでしょうし、こんな風に遊べる友達もできなかったわ」

「一葉さんって、東京での生活長いんだよな?」

「そうですね、長いのかしら。20年くらい経ちましたね。港町出身で、こちらへ来るまでは海辺で暮らしてました」

「え、一葉さんって漁師の娘なんですか?」

「いいえ、小料理屋の娘よ。ただ海辺の家に住んでいたってだけ」

「ほう、そうだったのか」

「漁師の娘ってことで言うと、わたしの娘は漁師の娘になるわね」

「ご主人が漁師なのか?」

「そうです、同級生だったんです」

 おれは、これ以上踏み込んでいいのかどうか躊躇したが、慎二さんは土足でずんずん踏み込んでいった。優くんは、大人の会話に入ってはまずいと思ったのか、静かにオレンジジュースを飲んでいた。

「何で離婚したんだ?」

「えっと、話せば長くなるのですけど、旦那とは小学校の頃からの付き合いで、実家の小料理屋が、旦那のお父さんから魚を直接買ってて、それでよくうちに来てたんです」

「なるほどな」

「昔から真面目な堅物という感じの人で、わたしが高校でヤンチャして、よく怒られていました」

「一葉さんがヤンチャ?!」

 3人は度肝を抜かれた。そんなイメージが全くなかったからだ。黒髪ショートで落ち着いた雰囲気の今の一葉さんからは想像もつかなかった。

「お恥ずかしい話ですけど、タバコ吸ったり、バイクで走ったり。いわゆる暴走族です。何だか優くんにすごく怒られそう」

「いえ、今はまだ目を瞑ります」

「それでわたしが彼を好きになって、そのタイミングで暴走族もやめて、卒業して数年後に結婚しました。旦那は漁師になって、わたしは主婦になりました」

 気がつくと、3人は一葉さんの話を真剣な眼差しで聞いていた。誰も口を挟むことなく、おれのコーヒーは冷め切っていた。

「娘が生まれて、子育てがひと段落したタイミングで、やっぱり働きたいと思い始めたんですけど、旦那は許してくれなくて。家事だけやってろって」

「昭和の男って感じだな」

「まあ、そもそも結婚するときに2人で話し合って、わたしは専業主婦になるって決めたんですけどね、やっぱり家にずっと居るのが合わなくて」

「そりゃ元ヤンだからな」

「慎二さんうるさい、関係ないでしょ」

「話し合いは結局、平行線のまま。それでわたしから離婚を。旦那は子育てなんて出来るタイプではないので、娘はわたしと一緒に」

「なるほど、それでこっちへ来たってわけか」

「東京に来てからもも紆余曲折ありまして。わたし、ママ友との付き合い方が全く分からなくて、友だちが出来なかったんです。誰かとお話をするのは好きなのですけど、ママ友の会話って、他のママさんや旦那の悪口、旦那の収入や子どもの習い事でマウントを取ったり、気乗りしない会話ばかりで。特にわたしは旦那がいなくて不憫に思われたりして、なんて煩わしいんだろうって」

「元ヤンだしなぁ」

「慎二さん本当にうるさい、追い出しますよ?」

「だからといって娘に何か影響があったわけではないですけどね。娘は幼稚園でも小学校でも友だちと楽しそうにしてましたし。わたしはわたしで、頑張ろうと思って、こっちでアパレルの仕事を始めたんです。そうしたらやっぱり、専業主婦の時より活気が湧いてきちゃって、数年連続で売上トップの社員になりました。元ヤンの血が騒いだのかしら?」

「ああ、きっとそうだな」

 ドラマでしか観たことがないと思っていたが、女社会というのは、いまだに存在する。学校と同じ小社会だ。一葉さんは、学校で群れに溶け込んでいたおれのようにはなれなかったようだ。

