リバーシ
耀 田半
第1話 春の風
「お前は本当に真面目で、明るくて、いいやつだよ」
「気さくで優しくて、いい先輩です」
「取引先が、気が利くお前に負けたって連絡くれたよ。よかったな、彰人」
おれは、今年で27になる。他人に自慢できるほどの人生ではないが、今のところ順調だ。
今日は、高校時代の仲間と集まっての飲み会だ。しかも大人数、当時あまり話したことがない奴もいる。今まで話したことがない人でも、長い年月が経った時に会ってみると、話が弾んだりするから、こういう2度目ましての合コン的なものは楽しいし好きだ。
こういう時、話すことは決まっている。仕事の話から始まり、趣味の話。そして酒の量に比例して恋バナや下世話に移っていく。そして次の日目覚めて「またくだらない話で盛り上がったな」と胃を労わりながら嬉しくなる。
おそらく誰もが経験している「幸せ」のひとつだろう。世の中にはそういった幸せが山ほどある。
「来月、キャンプ行かない?」
「新しくできた青山の店でランチしようよ」
「年末には出張から帰れるよ。子どもたちは元気?」
人生はゲームだ。と言われるが確かにそう思う。こういった幸せで、普段の嫌なことをひっくり返す、まさにリバーシみたいだ。友だちと会えた、良い買い物ができた、それで今までの嫌なことが、みるみるひっくり返っていく。
「やっほー、久しぶり。来週あたり飲みに行かない?」
次の幸せと思われるものがやってきた。今度は大学時代のバンドサークルの仲間からだ。当時おれはボーカルをしていた。昔から歌が好きで、よく歌っていた。上手いわけではなかったが、人気があった。なぜなら曲間のトークがウケていたから。別におしゃべりなタイプでもなかったし、ウケる鉄板ネタを持っていたわけでもない。しかし、チヤホヤされた。それがきっかけで彼女も出来たっけ。たぶんみんな、マスコットキャラクターか何かだと思って見ていたのだろう。身振り手振りが多かったし、ちょっと天然なところもあった。怪我人が出なくてよかったが、タオルと間違えて水の入ったペットボトルを客席に投げてしまった思い出は、黒歴史と言えるだろう。
「明日は19時、駅前のオブジェに集合でお願いします。楽しみにしてまーす」
前日に後輩から全員へ連絡が入った。
「あ、そうか。明日飲み会か。着ていく服、洗濯してアイロンかけないとな」
徐にワードローブにかかっていたジャケットと畳んだシャツを選び始めた。シャツはどれも皺だらけだ。おれは、人に会う時と、1人で買い物などの外出をする時とで服を分けている。普段着はスウェット2着を着まわして生活している。なので1ヶ月、人に会わなかったりすると、シャツは退屈すぎて凝り固まってしまうのだ。これを見越してアイロンを買ったことを褒めてやりたい。
5分前に集合場所に着いたが、みんなはもう着いていた。なんて優秀なんだろう。
「彰人さん遅いですよ」
「オレ、今日定時で帰るために、先週残業して片付けてきた。はやく飲もうぜ」
みんな、この楽しみな日のために、毎日頑張ってきたようだ。目が子どものようにキラキラしていた。久しぶりなので、お互いが今何をしているのか全く知らない。会話の口火を切るのにもってこいだ。おれたちは、とりあえずのビールと枝豆ときゅうりの一本漬けを目の前に、話し始めた。
「わたしは、バイトしながら音楽活動を続けてます。生活厳しいですけど、楽しくやってますよ」
「オレは大手IT企業で働いてるんだけど、プロジェクトリーダー任されてさ、大変だけどやりがいもあるよ。結婚もして来年の春頃には子どもも生まれるしさ」
「うちは実家に帰って、農家を継ぐことになったよ。ひとり娘だから継いでくれって両親に言われちゃってさ」
「僕は、ワーホリでオーストラリアに行きます。将来、あっちで暮らしていきたいと思っているので」
「彰人は何やってんの?」
「おれは普通に営業だよ」
