【SFショートストーリー】永遠の航路 ―宇宙の果ての幻夢―

藍埜佑(あいのたすく)

【SFショートストーリー】永遠の航路 ―宇宙の果ての幻夢―

 宇宙船ラスト・クロノス号の薄暗い通路を、レンは重い足取りで歩いていた。

 船内の空気は淀み、かすかに金属の腐食臭が漂っている。


 星間移住計画が始まって50年。

 人類は新たな星系を目指したが、その夢は徐々に色あせていった。


 レンは観測デッキに到着した。

 かつては美しい星空が広がっていたはずの窓は、今や宇宙塵で曇り、ほとんど何も見えない。


「また来たのか」


 暗がりから声が聞こえた。振り向くと、酒瓶を抱えたサムがいた。

 かつての船長……今はただの呑んだくれだ。


「ああ」


 レンは短く答え、サムの隣にゆっくりと腰を下ろした。


「人間の本質って何だと思う?」


 レンは突然尋ねた。サムは苦笑いを浮かべる。


「さあな。でもきっと、こうして酒に溺れることじゃないのは間違いないだろうな」


 サムは言いながら、また一口琥珀色の液体を口に含んだ。


 レンは天井を見上げた。そこには、かつての乗組員が書いた落書きが残っている。


【希望は星の彼方に】


 今となっては、皮肉にしか聞こえない言葉だった。


「知ってるか」


 サムが言った。


「この船、もう


 レンは驚いて振り向いた。


「何だって?」

「燃料が足りない。。我々は、


 サムの諦念に満ちた声には、もはや悲しみすら感じられなかった。

 レンは立ち上がり、曇った窓に近づいた。

 かすかに見える星々が、彼を嘲笑っているように感じた。


「じゃあ、我々は何のために生きているんだ?」


 サムは肩をすくめた。


「さあな」


 レンは黙ったまま、ポケットから一枚の写真を取り出した。地球で最後に撮った家族写真だ。もう二度と会えない家族。


「人間の本質か……」


 レンは呟いた。


「たぶん、それは諦めないことなのかもしれない。この絶望的な状況でも、まだ何かを求め続けること」


 サムは酒瓶を差し出した。


「それなら、乾杯しようじゃないか。その絶望の中の希望に」


 レンは躊躇いながらも、酒瓶を受け取った。


 その時、船内放送が鳴り響いた。


「全乗員に告ぐ。重大な発表がある」


 レンとサムは顔を見合わせた。


「永遠の宇宙の彷徨い人になった俺たちにいったいどんな重大なことがあるって言うんだい」

「まあ、暇つぶしに行ってみるか」


 サムがつぶやいた。レンはうなずき、二人は重い足取りで通路を歩き始めた。


 ラスト・クロノス号は、漆黒の宇宙を黙々と進んでいく。その行き先が、希望なのか絶望なのか、もはや誰にもわからなかった。


 しかし、人間の本質とは、そんな不確かな未来に向かって歩み続けることなのかもしれない。たとえそれが、錆びついた夢の中であっても。



 レンとサムは重い足取りで中央ホールへと向かった。かつては華やかだったホールも、今では薄暗く、至る所に錆びが目立つ。乗組員たちが集まり始め、その顔には不安と諦めが混在していた。


