第2話 彰人と慎二
今日は気分がいいし、ひとり呑みでもしよう。ほんとたまにしか行かないけれど、行きつけの店がある。普段、家で飲むことがないから、楽しみだったりする。
いわゆる飲み屋という感じの、カウンターしかない木造の薄暗い店だ。古いのか照明のせいか、メニューは黄色味がかっている。そこの隅の席で、漫画を読みながら、小鉢をつまんだり、常連らしき人と飲み明かすのが最高なのだ。ちなみに、後輩たちの送り先の人は、ここで出会った。
今日も・・・隅の席が空いている。とりあえずビールとモツ煮で始めた。ぞろぞろと人が入ってきて、あっという間に席が埋まった。
3杯目のハイボールを注文しようと決めたその時。
「にいちゃん、この辺の人?よくこの店来るんか?」と左隣から話しかけられた。
「そうです。たまーに仕事帰りに寄るんですよ」
白髪の短髪で無精髭を生やしたおじさんだった。
「俺、最近こっちに越してきたんだけどさ。どうもこの辺りは雰囲気ある飲み屋が少なくて、やっとここを見つけてよぉ」
顔立ちはすごくダンディだけど、話し方と服装は田舎の村育ち風だ。Tシャツの肩のところに穴が空いている。
「そうなんすか。いいですよこの店。おれも見つけた時嬉しくなっちゃって」
「だろ?俺も、やっと我が家が見つかったような気分になったぜ。にいちゃんみたいな若いやつがこういう店に来るって珍しいんじゃねーの?」
おれには分かる。このタイプの人に悪い人はいない。27のガキが何をいっていると思われるかもしれないが、なんと言われようが俺の直感がそう言っている。まず、初めての場所で初めて会う人に声をかけること、そう簡単に出来ることではない。ましてや店主や同い年くらいの人ではなく、一回り以上も離れた人に対して話しかけることは、尚のこと難しいだろう。話が合わなかったり、怪訝な顔をされる可能性が十二分にある。おれは読んでいた漫画のページに、右人差し指を挟んだまま話に夢中になっていた。
彼は、東慎二さん。もう70近いらしいが、そうは見えない顔立ちだ。長年、自動車整備の仕事をし、今は引退をして年金生活をひとり送っているらしい。車への愛と技術力が秀でていて、優秀社員賞というものを何度も獲ったらしい。
「彰人、毎週来いよ。俺に付き合ってくれよぉ」
「いいっすけど、毎週飲めるほどお金の余裕ないっすよ。慎二さん奢ってくれる?」
「奢る奢る!退職金けっこうもらったんだよ。いいだろ?な?」
嬉しかった。気が付くとおれは、慎二さんに会いにこの店に来るようになった。おれが選んだ飲み屋という広い世界で、歳の離れた友だちが出来た。なんだろう、大人な世界に身を置いている気がする。大人の嗜みというものは多くあるが、その中でも行きつけの飲み屋をつくるというのは、おれの中でトップクラスの嗜みだ。特に、人伝ではなく、自らが開拓した場所だと嗜み度合いが増すというか何というか。これは日本語の表現として正しいのかは知らないが、こうとしか表現のしようがない。ただこの寄り道が、言語化できない充実感的なものを与えてくれそうであることは確かである。
「俺は田舎の方出身だから、都会はあんま肌に合わないんだよな、うるさいの嫌いだし」
「じゃあ何で来たんです?」
「んー、何だろうな。ただ来てみたかったんだろうな」
「はい?」
おれの感覚では、余生は田舎で静かに暮らしたいというのが一般的だと思っていたし、おれがそうだから驚いた。それと同時に、それだけの理由で東京へ引っ越せるほどの財力と時間があることに対して少し羨ましさを感じた。
「慎二さんって、いつこっちに来たんですか?」