みんなしっかりと目標を持って、地道に進んでいるんだなぁと感心した。もしかすると、多くの人は飲み会でのこういう話を聞いた時に「自分は同じように頑張れているのか」と落胆するのかもしれない。しかしおれは、いいのか悪いのか、全くといっていいほど影響を受けない。他人から見たら楽しそうにないと思えたとしても、自分なりに幸せを感じられればそれでいいと思って生きてきたタイプである。「平凡」と書いて「順調」と読みたいくらいだと思って生きている。だからなのか、こういう話を聞くと、楽しそうでなによりと思えて、この機会があって良かったと感じる。おれはみんなの背中を大きく押した。
「彰人と話してると、何でもトライしたくなるんだよな。相変わらずみんなに優しい、いい奴だよな」
「酔ってんのか?やめろよ」
飲み始めてから2時間ほど経った。遅れてきた人たちが合流し、そこそこ人数がいたので、気がつくと4つくらいのグループに分かれていた。すると、座敷の端の方から大きな声が聞こえてきた。どうやら2人が揉めているらしい。取っ組み合いが出来るほどの筋肉量と度胸がある奴らではなかったので、心配はしていなかったが、数人が側へ駆け寄っていった。
「その程度しか知らなくて、どこがファンだっていうんだよ!」
「別にいいじゃねーかよ、ミーハーだってよ!」
どうやら好きなアーティストの話から縺れたらしい。古参ファンと有名になってから知った新参者の、よく聞くパターンのやつだ。
「悪いけど、もう帰る」
一方が荷物を持って立ち上がり、店の外へと向かっていった。それを見た3人ほどが、止めに行こうと走っていった。学生の頃は声を荒げるようなタイプではなかったのに、変わってしまったなと冷ややかな目で見る奴と、怖がっている奴、笑っている奴と、トイレから戻ってきて状況が掴めていない奴に分かれた。
「アイツ、アニメの曲を数曲聞いたことあるだけで語りやがってよ。そんなの何も知らないのと同じじゃねーかよ。こっちはインディーズの時から応援してて、ライブも何回も行ってるのに」
「まぁまぁ、落ち着けって。誰か水持ってきて」
喧嘩が始まってから、ざっと15分ほど経った今でも、まだ収まらない。1人になっても止まらなかった。さすがアルコールだ。人間でさえ、火が着くと燃え広がり、鎮火までに時間がかかるほどになってしまう。まだ、自ら火にビールを注いでいる。
「彰人先輩、会社員になると、ああなっちゃうんですか?わたしバイトしかしたことないから」
「ん?ああ、いや、そんなことはないと思うけど。でも疲れてたんじゃない?」
と、おれはすごい適当な言葉を発した。結局、水は到着することなく、流し込んでいたビールで酔い潰れて寝てしまい、鎮火したのだった。
共通の好きなものが原因で、関係が壊れるというのは、実に皮肉である。ただ共通しているだけでは駄目で、深度が重要なのだ。だいたい好きなものの深度とは、年数と知識量だ。好きなものの年数と知識量が相手と釣り合わなければ、手を取り合うことが出来ないのだろう。
側から見れば、あの2人はおかしなことを言ってはいない。長年好きならそれはファンだし、最近好きになった人もファンである。だから2人とも普通のファンにしか見えない。なのに当事者には大きく違う、それが深度なのである。依存度と言い換えられるのかもしれない。依存度が高い奴は、低い奴にイライラしてしまう。好きなものでイライラしてしまうなんて、大好物で腹を壊すのと同じくらい不快だと思う。
おれはこう考えるようになってから、何事にも依存度が低い人と付き合いたいと思っている。
2軒ほどチェーン居酒屋をハシゴをした後、バーに入った。粗相をしていないことは確かだが、このあたりからおれもあまり記憶がない。たぶん1時間くらい飲んだ。真っ赤な顔の奴と真っ白な顔の奴を従えるようにして、緑のネオンサインに照らされながら外へ出た。色味は完全にクリスマスだが、当然、子どもにプレゼントを運べるような奴は1人もいない。おれたちは、会話にならない会話をしながら、夜の煌びやかな街の中を駅まで歩いた。
家に帰ってきた。飲んだ後はカップラーメンが食べたくなる。静かに麺を啜る、この時のテレビは川のように流れていく。その流れの1000分の1のスピードで酔いが覚めてくる、気がする。時折キッチンで水の張ったフライパンが、ぽちょんとテレビの音に合いの手を入れる。そんなオーケストラを聴きながら、目が覚めた。