「それにこれも初めてお話しするんですけど、わたし、癌なんです」

 3人はまたまた驚いた。病院で色々話はしたものの誰も一葉さんに病気について触れなかったからだ。そして恐らく、おれが1番驚いた。まさかおれと同じとは。

「正確にいうと、癌だったが正しいかもしれません。初期の子宮頸がんで、手術してその後転移したので抗がん剤治療を。髪の毛が抜けたり吐き気がしたり、あれは結構キツかったわね。ちょうどそこから1年ちょっと経って、検査で入退院を繰り返している時に、彰人くんと出会ったのよ」

「そうだったんですね」

「そして今はもう、すっかり良くなったわ」

 初めて一葉さんという人間を詳しく知ることが出来た。元々オープンで何でも話してくれる人ではあったが、自分から踏み込んで聞くことは出来なかった。おれとの共通点があるということも分かり、おれはこの際だから踏み込んで聞いてみようと思った。

「仕事も闘病も、大変だったでしょうけど、何でそんなに頑張れたんですか?」

 おれは、ここがファミレスであるということを忘れていた。そのくらい周りが見えず、一葉さんに質問することだけに集中していた。どうしても答えが知りたかったのだ。

「そうね、やっぱり娘の存在かしら。娘が頑張っているから、わたしも頑張れる。母は強しって言葉があるけれど、本当にそうね。多分人によって違うのでしょうけど、親のため、友だちのため、人はきっと心の支えになっているもののために、頑張れる生き物なんだと思うわ。ちなみに、お店を頑張ろうと思えたのは、彰人くんとお二人のお友だちの存在があったからよ」

「ぼく、お店に行くの楽しみにしてますから」

 娘という存在が、一葉さんのモチベーションになっていた。そしておれや慎二さんや優くんもまた、一葉さんを支える存在になっていたのだ。おれは集中を緩め、冷めたコーヒーを口にした。やはりいつもよりもほろ苦く感じた。

「随分と話し込んでしまいましたね。見て、空がだいぶ暗くなってきたわ」

 一葉さんはそう言うと、ファミレスの大きな窓を指差した。街灯と、街路樹に巻かれた電飾が煌々としていた。

「そろそろ帰るか」

 慎二さんは伝票を持って、レジの方へスタスタと行ってしまった。一葉さんと優くんが慎二さんの後を追いかける姿を見ながら、おれはワンテンポ遅れてレジへと向かった。なぜだか、一瞬ぼーっとしてしまった。

「あー寒っ!俺もあったかい飲みもの頼めばよかった。パフェと水で体が冷えちまった」

「パフェ大きかったですしね」

「優はオレンジジュースだったのに、よく平気でいられるな」

「そうですね、そこまで寒くないです」

「いいわね、若いって」

 まだ薄暗さが残る、都心よりも静かな街を談笑しながら歩いていた。昨晩は見られなかったが、今吐いた息の白さから、本格的な冬の到来を感じた。明日はきっと寒い。

 みんなと別れ、駅から家へ向かっていたおれは、空いた小腹を満たそうとコンビニへ寄った。弁当コーナーのパスタを吟味していた時、ふと野菜不足である最近の食生活のことが頭をよぎった。最近はバタバタしていて、自炊を止めてしまっていた。仕方なくサラダとサラダチキン、そしてレジに並びながら赤飯のおにぎりを手に取った。

 家を目指していると、近くの公園で、ひとりサッカーの練習をする小学校低学年くらいの男の子が視界に入った。小学生にとっては遅い時間だったのにも関わらず、黙々と練習をしていた。おれは認識しながらも、前だけを向いて歩いていた。

 アパートに到着し、下のポストで郵便物を確認した。近所の水道管工事のお知らせを取り出し、階段に足をかけたその時、おれはバドミントンをしていた時と同じ違和感を感じた。視界がぼんやりとしている。おれは目を閉じ、軽く頭を左右に振り、再び目を開けると、視界がひっくり返った。おれは、階段のそばで膝立ちになり、手すりに掴まった。持っていたレジ袋は、重力に従って垂直にどさっと落ちた。

「何なんだよ、これ」

 この辺りは人があまり通らない。しかし助けを呼ぶほどのことではないと思ったおれは、静かに階段の1段目に座り、呼吸を整えた。2、3分で症状は治った。やはり食生活と、恐らく運動不足のせいだ。おれは、深呼吸をして立ち上がり、何事もなかったかのように部屋へと入った。