「1年くらい前かなぁ、外に出たのは数ヶ月前くらいだ。色々あって、定年で仕事を辞めた後、なんか燃え尽きちまったみたいで、家でのんびりしてた」
「長年、仕事一筋だったんですもんね。ゆっくりするのも重要ですよ」
「そう思ってたんだけど、なんか外へ出ようよって言われてる気がしてな」
「誰にです?」
「いや、分からねぇ。神様かな?」
「慎二さん、神様とか信じるタイプじゃないでしょう」
「まあな、神棚から瓶子を奪ってやりたいくらいだ。ワハハハ!」
慎二さんの性格的に、家で読書をしたり茶を啜ったりという隠居生活が出来るタイプではないんだろうが、逆にこんな感じでよく仕事一筋だったなとも思った。酒と女に溺れ、ギャンブル三昧で借金まみれみたいな生活をしてきていたとしても、別に驚かないような風貌なのだが。こんなことを言うと怒られそうだし、慎二さんに仕事の話を聞いても、歯切れが悪いから深掘りはしない。ただ、仕事に生きると言うことは、過酷で言い表せない何かがあるのだろうと思った。
「じゃあな彰人、また来週な!」
ヨロヨロと駅を目指す慎二さんの後ろ姿に手を振りながら、左手でスマホの時計を確認した。
「結構飲んだな、慎二さんちゃんと帰れるといいけど」
おれは顔が赤くなったり千鳥足になったりしないので、酒が強いタイプではあると思うが、胃腸が弱く、次の日に響くタイプだ。おれは帰り道にコンビニへ立ち寄り、胃薬と二日酔い対策のドリンク剤を買ってから帰った。家に着いたおれは、干していた洗濯物を取り込み、畳もうと座った。すると突然、スマホのアラームが鳴り、目が覚めた。朝になっていた、気持ちが悪い。洗濯物を畳みながら寝落ちしたようだ。畳みかけの洗濯物の中、蹲ったまま動けなかった。テーブルには胃薬とドリンク剤が、雪解けから顔を出す新芽のように、白いビニール袋からはみ出した状態で置かれていた。儚い日であってほしいと心から願った。
「なあ、今から東京タワー登らねぇか?」
数週間後のとある夜、慎二さんは酔った勢いでとんでもないことを言い出した。東京観光の案内をしろと言うのだ。
「案内しろって言ったって、おれも登ったことないですよ」
「お前、東京長いのに登ったことねぇのか?じゃ、初心者同士で行くぞ!」
慎二さんはおれの背中を強く叩きながら、満面の笑みでそう言った。しかし、おれも少し行きたい気持ちがあった。今行かなければ、もう行く機会なんてないかもしれないと思っていた。おれは、東京タワーに全く興味がなかった。だから、誰かに着いて行かなければ、死ぬまで行くことはない。興味がないけど、機会があったから何となく見てみよう、そんな気持ちでいた。店主は慎二さんからお代を受け取ると、いってらっしゃいと声をかけてくれた。おれは軽く会釈をして店を出た。
「東京タワーよりスカイツリーの方が高いって知ってます?」
「知ってるよ」
「そっちじゃなくていいんですか?」
「いいんだよ。東京といえば東京タワーだろ?名前に東京って入ってんだから」
「別にそんなことはないと思いますけど」
「スカイツリーの方が有名ってこともないんだろ?じゃあ彰人、スカイツリーの色言ってみろ」
「いや、分からない。白っぽい感じじゃないですかね?」
「ほら、色すら分からねぇ。東京タワーの色なら日本の誰もが知ってるぜ、真っ赤だって」
駅へ向かう道中、酒の力もあってか中高生男子がするようなくだらない話で盛り上がった。電車の中、仕事に疲れてぐったりとしたサラリーマンは、このくだらない話をどういう気持ちで聞いていたのだろう。
「おい、彰人。これって赤いか?」
「いや、オレンジ・・・かな?」
真下から見上げる東京タワーは、空に届かないほど小さく見えた。遠くから見たほうが、大きさ的な迫力はあるように感じた。しかし、間近で見ると、ライトアップによる荘厳な色調に圧倒された。赤ではなく、紅蓮だった。