昨日の疲労と酒がまだ残ってはいるが、ぼーっとはしていられない。今日は今日で、大学時代の別の友だちが遊びに来る。外見は、学生時代と変わっていないのだが、体力と回復力が衰えていることに驚きを隠せなかった。歳をとるとはこういうことかと実感した。おれは、学生のような予定の詰め方をしたことを後悔した。
急いでテーブルの上のゴミと洗い物を片付け、掃除機をかけた。窓から心地よい風が吹き込んでくる中、部屋を急いで片付ける姿は、一人暮らしの象徴という感じがする。俳句に造詣があるわけではないが「ワンルーム青年」という言葉を春の季語に入れてもいいのではないかと思ってしまった。
「お邪魔しまーす」
大学時代、特に仲の良かった真太郎が家へ遊びにきた。彼は同じ学科で、よくおれに講義の出席を頼んでバイトに行ったり、一人暮らしのおれの家に転がり込んで3日間居座ったりした。講義や昼飯、何をするにも常に一緒にいた。卒業してからも付き合いがあるのは彼くらいで、いつも何か突拍子もないことをやる変わり者なので、話が尽きない。
「お前、なんか疲れてんの?」
「昨日、サークルの飲み会だったんだよ。真太郎は昨日休み?」
「うん、1日中寝てた」
真太郎は、家に入るとすぐに洗面所で手洗いうがいをした。金髪の坊主で、運動をしていないのになぜかかガタイがいい。気性が荒いタイプと思われがちなのだが、温厚で尚且つこういうところはしっかりしている。
「お前んち、相変わらず何もないな」
「ああ、物欲もないしな。だからゲーム持ってこいって言ったんだよ」
「炊飯器、壁際に置いてるの懐かしいな。よく蓋を開けるたびに壁に当たっちゃって、隣の部屋から苦情きたよな」
「あのおじさんね、懐かしいな。あれ以来、会うたびに睨まれたな。あの部屋、ほんと壁が薄かったからな」
おれはポテトチップスとペットボトルのお茶をキッチンからリビングへ持って行きながら、真太郎と話した。座ってしばらくは、ポテトチップスをつまみながら、大学時代の話で盛り上がっていた。
「真太郎、建築関係だっけ?どうよ仕事は?」
「ああ、キツイな。徹夜で仕事したり、不規則だし、多分そのうち辞めると思う」
「また?お前、食品会社入って、その後カメラマンになって、バイトして、最近就いた仕事もう辞めるの?」
「なんか長続きしないんだよな。俺いま手品にハマっててさ、動画投稿サイトにアップしたりしてんのよ。あと、絵描くのにもハマってるし、それからライブ配信とかも最近やってて」
真太郎は昔からこんな感じだ。大体のことが長続きせず、むやみやたらに手を出す。大学時代は、映画にハマって自作の映画を撮ったり、突然マラソンに出たり、料理教室に通ったりしていた。だからおれは、彼のことを面白い奴だと思えるのだが、多少の心配はある。
「将来の不安とかないの?」
「特には。その時その時で、楽しいこと、やりたいことが出来ればそれでいいや」
心配しているとは言っても、真太郎の意外性には驚かされてきたので、応援したい気持ちもある。当時の自作の映画では、コンテスト初挑戦で入賞したし、運動経験のないマラソン初心者にも関わらず4時間でゴールした。だからきっと、何かしら良い意味でやらかすだろうと期待している。
「あーあ、金持ちになりたい、サラリーマン辞めたい」
「まあ確かに、真太郎はサラリーマン向いてなさそうだよね」
「だろ?」
対戦アクションゲームをしながら、おれは真太郎の夢の話を聞いていた。誰もが一度は憧れる脱サラリーマン。労働からの解放というやつだ。口にする人はたくさん見てきたが、当然なれるのは一握りだ。ただ、昔からおれの中で真太郎はその一握りのような気がしていた。
「彰人はさ、なんか無いの?最近の面白い話」
「別に無いよ、真太郎と違って何も変わらないもん」
おれはいつも通りの生活を繰り返しているだけだ。それに今までも人並みの経験をしてきただけなので、真太郎のようなワクワクする面白い話など持ってはいなかった。しかし、真太郎に対して嫉妬する気持ちはなかった。
「サラリーマン楽しいか?」
