存在しないはずの人
こくまろ
■
私の記憶が正しければ、始まりは、私のTLに流れてきた一つのバズツイだった。
■無病息災マン@kenkoudaiichi
完全に油断しまくって寝てるトドの親子見て[画像]
バズっていたそれは、気持ちよさそうに寄り添って眠る二匹のトドの画像だった。
母親と思われる大きいトドは口をあんぐりと開けた状態で横になっており、その子どもと思われる小さなトドが母親のお腹にぴったりとくっついて眠っていた。見ているだけで頬が緩むような画像だった。
私はそれをリツイートしてからこうツイートした。
■こくまろ@cock_maromaro
このトドオカさんの顔、めちゃくちゃ良いな
『トドのお母さん』と書いたつもりの誤字だった。すぐに間違いに気付きリプライをぶら下げて訂正した。
■こくまろ@cock_maromaro
すみません、誤字。
✕トドオカさん
〇トドのお母さん
しかし、時既に遅く、私の誤字ツイートは面白がった相互フォロワー達にリツイートされ、このトドの名前がトドオカさんだという前提で悪ノリしたツイートがいくつも投稿され始めた。当たり前だが、『トドオカさん』なる人物、あるいは動物は存在しない。誤字から生まれた架空の名前だ。私は苦笑しつつも、TLのこうした馬鹿なノリは嫌いではなかったので特に咎めたりはしなかった。
結局この日は『トドオカさん』がTLで一番盛り上がったネタとなった。
意外なことに、一過性で終わると思っていた『トドオカさん』ネタはその次の日も、さらにその次の日も続いた。元ネタの画像が睦まじい親子の画像だったからか、トドオカさんは子ども好きという設定がいつの間にか与えられていた。
加えて、TLの絵師が『#トドアート』というタグを付けてイラストを投稿し始めた。春ミドリさんという相互フォロワーは筆がとても早く、簡易的ながらも丸っこくかわいらしいタッチでトドのイラストをいくつも投稿していた。中にはトドを擬人化したイラストもいくつかあった。これはおそらく、名前に『さん』付けされていることによるイメージの付加だろう。
いずれにせよ、『トドオカさん』はキャラクター性を獲得し始めた。きっかけが私の誤字ということもあってこそばゆい思いもあったが、ここまで来るともう完全に私の手を離れたと考えて良いだろう。
特に大きな問題も、おかしなことも起きていないと思っていた。少なくとも、この時までは。
異常に気付いたのは、それから一ヶ月以上も経ってからだった。『トドオカさん』という誤字をやらかしてから数日後、私は仕事が急に忙しくなり、ツイッターをしている余裕がなくなった。やろうと思えばやれたのかもしれないが、仕事に集中するために自らツイッターを禁じ、TLも見ないようにしていた。結果的に一ヶ月以上もの間ツイッターを完全に離れることとなるとは思わなかったが。いわゆる『ツイ禁』と呼ばれるものを、これほど長期間したのは初めてだった。
いや、正確に言えば見るだけならTLは少し覗いた。その時見たのは、とある炎上のスクショツイートだった。内容は、トドのお母さん、つまりトドオカさんが子どものトドを食べるという露悪的な小説を晒したものだった。おそらく、元ネタの画像でトドオカさんが大きな口を開けていたことに着想を得たのだろう。私は気分が悪くなってすぐに閉じた。思えば、仕事に集中するためにはかえってありがたかったのかもしれない。
そんな訳で、ようやく仕事も落ち着いてきて、私は久し振りにツイッターにログインした。いつもの面子がTLを賑わせているのを確認しつつ、私はツイートを投稿した。
■こくまろ@cock_maromaro
仕事がクソ忙しくて姿を消してましたけど今日から復帰します!ツイ禁記録は36日でした!