「燃えてるみてぇだ」
「そうっすね、すごいっす」
おれたちは、しばらく圧倒されていた。昼は真紅で夜は紅蓮、東京を代表するこの建造物は、紛れもなく人々を支配している、そんな気がした。
「慎二さん、頂上のトップデッキには予約しないと行けないみたいです」
「あ?何だと?じゃあどこまでなら行けるんだ?」
「あの膨らんでる部分、タワーの真ん中くらいっすね」
「あんな低い所から景色見たって意味ないだろう!おい、しかも金かかるのかよ」
「そりゃそうですよ、東京なんて何でも金かかりますよ。文句言わないでください、もうエレベーターが来ますから」
慎二さんは頂上へ行きたいと子どものようにゴネていた。おれは親の気持ちになって慎二さんをなだめた。
「ああクソ!耳がキンキンしてきた。あれ何だっけ、どうやってやるんだっけ?」
「耳抜き、鼻をつまんで鼻から息を吐いて。慎二さん、恥ずかしいからエレベーターの中では静かにしてくださいよ。てか耳抜きくらいしたことあるでしょう?」
慎二さんは、ぎゅうぎゅう詰めになったエレベーター内で唐突に大きな声を出した。数人がビクッとしたのを感じ、おれは慌てて制した。とても恥ずかしくなり、変な汗をかいた。
「ねぇよ。こんな高いビル、おれの住んでたところにないんだから」
「海で泳いだりしたときは?」
「泳がねぇもん、てか泳げねぇ。海は浸かるもんだろ」
「天然温泉じゃないですよ。まぁ源泉と言えば、源泉なんでしょうけど」
ここでのヒソヒソ話は、通常の会話と遜色なく、全員に聞こえていた。クスクスと笑われているのをすぐに感じ、おれは真っ赤になった。田舎者親子だと思われているんじゃないだろうか。穴があったら入りたいと言うが、穴よりも東京タワーの一部になる方が身を隠すには適していると思えた。メインデッキまでたった30秒だったと思うが、おれには腹筋の30秒ほどに感じた。
メインデッキへ到着したエレベーターの扉は静かに開き、その静かさとは裏腹に、騒がしいほどに眩い街並みを見せた。
「おお、すげぇ。これが東京だぞ」
「ええ、綺麗っすね」
人間が生み出す輝き、まさに努力の結晶と呼ぶべき景色であった。
「東京は鉱山なんだな、こんなにも鉱石に富んでいる」
「そうっすね、宝の山ですね」
酔っていたからかも知れないが、見た目に反してロマンチストな慎二さんが愛おしく思えた。おれは心の中で、働く人間が今この景色を作り出していると偏屈に考えていた。尻を叩かれている結果放たれている光、まさに夜光虫みたいだと。まあ綺麗なのは間違いない。
慎二さんは、子どものようにデッキをウロチョロと移動し、あらゆる角度から東京の夜景を楽しんでいた。おれに彼女がいれば、デートで来たんだろうが、彼女よりも先に慎二さんを連れてくることになるとは思わなかった。おれは一瞬ガッカリしたが、慎二さんの無邪気な目を見て、友だちと来る東京タワーも、それはそれでいいと思えた。
「よし、帰るか彰人。もう満足だ」
「はい、じゃ降りましょう」
ちょうど到着したエレベーターに飛び乗り、おれたちは降りる最後まで景色を堪能した。
「彰人のおかげでいい思い出が出来たぜ。ありがとな!」
「いえ、こちらこそ。おれも初めて東京タワーに登れて良かったです」
おれたちは駅を目指しながら、再びくだらない会話で盛り上がった。帰りの電車の中で、おれは東京タワーからの夜景と、それを見ていた慎二さんの表情を思い出していた。ただ輝いているだけではなく、滲み出る哀愁を。長く生きてきたからこそ感じる何かがあったのだろうか。景色と自分を重ね合わせていたのだろうか。
