第10話「疑いの種と芽生える感情」

 青嶺女子学園の図書室は、初夏の陽光に包まれていた。羽川イデアと流川レイトは、哲学書を片手に、静かに語り合っていた。イデアの長い黒髪が、背中できらめく光の帯のように揺れ、レイトの波打つ髪が柔らかな陽射しを受けて輝いている。


 そこへ、疑矢ピュラが近づいてきた。彼女は、古代ギリシャの懐疑論者ピュロンの転生者だった。ピュラの鋭い眼差しが、イデアとレイトの間を行き来する。


「ねえ、二人とも」


 ピュラが、少し挑発的な口調で言った。


「最近、随分と仲がいいみたいだけど……あなたたちの関係って、本当に『友情』なの?」


 イデアとレイトは、その言葉に息を呑んだ。二人の視線が交錯し、そこには言葉にできない感情が宿っていた。


「私たちは……」


 イデアが言葉を探すように間を置く。彼女の首元で、プラトンの教えを象徴する洞窟の形をしたペンダントが、かすかに揺れていた。


「哲学的な探求を共にしている、大切な友人よ」


 レイトは、イデアの言葉に小さく頷いた。しかし、彼女の手首に巻かれたブレスレットの砂時計が、静かに時を刻んでいるのが見える。まるで、二人の関係の変化を表しているかのようだ。


「へえ、そう?」


 ピュラは、にやりと笑った。


「じゃあ、こんな質問はどう? もし、イデアが突然姿を消したら、レイトはどう感じる? そして、イデアはどうかしら?」


 その質問に、イデアとレイトの表情が凍りついた。二人の間に、言葉にできない緊張が走る。


「それは……」


 レイトが言葉を詰まらせる。彼女の瞳に、不安と戸惑いの色が浮かぶ。


「私は……きっと、とても悲しむわ」


 イデアは、レイトの言葉に驚いたように目を見開いた。そして、静かに付け加えた。


「私も同じよ、レイト。あなたがいなくなるなんて、考えたくもない」


 二人の言葉に、ピュラは満足げな表情を浮かべた。


「ほら、見て。その反応、ただの友情じゃないでしょう?」


 イデアとレイトは、言葉を失った。二人の間に流れる空気が、急に重くなる。


「でも、それって本当に『愛』なの?」


 ピュラが、さらに追及する。


「あなたたちの感情は、本当に永続的なもの? それとも、単なる一時的な感情の高ぶり?」


 イデアは、深く考え込んだ。彼女の青い瞳に、迷いの色が浮かぶ。


「愛とは……永遠のものだと信じたい。プラトンのイデア論のように、完全で普遍的な形があるはず」


 レイトは、イデアの言葉に少し首を傾げた。


「でも、イデア。愛も変化するものじゃないかしら。ヘラクレイトスが言ったように、すべては流転する。私たちの感情も、日々変化しているはず」


 二人の言葉に、ピュラは満足げに頷いた。


「そう、その通り。愛という概念自体が、曖昧で不確かなものなのよ。だからこそ、常に疑い、問い続けることが大切なの」


 イデアとレイトは、ピュラの言葉に深く考え込んだ。二人の間に流れる沈黙が、かえって雄弁に何かを物語っているようだった。


 そのとき、図書室の奥から物音がした。三人が振り向くと、そこには他の生徒たちの姿があった。彼女たちは、こっそりとファッション雑誌を見ながら、おしゃべりに興じていた。


「あら」


 ピュラが、にやりと笑った。


「私たちも、少しリラックスしましょうか。哲学ばかりじゃ、頭が固くなっちゃう」


 イデアとレイトは、少し戸惑いながらも頷いた。三人は、他の生徒たちの輪に加わった。


「ねえ、見て。この新作コスメ、すごく良さそう」


 ある生徒が、雑誌のページを指さした。そこには、淡いピンク色のリップグロスが写っていた。


「私も欲しい!」


 レイトが、思わず声を上げた。イデアは、そんなレイトの姿に微笑んだ。


「レイト、その色、きっとあなたに似合うわ」


 レイトは、イデアの言葉に頬を赤らめた。


「イデアこそ、どんな色でも似合うわ。あなたの唇なら、どんなリップも映えるはず」


 二人の間に流れる空気が、再び親密なものに変わっていく。ピュラは、そんな二人の様子を冷静に観察していた。


「ねえ、二人とも」


 ピュラが、再び話しかけた。


「さっきの話の続きだけど……愛って、結局のところ何だと思う?」


 イデアとレイトは、顔を見合わせた。そこには、さっきまでの戸惑いは見られなかった。


「愛は……」


 イデアが、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。


「永遠の真理を求める気持ちと、日々変化する感情の両方から成り立っているのかもしれない」


 レイトは、イデアの言葉に深く頷いた。


「そう、その通りよ。愛は、プラトンのイデアのように普遍的で、同時にヘラクレイトスの川のように流動的。その両方の性質を持つからこそ、美しいのかもしれない」


 ピュラは、二人の言葉に感心したように目を見開いた。


「なるほど。そう考えると、愛における『疑い』の役割も見えてくるわね。疑うことで、愛はより深まり、強くなる。そして、その過程で自己と他者をより深く理解できるようになる」