投稿すると早速、相互フォロワー達からいいねやRT、そしてリプライも付きはじめた。
「おかえりなさい!」
「ツイ禁偉すぎる!」
「復ッ活ッ こくまろ復活ッッ こくまろ復活ッッ[画像]」
以前と変わらない温かい反応が胸に染みる。こちらも
「ただいま帰還しました!」
「どうも天竜人です」
「してェ……ツイッターしてぇ〜〜〜」
とリプを返していく。
久し振りのインターネットのノリは懐かしく、いわゆる実家のような安心感があった。
続けて、書き損ねていた小説や漫画の感想を書いたり、TLに流れてきたイラストやツイートにいいねをしたり、ネットの海をゆったりと泳いで楽しんだ。そこで、一つのツイートが目に止まった。
■無色センセーショナル@mushokunanyona
トドオカさん、極道でもあり中道でもある。下道でもありモコ道でもある。下の名前がモコ道ってのは俺にだけこっそり教えてくれた。トドオカさん、この秘密墓まで持っていきます
私はまず、トドオカさんネタが未だに続いていたことに驚いた。しかしツイートの内容については全く意味が分からない。トドオカさんが極道……?文脈が全く分からない。一体何を言っているのだろう。
そこにまた別のツイートが流れてきた。
■火粉@ra-mennosekai
トドオカさんは極道だったけど正義の極道でさぁ……純粋悪って言うのかな。ごめんやっぱ悪の極道だわ
またしてもトドオカさんが極道という設定のツイートだった。無色センセー(※無色センセーショナルさんはこの呼称で親しまれていた)も火粉さんも私の相互フォロワーで、いわゆるネタツイをよく投稿する人達だった。これもそのネタの一環ということだろうか。トドオカさんが極道というのはいつの間にかオーソライズされたネタになってしまったのか。
そこにまた別のツイートが流れてきた。
■春ミドリ@harumidori
トドスペ聞いてるけど、やっぱトドオカさんがスピーカーでトークを回してくれると安心感が凄いぜ
まるでトドオカさんというアカウントがスペースで喋っていたかのような書き方だ。そんなはずはない。トドオカさんはトドの親子の画像から生まれた、架空のキャラクターじゃないか。スペースの中身が聞きたかったが、春ミドリさんのツイートはおすすめ欄に流れてきた数時間前のものだったためできなかった。しかし、その後も次々とトドオカさん関係のツイートは流れてきた。
■火粉@ra-mennosekai
トドオカさんは人間の感情の機微が理解できないからパワハラをやめてほしいときはきちんと言葉にして「やめてほしい」と意思表示することが大事なんですよね。意思表示してもやめてくれない?それはそう
■無色センセーショナル@mushokunanyona
人の褌で相撲を取る、悪いことみたいに言われがちだけど俺はこれで生きてきたんよな。トドオカさん、あの時くれた褌、約束通り一回も洗ってません。寒い日はマフラーとして使ってます
■アスガウズク@astra_2
トドオカさんが上司だった時、俺は名前じゃなくて「灰皿」って呼ばれてた。俺の片目が潰れてるのはその時の名残。ですよね、トドオカさん
「そうなんですか」
相変わらず訳が分からなかったが、いつの間にかトドオカさんが凶悪で暴力的なキャラクターになっていることだけは分かった。睦まじい動物親子の画像が一体なぜ。たった一ヶ月程度の間に何があったんだ。そこにまたしても無色センセーのツイートが流れてきた。
■無色センセーショナル@mushokunanyona
トドオカさんが卵生か胎生かでまた学会が揉めてる。何度も言うけどトドオカさんは卵生。俺は月夜の晩にトドオカさんが産卵するのをはっきりこの目で見た。トドオカさんは涙を流していた。俺もそれを見て涙を流した。卵は持って帰って玉子焼きにした
擬人化されたと思ったら今度は哺乳類であることすら否定されている。まるで海亀みたいな書きぶりだ。こちらは浦島太郎のような気分を味わっているところだったので嫌な符丁を感じてしまった。そこにまた別のツイートが流れてくる。またしてもというか、やはりトドオカさん関係だった。
■やきあがり@atataka_noodle
トドオカさん、トレンド入りしてて笑った
ギョッとしてトレンド欄を確認すると、本当にトレンドに『トドオカさん』の文字があった。いつの間にかTLを超えて大規模コンテンツになっていたのか。
検索欄に『トドオカさん』と入力すると、ずらっと大量のツイートが表示された。ほとんど見知ったアカウントだったが、知らないアカウントも相当数あった。私は現状を把握しようとそれらに目を通した結果、現在のトドオカさんのパブリックイメージについて次のように分類した。
・トドオカさんは極道
