第4話 子どもたち
最近は晴れた日が多くて気持ちがいい。夜は若干の肌寒さがあるが、昼間は少し歩けば体はポカポカとするので、軽い上着を持たず外へ出てきた。手術を明日に控え、おれはやっとこの日がきたと少しワクワクした。
いつも歩くコースを歩いていると、数人の子どもたちが広場の木の下に集まっているのを見かけた。辺りをキョロキョロとして誰かを探しているようだった。あいにく昼食の時間だったからか、患者さん含め多くの人が院内に集まり、広場に大人はいなかった。
「どした?」
おれは気になって、その子たちに声をかけた。
「鳥がね、飛べなくて食べられそうなの」
おれは子どもたちが指差す先を覗き込んだ。スズメだ。大きさ的にスズメの子だと思う。翼をその場でバタバタさせていた、そしてその横でカマキリが羽根と鎌を大きく広げ威嚇していた。食べようとしているわけではないと思うが、何だか逆食物連鎖を見た気分になった。餌に食われそうになるなんて、思いもよらなかっただろう。
「助けたいけど、触れないの」
「なるほどね、わかった」
おれは、ポケットからハンカチを取り出し、スズメの子を包み込んだ。可愛いとはいえ野鳥だ、菌やら何やら持っていてもおかしくはない。ハンカチの中でバタバタと暴れる姿を可哀想に思い、素早く近くの草陰に移動させた。子どもたちは心配そうな顔をしながらおれの後を着いてきた。
「大丈夫かな?」
「巣から落ちて足を怪我したのかもね。お母さんが迎えに来るのをここで待ってもらおう。人がここで待ってると、スズメが来ないから離れようか」
「迎えに来てくれるかな」
「大丈夫、大丈夫」
多分あのスズメは明日には亡くなっているだろうと思った。スズメは警戒心が強い、おれの臭いが付いてしまったので、親鳥が寄ってくることはないだろう。恐らくあのまま体力を消耗して力尽きるか、猫に食べられてしまうだろうと思った。当然、子どもたちにそんなことを言うわけにもいかないので、歩きながら気を紛らわそうと質問をした。
「君たちは入院してるの?」
「そうだよ。喘息で小児病棟にね、ほらあそこの建物」
「そっか」
4人の子どもたちは、みんな6、7歳で喘息を持った子たちだった。蓮くん、翔子ちゃん、卓也くん、みゆちゃんはいつも一緒に遊んでいるらしい。喘息について咳が出る以外に詳しいことを知らなかったので、看護師さんがいない中、子どもたちだけで、しかも外にいて大丈夫なのかと少し心配になった。と同時に、まあ病院だから何とかなるかと自身で納得した。
「ねーねーお兄ちゃんさ、リフティングできる?」
「ん、リフティング?少しなら出来るよ」
「やってやって!」
蓮くんは、おもちゃ屋に売っているような青いゴムボールを渡してきた。おれはサッカー経験があるわけではないが、子どもの頃弟とよくやっていた。おれは辺りに人がいないのをよく確認し、蹴り始めた。
「すげー、10回もできた!」
「しかも膝も使ってたよ!」
「すごーい!」
完全にまぐれだったが10回も出来た。正直おれが1番驚いている。サッカー部なら20回くらい軽くやるんだろうが。
「蓮くん、卓也くん、翔子ちゃん、そろそろ時間」
みゆちゃんは、キラキラした目の3人に話しかけた。
「あ、そっか。じゃ、お兄ちゃんまたね!」
「うん、またね」
おれは、小児病棟へと向かう4人に手を振って別れた。
病室へ戻ってくると、優くんが荷物を整理していた。
「ああそうか、今日移動か」
「わあ!びっくりした!脅かさないでくださいよ。なんか散歩長くないですか?」
「ごめんごめん、子どもたちと遊んでた」
「はい?」
おれは優くんの荷物の整理を手伝いながら、子どもたちとのことを話した。健気な子どもたちを愛おしく思ったようだ、ずーっと、可愛いと叫んでいた。
「優くんは、どんな子だった?」
「ぼくはこう見えて、幼稚園では暴れるような子でした。しょっちゅうケンカして、先生と親に怒られて。一度窓ガラス割ったこともあったような」
「へー意外。こういうの人に歴史ありって言うのかな」
「黒歴史あり、じゃないですかね?」
