第3話 転変

3年の月日が経った。おれは相変わらずな生活を送っている。3年前から変わったことといえば、いつも行っている飲み屋がリフォームをして、テーブル席が出来た。まあ、だからと言ってそこに座ったことはない。おれには定位置がある。いや、おれたちか。

「おせぇじゃねーか彰人。待ちきれなくて、飲み始めちまったよ」

「そんなの、いつものことでしょう」

 やっぱり今でも、隅の席で飲んでいる。慎二さんと。他の常連さんたちが、彰人の席と慎二の席と呼ぶようになり、毎週空けてくれている。

手術の後、1年ほど経過観察で通院をしていたが、問題なく今に至っている。当然、お酒は程々にと言われ、毎週1回この店に飲みにくる時以外は控えているようだ。

「彰人、何食うか?」

「んー、ナスときゅうりの漬物で」

「あれ?唐揚げは?いつもビールには唐揚げだって言ってたじゃねぇか」

「なんか最近、揚げ物食べると胃がムカムカしてさ」

「お前、30だろ?その域に達するには早すぎるよ」

「30って世間的にはおじさんですよ」

「なんだと!なら俺は仙人か何かか?」

「そうかもしれないっすね。仙人ってこんな見窄らしいのかって驚かれそうですよ。まだ穴の空いたTシャツ着てるんですか。そういえば、おれのあげたワイシャツって着てるんですか?」

「いいんだよ、うるせぇな。お気に入りなの。お前がくれたワイシャツはここには着て来れんだろう、醤油が付いたらどうする。それにお前だってネクタイがヨレヨレじゃん」

「これは、あれですよ。頑張っている証拠」

 こんな何気ない会話が、また出来ているというのは本当に「幸せ」なのかもしれない。最近は慎二さんが、彼女がどうとか結婚がどうとか、やかましい。慎二さんの声は意外と耳心地がいい。だからその話だけは、酒に集中するのに良いBGMになっている。

「そもそも慎二さん、結婚してないじゃん」

 これは魔法の言葉だ。いや、禁句の方が正しいだろうか。これを言うと、慎二さんは言葉に詰まる。真っ赤な顔をして俯く慎二さんの肩を抱いて一杯。

「彰人お前、さてはオブラートに包むってことを知らないな?まだ子どもだな。だから彼女できないんだな」

 慎二さんは鼻で笑った。真っ赤な顔をして俯くおれの肩を抱いて一杯。

「彰人さんが結婚したら、慎二さんともう飲んでくれないかも知れませんよ?」

「そりゃ困る。お前は独り身でいい」

 店主の言葉で、慎二さんはコロッと意見を変えた。お前に彼女なんか必要ないんだと。おれは、慎二さんのその可愛い二面性に大笑いした。

 もし慎二さんが結婚していたら、どんな子が生まれてきただろう。慎二さんに似た、活発でがさつな子になるのだろうか。中学生になったら不良グループに属し、慎二さんと共に警察に謝り、ウチへ帰ってから慎二さんにボコボコにされる。こんな感じだろう。慎二さんは一人っ子だ。幼少期の話はあまりしたことはないけれど、覚えているのは、制約が多かったということだ。おれは長男で、期間制一人っ子という見方も出来る。同じ様な感じで確かにそうだった。木の棒を拾ってはいけなかったり、門限があったり、そのような決まり事みたいなものがいくつもあった。多少の窮屈さを感じていたのかもしれないが、幼少期のことなのでほぼ記憶にはない。それに、大人になってから、仕方のないことなのかもしれないと思えた。トラウマになることもあるので、規制の程度にもよると思うが、親としては手探りだったのだろう。親1年目、マニュアルなんてものはない。それが正しいのかどうか分からないまま育てるしかない。答えは子どもが大人になるまで分からない。大人になると、試験はないというが、親にはそういう意味で長期間の試験があるのだ。

 2人目は、1人目の経験を多少なりとも活かすことが出来る。すると、1人目では禁止してていたことを2人目からは解禁する。お兄ちゃんだから、お姉ちゃんだからという魔法の言葉を覚える。上の子から不平等だとクーデターを起こされる。いつの世もこんな感じだろう。そして上の子は、やたら重圧や責任をかけられる。これはおれだけだろうか、過去の嫌な思い出にブルッとしてしまった。

 そしていつの世も父親というのは、甘えさせるということにおいては役に立たない。子どもが幼少期に甘えたいと思うのは、母親の方だ。やはり母親のお腹から産まれてくるということに何か関係しているのだろうか。おれはこれを生命の七不思議のひとつだと思っている。

 まあ結婚と子育てという答えのないものを、理論的に考えているおれには結婚なんて出来るわけがないのだろう。それに生まれてくる子どもが実に不憫で仕方がない。


 季節を問わず、慎二さんと別れた後の帰路はとても清々しい。道路沿いでさえ、空気が綺麗な気がする。そのくらい心が晴れやかなんだと思う。

 点々としている街灯と、家のか弱い灯りに導かれるように歩く夜は風情があるなと思い、ふと感傷に浸りそうになる。酔っているだけな気もするけれど。

 しかし、新しい人との出会いや経験というのは、今まで気が付かなかったことに気が付いたり、好きではなかったものが好きになったりと、発見や成長、感動がある。恐らく無意識であるため、常時身に染みて感じるということはないであろうが、ふとした瞬間に感じられるのが人間だとおれは思っているし、そういう何気ない影響を与えられる人間でいたいと思っている。

 漠然と思っているだけで、何か勉強をしたり、スキルを磨いているわけではない。これで人々を助けたい、役に立ちたい、そんな具体性はない。

 まあ、今は白黒はっきりしないけれど。学生時代から今まで会ってきた人たちが、月日の経過とともに、何かを見つけて何かを学んで、それを活かして今に至っている。だからおれもいつか。

 住宅街に佇む、少し寂れたアパートの鉄階段をカンカンと音を立てながら登り、玄関の鍵を開けた瞬間に匂う生活臭が、おれを安心させる。いつも通りだと。変わらない安心感、これを感じながら洗濯物を取り込み、風呂に入り、床に入った。

 人間は進化してきた生き物だ。四足歩行から二足歩行へ。そして言語と知恵を手に入れた。現代人も時代とともに変わっていくことを求められる。アナログからデジタルへ、ガラケーからスマホへ。貯金から投資へ、大人から親へ。それは生き方を求められるともいえる。これに順応するのに苦労するが、その過程をこういうものだと受け入れ生きている。そして変わって良かったと思うか、変わらなければ良かったと思うかは個人に委ねられる。どちらにせよ、変わったという事実は残る。