・トドオカさんはパワハラ上司
・トドオカさんは警察(不良警官)
・トドオカさんは女子高生(17歳)
・トドオカさんは悪食
・トドオカさんはトークが上手い
・トドオカさんは理想的な大人(成人男性)
・トドオカさんは何事も最後まできっちりとやる
・トドオカさんは合理的思考が得意
・トドオカさんは音楽に興味がない
・トドオカさんはラブコメに興味がない
・トドオカさんは感情がない
・トドオカさんは関西弁で喋る
まだまだあったが大まかにはこのあたりだろう。ここに記載されているだけでも明らかに設定に矛盾がある。各々が好きなように創作としてツイートを投稿しているのだろうか。しかし、ほとんど無の状態からここまで生み出せるものだろうか。
何よりも気になるのは『トークが上手い』というものだ。これは設定ではなく明らかにスペースでのトークを指しているツイートが多かったからだ。その他にも、トドオカさんというアカウントが本当に存在しているような前提のツイートをいくつも見かけた。ただしそれらは全てエアリプであり、直接リプライしているものはなかった。
私は念の為、もしかしたらあの後『トドオカさん』と呼ばれるアカウントが本当に誕生したのかもしれないと思い検索してみたが、そんなアカウントは存在しなかった。やはりトドオカさんは架空の存在なのだ。そうだ。そうじゃないとおかしい。もしトドオカさんが実在するとして、ここまで好き勝手書かれて黙っていられるはずがないじゃないか。しかし、だとするとこの熱量は、リアリティは一体なんなのだろう……
そして、検索していく中で、トドオカさん関係でとりわけツイート量が多いのはやはりこの二人だった。
■無色センセーショナル@mushokunanyona
トドオカさん、会った時から一度も服を着てたことがないんよな。全裸なのに気品がある。一糸まとわぬ肉体に生命本来の美しさが躍動してる。俺はそれをキャンバスに描き殴る。絵の具は赤と黒しか使わない。日々精進
■火粉@ra-mennosekai
#トドノベル
「大阪じゃコラァ!!
ドアをバンバンと叩きながらビルの前で怒号を飛ばすガタイの大きい警官の名前を、この辺りで知らないものはいなかった。トドオカ警部。本当の名前かどうかは分から……[さらに表示]
■無色センセーショナル@mushokunanyona
トドオカさん、俺がジャマイカ行った時に現地で買ったお土産なんよな。それが漂着神としていつしか四国を牛耳ってしまった。俺は責任を持って毎日トドオカさんに生贄を捧げてる。たまにご利益として顔を殴ってくれる。それが今の俺とトドオカさんの関係
この二人はもはや何かに取り憑かれていると言って良い、異常な投稿数だった。ツイート数の多さなら無色センセーだったが、文章量で言えば火粉さんの方が上回った。『#トドノベル』というタグを付けて恐ろしいペースで小説を書いていた。私がツイ禁する前は小説なんて書いたこともないはずの人だった。
こうなってしまった経緯を知りたかったが、火粉さんは本当にいきなり小説を書き始めたようだったし、小説という媒体では何が本当で何が創作なのか見極めるのは難しかった。無色センセーの方はfrom:@mushokunanyonaで過去ツイートを確認しようとしたがシャドウバンされていたため古いツイートは確認しようがなかった。
絵師の春ミドリさんと赤袖さんは『#トドアート』というタグでたくさんの画像を投稿していた。何かヒントになるかと思い目を通したが、抽象画か彩色画ばかりで私には理解できなかった。少なくとも、トドや人間に見えるものは、そこには描かれていなかった。
私は得体のしれない居心地の悪さを感じ始めていた。気付けばせっかくツイッターを再開したのにほとんどの時間を『トドオカさん』について調べることで消費していた。そうしている間にも、また無色センセーと火粉さんのツイートが流れてきた。
Z人さん(@miyazoo200920)がリツイートしました
■火粉@ra-mennosekai
最近かなりトドションを絞り出し慣れてきたんだよな。さっき出したばかりなのにまた出したくなってる
Z人さん(@miyazoo200920)がリツイートしました
■無色センセーショナル@mushokunanyona
トドションシボラーとして火粉さんには負けてられない。俺も本気のトドションを絞り出してくる
■Z人@miyazoo200920
RT これもう連れションだろ
もう限界だった。トドションがなんなのか考えるのも嫌だった。もはや恐怖を感じ始めていた私は、思い切ってツイートしてみることにした。
■こくまろ@cock_maromaro
トドオカさんっていつの間に極道とかパワハラ上司みたいな設定になったの?