 翌日、おれは休日の日課である散歩に出かけた。いつもと同じ、池で鯉が泳ぎ、木に囲まれた人気のない公園を風景を楽しみながらぐるぐると歩く。いつもと同じ景色のはずだったのだが、池を覗くと、金と白の混ざったような下地に墨を筆で叩きつけたような模様の鯉がいる。何度も通る公園で何度も見る池だが、初めて見た。赤や金の鯉が数匹泳ぐ中、地味なやつが明らかに目立っていた。

「あんなのいたんだ」

 亀は聞いたことあるが、鯉を放すなんて今時あるのかと思ってしまったが、どこかの金持ちが転落したのだろうという適当な発想で片付けた。ただ、何となく珍しいものを見たような気分になったのと、昨日の眩暈を栄養不足と運動不足のせいにしたおれは、いつもよりも遠出をしてみることにした。

 遠出といっても、散歩なら数駅先程度で十分だろうと思ったので、よく行く飲み屋のあたりまで行って帰ろうと思った。田舎出身の性なのかもしれないが、ガヤガヤうるさい場所をぶらつくのは、あまり好きではない。気乗りはしなかったものの、決めたら今やらないと気が済まない性分が背中を押した。

 思いがけない散歩だったこともあり、思った以上に時間がかかった。昼時を過ぎていることにふと気が付いた。家で簡単に済ませるつもりだったが、外で食べて帰ることにした。いつも通り、牛丼かラーメンにしようと決めながら歩いていると、回転寿司屋が目の前に現れた。寿司は好きだが、最近は食べてない。というのも、家族や友だちと食べるものだという固定観念があった。牛丼やラーメンは、ひとりで食べるご馳走、寿司や焼肉は、みんなで食べるご馳走、そう思っていた。食に興味のないおれは、目の前に飲食店があるのに、わざわざラーメンと牛丼を探すのも面倒だと思い、入ってみることにした。それに、ひとり回転寿司という自分の中で新たなジャンルを開拓する経験が、何かにつながるかもしれないという期待があった。今日は新しい経験をすることに適しているのかもしれない。鯉には申し訳ないが、ここに回転寿司屋が現れたのは何かの縁なのだろう。

 昼時のピークを過ぎていたこともあり、2組しか待ってはいなかった。10分ほどで呼ばれたおれは、初めて回転寿司屋のカウンターに座った。適当に流れてくる寿司を取り、黙々と食べた。

「もう食えない」

 そう思ったのは5皿目を食べ終わった時だった。食の細さに自分でも驚いたが、久しぶりの魚油で腹も驚いたのだろうと思いながら、茶を啜った。ラーメン1杯の値段よりも安い会計だったのだが、その喜びを含めた全体的な満足度は特に変わらなかった。

「あれ、彰人じゃねぇか。2日連続で会うなんて珍しいな」

 回転寿司屋から出て帰ろうとしている時だった。中華料理屋から出てきた慎二さんと鉢合わせた。

「ああ慎二さん、昼飯ですか?」

「まあな、美味い中華屋探そうと思ってな、このあたりの店を開拓していってんだ。ここはまあまあだったな」

 慎二さんは、美味いメシを探す時間が好きなようで、すっかり都会の生活に慣れたんだとおれは思った。

「彰人、今時間あるか?」

「ええ、まあ」

「なら、ちょっと付き合ってくれ」

 慎二さんは、ホームセンターに用があるのだと言った。詳しくは教えてくれなかったが、2人で近くのホームセンターへと向かった。

「ねえ、何を買いたいんです?」

「花だよ、花」

「花?」

「そうそう、中華屋開拓じゃなくて本当の目的はこっち。花を買おうと思って出てきたのよ」

「花って、花束?」

「いや、育てる方だ。植木鉢に入ったやつ」

 てっきり誰かにあげるものだと思っていたが、そうではなく、自分で育てたいのだそうだ。こっちへ引っ越してきて長らく趣味のなかった慎二さんは、家で出来る趣味を始めようとしているらしい。そこで、スマホで色々と調べるうちに、植物の栽培に興味を持ったのだという。