 目まぐるしく変化して生きているから、おれの住むアパートのような、変わらない空間というのは人間にとってとても大切だと思う。マラソンの給水ポイントのようなもので、ここまで頑張ったという気持ちにさせてくれる。実家や、飲み屋、毎年の旅行先。人によって、いくつもあったりするだろう。

 とにかく、変わらない安心感は重要なのだ。人間が走り続ける、変わり続けることは難しいのだから。


 この日常が大きく変わったのは恐らくここからだろう。

「あれ、再検査?」

 以前、会社で受けるように言われた人間ドックの結果が来た。特に焦りはなかった。なぜなら一度再検査になったことがあった。その時は不整脈があると言われ、改めて診てもらったが、若い人によくあるやつだと突き返されて終わった。また診察時間より長い、待ち時間という無駄な時間を過ごさなければならないことが億劫だと思っていた。放っておいても良かったのだが、家の近くの大学病院で診察を受けることにした。そうしたのは、会社から受けるように言われたからだ。

 大学病院というのは人も待ち時間も民間病院の倍近く多い。真偽は定かではないが、来るたびにそう思う。そんなことを思いながら、名前が呼ばれるのを貧乏ゆすりをしながら待っていた。SNSを開き、トレンドワードを片っ端から見ていった。都内の物騒な事件、政治家の裏金問題、芸能人の不倫騒動、流行りの食べ物、アイドルの解散報告。毎日毎日多くの情報が流れていく。見ていて思うのだが、SNSの情報は、詳細な情報が異なるだけで、大枠の情報は同じである。例えば不倫騒動で言うなら、今日はAさん、3ヶ月後はBさんみたいに。新鮮な情報が流れてきているようで、流れているものと流れ自体はいつも同じものを見ている。水の循環のようだ。昨日と同じ川を見ているけど、昨日の水を見ているわけではない、ただ流れているものは、雨となって落ちてきた水という変わらないもの。

 ただSNSを眺めていただけなのに、頭ではこんなことを考えていた。考えているからなのか情報が陳腐だからなのかは分からないが、集中はしていなかった。

「沖野さん、沖野彰人さん。2番診察室へどうぞ」

 やっと呼ばれた、だがここからが本番だ。恐らく問診した後、検査がある。その時に再び待たされる。その絶望感と、やっと呼ばれた安堵感から、大きくため息をついて立ち上がった。

「こんにちは。どうされましたか」

「人間ドックで引っかかったので、再検査をお願いします」

「わかりました。まず血液検査からですね。5番窓口でお待ちください」

 ほらみろ。もう終わった。ここから地獄のような時間が始まるぞ。そう思いながら、ぶっきらぼうにお礼をしてその場を離れた。

 受付開始と同時に病院に着いたが、終わったのは14時ごろだった。お腹が空いたし、待つだけで疲れるということを改めて確認した。結果は1週間後ということで、来週また来なければならない。たぶん面倒だと思う気持ちは、帰り道のおれの背中から誰もが感じ取れたと思う。分かりやすいほどの猫背だった、足も上がっていない。おれはこの疲労感と鬱憤を何かで晴らしたくなった。勢いに身を任せて、いつもの飲み屋に行こうと決めた。おれは駅前のショッピングモールでウィンドウショッピングをして時間を潰してから向かった。店主や他のお客さんが、気が付かないくらいの距離から店内を覗いた。まだ人は少なかった。店に入ろうと2歩進んだところで立ち止まった。そこで5秒ほど考えて、再び歩き出した。おれは、飲み屋の隣にあるチェーンの中華料理屋に入り、回鍋肉定食を注文した。無心で食べ、お会計を済ませ、おれは潔く家を目指した。


 おれは友だちが多いわけではない。むしろ少ないと思う。学生の時は、いろんなグループにひょこひょこ顔を出していたので、誰とでも分け隔てなく付き合ってきたタイプだ。そのせいか、深く関わってきた友だちが少ないので、卒業してからも付き合いがある友だちは片手で収まる程度だ。恐らく、社会に出てからできた友だちの方が多い。例えば慎二さんとか。SNSで知り合った人とか。おれはキャラに似合わず、人間関係に関して結構ドライな考え方を持っているかもしれない。学校や会社といった閉鎖的な小社会では、郷に入っては郷に従えではないが、群れに溶け込んだ者が平凡に暮らせる。だから多くのグループに溶け込めば溶け込むほど安全になる。そう気が付いて過ごしてきたし、そうしている。

 しかし、大社会での人間関係に関しては自由度が高い。自分の趣味を馬鹿にしない、共感してくれる人が一学年の人数よりもいる。そこには年齢も地位も性別も関係がない。それに、うまくいかなければ次を探せばいい。小社会だと、そうはいかないから苦労する。一度揉めたら、卒業や転職までそこを離れることは難しい。だからこっちの人間関係が好きなのかもしれない。一期一会という言葉がある。一生に一度限りの出会い、これが最後かも知れない、という考え方だ。一生に一度しかない出会いだから大切にしようと。多くの人がこれをいい意味で使っていると思うが、おれは逆の意味でもとらえている。一生に一度の出会いだから、そこまで深く人間関係を築く必要はないという考えだ。少し関われば、相手が自分にとっていい影響を与えるのか、悪い影響を与えるのか、それとも何も影響がないのかが分かる。そしてその感覚はほぼ当たる。シックスセンスというのは人間関係においては、信頼度が高いとおれは思う。シックスセンスに従った取捨選択が出来るのが人間関係だと思う。可能性として、出会いはモノや情報と同じくらいの数がある。出会おうと思えばいつでも出会える。だからもっと柔軟でいい、一期一会なのだから。

 人間関係だけではなく、得意なことに関しても、おれは思うところがある。今の時代、馴染みのある言葉で言うとスキルのことだ。いわゆる天才という人間は、何かのスキルが極端に優秀で、人間関係の構築が極端に下手である。そんなイメージがあり、実際にそうだと思う。人間関係とスキルにはっきりと境界線がある感じがする。だから、天才という人間は稀だ。

 天才という、日本一や世界一といった規模での話だけではなく、もっと身近ではどうだろうか。ほとんどの人間は、何か出来て且つ世渡りが上手いという、境目がない。この両面の境目がはっきりしない人間は、実に器用だと思う。勉強やスポーツ、他に料理でも知ってるアニメの数でもプログラミングでもエクセルでも何でもいいが、スキルがあって人間関係も築ける。この世は、そんな器用な同族が多いから、天才以外は生きやすいのではないか。というような話を、慎二さんから聞いた。最終的な結論は「どんな人間も、おもしろい」だった。関わる時間が長いほど、誰もがコロコロと変化していって味わい深くなる。そんなことを語りながら、おれのグラスを飲み始めた慎二さんの姿は忘れもしない。