話は盛り上がった。優くんは荷物を移動させてからも、共用スペースに来ておれと話していた。夕方になり、晩飯の時間が近いことに気が付くまで、何でもないような話をしていた。
「じゃ、彰人さん。また来ます」
「はーい」
おれたちはお腹だけが満ち足りない状態で、各々の病室へ帰っていった。
「沖野さん、これから手術室に移動します」
おれはベッドにふんぞりかえっていじっていたスマホを棚にしまい、立ち上がった。そして看護師さんの後を静かに着いて行った。渡された手術衣と下着に着替え、手術室へと入った。外の空気との違いを感じた。世界が変わったようにヒヤリと冷たい。その空気のせいでおれは少し緊張した。今まで生きてきて、見たことのない薄暗い空間がそこには広がっていた。緊張を誤魔化すためだろうか、おれは会社の資料室とどちらが暗いか比較しようと、頭の中で資料室まで走って行った。こういう真面目な想像をしようとすると、ふざけた想像が邪魔をしてくるのは一体なぜだろう。前方から部長が走ってきた。首にぶら下げた社員証が、ぶらぶら遊ばないように右手でガッチリと握りながら。社内で、この部長の走り方が愛おしいと話題になていたことがある。それを今、唐突に思い出した。しかもなんで64人もいるんだ、邪魔で進めない。
「こんにちは、沖野さん。麻酔科医の佐藤です」
その声でおれは我に返った。頭の上から優しそうな声が聞こえてきた。
「マスクをつけるので、そのままでいてくださいね」
医療ドラマでよく見るやつだと思った。こういう状況だからなのか、ワクワクはしなかった。
「沖野さん、バンドやってたんですよね?」
唐突な質問におれは驚いた。しかしおれは、手術の緊張をほぐすための雑談だと察知した。
「そうなんですよ、学生の時に。ボーカルやってました」
そう応えた、つもりだった。
「沖野さん、具合はいかがですか」
バンドの話はどうしたのかと疑問を持ち、異変に気が付くまでどのくらい時間がかかったのだろう。
「手術は無事に終わりましたよ、大丈夫ですか?」
看護師さんが顔を寄せておれに話しかけてきた。いやいや、直前まで佐藤さんと話していたはずだ。そんなわけがないと、おれはまさに現実逃避していた。しかし、大丈夫ですと言おうとしたことで、現実に引き戻された。酔いはじめのように、今しっかりと話せたかどうかがよく分からなかった。
「まだ麻酔が効いているので、そのままゆっくり寝ていてくださいね」
看護師さんが、その様子を見て大きな声で言った。おれは徐々に現実を認識し始めたところで、再び眠ってしまった。
目を開けると、薄い水色の景色が右手に見えた。東雲の景色だ。窓の向こうから微かに鳥たちの囀りが聞こえる。動いていいのか、そもそも立ち上がれるのかよく分からなかったので、手元にあったナースコールを押した。
「あ、沖野さん。起きましたか」
「あの、もう動いていいんですか?」
「大丈夫ですよ。ゆっくり体を動かしてみてください。それと、いきなり食事は出来ないので今日は水分のみで、明日から流動食です」
「分かりました。ありがとうございます」
看護師さんが病室から出ていくのを見送った後、おれは高齢者のようにベッドに必死に捕まりながらゆっくりと立ち上がってみた。腕につながっている点滴の管に気をつけながら軽く伸びをした。
「イテッ・・・」
腹を見ると小さな傷があった。手術痕だ。
「そりゃまだ痛いよな」
おれは大人しくベッドに戻り、日を待ち遠しく窓を眺めていた。
「彰人さん、また連絡します!」
「うん、またね」
数週間が経ち、優くんが退院していった。お母さんがおれに向かって会釈をし、2人は自動ドアをくぐり外へ出ていった。おれも退院の日が近づいている。定期的に通院することにはなるが、それでもなぜか少し寂しさを感じていた。おれは缶コーヒーを買い、一仕事を終えたかのように共用スペースのソファに座った。すると小走りで近づいてくる足音が聞こえてきた。一葉さんだ。
「優くん、もう行っちゃった?」
「はい、ちょうどさっき。間に合いませんでしたね」
「ごめんなさい。血液検査の後、職場から電話がかかってきちゃって」
「職場?どうかしたんですか?」
「うん、それがねぇ・・・」
