対角線

壱原 一

 

先月から仕事の都合でマンスリーマンションに住んでいます。


年季の入ったマンションゆえ、建物の沈みや歪みで平衡感覚を失調するのか、落下する夢を良く見ます。


このため寝る時は背中と足の裏を壁に付けておきたく、部屋のドアから見て右奥の角にマットレスを敷いて寝ています。


気付くと床がなくて空の中、傾いて断崖絶壁の端、地上へ、海面へ、谷底へ、洞穴へ、とにかく頻繁に落ちています。


すがる物なく体が死を覚り取り敢えず臓器を守ろうと後先考えず縮こまる無力感に満ちたあの不快な緊張と狼狽。


がくっと全身が強張って、ひきつった背中と足の裏がぴったり付けていた壁につんのめって始めて、自分が今朝も無事に夢から覚め、床があり地平がある現実世界に居ると実感し心身から脱力します。


このように目が覚めるのは決まって午前2時56分で、我が身の体内時計の正確さに感心するばかりです。


一方で起き出すには早すぎる時刻のため、ささやかに楽しんでいるソーシャルゲームのデイリーミッションに取り掛かります。


終えてSNSを見ていると、長くとも1時間ほどで睡魔に見舞われ、30分から1時間ほど二度寝したら本格的に起床します。


ところが昨日はシステムメンテナンスによりゲームをプレイできず時間が大幅に余ってしまいました。


SNSを見て回るのも飽き、けれどすっかりデイリーミッションへ挑むつもりでいたせいか目が冴えてしまって寝付けず、あっという間に時刻は午前4時過ぎ。


どうせなら今朝はこのまま起き出して、まったり散歩後カフェでモーニングをきめようかと思い切り伸びをしました。


その拍子に、仰け反った顔面の欠伸の涙に滲んだ視線の先、夜明け前の暗い部屋の右奥の角に敷いたマットレスの対角線上に、黒いラブラドールレトリバーの子犬らしきものが居ると感知しました。


直前まで黒いラブラドールレトリバーの子犬の動画を見ていた影響と思います。


子犬はこちらの動きに応じる風に、何ともいじらしい印象の「ぴい」や「すひぃ」といった鼻息めいた音を発し、やおらもそっと身じろぎするとこちらへ向かって転げ始めました。


ごたん、ごたん、ごたん、ごたん。


それはどうも概ねなめらかな円周の一部に大きな凹みがある音で、しかも床板とこすれる音を、ごり、ごり、ごり、ごりと結構硬めかつ重めに伴奏させています。


凹みに差し掛かっても減速も反転も停止もせず、自ら凹みを乗り越えて回転し続ける意志と能力がある事を、当の運動を以て高らかに主張していました。


この時にはいかに寝惚けて目出度い我が頭とて、私室に子犬が居る筈はないと誤りを正していました。


またこのサイズとスピードでこちらを目掛けて自走する何かがある訳もないと記憶を確かめていました。


速やかに退避するよう脳が号令を発しましたが、あいにくそこは角の壁際で、背中も足の裏もびっちり壁に付いています。


広大なお部屋ならまだしも、慎ましやかな部屋ですから、「ごたん」を4度経てしまった今となっては起き上がる動作が間に合うべくもありません。


もはや精々が目を見張り、息を詰めて、毎日そうしているように、落ちる夢から覚める直前のように、無力感に苛まれながら一心に身を縮めるよりほかありませんでした。


まず脳裏に焼き付いたのは、黒いラブラドールレトリバーの艶やかな被毛とは似ても似つかない、ごわごわうねうねのたうった針金のような頭髪です。


追って、ふっさり豊かに揃った片方の眉毛と、見るからに痛そうな鮮やかな赤に充血した片方の目、縦長の広い鼻腔と、雄大に隆起する頬骨が見えました。


「ごたん」は、そうしたパーツを損なった、もう片方の部分の凹みによるものとすぐに分かりました。


外れてしまった顎の奥に詰まった舌の根の隙間から、「ぴい」や「すひぃ」の音を発し、寝起きの自分よりぼんやりと、何を考えているのかまるで分からない虚無きわまった表情で、ごたん、ごたん、もす、もすと主人に駆け寄る子犬のごとくマットレスの枕元まで転げてきます。


あまりの近さに焦点が合わなくなり、また目蓋も閉じてしまい、これは絶対に重なった、感触がないのだけは救いだと恐る恐る目を開けると、幸いなにも見当たりませんでした。


ほうっと息を吐くと同時、足の裏を付けている壁を隔てた戸外の下方から、中身の詰まった重い物が着地する「どしゃあ」という衝突音がして、以降はしんと静かになり、普段通りの朝を迎えました。


*


その日の夜、寝る場所を変えようと思いましたが、部屋のドアから見た左奥にしろ、あるいは右手前にしろ、出発点の左手前と距離が近付く訳なので、何とも言えず気が引けて、結局廊下で寝ています。


あと少しで今の仕事が明けて、元の居住地へ戻れるので、どうかそれまで夢だけで終われば良いと願っています。



終.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

対角線 壱原 一 @Hajime1HARA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