ただ、あの景色が慎二さんの心の何かを動かしたということだけは確かだった。
6月中旬の日曜日、大粒の雨が降っている。この時期の休日というのは1年を通して最も退屈である。誰かと会うことはおろか、外に出る気も起きない。おれの好きな散歩も出来ない。気象予報士はこの時期、安心して仕事が出来るだろう。雨予報にしておけば当たるだろうし、もしも晴れ間が見えるなら、それは幸せな裏切りとなるのだから。
そんな悪天候の中、意を決しておれは外へ出なければならなかった。今日でなくてはいけない、今日でないと間に合わない。おれは雨が弱まるタイミングを見計らい、勢いに任せて駅まで走った。都心部まで移動しようと、最も人が多いホームで5分後の電車を待っていた。じっとりと濡れた裾の重さが気分を沈めたが、おれは気にしない素ぶりで電光掲示板を眺めていた。
やっとの思いでショッピングモールに着いた。おれは、濡れた格好で買い物をすることを躊躇し、少なくとも上半身が乾くまで、入口付近にあった奇抜な形をした椅子に座って時間を潰した。中心が吹き抜けになった8階建てのショッピングモールだ。上から下を覗くと、イベント用のステージとなんだかよく分からないオブジェが見える。ここに来れば生活の全てが揃うと言っても過言ではない、それほど充実感がある。
「紳士服売り場は5階か」
おれがここへ来た理由は、洋服を買うためだ。おれのではない、7月頭が誕生日の慎二さんのだ。以前飲んだ時に誕生日を祝ってくれと言っていたのだ。おれは適当に往なしていたが、驚かしてやろうという気が急に湧いてきたので、プレゼントを買うことにしたのだ。
「すいません、ちょっとプレゼントを探してまして」
「はい、プレゼントでございますね。ご希望の商品などございますか?」
「えっと、いやそれが何も決まってなくて」
買うと意気込んでいたもののノープランだった。おれ自身がファッションには無頓着な人間なので、見当もつかない状態だった。そんな状態で店員に声を掛けるのはどうかと思った。服屋なんて特にそうだ。シーズンや流行といったキッカケがあり、アイテムを絞って来るのが普通だ。何か分からないけど来ましたなんて人間が、客であるはずがない。だが、そう言う以外の選択肢がおれにはなかった。
「バッグや靴、アクセサリー類などもございますけど」
「そうっすね。あ、でもその人、ボロのTシャツをよく着ています」
「かしこまりました。ではトップスから探しましょうか」
瞬時に慎二さんのトレードマークを思い出し、方向性が定まった。ここで考えることに時間を使うというのは、理科と数学のどちらのテスト勉強をしようか悩んでいるのと同じくらい時間が勿体ない。何より店員さんにとって、その時間は勿体無いどころか無意味だ。
「Tシャツにされますか?」
「んー、いや。ワイシャツにします」
慎二さんのTシャツスタイルしか見たことのなかったおれは、ダンディーな顔立ちを活かした服装がいいと思った。それにワイシャツならオールシーズン着ることが出来る。着替えを面倒くさがりそうな慎二さんにはいいだろう。
「カラーや柄はどうしましょう?幅広くございますが」
慎二さんとは何度も飲んでいるが、会話の中でそれとなく聞けたはずなのに、好きな色という初歩的な情報を持ってはいなかった。おれは少し考えてから答えた。
「無地の白で」
なんとなく、話し方は豪快だが派手な人物というイメージがなかった。だから派手な色や柄のシャツではなく白を選んだ。サイズはおれを基準に、適当に選んだ。
「お会計が1万2000円になります。ラッピングいたしますので少々お待ちください」
「わかりました、お願いします」