 社会人になってからだろうか。時の流れの早さに驚く。気が付けばもう年末、なんてことを大人になってから感じやすくなったという人は多いはずだ。これは成長なのか。年齢のカウントアップは、人生のカウントダウンとも言えるし、死期を早いうちから認識できるようになったという成長だと思いたい。

「やべ、明日病院か、午前休出さなきゃ」

 終わりかけの事務仕事を途中で投げ出し、上司への提出書類の作成に取りかかった。億劫だと思う気持ちが沸々としているのが分かる。いつも動くスピードの半分以下だったから。それは、翌日病院に行くまで続いた。

「沖野さんですね。えー、単刀直入に言います。胃に悪性の腫瘍があります。いわゆる癌ってやつです」

「癌・・・ですか」

 言葉に詰まりはしたものの、不思議と落ち着いていた。というより落ち着く以外に出来ることが何もなかったという方が正しいかもしれない。

「はい。幸い、早期発見で腫瘍も小さいので、胃の一部を手術で切除して様子を見ましょう」

「はい、わかりました」

 自分でも怖いくらい淡々と話を聞いて答えていた。手術までの入院の話、手術の話、その後の話を聞き、診察室を後にした。特に不安はなかった。なぜか頭の中には、昨日見たアニメの再放送の映像が流れていた。受付での清算を待ちながら、自分の中で、なぜ不安ではないのか問うてみたが、分からない。遊びは?仕事は?結婚は?そんなことを考えてみても、不安はなく、ただ真っ白な映像が見えるだけだった。

 家族と会社に、すぐ連絡を入れた。家族は田舎に住んでいるため、お見舞いは断った。スマホもあるしテレビ電話できるのだからと。上司は、心配と励ましの言葉をかけてくれたが、後輩への引き継ぎの話の後、あとは人事と話すようにと、上司も仕事を引き継いでいた。

 自分が動かず、周りが大きく動き始める。日常がひっくり返っていく、自分が基点となって。

 家に着くと、ベッドに寝転んだ。なぜか分からないが、そうしたかった。特に何かを考えるわけでもなく、ただ天井を見つめていた。学生時代の友だちに連絡するかどうかという議題が、やっと頭に浮かんだ。しかし、連絡しないという結論にすぐに至った。わざわざ心配されにいくようなことをするのは嫌だという気持ちがあった。もし、相手から連絡があったら、その時に話せばいいと。昔から、実はこうでしたみたいなサプライズが好きなタイプなので、この件もサプライズでいいだろう。まあ、誰も嬉しくはないだろうけど。そう思っていた時、スマホの通知音が鳴った。

「彰人、再検査どうだった?」

 慎二さんからだ。しかし、なんて返せばいいか分からない。さっきの議論は無駄だった。いや、慎二さんが特例なのかもしれない。自分から再検査のことを話していたから。不整脈の時と同じで、何の問題もないだろうとは言ったが、その結果とは異なっていた。

「おれ、手術します」

 とりあえず、それだけ伝えた。大丈夫と返事が来ると思っているであろう慎二さんを大きく裏切った。恐らく、慎二さんの未来をひっくり返してしまった。

 唐突に幼少期のことが思い出される。自然豊かな地で生まれ、生活していたあの頃のことが。

 おれは、中学まで実家に住んでいて、高校と大学で東京へ出てきた。周りから高校生で一人暮らしって珍しいとか、立派とか言われてきたが、おれの住んでいる環境では当たり前のことだった。おれの通っていた小学校と中学校は、生徒数が15人だった。同級生は4人で、みんな仲は良かった。今は顔も名前も覚えていないし、連絡先も知らないけれど。そう、おれはアニメやテレビの特集やドラマで観たことあるような、ザ・田舎の学校で生活した。家や店、学校などの建築物が数個ある以外は森林と山、そんな場所だ。おれが暮らした場所で地球を作ったとしたら「地球は青かった」ではなく「地球は青々かった」と表現したに違いない。そのくらい自然が豊かな場所だった。

 家での生活は通年、ひとりでいることが多かった。両親は共働きで、車で1時間弱の町にある小さな会社と病院で働いていた。朝早く家を出て、夜遅くに帰ってくるという生活をしていたので、ちゃんと顔を合わせるのは休日だけだった。そんな忙しい中でも、おれの朝食を準備してくれていたことに、感謝の念が大人になって溢れ出てきた。2人とも厳格なタイプではないが、1人目ということもあり、おれは若干の期待をされていた。

「彰人、学校はどうだ?」

「楽しいよ。火曜日にテストがあったんだけど、算数が100点だったよ、ほらみて!」

「すごいじゃない彰人!他の教科もこの調子でね!」

「いいぞ!社会に出ると勝負の世界だからな、この調子で頑張れよ!」

 両親と休日にしか話せないおれにとって、話す時間は嬉しい以外に何も言葉はなかった。褒められる時は尚更だ。おれにとって週の2日というのは、とても大切な時間だった。

 青空と蝉の声が空気を包み始めた。夏休みに入ったおれは、朝食の後、戸締りをして走りだした。

「広司おじいちゃん!」

「おお、あきちゃん、いらっしゃい」

 大人にとって、夏休みは関係ない。当然、両親はいつも通り働きに出ている。なんならうちは、お盆も年末年始も関係がなかった。同級生はというと、別の場所に住んでいる祖父母の家へ行ったり、両親が有給をとって旅行したり、忙しい。この時期、自分以外の子どもの気配が無くなる。おれは「幸せな神隠し」と大人になってから呼んでいる。

 そんなおれと遊んでくれたのが、3軒隣の小さな一軒家に住む広司おじいちゃんだ。タンクトップ1枚に、太めの綿のズボンを履いたツルツル頭のおじいさんだ。若い頃は東京で仕事をしていたそうだが、両親が亡くなったことをきっかけに実家へ戻り、農家を継いだそうだ。

「あきちゃん、水筒は持ってきたか?」

「うん、持ってきた」

 広司おじいちゃんは、にっこり笑っておれを抱え、白い軽トラックの助手席に乗せた。傷と泥にまみれ、ドアは数ヶ所凹みがあり、いかにも年季の入ったトラックという感じだった。

 おれたちは、裏山にある川の方へと向かった。木々に囲まれた日よけに適した場所でありながら、充分な光に包まれた実に気持ちがいいところだ。広司おじいちゃんは、運転しながら話をよく聞いてくれた。学校の話やテレビの話。軽トラックと同じくらい、心は弾んでいた。