「楽しいとかは無いけど、特に不満もないかな」
「何かデッカい夢掴みたいとか思わない?金持ちになるとか、有名人になるとか、女優と付き合うとか」
「夢か、何だろう、何も思いつかない。身近な人が活躍してくれた方が嬉しいな。だから真太郎が成功してくれれば別にいいや」
「おう、そうか。はい!また勝った。お前弱いな」
「くっそ!」
時間感覚がおかしくなるほど話とゲームに夢中になり、日が暮れていることに気が付かなかった。身を固めていないというのは、世間的に見れば変わり者なのだろうが、おれから見れば、変わり者ではない真太郎の方がよっぽど変だ。おれは真太郎が言うことに対して思ったことを話した。それは結果的に彼を鼓舞したのだが、それによって20連敗してしまった。
今月も営業成績をぬるっとクリアした。トップでもなければケツでもないが。いつも通りのことをしていればクリアはする、その程度のホワイトさがある会社だ。勤めている会社は、チョコレート菓子を製造販売している中小企業で、社員もそこそこいる。社内の雰囲気は、至って普通。真面目な話や砕けた話がかすかに聞こえてくる。もちろん怒号なんて聞いたことがない。各々が割り当てられた仕事をする。それ以上も以下もない。いい意味で働き蟻や働き蜂のようだと言えるかもしれない。ちなみに社員は8割が男性だ。
社員は家族といった価値観や、体育会系という、一部の物好きが物好きのために作り出した無機質なものも存在しない。人生の大部分を占める仕事というものが、低刺激であるのは、多くの人間の幸せには実に刺激的だと思う。少なくともおれにはそうだ。
後輩を連れて外回り。おれに付く後輩はみんなスポンジのような吸収力で、特に何も言うことはない。仕事に関する話はせず、ほとんど雑談ばかりしている。まあ、成績トップの人が近くにいるのに、おれに仕事に関する真面目な相談をしようという人はいないと思うが。
「先輩、俺、転職しようと思ってんすよね」
「そうなの?なんで?」
「ゆるすぎないっすか?この会社。給料はそこそこいいけど、なんかこれでいいのかなって」
「ま、確かにな。祐希君はもっとガツガツできる会社の方が合ってるかも」
「そうなんすよね。ここ飽きましたね」
「そうだ。おれの知り合いが人材会社にいるから、話してあげるよ」
「マジっすか!彰人先輩、あざす!」
これで4人目か、旅立つ後輩は。なぜかこの会社の仕事以外の真面目な相談はよく受ける。こうしておれは、新入社員組と転職組の後輩たちを解き放っている、ゲージから森へ還すように。時々その後輩たちと会うが、今がよっぽど楽しいのか、今だに感謝される。なんだか、逃がしちゃうペットショップ店員みたいだ。会社のためには、優秀な後輩を育てるのが得策だというのに。それを彼らのことを考えて逃してしまうなんて。ペットショップはバレたらクビになるだろうが、おれはどうなんだろう。
おれの仕事は、新規開拓の営業ではなく、代々取引を継続しているお客さんへの営業、いわゆるルート営業というやつだ。商品は少ないものの、全国で販売しているので、取引先は多い。新商品が出れば、取引先へ提案することもあるが、あまり多くはない。おれの仕事のメインは発注を継続させること、お客さんとの信頼構築だ。そのために、頻繁に取引先を訪問している。
「あら、沖野さん、おはようございます。店長に用事でしょう?急に新しいパートさんの面接が入っちゃって、少し待っててもらえる?」
「金山さん、おはようございます。ああ、そうなんですか、ちょっと挨拶できたらなと」
「あなた少し大きくなった?」
「いや、まさか。成長期じゃないんですから」
「あらそう?運動かなんか始めた?」
「いえ、そんなハードなのは。ただ散歩はずっとしてますよ。気持ちがいいですからね」
おれはパートの金山さんと店頭の陳列を手伝いながら話をした。長年このドラッグストアで働いているベテランだ。おれのことは他のパートさんにも紹介してくれて、みんな話しやすい。と思っているのだが、前任の人たちはあまりそうは思っていないらしい。社内で金山さんは怖いという話をよく聞いていた。おれはなぜか担当になった日から金山さんと和気藹々と話せた。おれは淑女キラーなのかもしれない。
