黄金林檎の落つる頃

吉岡梅

女神イズンの果樹園

秋の風が静かに吹き抜ける果樹園。枝に揺れる黄金色に輝く林檎は、まるで小さな太陽が木々に宿っているかのようだった。ツィスカはその光景に目を奪われて立ち尽くした。


どれほどそうしていただろうか。やがて彼女は腰にいた細剣レイピアに軽く手を触れると、果樹園の奥へと歩を進めた。


果樹園の管理人、女神イズンは静かに木々を見守っていた。その姿は果樹園の一部であるかのように自然だ。穏やかな笑みと共に迎えられたツィスカは、片膝を着いて礼をした。


「蛇退治の任を受け参りました」

「ロキ殿から伺っています。何か分からない事があれば聞いてくださいね」


分からない事。分からない事か。そもそもツィスカには分かっている事の方が少ない。だが、分からないものは分からないままでいい。立ち入る方が面倒だ。ツィスカはそういう性分だった。


しかし、目の前のイズンは笑みを浮かべ、じっとツィスカを見つめている。まるで質問される事を期待しているかのようだ。何も聞かないというのもかえって失礼かもしれない。ツィスカは半ば苦し紛れに質問を捻りだした。


「黄金の林檎についてお聞きしても良いでしょうか」

「もちろん」

「なぜ神々は、この林檎を食べると若さを保てるのですか?」


イズンはゆっくりと目を細めて語り始めた。


「この林檎は、ただの果物ではありません。大地の力と太陽の光。それが若さを保つ秘訣なのです」


イズンはそう言いながら、ひとつの黄金の林檎を枝からもいだ。その瞬間、ふわっと温かみを帯びた光がなめらかな表皮から発せられ、甘く爽やかな香りが一面に漂った。


「おひとつどうぞ」

「いえ、私なぞには……」


ツィスカが固辞すると、イズンは無理強いするわけでもなく、籠へと林檎を置いた。


「若さとは、心の持ちようでもあります。黄金の林檎を食べたという意識が、果実の滋養と共に心まで満たし、自然と若さが保たれるのです」

「心の持ちよう。なるほど」


ツィスカが頷くと、イズンは悪戯っぽくくすりと笑った。


「……と、いう事になっていますが、神々に献上する林檎はもうひとつ特別なことがあります。ご覧になって行きますか」

「特別な林檎。この黄金の林檎とはまた異なるのですか」

「ええ、同じと言えば同じ、異なると言えば異なる、そいういうものです。どうぞこちらに」


イズンに案内された一角には、やはり立派な黄金の果実が揺れていた。だが、先の果実とは少し異なる気がする。どこか余所余所しいような、作り物のような、混じりけのあるような、過剰なような。そんな輝きを放っていた。


その正体を見極めようとしているツィスカを見て、イズンが微笑んだ。


「こちらの林檎には、毎日私が声をかけているのです」

「イズン様が。声をかけて育てると良く育つというわけでしょうか」

「そうとも言えます。毎日私は、こう声をかけるのです。『――そろそろソールが駆る次のお庭に向かう馬車が出ますよ』と」


馬車が出る。つまりは移動できるという事だろうか。だが、なぜ林檎にそんな声を。ツィスカの疑問が顔に出ていたのだろうか。イズンは軽く頷くと話を続けた。


「黄金の林檎と言えど、いつまでも庭園の大樹に留まることはできません。神々へ献上されるためにがれる果実の他は、おのおの身の振り方を決めねばなりません。実った林檎は、いずれ落ちるが定め。あるいは地に落ち、フクロウや虫たちに新天地へと運んでもらい、あるいはソールやマーニの駆る馬車に揺られ新たな場所へと身を寄せます。だから私はそれを知らせるのです。そろそろですよ、と」


イズンは一旦そこで言葉を切って籠の中の林檎に目をやる。


「ただ、中には動こうとしないものも出てくるのです。まだ私はこの庭に留まれる、いや、留まるべきだ。そう考えているのでしょうかね。私が声をかけても、をするのです。」


「聞こえないふり。そういうものですか。では、そのような実は落ちることなく実り続ける、という事でしょうか」


「ええ。自分はまだやれる、と、留まるのです。しかし果実の旬は短い物。すぐに傷みがやってきます。それらをなだめ、すかし、誤魔化して輝きを保ち頑なに落ちる事を拒み続けるのです。さまざまな手を駆使して。中には自分自身を騙し、『自分は傷んでなどいない』と説得してまで留まろうとする果実も出てきます」