「あきちゃんは、将来の夢はなんだ?」

「うーん、わからない。何も思いつかない」

「学校のみんなはなんて言ってんだ?」

「警察官とか、学校の先生とか」

「そうか。まあ人生は長いし、今見つからなくても大丈夫」

 おれは大きく頷いて、股に挟んでいた水筒をポンポン叩いた。

「ねーねー、東京ってどんなところなの?」

「んー、そうだな。人が多くて賑やかだな。なんだ、行きたいのか?」

「ううん、ただどんなところなのかなと思って」

「おじいちゃんは東京よりこっちの方が好きだな」 

「たぶんおれはずっとここにいると思うよ。楽しいもん」

「そうかそうか。じゃあ大きくなったら一緒に農業やろうな」

 広司おじいちゃんと話しているのが楽しすぎて、川まであっという間だった。おれは助手席から降ろしてもらうと、すぐに水際まで走っていった。流れる水をしゃがんでじっと見つめていた。

「何かいそうか?」

「あ、魚がいた!」

 トラックの鍵をかけながら遠くから叫ぶ広司おじいちゃんに大きな声で答えた。

「あきちゃん、ほら、虫かご」

「ありがとう!」

 おれは水筒と虫かごの両方を首から下げて、山の中を1日中走り回った。

 

「いくらやったって、無理なもんは無理だよ」

「彰人、どこ行くの!彰人!」

「放っておけ、どうせすぐ帰ってくる」

 中学生になったおれは、人並みに反抗期を迎えていた。おれは玄関の引き戸をぴしゃりと強く閉め、走った。向かう先はいつも決まっている。広司おじいちゃんのところだ。

「なんだ、また喧嘩したんか?」

「こんな成績じゃ町の高校に行けないって親がうるさいんだよ。高校なんか行かなくていいっつうの」

「あの高校か。じいちゃんが通ってた頃はそんな頭がいい学校じゃなかったんだがな」

「なんか年々偏差値が上がっててさ、おれの同級生たちも行けるか分かんねぇ」

 中学生になってから、おれは勉強というもの全般がダメになっていた。正直いうと小学校6年生あたりから怪しかった。そのまま3年生になり、気がつくと受験勉強に追われるようになった。勉強をサボってきたわけではないが、授業を聞いても何が何だかさっぱり分からないものが増えていき、理解が授業スピードに周回遅れしていた。

「そうか。あきちゃんがここに残るにはあの高校に行くしかないからなぁ」

 おれの実家の近くには高校がなく、町の方に出なければならなかった。しかもその町には1校しかなく、他県の学生もそこを目指すので、倍率がそこそこ高い。大抵この地域の人々は、高校進学と同時に実家を出るか、家業を継ぐ場合が多い。進学する場合、地元に残るのは狭き門なのだ。

「まあ、やれるだけのことはやってみるけどさ」

 おれには、その高校へ行きたい理由が特になかった。ただ家から近いし楽だからくらいにしか思っていなかった。だから両親や同級生らの真剣さが全く分からなかった。おれには何のモチベーションもなく、漠然とした流れに乗っていた。強いて言えば、広司おじいちゃんとのんびり過ごせれば何でもいいと思っていたと思う。

 そんな話をしていると、玄関をバンバンと叩く音が聞こえた。その音に気がつき、広司おじいちゃんは玄関へと向かっていった。

「あきちゃん、大和くんが来たよ」

 おれはそれを聞いて、玄関へと走っていった。

「どうした大和?」

「お母さんが、ご飯冷めちゃうから帰って来いって」

「わかった、わかった」

 おれはため息混じりに答えた。大和はおれの4つ下の弟だ。20人いる全校生徒の中で最も背がデカい。小学校高学年とは思えないほどだ。おれと大和は、広司おじいちゃんに手を振りながら家まで歩いていった。

 月日は流れ、あっという間に受験の日がやってきた。やいのやいの言われる日々を数えていたら、今日になっていた。しかし、この頃のおれは、反抗していた頃と比べて成長していた、勉強面が。自信があった。合格する予感がし、前日に広司おじいちゃんに自信満々な姿を見せに行っていた。広司おじいちゃんとおれは握手をし、そして背中を叩いてくれた。受験中のことは特に何も覚えていない。町からさらに電車で移動して、会場になっていた私立大学の教室で受けたと記憶している。おれがはっきりと覚えているのは、合格発表の日のことだ。おれは再び私立大学にひとりでやってきた。ファイルに入った受験番号の書かれた用紙を見ながら、発表ボードを上からじっくりと見ていった。

 その日の夕方、おれは帰り道に広司おじいちゃんの家に寄った。玄関を開けておれの顔を笑顔で見つめた。

「どうだった?」

 おれは鼻で笑いながら言った。

「だめだったわ。だからおれ、東京行く」

 滑り止めで受けた東京の高校は合格していた。そのことは、事前に広司おじいちゃんに話してはいなかった、なぜなら不要な情報だからだ。結局、同級生は1人だけ、町の高校に受かった。広司おじいちゃんは、おれの肩をポンと叩き、冷蔵庫にあったペットボトルのお茶をおれに持たせてくれた。

 悔しさは全くなかった。ただ申し訳なさのようなモヤモヤした感情だけが胸につかえていた、広司おじいちゃんを裏切ってしまったと。家へと向かう数十メートルの間で、おれはお茶を飲み干した。

 帰宅してからのこともあまり覚えてはいない。両親から特に何を言われたということもなかったように思う。ただそこから卒業までの間、おれは広司おじいちゃんに会うことはなかった。


「じゃ、行ってくる」

「体に気をつけろよ」

「たまには連絡ちょうだいね」

「じゃあね、兄ちゃん」

 おれは家族が乗った車に向かって手を振り、空港へと入っていった。飛行機に乗るのなんて初めてのことだったので、少しソワソワしたが、意外とスムーズに搭乗できてホッとした。座席に座り、外を眺めながら離陸を待っていた。おれは深呼吸すると同時に、ふと広司おじいちゃんのことを思い出した。結局、さよならも言わずに来てしまった。やはり申し訳なさと恥ずかしさから、顔を見せることが出来なかった。外を眺めながら、川で遊んだ日のことを思い出した、そして大人になったおれが、腰の曲がった広司おじいちゃんと田植えをしている絵が頭に浮かんできた。こうなる未来を、おれの力不足な結果が、ひっくり変えしてしまったのかもしれない。広司おじいちゃんが夢に見た景色をおれは今、思い浮かべているのかもしれない。飛び立つ前に、心は疲れ切っていた。