店内をぶらぶらと見ながら、プレゼントとして選択が正しかったか考えていた。おれと同じでオシャレには無頓着な人だ、そんな人にワイシャツで良かったのか、好きな色は白なのか。東京タワーの時のように好きなところへ連れて行くとか、酒好きだから酒とかが良かったんじゃないか。祝い事の時、グダグタと心配してしまうのはおれの悪い癖だ。
「お待たせいたしました」
紙袋を受け取り、会釈をして店を出た。外へ出ると、来る時よりも強い雨が降っていた。おれは紙袋を胸に抱え、急ぎ足で駅を目指した。
1週間後、仕事を終えたおれはいつも通り店へと向かった。
「おお、彰人。お疲れ様」
「こんばんわ、お疲れ様です」
おれは少し緊張していた。誕生日プレゼントを渡すなんてたいしたことではないのに、友だちにも彼女にもしてきたことなのに。緊張をほぐすために、いつもよりも速いペースで酒を飲んだ。慎二さんは相変わらず、野球と相撲について語っている。飲み始めて1時間後、慎二さんがスーパーで買った豆苗の話を終えたタイミングで、おれは動いた。
「慎二さん、もうすぐ誕生日っすよね?」
「ん?ああそうだよ。祝ってくれんのか?」
「ええ、良かったらこれどうぞ」
おれは仕事用のカバンの中から、綺麗に折り畳んだ紙袋を出し、慎二さんの膝の上に置いた。
「お、プレゼントか!」
「はい、開けてみてください」
慎二さんは嬉しそうに、ツルツルの包装紙を丁寧に開けた。
「これ、ワイシャツか?」
「ええ、いつも穴の空いたTシャツ着てるから」
「そうか、ありがとう。嬉しいよ」
慎二さんはおれの背中を叩いた。喜んでくれて良かったと思ったのだが、野球や相撲や豆苗の話をしている時より、明らかにテンションが低くなっていた。もしかして気を遣っているのではないかと思った。しかし、渡した手前、お互いの照れ臭さをなんとか出来るのはおれしかいなかった。
「慎二さん田舎もんだから、これ着て都会に染まっていってくださいよ」
「うるせぇな!」
慎二さんは、おれに顔を合わせずそう言った後、店主が慎二さんの顔を覗き込んだ。
「慎二さん、泣いてます?」
「泣いてねぇよ」
おれと店主は2人で微笑んだ。そして店主は、思い出したようにカウンターの奥から何かを取り出し、慎二さんの前に差し出した。
「おめでとうございます。これはサービスです」
ローストビーフだった。ケーキ型に盛られ、ケーキ用花火が立てられていた。
「店長も慎二さんの誕生日知ってたんですか?」
「ええ、だってこの間話してたじゃないですか。たまたま聞いちゃって」
慎二さんは、おしぼりで顔を拭き、鼻を啜り、そして笑った。
「いや、ほんとありがとよ。東京に来て初めてのいい誕生日だわ!」
おれたちはいつも通りの調子に戻り、終電までくだらない話で盛り上がった。慎二さんは席を立つまで、ずっと胸にワイシャツを抱えたままだった。おれは安堵した。慎二さんは、色の中で白が1番好きらしい。やっぱりおれは慎二さんのことをよく分かっているようだ。ただ、慎二さんの涙の意味だけは、分かっていなかった。
時刻は20時15分。まさか、先輩が辞めるとは思わなかった。そのおかげで仕事がおれにまわってきて、残業する羽目になった。こんなイレギュラーは、二度と経験することはないだろう。慎二さんが待っているかもしれない。いつもなら19時の定時で会社を出られるのに。そんな愚痴を心の中で呟きながら、駆け込むように仕事を終わらせ、急足で店へと向かった。しかし、慎二さんはまだ来ていなかった。よかった、先に一杯やってようと、そう思った時だった。
「あ、彰人さん。慎二さんね、一昨日から入院しているみたいですよ」
店主が声をかけてくれた。