どうやら一葉さんの勤めている会社が倒産するらしい。小さな会社らしいのでよくあることだと笑っていた。一葉さんも1ヶ月後に退院を控えている。
「退院して仕事探しですか。落ち着かないですね」
「そうね。どうしようかしら」
一葉さんの言葉に、弱々しさがあった。
「どうかしました?」
一葉さんは、2拍ほど息を吸い、ゆっくりと話し始めた。
「わたし、カフェをやろうかと思って。昔から夢だったの、お店をやるの。気が付いたらこんな歳になってて遅かったかもって思い始めてたんだけど」
おれは口を挟まず、静かに聞いていた。
「それに最初、娘には病気のこともあるからって反対されていて。だから物件探しが上手くいかなかったら諦めようと決めて、でもいいところが見つかって」
娘さんはその話を聞いて、その熱意に負けたらしく、週末だけ手伝ってもいいと言ってくれているらしい。大きな勇気と決断だ。2人に言えることだが、なかなか出来ることじゃない。おれは興奮していたのか、言葉を選ぶような頭に切り替わらず、思ったままを口にした。
「え、おれ、行きたいっす」
一葉さんはその言葉を理解するのに時間がかかったのか、ワンテンポ遅れて反応した。
「ほんと?40代のおばさんが何を言っているんだって思わない?」
「いや、別に。かっこよくないですか」
おれはこういうシリアスな時の言葉選びが本当に下手だ。と言うより、本当は選んではいない、引き出しに1つしかないのだ。おれは器用な男ではない。ドラマやSNSの意識が高い発信から学ぶといったことをしないのでノウハウもない。おれの中にはいつもおれの言葉しかない。
「ふふ。なんかもう、やっちまえって気がしてきたわ。なんでこのタイミングかって言うとね、今回入院してあなたたち3人に会って話をしてたら、今かもしれないって思ったのよ」
この時、改めて確信した。おれたちは良いパーティーだと。存在しているだけで仲間を強くしている。RPGの世界でも、こんな仲間が欲しいと思うに違いない。補助魔法をかける必要がないのだから。
「ほんと、彰人くんに会えてよかったわ」
おれは笑いながら、コーヒーを一口飲んだ。窓から見える木々と同じように、おれは色づいた。おれにも冷たい風を浴びせてくれと思った。
周りの人たちが、どんどん変わっていく。その姿を見ること、関わること、それは実に有意義なものである。幸せだ。まさか病院で幸せを感じるとは思わなかった。おれは、いつもより広い歩幅で採血へと向かった。
「あ、お兄ちゃんいた!」
広場のベンチに腰かけてぼーっとスマホを眺めていたところを、後ろから声をかけられた。
「あ、卓也くん」
「お兄ちゃんさ、折り紙できる?」
「折り紙か、紙飛行機くらいしか折れないな」
「そんなの僕も折れるよ。金メダルの折り方教えてくれない?あそこまで来て」
そう言うと卓也くんは走りだした。折り紙なんて小学校の図工以来さわっていない。それに図工は苦手で、クシャクシャにしか折れず、同級生からセンスがないと言われた記憶しかない。彼の喘息とおれのセンスを心配しながら、しぶしぶ卓也くんの後を追いかけた。
翔子ちゃん以外の3人が、小児病棟のキッズルームで待っていた。どうやら翔子ちゃんが数日後に退院するらしく、それまでにお手紙と折り紙を渡したいんだそうだ。何を渡すか考えた末、折り紙の本の中で、1番輝いていた金メダルを作って渡すことを決めたのだが、苦戦した結果おれに白羽の矢が立ったというわけだ。
「看護師さんに教えてもらわなかったの?」
「うん、先生たちにも内緒にしたいの。自分たちだけで作りたいの」
子どもの健気さというのは、どうしてこんなにも愛おしいのだろう。強キャラだけでなく、非力ながらも立ち向かうキャラが人気なのは、この何とも言えない愛おしさなのだろうと思った。
「ちょっと本見せて」
みゆちゃんは、じっと見ていた本を差し出した。なんだこれは、折り紙ってこんなに難しかったか、いや昔からこんな感じだった。折り紙というのは動きの連続なのに、説明は静止画であるから分かりにくいのだ。③から④はどう折ったらそうなるんだ。心の中で愚痴が止まらなかった。
「ちょっと明日まで練習させてくれない?」