 その後、久しぶりに広司おじいちゃんに会うことが出来たのはおれが大学3年生の時。裏山に建てられたお墓にいた。川のせせらぎと木々が手を叩く音に包まれた場所で、ポツンとたっていた。おれは手を合わせ、帰ってきたよと呟いたのだった。


 入院生活が始まった。4人の相部屋だが、今のところおれ以外誰もいない。窓際で、大きな木が程よく赤く色づく景色を独り占めしている。手術まで日がある。それまで病院内であれば自由に過ごせる。今はとりあえず元気なので、ベッドでの生活をする必要はない。というより耐えられない。おれは、院内用に持ってきたスニーカーの上履きで散歩をすることにした。

 やっぱり大学病院はデカい。デカいし人が多い。本当にキャンパスだ。大学生活を思い出す。食堂もあるし、コンビニもある。芝生の広場もある。時間になったら教室で講義を受ける。おれの場合、今は病室で血液検査を受けるだが。初めてのことでドキドキはしているが、何だが懐かしさもある。

 外に出ると、車が立体駐車場への列をなしている。それを警備員が捌いている。そこからぐるっと反対を見ると、遠くの広場で子どもたちが走り回っている。週末の国営公園みたいだ。おれは本当に病気で入院しているのかを疑いそうになっていた。そんなことを思いながら、病院を一通り歩き回った。

 入院している間は、私生活のあらゆることが制限され、暇を潰すのが難しい。幸いおれは散歩が好きで、それが制限されていないから良かったが、買い物やカフェ巡り、友人と遊ぶのが趣味だった場合、どうなるのだろうと思った。そう考えると、ニートというのは才能がなければなれないのだと思う。部屋という閉鎖的な空間、時間経過で変化しない空間で、他人と関わらずに何かをするというのは至難の業だ。しかし、今はネット環境が整っていれば、SNSやオンラインゲームで、直接会わずとも簡単にコミュニケーションを取ることが出来るようになった。そうなると問題は、他人と違うことが出来るかどうか、他人の目を気にしないで生きられるかどうかである。多くの人間が勉強や労働といった社会活動をしている中で、自分1人が部屋に篭っていられるか。全員が右を向く中で左を向いていることに耐えられるか。数時間、数日、数週間、数年、もっと長く。恐らくほとんどの人間が無理だと思う。厳しいことだとしても、右を向くことのほうが楽だと思える。みんなが走ってゴールを目指す中、ゆっくりと歩いてゴールを目指せるか。周りには誰もいない、ゴールで喜びを分かち合っている人々を見ながらゆっくりと歩いて行けるか。恐らくほとんどの人間が無理だと思う。自分も走らなければと焦る、みんなと喜びを分かち合いたいと焦る。

 他人の目に触れると、良くも悪くもプライドを持つようにもなる。親が金持ちであった場合、多くの人間がニートになれるかどうかを考えたことがある。おれは、なれない人間が大半だという結論に至った。それは、親に迷惑をかけたくないという罪悪感からではなく、独り立ちすることへのプライドがあると思うからだ。自分1人で生活することが出来る、自分の力でなんとかしてみせるというプライドだ。齧れるスネがあるのなら、齧れるだけ齧るというのも生き方のひとつである。なのに結局、プライドによって、齧らないのだ。やっぱりニートというのは奇才なのだ。自分の生き方を認められる天才だ。おれにはなれそうにない。こんなことを考えている余裕があるほどには、まだ健康なようだ。

 広場を抜けて院内へ戻ろうとした時、10mほど先でうずくまる女性を見かけた。薄い黄色でストライプのいわゆるパジャマに、パーカーを羽織った女性だ。おれはすぐに駆け寄った。

「大丈夫ですか」

「あ、ごめんなさい。ちょっと貧血みたいで、ふらっとしちゃって」

 おれは、すぐに近くの看護師さんを呼びにいった。彼女はすぐ車椅子に乗せられ、病院内へと向かっていった。おれはその状況を見送った後、ゆっくりと病室へ戻った。


 食事時はいつも静かだ。他の患者さんも病室にいて、誰も廊下を歩いていない。聞こえてくるのは配膳の音だけだ。おれは、いつも嫌いな牛乳を一気飲みするところから食事を始める。普段は好きなものから食べるタイプなのだが、こうすることで、質素な病院食を最高においしかったと思わせることが出来る。病院に来て最初に身につけた生活の知恵だ。

 おれは空の食器を乗せたお盆を、配膳のワゴンに片付け、院内をぶらぶらし始めた。患者の共同スペースにはソファの前にテレビが置いてあり、漫画や雑誌の棚もある。おれは自販機で缶コーヒーを買い、テレビを点けてみた。平日のこんな早い時間にテレビを観ることがないから、新鮮だった。教育番組、ニュース、アニメ。おれ1人だったので、子どもみたいにチャンネルをこねくり回していた。

「こんばんは」

 唐突に後ろから声をかけられ、おれはビクッとした。それと同時に共用のテレビを独り占めしていたことについて咎められると察知し、勢いよく消した。

「今朝は、ありがとうございました。同じようにこの病院で入院されてる方とお聞きしまして」

「あ、ああ。こんばんは」

 今朝、広場でうずくまっていた女性だ。おれは声がワントーン高くなっていた。おれたちは、そこから少し話した。

 彼女は、渋谷一葉さん。40代でアパレル販売の仕事をしている。成人したお子さんがいて、旦那さんとは子どもが小さい頃に離婚したらしい。結構踏み込んだ自己紹介と話をしてくれた。患者同士の会話というのがよく分からなかったので、病気について触れようとしたが躊躇った。自分の病気についても話さなければいけないということに気が付いたからだ。若いのに大変だという言葉を言われるに決まっている。それに対しての気の利いた答えを持ち合わせてはいない。

「いつ頃まで入院されるんですか?」

「まだはっきりとは。入退院を繰り返しているんですが、今回は2ヶ月ほどでしょうか」

 恐らく何か大きな病気を抱えているのだろうと思った。それがさらに病気の話を避けなければならないと強く思わせた。

「入院生活が長いと人と関わることが少なくて寂しいですよね。ほとんど看護師さんとしか話さなくてね」

「やっぱりそういうもんですか。おれは初めてなので、まだ感じてないっすけど。おれより先に友だちの方が寂しがるかもしれません」

 一葉さんは、個室らしい。なので病室に長くいると、孤独感が増すので、よく共用スペースに来て本を読んだり外を散歩したりするようだ。そんな何気ない会話をしながら、食後の休憩を終えたおれたちは、各々の病室へ戻っていった。