「え、そうなんですか」
風邪とか病気なんてものを知らないんじゃないかと感じるほど、元気がある人だと思っていたので、けっこう驚いた。
「急にいなくなったら寂しがるんじゃないかって言って、連絡先を渡すよう頼まれてまして」
そういうと店主は、メールアドレスが書かれた、くしゃくしゃなレシートの裏を見せてきた。連絡先の渡し方が実にイメージ通りだ。そういえば何度も会っていたのに、連絡先を知らなかったことに今気が付いた。
「寂しがるって、1番寂しいと思ってるのは慎二さんの方でしょうにね」と店主は言った。
おれは、ビールを飲みながら慎二さんにメールを打ってみた。返事を待つ間、漫画でも読もうと手をかけた瞬間に返事がきた。今日一緒に飲めないことへの謝罪と、お見舞いの依頼だった。返事の速さから、うれしさと退屈さが伺えた。あの人がベッドで静かにしているところを想像できない。だが看護師さんに迷惑をかけている姿は容易に想像できた。
「週末にでも行ってみるか」
慎二さんへ連絡を入れ、ぬるくなったビールを流し込み、店を後にした。店以外で慎二さんに会うという新鮮さが、会う楽しみを膨らませた。入院って言ったって、どうせ大したことないんだろうと勝手に思っていた。そう、会うまでは。
スマホのナビを頼りに知らない地を彷徨い始めた。駅周辺は大きなスーパーマーケットやコンビニ、歯医者があり、生活に困らない程度の半都会だ。大きな道路沿いに一軒家が立ち並び、徐々に田畑が増え、物静かな住宅地にたどり着いた。
「あった、あれだ」
一軒家の中に、いかにも民間の病院という感じの白い中規模の建物を見つけた。消毒薬と芳香剤の匂いが入り混じった室内をふらふらした後、受付まで行った。
「すいません、東さんの病室はどこでしょうか」
「東慎二さんですね。2階の東病棟です」
おれは来客名簿にサインをしながらお礼をし、階段を上った。休診時間だからだろうが、おれ以外に誰もいない。風景にマッチした静けさだ。おれはなぜか、夏休み中の校内の侘しさのようなものを感じた。忘れ物を取りに来た時に感じたあれだ。懐かしさのあまり、おれの心は少しキュッとした。
「おうおう、彰人!来てくれたか。すまないな、あの日店に行けなくて。数日前に玄関先で倒れちまってよ。なんか、心筋梗塞ってやつらしい」
「え、心筋梗塞?」
「そうなんだよ、手術する必要があるって言われてんだが、そんなのやらねぇって医者に言ってやったんだよ」
心筋梗塞という病気について詳しく知っているわけではないが、慎二さんの年齢と、手術の必要があるという情報から、只事ではないということはすぐに分かった。
「なんでそんなこと言うんですか」
「いや、だってよ・・・怖いじゃねーか」
いつもガハガハと声のでかい慎二さんだが、初めてこんなか細く低い声を聞いた。
「命に関わるってことは分かってるんだけどさ、どうしても怖くて」
おれは、黙ってしまった。なんて声をかけていいのか分からなくて。おれも手術なんて今までしたことないし、気軽に大丈夫だよと言っていいものなのか迷った。
「これからも飲みに行きたいと言う気持ちはあるんだけどな、それ以上に恐怖心が・・・」
この時、頭の中で慎二さんにかける言葉を何パターンも探していた。大丈夫とか、男を見せろよ慎二さん、とか。だけど、そんなありきたりな言葉でいいわけがないと、もう1人の自分が語りかけてくる。ただ、背中を押してほしいんだという慎二さんの意思だけは汲み取っていたので、早急に絞り出したかった。
沈黙で澱んだ空気と、慎二さんの不安そうな顔を見て、おれの口がようやく開いた。
「おれ、いつもの店で慎二さん待ってるから」