「沖野さん、すいません。お待たせしました」
「中島さん、お世話になってます。いえ、とんでもないです。金山さんとお話しする時間が出来ましたので」
中島店長は40代で、とても物腰が柔らかく心地のいい人だ。金山さんから怒られることもあるらしい。
「ギャっ!」
店長と話していると、外から小動物の断末魔のような声が聞こえた。散乱した12ロール入りのトイレットペーパーの中、金山さんが腰を抑えながら座り込んでいた。
「金山さん、大丈夫ですか?」
「やっちゃった、ぎっくり腰かも」
店長は慌てながら救急車を呼んだ。おれは金山さんの体を支えながらゆっくり立たせ、バックヤードの楽屋まで肩を貸した。
「沖野さん、ごめんなさいね」
「金山さん、すぐに救急車が来ますからね!」
店長がそう言うと、金山さんは小さく頷いた。驚きと痛みで顔が強張っていた金山さんだったが、数分すると落ち着いていた。
「店長、どうする?この時間って品出し担当が私しかいないじゃない?急に来られなくなったパートさんがいて」
「今、代わりのパートさんに連絡しているので大丈夫ですよ。わたしもやりますし」
救急隊が到着し、金山さんは担架で運ばれていった。店長は救急車を見送った後、パソコンでパートさんからの連絡を確認した。午後までに出さなければいけない商品がバックヤードに転がっていた。未開封の段ボールもいくつかあり、1人で捌くのはどう考えても無理難題だ。
「沖野さん、金山さんの件はありがとうございました。では失礼します」
「中島さん、良かったら手伝いましょうか?パートさんいないんですよね」
「いえいえ、申し訳ないですよ」
「次の取引先とのアポまで時間があるので、大丈夫だと思います。上司には連絡しておきますので」
「本当ですか、すいません、助かります」
おれは上司に状況の説明をした。上司は笑いながら、自分の顧客の大事だから最後まで助力するようにと許可を出した。午後の訪問に間に合いそうにないのなら、他の社員に行かせるとまで言っていた。
おれは店長の指示を聞きながら、品出し業務に取り組んだ。学生時代に品出しのアルバイトをしていたこともあり、勝手が分かっていた。アルバイトの淡さを思い出しつつ、金欲しさではない別の感情で動いていた。
単純作業をしていると、脳のリソースを他のことに割くことが出来るため、まわりを見やすくなる。買い物かごを置きっぱなしにする人、手に取った商品を別の場所へ戻す人、レジで貧乏ゆすりをしながら待つ人、ポイントカードの有無を聞いてもイヤホンで全く聞こえていない人。これを人種とするなら、このドラッグストアは実に多国籍というか多様性のある場所だ。もちろん歓迎できない多様性ではあるが。おれも仕事柄、1日に何人もの顧客を相手にするわけだが、金山さんといい中島店長といい、いい人たちばかりだ、なんと言い表せばいいのか分からないが、お客さんを相手にしている感がある。しかし同じお客さんという言葉でも、このドラッグストアにいる人たちはどうだろう。おれが学生時代に接客のアルバイトをしていて良かったと思うことは、コミュニケーションスキルや接客マナーを学べたことではなく、顧客は選べないという理不尽さを学べたことだ。社会人になってからそのギャップに気が付くより、学生時代に学んでおく方がいいとおれは思う。嫌なものは若いうちから見ておいた方がいい、自分がそうならないように反面教師にも出来る。
12時になる頃には、残りダンボール2箱という状態になった。
「沖野さん、もう大丈夫です。ありがとうございました」
店長はおれに深々と頭を下げた。おれはお辞儀を返し、楽屋に置いたスーツのジャケットを羽織った。おれは自分がサラリーマンであると改めて思いながら、次の取引先へと向かった。
帰社すると、部長がニヤニヤしていた。
「金山さん、ぎっくり腰になったんだって?あんなに丈夫な人がねぇ」
「それでニヤニヤしてるんですか?」
「いやぁ、そうじゃなくて、さっき店長さんから電話があって、沖野さんには大変お世話になりましたって、これからもよろしくお願いしますってさ」