 元々、規則正しい生活を送るタイプなので、病院の生活サイクルは特に苦痛ではなかった。顔を洗って歯を磨いて、ヨレたスウェットのまま朝の空気を感じに外へ出た。おれは本当に大きな病気なのかと病院へ来てからずっと思っている。あまりにも安定している。病状と日々が。鳥の囀りと、微かな炭の香りを感じながら広場を1周し、病室へと戻った。

「いたいた!沖野さん、探しましたよ。朝食の時間です」

「あ、すいません」

 こうして始まった今日は、おれの4人部屋が2人部屋になる日だ。中学生の男の子が来るらしい。おれはちょっと緊張していた。ヤンキーだったらどうしようかと。恐らくおれと同じで反抗期を迎えているに違いない。

「何だよ、おっさん」とか言われたらどうしよう。髪をワックスで掻き上げて固めた、薄い茶髪の男の子が胸ぐらを掴んでくる様子を想像した。そうならないように、カーテンを閉めて関わらないようにしよう、そう思っていた。こんな最悪な予想のせいで、朝食の牛乳がいつも以上に不味く感じられた。安定した病院での生活が、早くも終わろうとしている、そんな気がしていた。

 しかし、予想はすぐに裏切られた。母親らしき女性と一緒に、松葉杖をつきながら入ってきたのは黒髪でアイドルのようなスッキリとした髪型の男だった。男と表現したのは、おれよりも20cmくらい大きく、すらっとしていたからだ。

「こんにちは、澤田優です。よろしくお願いします」

 いかにもスポーツマンという感じで、爽やかな挨拶を投げかけてきた。

「こんにちは、沖野です。よろしくお願いします」

「ご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いします」

 母親も礼儀正しい人だった。おれはベッドにふんぞりかえった状態から勢いよく飛び上がって挨拶をした。荷物を整理し終えると、母親は先生と話があると言い残し、病室を後にした。おれと彼だけの空間となり、互いに緊張が走る。

 おれはこの時、高齢者のコミュニケーション能力が羨ましいと思った。高齢者というのは高齢者という共通の話題があるのだ。血圧の話、老眼の話、通院している病院の話、検査の話、こういうと怒られそうだが、体の衰えや不備が会話における武器になるのだ。生活における苦労があるというのは承知だが、最近血圧が高くて塩分を摂生しているとか、今月から薬の量が増えたとか、足腰が弱ってきて階段の昇降が大変だとか、老化で得られていくものが会話のタネになる。しかも、話題が話題なだけに、マウントを取った会話にならないことが素晴らしい。若者が若者という共通の話題で会話した場合、20代と30代はどこからがおじさんか、年収、彼氏彼女がいるか、結婚しているか、ほとんどマウントの取り合いになりそうなものばかりだ。若いという一時的な血気ゆえなのだろうが、年齢を重ねるとともに棘が程よく削ぎ落とされ、マウントの取り合いにならない会話になっていく。

 天気という世代を超えた共通の話題で盛り上がることが出来るのも高齢者である。若者が初対面の人と話す際に、天気の話題は御法度だという記事をネットニュースで読んだ。理由は話が広がらないからだという。おれは、広がらない話題だから悪いのではなく、単に若者のコミュニケーション能力が低く、広げる能力がないから御法度なのだろうと思った。病院の待ち時間や近所で、初対面のおばあちゃん同士が天気の話題で会話をスタートするところを見かけたことはないだろうか。おれは何度かある。天気の話をきっかけに、散歩の話や旅行の話に上手く繋げていた。

 高齢者は、情報の刺激の強さで面白いかどうかを判断していないのだと思う。若者はSNSで毎日数時間毎、もしくは数分毎に刺激的な情報に触れている。だから他人との会話に刺激を求めるようになってきているのだと思う。新鮮でなければつまらない、何気ない情報はつまらない、だからコミュニケーションが上手く取れないのだろう。

 おれは、そんな高齢者の感性とコミュニケーション能力への欲を持ちつつ、彼がおれの問いかけに反応してくれるという一縷の望みにかけた。

「この病室、景色いいでしょ」

 同じ窓際でおれの正面のベッドに座った彼は、笑顔で応えた。

「ですね。なんか病院じゃないみたいですよね、ここ」

 やっぱりとても気さくで好青年って感じだ。いや、中学生だから好少年と言うべきか。声変わりを終えた心地よい音程でテキパキとリズム感のある話し方が、耳にとても親切だ。

「移動する時、大変だったら声かけてね。手伝うから」

「ありがとうございます」

 こんな感じで相部屋生活はスタートした。彼は、かなり緊張していたらしい。相部屋の相手が怖い人だったらどうしようかと。おれと同じだ。しかし、病室に入ってきた時に、おれをちらっと見て最悪だと思ったらしい。どうやらおれは怖い印象を与えたようだった。それもそうだろう。おれは目つきと視力が悪いので、彼が入ってきた時、目を細めて睨みつけるような感じだったから。しかもベッドにふんぞりかえっていた。

「学校で怪我したの?」

「そうなんですよ。ぼくサッカー部なんですけど、練習試合中に相手選手と派手にぶつかって。お医者さんに言われたんですけど、たぶんサッカーをするのはもう厳しいかもって」

 おれは驚いた。そんな状況でこんな冷静でいられることに。中学生とは思えなかった。絶望してグレたとしても、納得できるだろう。おれは気になって踏み込んだことを聞いた。

「ショックじゃないの?好きなサッカーが一生できないって」

「ショックじゃないと言ったら嘘になりますね。ちょうどサッカー留学とかも考えていたし。ただ、早いうちから違うことに目を向けられるようになったと考えたら、良かったのかもしれません。サッカーしかやってこなくて、将来サッカー選手になれなかった時に路頭に迷うかもしれないので」

 おれからは到底出てこないであろう大人な回答だった。おれは彼の人間力に圧倒されていた。しかし、彼がなぜこんなにも素晴らしい考えを持っているのかはすぐに分かった。

「それに実は、サッカー選手以外にも夢があって、ぼく弁護士になりたいんです」

 おれは薫風に吹き飛ばされたような気がした。勢いの強い心地よさによって、次に話そうと思っていた内容が頭から吹き飛んだ。

「そ、そうなんだ」

 しまった。そんなつもりはなかったのだが、小馬鹿にしたような言葉として受け取られかねない一言が出てしまった。

「やばいですよね、でも何だか急に目指したくなっちゃって」

 そういうと彼は、もじもじと恥ずかしそうにした。

「なんかきっかけがあったの?」

 彼は、覚悟を決めたようにキリッとした顔をつくった。 

「好きになった女の子が、弁護士カッコいいって言ってたんっす」

 彼は急に年相応の人間に戻った。おれは彼のことを、タンパク質ではなく魅力で構成された人間だと思わされた。大人顔負けの人間力だけではなく、愛嬌まで持ち合わせているとは。その魅力によるものなのか、おれは彼のその言葉を聞いても、くすりともしなかった。