これで誰かしら反応して解説してくれることだろう。私は相互フォロワーの反応を待った。
しかし、数分経っても、30分以上経っても何の反応もなかった。いいね一つすら付かなかった。自惚れているわけではないが、流石に一人くらいは反応があるものだと思っていた。先程復帰を知らせるツイートをした時は普通にたくさんのレスポンスがあったのだ。
私はうっすらと冷ややかなものを感じていた。先程のツイートは疎まれている、そう確かに感じる。しかしなぜかは分からなかった。私は若干の苛立ちを込めてもう一度ツイートした。
■こくまろ@cock_maromaro
なんか皆、トドオカさんって人が本当にいるみたいに話してるけど、あれ私の誤字から生まれた架空のキャラクターだよね?なんか極道とかパワハラとかJKとか言われてるけどどういう流れ???
今度こそ反応があった。どんどん増えていく。しかしリプライはゼロ、いいねもゼロ。リツイートだけが増えていく。私は薄ら寒いものを感じながらTLを見た。私に対するエアリプと思われるものが大量に表示され始めた。
■ペン@pen_on_the_cat
なんで復帰早々炎上芸やってるのかは分からないけど、それおもんないからやめたほうがいいですよ
■お腹パンデミック@harapan
どうしちまったんだよ、こくまろさん
■夕々タ多@yuyu_tatata
これアカウント乗っ取られてない?
■猛禽@irotoridori
フォロワーが化け物になってしまって悲しい
■ケイスケ姐@hitozuma29
ちょっとツイートを見られたくないレベルにクラスチェンジしたのでブロックした
■無色センセーショナル@mushokunanyona
興奮する
■ニャンめろん@Trape_wo_miro
こくまろさん……見損ないましたよ……
■縛愽@31aisu
ちょっとびっくりしてRTもできないのですが、リアルで軽々しく言うべきでないことはSNSにおいても同様だということが分からない方ではないと思うので、本当にアカウント乗っ取りの可能性もあるのかなと思います。
ボッコボコだった。ボッコボコに叩かれていた。困惑した。そんなにおかしいことを書いただろうか。分からない。何が起こっているのか。何の地雷を踏んだんだろう。私は諦めきれなくてもう一度投稿した。
■こくまろ@cock_maromaro
あの、何かまずいことを書いたのならすみません。でも本当に分からないんです。皆さんが話してるトドオカさんってなんなんですか。教えてください。お願いします。
しかし反応はさらに酷くなるばかりだった。「怖い怖い怖い怖い怖い」「これもう新しいジャンルのカスの嘘だろ」「え、こくまろさんマジでどうしたん」「トドオカさんに謝った方がいいよ」「頼む…垢乗っ取りであってくれ…!」
もはや炎上と言って差し支えない状態だった。ほとんどが相互フォロワーというのが辛さに拍車をかけた。謝れと言われても何に謝れば良いのかすら分からない。かえって火に油を注ぐことになるのは目に見えていた。私はツイッターを閉じて布団に潜り込んだ。朝になったら全て夢であってくれ、そう願いながら。
「なるほど、小隈さんはそれでまた、うちのクリニックに来られたと」
「はい……この件以来、本当に精神をやられてしまって、仕事にも行けてなくて……」
数日後、私は繁忙期のときにもお世話になった、近所にある精神科のクリニックに来ていた。意外にも職場は休暇の取得に理解を示してくれた。繁忙期の疲れが少し遅れてきたと思ったのだろう。
医師の先生は、カタカタとキーボードを叩きながら私が話した内容を記録していた。
「しかし本名の
「いや、一度も見ていません。見られるわけないです、あんなことがあったのに。あの、先生、ちょっと良いでしょうか」
先生はモニターから目を離し、こちらに顔を向けた。
「なんでしょうか」
「『トドオカさん』って本当にいるんでしょうか」
私は一番聞きたかったことを聞いた。緊張で鼓動が早まるのを感じる。先生は「ふむ」と一呼吸置いてから答えてくれた。
「まず、その『トドオカさん』については、いないと考えて良いでしょう」
「本当ですか!?」
私は思わず腰を浮かせて先生に詰め寄りそうになった。ずっと不安だった。私がおかしいのかと思っていた。誰かにお前は間違ってないと言ってほしかった。
「ええ。私もツイッター、今はXと言うのでしたか、アカウントを持っていましてね。今ちょっと調べただけですが、『トドオカさん』という名前のアカウントはありませんでした。『トドオカさん』で盛り上がってるツイートはたくさんありましたけどね」