「うん、いいよ!」
おれは折り紙を数枚もらい、小児病棟を出た。病室へ戻りながら、大人の力を使ってやろうと思っていた。
病室のベッドの上で、おれは動画投稿サイトを開いた。やはり、折り方をレクチャーしている人たちがたくさんいる。おれはあっという間にメダルの折り方をマスターした。デジタルの進歩が、おれにセンスを与えてくれた瞬間だった。
翌日、おれは意気揚々と小児病棟へ向かった。
「金メダル出来たよ」
3人はおれに尊敬の眼差しを一瞬向け、まじまじと折り紙の金メダルを見ていた。
「きれい!教えて教えて!」
3人はおれの説明をうんうんと聞き、手元を見ながら黙々と作っていた。主人公さながらの真剣な表情に、大人のおれは圧倒された。三者三様、おれもいるから四者四様の思い思いの金メダルが4つ出来上がった。
「見て!できた!」
「みんな上手いね」
蓮くんは成功体験がクセになったようで、その後何個も何個も作っていた。
「蓮くん、卓也くん、みゆちゃん、ここにいたの。翔子ちゃんが探してたよ。あれ、えっと・・・」
「あ、すいません。一般病棟に入院している沖野と申します」
「先生、見て!お兄ちゃんに折り紙教えてもらった!」
「おお、すごい。綺麗だね」
小児科の先生がキッズルームに入ってきた。翔子ちゃんの健診がちょうど終わったようで、みんなを探しにきたのだ。
「早く片付けよう、翔子ちゃんに見られちゃう」
卓也くんがそう言うと、3人はがさつに素早く片付け始めた。片付けが終わると、翔子ちゃんのいる病室へ走っていった。
「あの子たちのお知り合いで?」
「まあ、先日外で会いまして」
「そうでしたか」
子どもにとっては柔らかく優しい先生という感じなのだろうが、大人のおれからすると、掴みどころのない淡白な印象の先生だ。話をしていると、みゆちゃんが先生のところへ戻ってきた。
「先生、今日のハロウィン、お兄ちゃんも来る?」
「え、ああ、どうだろう」
先生とおれは困惑した顔で見合った。みゆちゃんは、少しがっかりした様子でみんなのところへ戻っていった。
「ハロウィンやるんですね」
「ええ、仮装して簡単なゲームをしたりするんですよ。栄養士さんの作ったお菓子を配ったりもします。シーズン毎にイベントをやってましてね、今日は秋イベントの日なんです。来られますか?」
「え、ああ、じゃあ」
おれは困惑しながら答えた。断ろうと思ったが、みゆちゃんの顔を思い出してしまったのだ。
「ご存じかどうか知りませんが、翔子ちゃんが退院するので、お別れ会も兼ねているんですよ」
「はい、それでさっき集まっていたんです」
「なるほど、では15時から行いますので」
先生はそう言い残し、どこかへ歩いていった。若干の気まずさを感じながら、おれは病室へ戻り、看護師さんにハロウィンパーティーのことを話した。不思議そうな顔をしていたが小児科の先生がいいと言うならとのことで許可をもらうことが出来た。一仕事を終えたような気分のおれは、時間まで眠ることにした。
14時50分。おれは小児病棟に到着した。10分前行動の癖が抜けていないということは、会社員として鈍っていないということなのだろう。
「あ、沖野さんですね。これ着てください」
看護師さんから手渡されたのは、ガイコツがプリントされた繋ぎとお面だった。歩いてきたのと、恥ずかしさによってかいた汗をハンカチで拭き、スウェットの上から繋ぎを着た。そこへ4人がやってきた。
「あ、お兄ちゃんだ!」
「見て、黒猫のしっぽ、いいでしょ?」
みんな手作りの衣装に身を包み、落ち着きのない様子だった。看護師さんたちもアニメのキャラクターの仮装をし、先生はカボチャだった。
小児病棟の他の子どもたちも続々と集まり、ジャンケン大会や、トリックオアトリートと叫びながら看護師さんたちからお菓子をもらったりしていた。怪しむような目でおれを見ていたが、4人がおれのところへ集まる様子を見て、徐々に打ち解けていった。
「はい、みなさん聞いてください。来月で翔子ちゃんが退院します。みんなでありがとうを言いましょう」