「でもぼく、女子と話したことなくて、だからその子とも話したことないんですけど。沖野さん、女子とどうやって話せばいいですかね」

 10歳以上年下の子に勝ち目がないと感じていたが、ここにきて大穴を見つけた。恋愛経験はそこそこある。

「看護師さんとは話せた?」

「緊張して、返事くらいしか」

「そっか。じゃあ退院して彼女と会うまでに練習しよう」

「お願いします!」

 好きな人や恋人の存在が、何かを頑張るきっかけになる。彼女は、彼の人生をグレた人生にひっくり返さなかった。彼女の存在は、彼を黒に変えなかった。彼の人間力と恋する彼女の存在に、今後おれは、どんな影響を与えられるだろう。

 彼は、数日で他の空き部屋に移動になるらしい。短い付き合いになるかもしれないが、おれは彼に、何かを残してあげようと思う。

 こうして始まった相部屋生活。おれには、やはり不安はなかった。この生活の間に、彼がどんな成長をするのか気になっていた。

 彼の年齢と人間性を考えると、話せない理由が分かる気がする。まず中学生というのは、思春期の門を叩いたばかりの新米だ。恐らく彼は、その門を潜った先にいた女子という生物に初めて対峙したから、戸惑っているのだ。だが安心してほしい。誰もが生まれてから異性という生物に触れてきている。それが思春期という別世界を訪れたから、初めてだと錯覚しているだけだ。まあ、だからこれは、慣れろ。

 こちらの方が深刻だ。それは、彼の人間性という魅力が、他の魅力に蓋をしていることだ。彼は、とても謙虚だ、悪い意味でも。もっと自分という人間を出した方がいい。例えば「好きなもの」が分かりやすい。サッカーならサッカーの魅力を知っているわけだし、他に好きなものがあればそれでもいいが、好きなものは、あなたしか知らない魅力を見つけているものとも言える。多くの人間は、そういうものが自分の中にもあると思う、自信というものとして。傲慢になってはいけないが、その手前くらいまでは自信を引き出したほうがいいと思っている。その方がおれは、その人に興味が湧く。

 こんな話を外を眺めながら話し込み、1日があっという間に終わった。

「彰人さん、あの中でどの看護師さんがタイプですか?ぼくは左です」

「んー。右」

 中学生だからなのか彼自身だからなのか分からないが、吸収力が素晴らしい。数日おれの恋バナを聞いただけで、女性との会話のコツと恋愛の肝を掴んだようだ。いいのか悪いのか、女慣れしてきた。それが彼の魅力というかキャラクターの一部なのかもしれない。

「ばーか。真ん中だろう」

「慎二さん。来てたんですか!」

「おう、優。今来たんだよ」

 まあ、このおじさんの影響が大きいだろうが。おれのお見舞いに来たことがキッカケで、 優くんと慎二さんは親しくなっていた。

「彰人が明後日手術だっていうんで、背中を押しに来たんだよ。ほら、さきいか」

 慎二さんは、コンビニのシールが貼ってあるさきいかを座っているおれの股ぐらにひょいと投げてきた。 

「いらないっすよ。自分が食べたかっただけでしょ?」

「あ、バレた?」

 おれは慎二さんの顔の目の前へ返した。

「そうでしたね。ぼく明日で移動なので、あとで売店で何か買ってきますね」

「いいよ、2人とも」

 おれは明後日の手術に関して、緊張も恐怖心も特にはなかった。自分でも分からないくらい。寝てれば終わる、その程度だ。

「沖野さん、澤田さん、ちょっとうるさいですよ」

 通りすがりの看護師さんに注意を受けてしまった。おれたちは少ししゅんとしながら、共用スペースまで移動した。

「お前たちがうるさいから怒られちまったじゃねーか」

「どう考えても慎二さんのせいでしょ」

 おれたち3人は蛍の光くらいの、一瞬かつ穏やかな反省をした。

「そういえば優くん、さやかちゃんに連絡はしたの?」

「はい。それで返事きたんですけど、なんて返そうか迷ってて」

「おい、早く返せよ。女は待たせちゃいかん」

「そうですよね。でもなんか頭が真っ白で何も出てこなくて。さやかちゃんとの連絡は全然慣れないです」

「退院した時に告白できるよう、今のうちにお互い緊張感がないようにしておきたいよね」

「優が病院にいる間、他の男にとられる可能性もあるからな。先輩とか」

「何だかすごい焦ってきました」

 これぞまさに中学生男子という感じの会話を繰り広げ、季節外れで場違いな青春を謳歌していた。男同士の恋バナなんて、老若問わず万年青春だ。ただ、甘酸っぱさだけではなく、えぐみが増すのは、時の流れ、つまり経験のせいだろう。酸いも甘いも知ると、灰汁が出る。なんだか果物みたいだ。

「あら、彰人くん。こんにちは。今日はやけに賑やかで」

 一葉さんだ。そういえば、お昼少し前にここで本を読んでいると話していたのを思い出した。

「あ、こんにちは。すいませんうるさくて。こちら同部屋の優くん、こちらは見舞いに来てくれた慎二さんです」

 軽い挨拶を交わし、おれは一葉さんが手に本を持っていることに気が付き、2人を連れてどこかへ移動する素ぶりを見せようとした。その瞬間、慎二さんが飛び込むように一葉さんに話しかけた。

「一葉さんはどう思う?こいつ好きな子にどう連絡していいか分からないってモジモジしてるんだよ」

 おれは慌てて慎二さんを制止しようとした。男の下世話に興味を持ってくれるタイプではないと思っていたからだ。せっかくの優雅な時間を奪ってはならないと思った。

「あー!慎二さんやめてくださいよ!恥ずかしい!」

「まぁ、いいじゃねーか優」

「ふふ。楽しそうなお話ですね。そうね・・・」

 そういうと一葉さんは持っていた本を胸に抱え、ソファに座った。おれはホッとした。

「女心は女に聞いた方がいいだろう」

「慎二さん、言葉は選んで下さいね。初対面なんだから」

「構いませんよ」

 こうしておれたちは4人で懇談していた。RPGで考えると、実にまとまったパーティーなのかもしれない。性別も年齢も経歴もキャラクターもバラバラだが、出会って日が浅いのに統一感がある。このメンバーが揃うことは人生の中でそうないだろう。酒場で揃うのが相場なのだろうが、ここは病院だ。だから「チーム患者」とでも名付けようか。1人患者ではないが、元患者だからいいか。