「そうですか、良かったです」
「あのドラッグストアさ、以前の担当者が金山さんと揉めて、うちの商品を発注しないって言ったことがあったから、関係を修復していきたいんだよ。あのエリアでは結構売れてる方だし、だから頼むね、沖野くん」
「分かりました」
おれは、ただ金山さんと中島店長と話すのが楽しくて顔を出しているところがあるので、こういうビジネスライクな話になると、ぼーっとしてしまう。まあ仕事なので、営業マンとしてそれはダメなことだということは分かってはいるが、あまり戦略的に考えようという気にならないのだ。しかも新規開拓の営業ではないから尚更である。
「ぜひ弊社の新商品を使っていただきたいと思いまして、はい。5kgで1万円なのですが、はい、高いですよね。実は弊社は産地にこだわっておりまして、大変高品質なんです。他社さんの相場でいくと、5kgで1万2000円ぐらいします。ですが今回お試しということもありまして、8000円でご提供が可能です。ええ、はい」
業務用チョコレートを製造販売している部署の営業担当の電話が聞こえてきた。おれの1年先輩の新田さんだ。営業成績はいつも上位で、後輩から慕われている。結果を出しているので何も言えないのだが、わりと強引なタイプであり、おれはあまり好きではない。心理学やデキる営業の裏技集的な本を読み、学んだことを得意げに語っているところを見かけることが多々ある。
「よし、チョロいな。とりあえず取引先に連絡したり、回ったりしてれば売れるわ」
「さすがっすね、先輩」
「まぁ、売るのに必要なのは色々あるが、単純で分かりやすいのはお得感だな。あなただけに感を出せば大体売れる。あとはアンカリングとか」
「へー、やってみます」
彼のことが苦手な理由のひとつは、インプットしたことを忠実に再現するAIのようだからだ。仕事はAI的に、普段は悪い意味で人間的なところが彼にはある。AIが人間の代わりに仕事をする時代であるからこそ、自慢話をしない無感情なAIの方がまだマシだと思ってしまう。彼に付いていける人間も稀だ。実際彼の下に付いて成果を出した人間はいなかった。結局他の社員の下に付いたか、退屈で辞めていったかのどちらかだった。成功例は彼だけだ。
何より金山さんと揉めた張本人がこの人なのだ。話を聞かず自分の利益を優先する態度が気に入らないとブチギレたらしい。以前にその話を聞いて、まあ気が合わないだろうなとは思った。
この会社で若手のトップは小川さんというおれの5年先輩の女性社員だ。彼女は寡黙で、一見すると営業担当という感じはしないのだが、それでもずっとトップなのだ。ただ、仕事が丁寧で速いというのは、ミーティング資料を見れば一目瞭然だった。入社してから彼女と直接仕事をしたことがないし、教えてもらったこともないので分からないが、恐らく武器をたくさん持っているのだろう、新田さん以上のものを。ただ彼とは違い、見えないところで努力をしている。おれは思った、発信やアピールが当たり前なスキル全盛な時代にも関わらず、能ある鷹は爪を隠すという言葉は死んではいなかったと。
後日、金山さんの顔を見にドラッグストアへ寄ってみた。
「ああ、沖野さん。先日はごめんなさいね、そして本当にありがとう」
「いえ、もう腰は大丈夫なんですか?」
「まだ少し違和感があるのだけど、先生は無理しない程度に動いていいって言ってたわ」
「そうですか、じゃ、無理しないでくださいね」
「はいはい。店長が感謝してたわ。今日は本社で仕事があるらしくていないけど、また挨拶にでも来てちょうだいね」
「分かりました。では失礼します」
おれは金山さんに手を振りながら、店を後にした。時折吹く風に背中を押されながら、駅まで続く交差点を歩いた。みんなが恐れる金山さんと仕事が出来ている、それはスキルでもない、速さでもない、おれが持つ何か別のものの影響なのか。まあそれは何でもいいが、とりあえず風が気持ちいいということは確かだ。
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