子どもたちは、一斉に翔子ちゃんの方を向いて大きな声で叫んだ。急なことに驚き、翔子ちゃんはもじもじとしていた。おれは、小学生の頃に開催した転校する1つ上の先輩を送る会のことを思い出し、懐かしさを感じていた。
一通りゲームが終わった後、仲良し4人組で集まった。蓮くんは、翔子ちゃんの目の前に、折り紙で出来た花束を差し出した。よく見ると、その花はあの時折ったメダルだ。おれと別れた後、3人で色とりどりの紙でメダルをを何枚も折り、それをくっ付けて花束にしていたのだ。その中にはおれが折ったものも混ざっていた。そして3人は、書いた手紙を次々に翔子ちゃんに渡した。翔子ちゃんは急に別れが惜しくなったのか、泣いてしまった。それを見て3人も泣いた。おれは、4人の目線の高さに合わせてしゃがみ、頭を撫でた。
片付けを手伝い、子どもたちと別れ、看護師さんにお礼を言われながら小児病棟を出た。充実した1日を過ごした、そう思いながら病室へ向けて軽快に歩いた。木々の隙間から顔を出した紅い陽が、片腕にかけたガイコツの繋ぎを射した。
彼らの出会いは、これからもっと増えていく。
ハロウィンパーティーから一夜明け、おれは今日も今日とて散歩に出た。おれの退院まで、残りわずかとなった。長いようで短かった入院生活も、これで終わりだ。多くの出会いがあったからか、自分が病気だったということをすっかり忘れていた。
しかし出会いというのは、いいことばかりではない。ここは病院だ、普段の生活では知ることがない、聞くことがない話を耳にする、そんな場所なのだ。さまざまな環境に置かれた結果、ここへ来た人たちが多い。
おれは、いつもの散歩コースを辿った後、広場の大木がよく見えるところにあるベンチに座った。おれが座ったベンチの右隣のベンチに、車椅子のおばあさんと男性の看護師さんが座っていた。おばあさんの顔には、擦り傷が数ヶ所あり、打撲だろうか、紫色になっている箇所もあった。右足は包帯がぐるぐる巻きにされていた。おれは、ぼーっとしながら一休みしていたのだが、隣の2人の会話が聞こえ、それが気になってしまった。
「すいませんね、何から何まで」
「いいんですよ、紀子さん」
「娘にもずっと迷惑をかけていてね」
どうやらこのおばあさんは、娘さんと二人暮らしで、ここ数年、介護生活を送っていたらしい。ところが、たまたま娘さんが買い物へ出ている間に家で転んでしまい、怪我をしたのだとか。おれは親父との電話のことを思い出し、少し興味が湧いてしまった。あまり気持ちのいいことではないが、おれは聞き耳を立てていた。
「私がこんな体なもんだから。娘は仕事もしなきゃいけないのに、年々そんな時間もなくなるほど私の体が弱ってきてね」
看護師さんは、うんうんと話を聞いていた。
「娘におんぶに抱っこの状態で。私が娘をおんぶと抱っこした時は小さいからいいけど、私は大きいじゃない?大変さが違うんじゃないかってすごく思うの。だって同じ体格の人を1日中支えていないといけないのよ?あなた結婚はしてる?」
「はい。妻と3歳になる息子がいます」
「その息子さんも、あと数十年後にはあなたたちを支えなきゃいけない時が来るのよね。きっと疎ましく思うようになるのよ。面倒を看るなんて思ってもみなかったって」
看護師さんは、怒りが湧いてくる様子はなかったが、なんとも言えない苦い顔をしていた。
「大人は子どもを産むかどうか選べるけど、子どもは親を持つかどうか選べないのよね。子は親を選べないって、こういうことを言うのかしらね」
おれはぼーっと大木を見つめていたが、あからさまに聞き耳を立てているように思われそうだったので、スマホをいじり始めた。
「それに今って税金がすごく高いっていうじゃない?当然私も若い頃から税金は払ってきたのよ。今の若い人たちは高齢者ばかりに税金が流れてるっていうけど、皆さんもいずれは若い人たちにそう言われる時が来るのよね」
罪悪感というエネルギーなのか何なのか、おばあさんはとても饒舌だった。
「紀子さん、少し冷えてきましたよ。部屋へ戻りましょうか」
「あら、そうね。ではお願いします」
看護師さんは、秋空の綺麗な空気を気まずい空気が包み込み始めたのを感じ、急いで病院へと戻っていった。