 3人があーだこーだ言っている姿を、ふわっと見ていた。すると、この光景に答えがあるような気がしてきた。おれは、この爽快な違和感を分析した。そして、何となくこれなんじゃないかと思う答えを拾い上げた。

「どんなことでもいいから興味を持ってもらえるって、嬉しいことだと思うけどなぁ」

 ぽろっと口にした。

「彰人くん、いいこと言うわね」

「確かに。気の利いた話とか面白い話とか別にできなくたって、彼女について聞きたいことを純粋に聞けばいいじゃねーか」

 みんながおれの方を見ながら口々に言った。

「そうですね。変に気を遣わず、素直になろうと思います」

 何だか上手いことまとまったようだ。こんなんで良かったのかと、ひとり不安になっていた。まあ、優くんの背中を押せたのだから、結果オーライと心に言い聞かせた。

 まあ大丈夫でしょう、彼の人生は果てしない。


 他人の相談に乗るというのは多いのだが、実はあまりしたくないと自分では思っている。その理由は大きく2つある。ひとつは、他人の経験は自分にとっては虚無である。もうひとつは、良くも悪くも相手の未来を大きく変えてしまう可能性があるからだ。

 他人の経験が自分にとっての虚無であるというのは、慎二さんが手術する時、おれがかける言葉に詰まってしまったのがいい例だろう。おれは手術をしたことがない、だから大丈夫とも言えないし、心構えを伝えることも出来ない。おれが手術をしていたら、こうしたから良かった、これはしないほうがいい、これをするべきだったと思う、などの経験に基づいた助言ができると思われる。よって経験値がものを言う。しかし、それが全てとも言えない。あくまでそれは自分の話、それが他人に通用する可能性が高いとは言えない。手術に限らず、例えば退学、留学、転職、恋愛、結婚、人生における選択ならなんでもいい。誰かに相談するだろうが、それらは全て、あなたの答えではない。他人の経験の統計が当てになるのなら、人生はイージーゲームだと思う。何も考えず、その轍を辿れば絶対に幸せなのだから。しかし、人類が誕生してから今までもこれからも、悩まなかった人間も悩まない人間も存在していないはずだ。誰もが通る選択なのに、誰も最適解を知らない。だから相談に乗るということは、相手にとって無駄な時間であると言えなくはない。

 もうひとつの話は、言葉通り、説明は不要だろう。おれがこれを感じたのは、社会人になって数年後だ。おれの弟の大和が、大学で知り合った人と結婚しようと家族に相談をしてきた。東京にいるおれには、電話をかけてきた。大和は、おれと違って勉強が出来た。中学を卒業し、町の高校と大学へ進んだ。大学の時に同居し、町の一流企業に勤め、タイミング的にここだと判断したそうだ。相手の方も優秀で、留学経験があり、英語がペラペラなのだとか。

 おれは、良かったなという話をした。しかし、問題があった。相手の両親は賛成しているのだが、こちらの両親が大反対しているらしい。なので兄貴から説得して欲しいとのことだった。おれは不思議に思った。昔からおれと大和に対し、結婚していい家庭を築けとよく言っていたからだ。大和から詳しく話を聞くことにした。

「え?海外?」

「うん、千秋の仕事の関係でアメリカに行こうとしてて、それに対して大反対された。向こうのご両親は、二人で決めたことなら何も言うつもりはないって」

「って、お前の仕事は?」

「兄貴も知ってると思うけど、リモートワークが可能だから問題ないんだよね。実際、何人かの先輩も海外にいて会ったことないし。会社からも許可はもらった」

 あとはこちら側の問題だけだった。正直おれは相手のご両親と同じ意見なので、反対理由がよく分からなかった。

「とりあえず話聞いてみる」

「おう、頼んだ」

 おれは、大和との電話を切った後、実家にかけた。広司おじいちゃんの墓参り以来話していないので、かなり久しぶりだった。4コール後に親父が出た。

「もしもし、久しぶり、彰人だけど。なんか大和が結婚して海外に行くって聞いて」

「ああ、そうなんだよ。まったく、そんな話になっているとは思わなかったよ」

「何が?」

「何がって、うちから離れて海外に行くなんて何考えているんだって話だよ。地元に腰を据えるために町の高校と大学に進んだんじゃないのか、そのために学費を出したのに。老後の俺たちの面倒は誰が看てくれんだ。結婚は許したけど、そんな相手なら許すんじゃなかった」

 おれは、頭にきておかしくなりそうだった。親父はまだ何か話していたが、おれは制すように口を挟んでしまった。

「あのさ、大和は親父たちの老後の面倒を看るために大学へ行かせてくれって言ったのか?何か目標があって行ったんじゃないの?親父たちは、見返りを求めておれと大和を産んだのか?育てた恩を自ら求めに行くのは違うと思うぞ。それとな、これはもう2人の問題なんだよ。息子の決断を否定するのは別にいいけど、これは相手の未来も否定してるって分かってるか?海外で働く夢があって、それを許してくれる相手も見つかったのに、うちのために海外で働くのをやめてくださいって言ってるんだぞ?相手の人生に責任持てんのかって。親になったことないから偉そうに言いたくないけど、正直、相手のご両親と心の力量に大きな差があると思うよ」

 おれは熱が入ると言葉が汚くなるし、自分でも驚くぐらい早口になる。そんなおれに圧倒されたのか親父は一言も喋らなくなってしまった。結婚の時に男性が言う「娘さんをください」って言うのも昔から意味が分からないと思っていたんだ、という話を挟もうとしたが、脱線しそうだと咄嗟に判断し、急ブレーキをかけた。

 大人と親は、似て非なる生物なのだろうと思った。子が産まれると、親という良くも悪くも別の生物に変わってしまう。結局、大和夫婦はアメリカへ行ったのだが、うちの両親との関係性については知る由もない。

 この結果によって、大和夫婦の未来は大きく変わるかもしれないし、おれの発言によって両親の未来を大きく変えるかもしれない。

 しかし、相談に対する助言というのは短絡的に言えてしまうものだとも思う。相手にとって虚無であるし、未来を大きく変えてしまうのもあくまで可能性の話だから。そうであるにも関わらず、助言する側は満足感を得られてしまう。投資を怖いものだと思い、何もせず飲み屋で人生相談に乗るのは、ノーリスクハイリターンだからなのだろう。

 だが、人が人に頼るのは、ひとりが怖いからだ。人間はどこまでいっても、群れたがる動物なのだと思う。

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