第7話「幸福論と日常の喜び」
青嶺女子学園の料理室に、甘い香りが漂っていた。エプロン姿の少女たちが、キャッキャと笑い声を上げながら料理に励んでいる。その中心にいるのは、金髪の少女・楽原クロエだった。
「さあ、みんな! 今日は幸せのレシピを作るわよ」
クロエの明るい声が、料理室中に響き渡る。
羽川イデアは、慣れない手つきでリンゴの皮を剥いていた。その横で、流川レイトが優しく微笑みながら見守っている。
「イデア、そんなに力を入れなくても大丈夫よ」
レイトは、そっとイデアの手に自分の手を重ね、優しく包み込むように皮を剥く手伝いをした。その瞬間、イデアの頬が僅かに赤みを帯びる。
「ありがとう、レイト」
イデアの言葉に、レイトは微笑んだ。二人の指先が触れ合う度に、小さな電流が走るような感覚がある。
「ねえ、二人とも」
クロエが、にっこりと笑いながら近づいてきた。
「エピクロスは、幸福とは苦痛のない状態だと言ったわ。でも私は、こうして友達と一緒に何かを作り上げていく過程こそが、幸せだと思うの」
イデアは、クロエの言葉に深く頷いた。
「プラトンは、幸福とは魂の調和にあると説いたわ。でも……」
イデアは、レイトの方をちらりと見た。
「最近は、変化の中にも調和があるのかもしれないって思い始めているの」
レイトは、イデアの言葉に驚いたように目を見開いた。彼女の胸の中で、何かが大きく動き始めるのを感じる。
「イデア……」
レイトは、思わずイデアの手を握りしめた。二人の指が絡み合う。
「私も、ヘラクレイトスの教えだけでは足りないと感じ始めているわ。永遠に流転する世界の中で、変わらないものの存在を求めているの」
イデアとレイトは、互いの目を見つめ合った。その瞬間、周囲の喧騒が遠のいていくように感じられた。
「あら、二人とも」
クロエの声に、二人は我に返った。
「アップルパイの具が、愛の味になりそうね」
クロエの冗談に、イデアとレイトは思わず顔を見合わせて笑った。その笑顔に、互いへの想いが溢れているのが見て取れた。
料理が進むにつれ、室内は様々な香りと歓声で満たされていく。イデアとレイトは、時折肩が触れ合うほど近い距離で作業を続けていた。
「ねえ、みんな」
クロエが、出来上がったお菓子を前に、みんなを集めた。
「幸せって、こういう小さな喜びの積み重ねなんじゃないかな。哲学的な真理を追求するのも大切だけど、日常のちょっとした幸せを大切にすることも、同じくらい重要だと思うの」
イデアは、クロエの言葉に深く考え込んだ。
「確かに……。プラトンのイデア論は、完全な形を求めるけれど、現実世界での幸せは、もっと身近なところにあるのかもしれないわ」
レイトは、イデアの言葉に頷きながら、彼女の肩に優しく手を置いた。
「そうね。変化の中にこそ、幸せを見出せるのかもしれない。永遠に変わらないものを求めるよりも、今この瞬間を大切にすることの方が、幸せに近づけるのかも」
イデアは、レイトの手の温もりを感じながら、静かに頷いた。二人の間に流れる空気が、かつてないほど親密になっているのを感じる。
「さあ、みんなで食べ比べしましょう!」
クロエの声に、皆が歓声を上げた。
料理室の窓から差し込む柔らかな午後の陽光が、イデアとレイトの姿を優しく包み込んでいた。二人は向かい合って立ち、手に持ったフォークには、それぞれが心を込めて作ったアップルパイが乗っている。
イデアの長い黒髪が、ほんのりと紅潮した頬にかかっていた。彼女は少し躊躇いながらも、レイトの方へフォークを差し出した。
「レイト、はい、あ~んして」
イデアの声は、普段の凛とした調子とは違い、少し上ずっていた。
レイトは、イデアの言葉に微笑みかけると、ゆっくりと口を開けた。イデアは慎重に、しかし優しくフォークを レイトの口元へと運んだ。レイトの唇がアップルパイに触れた瞬間、二人の間に小さな閃光が走ったかのような緊張が広がった。
「美味しい……イデアが作ったものだから、特別な味がするわ」
レイトの言葉に、イデアの頬がさらに赤みを増す。
今度はレイトが、自分の作ったアップルパイをイデアに差し出した。彼女の手が少し震えているのが分かる。
「イデア、今度は私の番よ」
イデアは、レイトの瞳をまっすぐ見つめながら、ゆっくりと口を開けた。レイトのフォークが近づくにつれ、イデアの心臓の鼓動が早くなるのを感じる。パイの甘い香りと、レイトの柔らかな息遣いが混ざり合う。
イデアがアップルパイを口に入れた瞬間、レイトの指先が偶然イデアの唇に触れた。その些細な接触に、二人とも小さく息を呑む。
「レイト、とっても美味しいわ。あなたの想いが、しっかりと伝わってくるわ」
イデアの言葉に、今度はレイトの頬が赤くなった。
二人は互いの目を見つめ合ったままになった。周囲の喧騒も、時間の流れも忘れたかのように。その仕草は、まるで長年連れ添った恋人同士のようであり、同時に初々しい初恋の二人のようでもあった。
イデアの首元で、プラトンの教えを象徴する小さな銀のペンダントが、かすかに揺れている。一方、レイトの手首には、絶えず流れる時間を表す砂時計のブレスレットが光っていた。永遠と変化、相反するようで深くつながったその概念が、今、二人の間で美しく調和しているかのようだった。
クロエは、そんな二人の様子をら見守りながら、満足げに微笑んだ。エピクロスの教えの通り、この瞬間こそが、最も純粋な形の幸福なのかもしれない、と彼女は思った。
「ねえ、二人とも。幸せって、こういう風に分かち合うものだと思うの。哲学的な真理も大切だけど、こうして一緒に過ごす時間こそが、本当の幸せなんじゃないかな」
イデアとレイトは、クロエの言葉に深く頷いた。二人の指先が、そっと触れ合う。
「レイト……」
「イデア……」
二人の目には、これまでにない感情が宿っていた。それは、哲学的な探求心と、芽生えつつある恋心が交錯した、複雑で深い感情だった。
「私、分かったわ」
イデアが、静かに、しかし力強く言った。
「永遠の真理を求めることも大切。でも、こうして日々変化していく中で、お互いを理解し、支え合っていくことこそが、本当の幸せなのかもしれない」
レイトは、イデアの言葉に深く感銘を受けた。
「そうね。永遠と変化、それは相反するものじゃなく、互いを補完し合うものなのかもしれない。ちょうど、私たち二人のように……」
その言葉に、イデアの頬が赤く染まった。二人の間に流れる空気が、さらに親密になっていくのを感じる。
クロエは、そんな二人を見守りながら、静かに微笑んだ。
「エピクロスは、友情こそが最高の幸福だと言ったわ。でも、きっとそれは恋にも通じるものよ。二人とも、その幸せをしっかりと掴んでね」
イデアとレイトは、互いの手を強く握り締めた。その瞬間、料理室に漂う甘い香りと、二人の心に芽生えた想いが、美しく調和していた。
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