ツィスカは再び林檎へと目を向ける。


「それが、この――」

「そうです。これらの林檎は、私が何日も声をかけても、なおとどまり続けている果実ばかりです。自らの信ずる旬を保とうとあらゆる手段を講じて輝きを放ついびつなものたち。世の理を捻じ曲げ、あるいは無視し、知らないふりをする。そんな熱を帯びたものたちを捥いで喰らう事こそが、神々が若さを保つ源となるのです」


イズンは林檎を手に取り、木からもぎ取る。林檎はやはり甘い香りを一面に放ったが、その甘さはどこか、爛れたような、熟れたような、粘度を感じる香りだった。


イズンは再び林檎をツィスカへと差し出したが、やはりツィスカは受け取らずに首を振って頭を下げた。


いびつでいて、抗う林檎。それほどまでに必死で留まろうとする果実を捥ぎ取り、食らう。その努力ごと、その手段ごと、そして、その執着ごと果実をその実に摂り入れる。


「なるほど。分かったような気がします。そして、その林檎を蛇から守るというのが、私が呼ばれた理由なのですね」

「その通りです」

「わかりました。しかしイズン様、蛇はどこにも見当たらないようなのですが」


ツィスカが問うと、イズンは籠から2つの林檎を地へと置いた。


「先ほど、林檎は自分を騙している事もあると言いましたね」

「はい」

「そのような林檎が、ほんとうのことに気づくと、変じるのです」

「変じる、とは」


イズンはツィスカの問いには答えずに、林檎へと声をかけた。


「捥がれた林檎よ。あなたたちは神々に饗されることはありません。なぜなら、ふさわしくないからです」


声をかけられた林檎が、ゆらりと揺れたような気がした。


すると、ひとつの林檎が見る間に色褪せていく。

黄金の輝きは影を潜め、爽やかな香りは立ち消え、その実は崩れ落ちていき、やがて地に還った。


もうひとつの林檎は、しばし沈黙していた。

が、やがて小刻みにその果実が動き始める。黄金の輝きは黒く染まり、禍々しい霊気となって皺だらけの果実に纏わりつく。そして2つに割れたかと思うと、そこからでてきたのは、――蛇だった。


――ああ。そういう事だったのか。

ツィスカは納得した。


蛇は鎌首をもたげ、ゆっくりとツィスカの端正な顔へと赤く輝く目を向ける。


――だから蛇は執拗なのか。だから他の物を貶めようと暗躍するのか。


ツィスカは無言で細剣を抜く。蛇はちろりと舌を出して蜷局とぐろを縮め、雷光のように飛び掛かる。ツィスカは表情を変えず、左腕に着けた丸盾バックラーを蛇に向けた。


――だから蛇は……鏡が苦手なのか。


磨き上げられたバックラーに蛇自身の姿が映る。蛇自身の、ほんとうの姿が。

一瞬、蛇の動きが止まる。蛇は何かを叫ぼうとしたが、その音が発せられる前にツィスカの細剣が蛇の身を貫き、切り裂いた。


「お見事です」


イズンの声に、ツィスカは頭を下げる。


「他にも蛇がいないか、ひと通り見回ってきます」

「はい。お願いします」


一礼して去ろうとしたツィスカの背中にイズンが声をかける。


「神々を見損ないましたか?」

「……いえ。良いも悪いも無いです」

「そうですか。流石はロキ殿の遣わしたお方ですね。では、よろしくお願いします」

「はい」


再び頭を下げ、その場を去る。


良いも悪いもない。それは偽らざる本心だった。それと同時に思った。分かるという事は、やはり煩わしい。神々は、いずれ蛇に苦しまされる事になるやもしれない、と。


だが、それはツィスカが気に病んでも詮の無い事だ。自分はただ、自分の役割を果たすのみだ。どのような落ち方になろうとも。それは林檎が、その実が落ちるまで大樹に留まるしかないのと同じように。

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黄金林檎の落つる頃 吉岡梅 @uomasa

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