 三人は、互いの言葉に深く頷き合った。そこには、哲学的な探求と、芽生えつつある感情が美しく調和していた。


 図書室の窓から差し込む陽光が、三人の姿を優しく包み込んだ。イデアとレイトは、互いの目を見つめ合い、そこに新たな理解と感情の深まりを感じていた。ピュラは、そんな二人を見守りながら、静かに微笑んだ。


「さあ、もう少し『実験』してみましょうか」


 ピュラが、悪戯っぽく笑った。


「二人で手を繋いでみて。そして、その時の気持ちを正直に言ってみて」


 イデアとレイトは、少し躊躇いながらも、互いの手を取り合った。その瞬間、二人の頬が赤く染まる。


「温かい……」


 イデアがつぶやいた。


「そして、安心する」


 レイトが付け加えた。


「この感覚は、友情? それとも愛?」


 ピュラの問いかけに、二人は言葉を失った。しかし、その沈黙こそが、何かを物語っているようだった。


 図書室に流れる静寂の中で、イデアとレイト、そしてピュラは、愛と友情の境界線について、深く考えを巡らせていた。そして、その過程で、三人の友情もまた、新たな深みを増していくのだった。


 イデアとレイトは、互いに視線を交わし、静かに頷き合った。今度は彼女たちが、ピュラに向き直る番だった。


「ねえ、ピュラ」


 イデアが、柔らかな声で語りかけた。


「あなたは私たちに『愛』について問うたわ。でも、あなた自身はどう考えているの?」


 ピュラは、その言葉に少し戸惑いを見せた。


「私? 私はただ、すべてを疑うことが大切だと……」


「そう」


 イデアが遮るように言った。


「では、こんな風に問いかけられたら、あなたはどう感じるかしら?」


 イデアは、ゆっくりとピュラに近づいた。そして、彼女の手をそっと取り、顔を寄せる。イデアの長い黒髪が、ピュラの肩に触れる。


「たとえばこんなとき、あなたはどう感じるの?」


 イデアの青い瞳が、真っ直ぐにピュラを見つめる。その視線に、ピュラは息を呑んだ。


「これは……友情? それとも愛?」


 イデアの囁きに、ピュラの頬が赤く染まる。彼女の鋭い眼差しが、一瞬揺らいだように見えた。


 一方、レイトは、その光景を見て胸の奥に小さな痛みを感じていた。イデアとピュラの親密そうな様子に、彼女の心臓が早鐘を打つ。レイトは、自分でも気づかないうちに唇を噛みしめていた。


「私は……」


 ピュラが言葉を探すように口ごもる。


「これは単なる実験よ。感情に惑わされてはいけない」


 しかし、彼女の声には、いつもの冷静さが欠けていた。


「本当に?」


 今度はレイトが口を開いた。彼女の声には、かすかな苛立ちが混じっている。


「あなたの動揺は、まさに感情の証拠じゃないかしら」


 レイトは、イデアとピュラの間に割って入るように近づいた。


「愛や友情は、論理だけでは説明できないもの。だからこそ、美しいのよ」


 イデアは、レイトの言葉に深く頷いた。彼女は、ゆっくりとピュラの手を放し、レイトの方に寄り添った。


「そうね、レイト。愛は疑いと共にあるけれど、同時に信頼も必要なの」


 イデアの指が、そっとレイトの手に触れる。その瞬間、レイトの心に広がっていた小さな不安が、溶けていくのを感じた。


 ピュラは、二人の様子を見つめながら、深く考え込んだ。


「私は……間違っていたのかもしれない」


 彼女が、静かに告白した。


「すべてを疑うことは大切。でも、時には信じることも、感じることも必要なのね」


 イデアとレイトは、優しく微笑んでピュラを見つめた。


「ピュラ、あなたの疑問が、私たちの関係をより深めてくれたわ」


 イデアが言った。


「そうね。これからも、一緒に愛や友情の本質を探っていきましょう」


 レイトが付け加えた。


 三人は、互いを見つめ合い、静かに頷き合った。図書室に差し込む陽光が、彼女たちの姿を優しく包み込む。そこには、疑いと信頼、論理と感情が織りなす、複雑で美しい友情の形があった。


 そして、イデアとレイトの指先が、そっと絡み合う。二人の間には、言葉にできない感情が流れていた。それは友情を超えた何か、しかし同時に深い友情でもあるような、不思議な感覚だった。


 ピュラは、そんな二人を見守りながら、自分の心の中にも芽生えた新しい感情に気づいていた。それは、疑いの先にある、確かな温もりだった。

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