「そうですか……良かった……」
自分は間違ってなかった。しかし、そうなるとやはり……私は自分の考えに自信が持ててきた。
「……先生、そうすると、トドオカさんは私の相互フォロワー達の幻覚から生まれた存在というか、集団幻想みたいなものということなのでしょうか?」
「集団幻想……と言うと?」
先生に促され、私はずっと考えていたことを話し始めた。
トドオカさんという名前が生まれたこと、そこに様々な設定が肉付けされ、キャラクター性を獲得していったこと、イラストが作られたことでより強固なイメージとなっていったこと、何度も何度も繰り返し語られることで、いつの間にかそれが怪異とも言うべき何かへと変貌していったのではないか、それに相互フォロワー達は囚われているのではないか……
自分でも荒唐無稽な考えだと思った。しかし、そうでもないとあの反応は辻褄が合わない。彼らには『見えないはずのものが見えていた』、私にはそうとしか思えないのだ。
トドオカさんの存在を否定してくれる人なら、あるいは理解してくれるのではないか。一縷の望みを掛け、必死に力説した。先生は一切口を挟むことなく聴いてくれた。私が話し終えると、先生はもう一度「ふむ」と一呼吸置いてからこう答えた。
「あまり合理的な考えとは言えないですね」
「そんな……」
私は絶句した。やっと掴んだと思った答えがまた手をすり抜けて何処か遠くへと去っていった。先生はそんな私にお構いなしに続ける。
「よろしいですか。一人の人間と大勢の人間の間で意見が食い違っている。この場合、一人の人間が正しく、大勢の人間が間違っているというのも確かにあり得ないことではないですが、一人の人間が間違っていると考える方が合理的ではないでしょうか」
「そんな……でも先生も、トドオカさんはいないと仰ったじゃないですか。人数の大小だけで判断するなんて、合理的かどうかはともかく論理的じゃないですよ」
「ええ、確かに言いました。ただ、だからといって『トドオカさん』なる怪異が実体を持ち始めた……とまでいくのは論理に飛躍がありますね。トドオカさんがいないというのはあくまで結論の一部でしてね。それに、根拠と論理もないわけではないのですよ」
「そんな、おかしいですよ先生!トドオカさんがいないなら私の考えが」
「トドの母親が子どもを食べる小説」
私の話を遮るように先生が言った。一瞬、なんのことか分からなかった。
「小隈さんがツイッターを自粛していた時に見かけたという炎上ツイートですよ。ずっと気になっていました。スクショで晒されていたのを見たと仰いましたよね。たかがスクショで見た程度の小説の内容を、そんなにしっかり覚えているものでしょうか。なぜそんなに嫌悪を感じたんでしょう。なぜ、何に着想を得たのかまでを推測できたのでしょうか」
「それは……別にあり得ないことではないでしょう。それに、覚えていたからなんだと言うんです?」
「こうは考えられないでしょうか」
先生は人差し指をぴんと立てて話し始めた。
「小隈さんは一ヶ月以上前、そう、ツイッターを自粛し始めたというタイミングです。この時、ツイッターを自分から離れたのではなく、炎上か何かネットのトラブルで離れざるを得なくなったのではないでしょうか。そのトラブルの原因が、トドの露悪小説ではないか、と私は考えたのです。その小説を書いたのは、小隈さん、あなただったのではないですか」
「私が……そんな、まさか……」
そんな馬鹿なことがあるだろうか……違う、そんなはずがない。しかしまるで記憶をたった今植えつけられたように、その小説の内容が急激に、しかも精緻に思い出されるのは一体なぜなのか。断片的なスクショをちらっと読んだだけでこんな鮮明に思い出せるものだろうか。まさか、いやしかし……
「いや、やっぱり話が見えないですよ。そうだとして、今お話しした、先日私に起こったことはなんだったんです。ツイッターに久し振りに復帰して、一旦は温かく迎え入れられて、その後トドオカさんの件でまさに炎上してツイッターを離れざるを得なかったんですよ。それこそ辻褄が合わない」
「その日小隈さんが見たものは、『幻覚』だったんでしょう」
私は顔がカッと熱くなるのを感じた。
「先生!私は真面目に!」
「真面目ですよ私は。小隈さん、『見えないはずのものが見えてしまうことがある』というのはあなた自身が仰っていたことなのですよ。あなたの相互フォロワーの皆さんについては幻想を見てしまう可能性があると言っていたのに、どうしてあなただけはないと言い切れるのですか」
私は反論できなかった。見えないはずのものが見えてしまっていた……私が……?