おれは話を聞きながら気まずさに少しドキドキしたが、現実をよく見ているおばあさんだと感心もした。自分が介護される側の人間になったから生まれてきた思考なのだろうが、介護されることを当たり前だと思っていない。親なら育てたんだから面倒を看ろと、筋が通ったような横柄さを出しそうなものだがと思った。おれはこの時、親父と電話した時のことを振り返った。もしおれが結婚して、子どもが出来たら、親父と同じようなことを、子どもに対していうような親になるのだろうか。そして子どもに、おれが親父に吐いたようなセリフを吐かれるのだろうか。何だかおれは、人間というのは実に未来を見据えるのが苦手というか、出来ない生物なんだろうと思わざるを得なかった。
ほらやっぱり、だから相談というのは嫌なのだ。
玄関を開けると、勢いよく冷気が肌を突き刺した。退院して2ヶ月ほど経っていた。ようやく元の生活に慣れてきたところだろうか、仕事もようやく、板についていたことを思い出してきた。優秀な成績ではないところは、相変わらずだが。
慎二さんとの週1回の飲み会は無くなっていた。お互いの身体のことを考えてやめようという話になった。寂しがるかと思ったが、そうならない理由があった。
「一葉さん、退院おめでとう。店できたら教えてくれ」
「ありがとうございます。入院が長引いてどうなるかと思いましたけど、何とかお店を始められそうです。皆さんもぜひお越しください」
「わかりました」
終業時間が近づくと、スマホがやけに元気になる。ポケットがうるさい。
おれたちは、メッセージアプリで繋がっていた。おれがみんなに提案してパーティー、いやグループをつくったのだ。
「みんなここで話しましょう」
慎二さんはそのタイミングでメールを卒業した。初めてゲームを買った少年のように、キラキラとした表情が文字から伝わってくる。おれは、画面いっぱいに収納された履歴を見て心を温め、帰り道の寒さに備えている。
「一葉さん、退院おめでとうございます。店に行くの楽しみにしています」
おれはいつも遅れてメッセージを残す。今日1日を締めるように。
散りゆく葉と、赤と茶色に染まる葉が混在する景色の中、慎二さんは都会の街を歩いていた。
「こんなとこ来たことねぇから迷っちまうな」
この日は、慎二さんにとって大きな挑戦の日だった。歩いていると、中からガチャガチャ、ガヤガヤ音が鳴っている白色電灯に包まれた空間が見えた。
「あったあった、電気屋!」
慎二さんが勢いよく入っていったのは、5階建ての家電量販店だ。今日は週末でセールの日らしく、溢れんばかりの人でごった返していた。
「あー、うるせぇな。えっと、どこだ?字が小さくて分かんねぇ」
フロアガイドを見ながらぶつぶつと呟いた。騒々しさに対する嫌悪感と、初めてのことに挑戦する不安が、イライラする気持ちを助長していた。この時点で体力は半分以上奪われていた。
慎二さんは一人暮らしをして長いのだが、実家を出る時に親と買った家電をいまだに使っている。なので家電量販店を1人で訪れるのは初めてだ。電子レンジにはヘドロのような油汚れが棲みつき、洗濯機は反抗期を迎えている。よく拳骨を食らわし、動かしているのだとか。
やっとの思いで、お目当てのものがあるフロアに辿り着いた。
「あの、ちょっと聞きたいんだが、スマートホン買えるのってここ?」
慎二さんは、近くにいた男性に声を掛けた。
「はい、スマートフォンでございますね。こちらで承ります」
小柄だが、背筋がピンと伸びた白髪の紳士だった。ポマードできっちりと固めた白髪は、刀の様な美しさだった。
「友人がスマートホンに変えろっていうもんで来たんだけど、よく分からなくて。なんかオススメで頼む」
「かしこまりました。ちなみに必要な機能などございますか?」
「機能?いや、電話とメールが出来ればそれでいいよ」
「かしこまりました」
ノートパソコンに何かを打ち込んでいる店員さんを、椅子に座り、大股を広げてじっと見ていた。
「あんた、この仕事長いの?若そうには見えないけど」
「ええ、もう40年近くなりますかね。今年で60歳になります」