「慎二さんって、植物詳しいの?」

「いや全然、だからピンときたやつにする」

 売り場はホームセンターの一角なので、腐葉土や活力剤と比較すると種類は少なかった。しかし、その中で慎二さんは吟味していた。

「好きな花とかは?」

「いやぁ、特にないな。お前は?」

「んー、おれも特には。チューリップとかポピー、あとパンジーとかは栽培しやすいって聞いたことありますけどね。ほら、これ」

「ああ、これか」

 冬でも縮こまらず元気に咲いているパンジーを指差した。とりあえず王道なものを列挙してみたが、慎二さんにはあまり響かなかったようだ。

「これは何だ?このミヤコワスレってやつ」

「何だろう、知らないっすね。なんか変な名前、勿忘草みたいなやつかな」

 植木鉢に植ったその植物は、冬だからなのだろうが、葉が横たわって広がっているだけで花は咲いていなかった。

「ここに情報が書いてありますよ。開花時期は春から夏にかけてだって。ポップが土で汚れてて何色の花が咲くかは読めないけど」

「そうか、じゃあこれにしよう」

「え、これ?花咲いてるの他にありますけど」

「咲いてないからいいんだよ。咲かせるために愛情持って育てられる」

 せっかく今から始めようという趣味なのだから、花が咲いているものの方がいいとおれは思った。彩りがあるから愛でたくなるものだと。

「何色の花が咲くか楽しみなのもいいじゃねぇか」

「スマホで調べたらすぐ分かっちゃいますよ」

「春まで調べないで育てるんだ」

 少し幼稚なようにも思えたが、そういう制限の中で工夫を凝らして楽しむ子どもというのは、大人からすれば天才だ。慎二さんは、そんな幼稚さを残しているから人生が楽しいんだろうとおれは思った。

「彰人も育ててみろよ」

「えー、おれはいいっすよ。水あげるのとか忘れそうだし」

「自然好きだろう?それになんか最近元気なさそうだから、植物で癒されろって。ほら、買ってやるからさ」

 おれは慎二さんに言われるがまま、ミヤコワスレのプランターを手渡され、2人でそれを片手にレジへ向かった。

「お会計が1680円になります」

「あ、足りねぇ」

「いいですよ慎二さん、おれが出しますから」

「ああ、せめて割り勘にしてくれ」

 とりあえずおれがまとめてお会計をし、その後、慎二さんはおれの財布に840円を突っ込んだ。店員さんに袋を分けてもらい、ミヤコワスレが入ったレジ袋の一方を慎二さんに手渡した。

「いや、すまん。金を下ろすの忘れてた」

「構いませんよ」

「まあ、お互いへのクリスマスプレゼントってことにしといてくれ」

「クリスマスはまだ先ですが、分かりました。せっかくなんで、どっちが綺麗に早く咲かせられるか勝負しましょうよ」

「おお、いいなそれ!より楽しみになってきた」

 おれと慎二さんは、どんな花が咲くのかを想像した。おれはふとスマホで調べそうになったが、慎二さんの楽しみを奪ってしまうことに気が付き、好奇心を殺した。

「痛っ!」

「どうした彰人?」

「脇腹がチクチク痛い」

「おい大丈夫か、病院行くか?」

「いや、多分大丈夫です。今一瞬だけ激痛が走って」

「食あたりか?昼に何食ったんだ?」

「寿司を食べました」

「何かにあたったんだろう。適当に胃薬でも飲んどけ」

「そうします。久しぶりに寿司食べたんですよね、確かに何かにあたったかも」

 おれは右の脇腹を軽く抑えながら歩いた。

 慎二さんと別れ、15時ごろに帰宅した。おれは、ミヤコワスレを袋から出し、段ボールに乗せて窓際に置いた。今の時期なら、日中はカーテン越しにいい光が入ってくるので、ここがベストだろう。おれは立派に咲く花を、見ることが出来るのだろうか。

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