「小隈さんは一ヶ月以上前に炎上して、アカウントを削除した。その後、ちょうど仕事に忙殺されてツイッターのことを忘れて過ごすことができた。その時、一旦都合の悪い記憶に蓋をしたのでしょう。しかし仕事が落ち着いてきたことにより、ツイッターのことを思い出してしまうが、アカウントを削除しているという現実と齟齬が生じた。そしてあなたはツイッターのタイムラインを自分の頭の中だけで再生したのです。こう考えると、辻褄は合うのですよ」
「それは……さすがにあり得ないでしょう。いくらなんでもTLを丸ごと幻覚で見るなんて無茶だ。私は何人ものツイートを見たのですよ。それに……幻覚なら都合の良いものを見るはずじゃないですか。なぜわざわざ炎上をもう一度体験しなければならないんですか」
「タイムラインの脳内再生は、確かに通常は難しいでしょう。しかしあなたは自分でも認めるほどの、いわゆるツイ廃です。よく見る相互フォロワーのエミュレートくらいできてもおかしくない。そして、ツイッターはあなたの嫌な記憶の元、『トドオカさん』と密接に結びついている。だから、ツイッターの幻覚を見ているうちにトドオカさんのことを思い出し、トドオカさんを思い出せば次は炎上を思い出す。これはある意味、当然の流れなのです。あなたの幻想は最初から破滅が内包されているのだから」
私はもう、何か言う気力もなかった。否定したかったが、先生の説明を聞けば聞くほどそれが正しいことのように思われてくる。
「他にも根拠はあるのですよ。たとえば、シャドウバンされたと言っていた人のツイートが検索で表示されていたり、『ブロックした』と言ってる人のツイートがなぜかTLで見えていたりね。おそらく、ここまでのことになった要因には仕事の疲れも確かにあるでしょう。超過労働時間が200時間でしたか。私達医者でもなかなかないですよ。身体や精神に異常をきたしても、全くおかしくない」
先生は同情を滲ませた口調で言ってくれた。やはり私はおかしくなっていたのか。認めなければ、いけないのだろう。憑き物が落ちたように、そう思った。
「先生、私は治るんでしょうか」
「もちろんです。まずはしっかり休むことが大事でしょう。臨床心理士の方をつけますから、ゆっくりカウンセリングを進めて行きましょう。ご希望があれば、またいくつか漢方も処方しておきますよ」
「ありがとうございます……そう言えば……以前、このクリニックに来た時は、別の先生だったような気がするのですが、交代されたのでしょうか」
「ええ、あの先生はちょっと体調を崩してしまいましてね。いろいろと事情があって、今は私が代わりにこのクリニックを仕切っているのです。きちんと引き継ぎはできていますから、安心してくださいね」
正直言って、私はこの先生に好感を持ち始めていたので、担当の医師が変わったのはありがたかった。いや、好感と言うよりも、この先生ならなんとかしてくれるという期待と言ったほうが正しいだろうか。この人についていきたい、そう思わされる不思議な魅力があるのだ。
「先生、これからよろしくお願いします」
「もちろんです。小隈さんは、責任を持って私がちゃんと診ますよ」
先生はにっこりと微笑んで言った。
「最後まで、きっちりとね」
了
存在しないはずの人 こくまろ @honyakukoui
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