 船長代理のマリアが前に立ち、声を振り絞った。


「皆さん、私たちは思わぬ発見をしました。近くの小惑星帯に、未知の金属が大量に存在することが判明したのです」


 ホール内がざわめいた。


 マリアは続けた。


「この金属は、私たちの。しかし、採掘には危険が伴います」


 レンは眉をひそめた。希望の光が差し込んだかに見えたが、その光はあまりにも儚く危うく感じられた。


 数日後、ラスト・ホープ号は小惑星帯に到着した。レンたち採掘チームは宇宙服を着て、小惑星の表面に降り立った。


 金属の採掘は予想以上に順調に進んだ。しかし、それと同時に奇妙な現象が起き始めた。採掘者たちの中に、幻覚を見る者が出てきたのだ。


 レンも例外ではなかった。彼は小惑星の表面で、突如として地球の草原を見た。そこには彼の家族が笑顔で手を振っている。


「これは……何なんだ?」


 レンは混乱しながらも作業を続けた。しかし、幻覚を見る者の数は増えていった。中には、幻覚に囚われたまま正気を失う者も出始めた。


 船内でも異変が起きていた。採掘した金属を精製する過程で、奇妙な光を放ち始めたのだ。その光を浴びた者は、美しい幻影を見るようになった。


 人々は次第にその光に魅了されていった。現実の厳しさから逃れ、幻の中に安らぎを求めるようになったのだ。


 レンは必死に人々を説得しようとした。


「みんな、目を覚ませ! これは夢だ! 幻だ!」


 しかし、彼の声は届かなかった。人々は幻影の中で、失われた希望と幸せを取り戻し、満足していたのだ。


 最後まで正気を保っていたレンとサムは、絶望的な選択を迫られた。この幻影の世界に身を委ねるか、それとも現実と向き合い続けるか。


 二人は長い沈黙の後、ゆっくりと顔を見合わせた。

 そして、意外な決断を下したのだった。


「行こう、サム。俺たちだって、幸せになる権利がある」


 レンはそう言って、輝く金属に手を伸ばした。

 サムも黙ってうなずき、同じように手を伸ばす。


 レンとサムの意識は、輝く金属に触れた瞬間から、美しい幻想の世界へと飛び込んでいった。


 幻想の中では、レンは若々しい姿を取り戻していた。彼は広大な草原に立ち、柔らかな風が頬を撫でる。遠くには、澄んだ湖が陽光を反射して輝いている。そこには、彼が地球に置いてきた家族が待っていた。


「お帰りなさい、レン」


 妻が優しく微笑みかける。

 レンは涙を流しながら家族を抱きしめた。

 失われたはずの幸せが、今ここにあった。


 一方、サムの幻想は異なっていた。

 彼は再び若き日の船長として、誇り高く宇宙船の艦橋に立っていた。

 クルーたちが敬意を込めて彼を見上げ、新たな星系の発見が次々と報告される。


「素晴らしい成果です、船長!」


 副長が興奮気味に報告する。

 サムは満足げに頷き、宇宙の神秘に満ちた景色を眺めた。


 しかし、現実のラスト・クロノス号の中では、全く異なる光景が広がっていた。


 廃墟と化した観測デッキに、レンとサムの肉体が横たわっている。レンの体は痩せ細り、皺だらけの顔には幸せな微笑みが浮かんでいる。その傍らには、サムの衰えた身体が横たわり、かつての威厳ある姿からはかけ離れていた。


 ふたりともその瞳はすでに光をとらえておらず、口はだらしなく半開きになっていた。


 二人の周りには、同じように幻想に囚われた乗組員たちの身体が点在している。船内の機器は次々と故障し、壁には亀裂が走り、錆びが広がっていく。


 しかし、彼らの意識の中では、美しく幸せな世界が永遠に続いていた。レンは家族との時間を過ごし、サムは新たな宇宙の発見に胸を躍らせる。彼らの顔には、安らかな表情が浮かんでいた。


 現実の身体は朽ち果てていくが、幻想の中の彼らは若さと活力に満ち溢れている。現実の宇宙船が宇宙塵に覆われていく一方で、幻想の中の幸せと希望は燦然と輝いていた。


 レンとサムは、互いの幻想の中で時折出会うことがあった。

 二人は幸せそうに微笑み合い、現実の苦しみを忘れたかのように語り合う。


「ここは素晴らしい場所だ」


 レンが言った。


「ああ、本当だ」


 サムも同意した。


 彼らは、この選択が正しかったのかどうか、もはや考えることもなかった。幻想の中で、永遠の幸せを手に入れた彼らには、現実など必要なかったのだ。


 ラスト・クロノス号は、朽ち果てていく運命にありながら、乗組員たちの幸せな夢を乗せて宇宙を漂い続ける。それは哀しくも美しい光景だった。人間の脆さと強さ、現実逃避と希望の追求が、皮肉にも一つになった結果だった。


 そして、永遠とも思える時間が過ぎていく中で、レンとサムの肉体は徐々に宇宙塵と一体化していった。彼らの意識だけが、永遠の幻夢の中で生き続けるのだった。


(了)

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