その言葉が、この空気を清くすることはなかった。むしろ、小っ恥ずかしさも相まって余計に澱んだ気がした。おれは、いてもたってもいられず、椅子に置いた荷物をそそくさとまとめ、病院を後にした。
軽く息が切れる程度の速さで駅まで歩いた。体からジワッと汗をかいているのを感じる。その汗は、車両が3駅を過ぎるまで治まることはなかった。
家に着いても、慎二さんのことと、かけた言葉のことが頭から離れず、食欲が湧かなかった。おれは、それを洗い流すように、勢いよくシャワーを浴び、そして布団に入った。さっきの情景が、おれを寝かせてくれない。目を閉じても目の前に広がっている。全く休もうとしてくれない頭に、説教をしたいと思った。受験期に力を発揮してくれと。
おれは布団から飛び起き、財布を片手に外へ飛び出した。勇猛な態度で歩き、コンビニに着いた。おれは500mlの缶ビール2本とポテトチップスをカゴに入れ、レジへ向かおうとした。たまたま目に入ったカップラーメンを見て腹が減る予感がし、それもカゴの中に入れた。
おれは、間接照明のみを点けた薄暗い部屋で缶ビールを一口、大きく吸い込んだ。テレビも点けず、缶の中から微炭酸な音だけが聞こえる空間にいた。ポテトチップスを箸でつまみ、口に運んでは目を瞑り、ただ食べることに集中した。その姿は、武士のようだったと思う。最後の1枚のポテトチップスを、最後の缶ビールで流し込み、ため息をついて天井を見上げた。腹を刺激したからだろう、小腹が空き始めた。徐に立ち上がり、ポットでお湯を沸かした。その間にもう1本のビールを開けた。少し酔いが回ってきたのか、お湯を入れてから時間を計り忘れていた。芯を微かに残したカップラーメンを勢いよく啜り、ぼーっと真っ黒なテレビを見つめた。真っ黒のなかにひとつ、白くぼうっと光る星が映っていた。
汁の表面に漂う具を器用に食べ終えた後、ビールで流し込んだ。おれの頭は、ようやく記憶の紙芝居をやめてくれた。完全に寝ることしか頭になくなっている。おれは、潰れた缶と半分汁の残ったカップラーメンの容器を散らかしたまま、布団に潜った。
目が覚めたのは11時過ぎだった。この時間に起きると、時間をドブに捨てたような、変な罪悪感がある。そういう時は、とことん無駄にしてやろうと意気込みたくなる。おれはそうしてスマホの電源を入れ、布団に潜ったままSNSを開いた。10分ほどグダグダしていると。
「ブブ・・・」
慎二さんからメールだ。バナーをタップしようとした瞬間、昨日の記憶が沸々と蘇り、躊躇した。何について書いているのだろう。気まずいままにしてしまったから改めてお見舞いに来てくれという旨だろうか。慎二さんのことだ、空気を読まず、このタイミングで入院生活の面白話だろうか。SNSの陳腐な情報が、より一層頭に入らなくなった。おれはとうとう、誘惑に負けて慎二さんのメールを開いた。
「決心がついたんだ」
布団の中からボソッとつぶやいた。慎二さんから手術をする腹を決めた、ほんの一言の熱いメッセージだった。おれはほっとした。あの時、大丈夫とか月並みなことを言わなくて。そして嬉しかった。何気なく出てきた言葉が、慎二さんの心の靄を晴らすことが出来たこと、また慎二さんと飲めること。なんだか嫌な未来をひっくり返せた気がしていた。時間を無駄にした休日だと思っていたが、逆転させたような気がする。
何より嬉しかったのは、いつも通りの慎二さんだと感じさせてくれたことだ。慎二さんからのメールの文章が「俺、手術すふよ」だった。
おれは、缶と容器をせっせと片付け、ベランダに出て深呼吸をした。
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