第11話「心の鏡」

 青嶺女子学園の美術室は、夕暮れの柔らかな光に包まれていた。羽川イデアと流川レイトは、向かい合ってイーゼルを立て、互いの肖像画を描いていた。イデアの長い黒髪が、背中できらめく光の帯のように揺れ、レイトの波打つ髪が柔らかな陽射しを受けて輝いている。


「ねえ、レイト」


 イデアが、筆を止めてレイトを見つめた。


「あなたを描いていると、まるで自分の心を見つめているような気がするの」


 レイトは、イデアの言葉に深く頷いた。


「私もよ、イデア。あなたの姿を画布に写し取ろうとすればするほど、自分自身の内面と向き合っているような感覚になるわ」


 二人の視線が絡み合う。その瞬間、時間が止まったかのように感じられた。


 そこへ、紫音プロティが静かに近づいてきた。彼女は、新プラトン主義の祖プロティノスの転生者だった。


「素敵な絵ね、お二人とも」


 プロティの声に、イデアとレイトは我に返った。


「まるで、プロティノスの『一者』からの流出のよう。二人の魂が、互いを映し出す鏡となっているわ」


 イデアは、プロティの言葉に興味を示した。


「『一者』からの流出? それは、プラトンのイデア論とどう違うの?」


 プロティは、優雅に微笑んだ。


「プロティノスは、すべての存在の源である『一者』から、段階的に世界が流出すると考えたの。そして、美とは高次の存在への憧れであり、それを感じ取る力が魂にはあるのよ」


 レイトは、キャンバスに向き直りながら言った。


「でも、その美も常に変化しているんじゃないかしら。ヘラクレイトスが言うように、すべては流転する。私たちの感じる美も、刻々と形を変えていくはず」


 プロティは、レイトの言葉に深く頷いた。


「そうね。でも、その変化の中にこそ、永遠の美が宿っているのかもしれない。二人の関係性のように」


 イデアとレイトは、思わず顔を見合わせた。二人の頬が、微かに赤みを帯びる。


「ねえ、プロティ」


 イデアが、少し躊躇いながら口を開いた。


「私たちの関係って、どう見える?」


 プロティは、優しく微笑んだ。


「まるで、永遠と変化が織りなす美しい調和のようよ。イデアさんが求める永遠の真理と、レイトさんが感じる絶え間ない変化が、見事に融合している」


 レイトは、イデアの方に体を向けた。


「イデア、少し休憩しない? 化粧も直したいし」


 イデアは頷き、二人は鏡の前に立った。レイトがイデアの髪をそっと撫でながら、ほつれた髪を直す。イデアは、レイトの頬に優しくファンデーションを塗る。その仕草には、どこか初々しさと親密さが混ざり合っていた。


「イデア、あなたの目……まるで宇宙そのものみたい」


 レイトのささやきに、イデアは微かに震えた。


「レイト……あなたの唇の色、とても綺麗ね」


 二人の顔が、少しずつ近づいていく。


 プロティは、そんな二人の姿を見守りながら、静かに語りかけた。


「美は、このように人と人との間で育まれていくのね。それは永遠の真理であり、同時に刻々と変化し続けるもの」


 イデアとレイトは、プロティの言葉に深く頷いた。


「プロティ、私たちの絵を見てどう思う?」


 イデアが尋ねた。プロティは、二人の描いた肖像画をじっくりと見つめた。


「まるで、魂の交歓を描いているようね。イデアさんの筆致には、永遠を捉えようとする強い意志が感じられる。一方、レイトさんの絵からは、瞬間の美しさを丁寧に写し取ろうとする繊細さが伝わってくる」


 レイトは、プロティの言葉に感銘を受けたように目を輝かせた。


「私たち、こんなにも違う視点を持っているのね」


 イデアは、レイトの手をそっと握った。


「でも、その違いこそが、私たちを引き寄せているのかもしれない」


 プロティは、二人の姿を見つめながら、ふと思索に耽った。


「芸術とは、高次の存在を感じ取る魂の働きの表れ。二人の絵には、まさにその魂の輝きが溢れているわ」


 イデアとレイトは、互いの目を見つめ合った。そこには言葉にできない感情が宿っていた。


「ねえ、レイト。この絵の具まみれの制服のまま、街に出かけない?」


 イデアの提案に、レイトは驚いたように目を見開いた。


「えっ、でも……」


「大丈夫よ。私たちの姿そのものが、アートなんだから」


 イデアの言葉に、レイトは微笑んで頷いた。


「そうね。私たちの関係性も、このように予想外の展開があるからこそ、美しいのかもしれない」


 プロティは、そんな二人を見守りながら、静かに微笑んだ。


「さあ、行きましょう。街の喧騒の中で、私たちの哲学と芸術の探求を続けましょう」


 イデアの言葉に、レイトとプロティは頷いた。三人は、絵の具で彩られた制服のまま、夕暮れの街へと歩み出した。


 街の雑踏の中、イデアとレイトは手を繋いで歩いていた。人々の視線を感じながらも、二人の心は高揚していた。プロティは、少し離れて二人の後ろを歩きながら、その姿を観察していた。


「ねえ、イデア」


 レイトが、通りの喧騒の中でイデアに寄り添いながら言った。


「私たちって、まるで歩く芸術作品みたいね」


 イデアは、レイトの言葉に微笑んだ。


「そうね。私たちの存在自体が、永遠と変化の調和を表現しているのかもしれない」


 プロティは、二人の会話を聞きながら、静かに語りかけた。


「二人の関係性は、まさに魂の美を体現しているわ。それは、この世界の表層を超えた、より高次の存在への憧れの表れなのよ」


 イデアとレイトは、プロティの言葉に深く頷いた。二人の指が、そっと絡み合う。


「レイト、あなたと一緒にいると、この世界がより美しく見えるの」


 イデアのささやきに、レイトは頬を赤らめた。


「私も同じよ、イデア。あなたがいるから、変化の中にも永遠を感じられるの」


 プロティは、そんな二人の姿を見守りながら、心の中で微笑んだ。彼女は、イデアとレイトの関係が、新プラトン主義が説く魂の上昇の過程そのものを体現していることを感じていた。


 夕暮れの街を歩きながら、三人は哲学と芸術、そして愛について語り合った。その姿は、まさに「永遠の瞬間」と「移ろいゆく想い」が交錯する、美しい物語の一コマだった。

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