「俺とそんなに変わらないのか!よくもまあそんな機械使えるな」
「そうですね、慣れでしょうか」
同い年とは思えない、いや同じ人間とは思えない2人が並んでいる。口調から服装から何から、正反対である。
「俺もスーツの似合う男になってみたかったなぁ。紳士ってのもカッコいいなって」
「お仕事は何を?」
「今は辞めちまったけど、整備士だったんだ。作業着しか着てこなかったよ」
「整備士さんでしたか、それはそれは立派なお仕事で。職人さんには昔憧れてましたね」
「そうか。今はもう、あんたと違ってカッコよさなんてかけらも無いよ」
「いえいえ、そんなことは。その真っ白なワイシャツが似合う男なんですから、カッコいいし立派ですよ」
「あ、これ、いいだろ?気に入ってんだよ。さすが、客のことよく見てるね!」
店員としてなのか、人としてなのかは分からないが、彼の話は、慎二さんが感じていた騒々しい空間へのイライラを消していた。
「お客様、こちらの機種はいかがでしょう?」
「ん?ああ、それでいいよ。ちょっと使い方教えてくれない?」
「かしこまりました。まず電話ですが・・・」
「おい待て、なんだこれ。ボタンがねぇぞ?」
「そうなんですよ。スマートフォンはボタンがないんです。なのでここを押すと、ほら」
「おお、こりゃすごい!俺は指がデカいから、ボタンって押しにくかったんだよ。これは楽でいいな!」
慎二さんは、興味津々な子どものように話を聞いていた。それは、理解が出来ることへの喜びと、使えるようになりたいという意志がそうさせていたのだろう。この店員さんが学校の先生だったら、慎二さんは別の人生を歩んでいたかもしれない。
学校の勉強というのは、つまらない。これは不変的で、いつの時代でもそうなのだと思う。なぜつまらないのかを考えると、学校教育では勉強というものの本質が学べないからではないだろうか。テストで点数を取るためのもの、内申点を稼ぎ、進学するためのもの、おれはそういうものとして学んでいた。しかし重要なのは、喜びと意志だ。原理原則を理解できたという喜び、数学や科学であれば、それをベースとして新しい何かを生み出せる、生み出したいという喜びと意思。これが勉強の本質なのだと思う。
なので、先生は、教科を教えるのではなく、喜びを感じさせ、意志を持たせることが出来る存在であってほしいと思う。意志というのは、将来のために必要だから、偏差値の高い学校へ行ければ将来安定だから、という理由で湧く意志ではない。分かる、分かるから解きたいという意志だ。だから大人が、スキルのための勉強に精が出るのは、役に立てるという喜び、役に立ちたいという意志、それに見合ったお金が手に入るという喜び、お金を手に入れたいという意志がハッキリしているからなのだろう。
しかし、これが出来る先生は非常に少ないように感じる。なぜなら、先生もかつては教科を教わった生徒だからだ。この負の生産ラインが、学校の勉強はつまらないという結果を生み出し続けているのだと思う。
この店員さんと慎二さんのように、相性というものが存在するというのも事実としてあるのだろう。そう考えると、勉強がつまらない理由を、考える以前の問題なのかもしれない。人間とは難しい。
「ありがとう。文字も大きくて見やすいし、アプリとかいうやつの使い方も分かった。帰ってからも色々やってみる」
「お役に立てて良かったです。何かあれば、またいらして下さい」
慎二さんは、人混みの中を意気揚々と帰った。家に着いてからも、スマホを一時も離さずにいた。調べて実践することが、快感になっていた。
「あーこうやって新聞も読めるのか、わざわざ紙を広げなくてもいいのは楽だな。それで、えっと彰人が言ってたやつは、これか!」
「こんばんは、慎二さん。スマホに変えられたんですね」
「できた。今勉強中」
「とりあえず、一葉さんと優くんがいるグループに入れますね」
こうして改めて「チーム患者」は、酒場ではなく、病院でもなく、デジタル上に集結した。
「皆さん、慎二です。よろしくお願いします」
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