第9話「美徳の花園」

 初夏の陽光が降り注ぐ青嶺女子学園の花壇。羽川イデアと流川レイトは、丁寧に土を耕しながら、美徳について語り合っていた。イデアの長い黒髪が風に揺れ、レイトの波打つ髪が太陽の光を受けて輝いている。


「ねえ、レイト」


 イデアが、土の香りを深く吸い込みながら言った。


「美徳って、この花壇のように、日々の手入れが必要だと思わない?」


 レイトは、イデアの言葉に深く頷いた。


「そうね。ヘラクレイトスの言葉を借りれば、『性格は人間にとって運命である』。でも、その性格も、毎日の小さな選択の積み重ねで形作られていくのよ」


 二人の会話に聞き耳を立てていた園芸部の後輩、小鳥遊アレーテが近づいてきた。彼女は、アリストテレスの美徳論が転生した存在だった。


「先輩たち、素敵な会話ですね」


 アレーテは、花壇の縁に腰かけながら言った。


「アリストテレスは、美徳は中庸にあると説きました。過剰でも不足でもない、ちょうど良い状態こそが美徳だと」


 イデアは、アレーテの言葉に興味を示した。


「中庸か……。でも、プラトンの言う『イデア』のような、完全な美徳の形があるのではないかしら」


 レイトは、土の中から小さな芽を見つけ、優しく触れた。


「でも、イデア。完全な形を求めすぎると、かえって美徳から遠ざかってしまうこともあるわ。この芽のように、少しずつ成長していく過程こそが大切なんじゃないかしら」


 イデアは、レイトの言葉に深く考え込んだ。彼女の青い瞳に、何か新しい気づきが宿ったようだった。


「そうね……。私たちの関係性も、完璧を求めるのではなく、日々少しずつ育んでいくものなのかもしれない」


 その言葉に、レイトの頬が僅かに赤みを帯びた。二人の間に流れる空気が、より親密になったように感じる。


 アレーテは、そんな二人の様子を見守りながら、静かに微笑んだ。


「先輩たち、日焼け止めは塗りました? これからの季節、お肌のケアも美徳の一つですよ」


 アレーテの言葉に、イデアとレイトは我に返った。


「あら、そうね。私たち、夢中になりすぎて忘れていたわ」


 イデアが言うと、レイトは鞄から日焼け止めを取り出した。


「じゃあ、塗り合いっこしましょう」


 レイトの提案に、イデアは優しく微笑んで頷いた。二人は花壇の縁に腰を下ろし、向かい合って座った。イデアの長い黒髪が風に揺れ、レイトの瞳に映る。レイトは小さく息を呑み、その美しさに見とれてしまう。


 「じゃあ、私から塗らせてね」イデアが柔らかな声で言った。


 彼女は手のひらに日焼け止めを取り、そっとレイトの頬に触れた。レイトは、イデアの指先の柔らかさに、思わずまぶたを閉じる。イデアの指が、レイトの額から鼻筋、そして頬へと滑るように動く。その温もりに、レイトの心臓が早鐘を打ち始めた。


 「レイト、あなたの肌、とてもきめ細やかね」イデアがささやくように言った。「まるで絹のよう……」


 その言葉に、レイトは頬が熱くなるのを感じた。目を開けると、イデアの澄んだ青い瞳が、真っ直ぐに自分を見つめていた。


 「イデアこそ……」レイトは言葉を探すように一瞬躊躇った。「まるで大理石の彫刻のような美しさよ」


 イデアの指が、そっとレイトの首筋に触れる。その瞬間、レイトは小さく身震いした。二人の視線が絡み合い、周囲の音が遠のいていくような感覚に包まれる。


 「イデア……」レイトが囁くように言った。「今度は、私が塗らせて」


 レイトは、少し震える手でイデアの頬に触れた。イデアの肌の滑らかさに、レイトは息を呑む。まるで最高級の磁器に触れているかのような感覚だった。


 二人の指先が、互いの肌の上をゆっくりと滑る。その仕草には、哲学的な探求心と、芽生えつつある恋心が交錯した、複雑で深い感情が込められていた。


 花壇に漂う甘い香りと、二人の間に流れる静寂が、この瞬間を永遠のものにしているかのようだった。イデアとレイトは、互いの目を見つめ合ったまま、時間が止まったような甘美な時間を過ごしていた。


 アレーテは、そんな二人の姿を見つめながら、ふと思索に耽った。


「美徳は、このように人と人との間で育まれていくのかもしれない」


 彼女の言葉に、イデアとレイトは我に返った。


「そうね、アレーテ」


 イデアが静かに語り始めた。


「美徳は個人の内面だけでなく、人々の関係性の中にも存在するのかもしれない。それは永遠の真理であり、同時に日々変化し続けるもの」


 レイトは、イデアの言葉に強く共感を覚えた。彼女は、思わずイデアの手を取った。


「そうね。私たちの関係も、永遠の真理を求める気持ちと、日々変化する感情の両方から成り立っているのかもしれない」


 アレーテは、二人の姿を見つめながら、思わず微笑んだ。


「先輩たち、その関係性こそが、美徳の花園なのかもしれませんね」


 その言葉に、イデアとレイトは顔を見合わせ、優しく微笑んだ。


 三人は再び花壇の手入れに戻った。イデアとレイトは、互いの動きを自然と補い合いながら、協力して作業を進めていく。その姿は、まるで長年連れ添った恋人同士のようでもあり、同時に初々しい初恋の二人のようでもあった。


 作業に熱中するうちに、イデアの制服は土で汚れてしまった。しかし、彼女はそれを気にする様子もなく、むしろ楽しんでいるようだった。


「ねえ、レイト。私たちって、こうして一緒に何かを育てていくのっていいわね」


 イデアの言葉に、レイトは深く頷いた。


「そうね。この花壇のように、私たちの関係も、日々の小さな努力で育っていくのね」


 二人の間に流れる空気が、さらに親密になっていくのを感じる。


 アレーテは、そんな二人を見守りながら、静かに語りかけた。


「先輩たち、美徳は時に苦しみを伴うこともあります。でも、その苦しみを乗り越えることで、より強く、より美しいものになっていくんです」


 イデアとレイトは、アレーテの言葉に深く考え込んだ。


「そうね」


 イデアが静かに言った。


「永遠の真理を求めることも大切。でも、日々変化していく中で、お互いを理解し、支え合っていくことこそが、本当の美徳なのかもしれない」


 レイトは、イデアの言葉に深く感銘を受けた。


「イデア……。私たちの関係も、このように日々育んでいけたら素敵ね」


 その言葉に、イデアの頬が赤く染まった。二人の間に流れる空気が、かつてないほど親密になっているのを感じる。


 アレーテは、そんな二人を見守りながら、静かに微笑んだ。


「美徳は、このように人と人との間で花開いていくのですね」


 花壇に漂う土の香りと、二人の心に芽生えた想いが、美しく調和していた。イデアの首元で、プラトンの教えを象徴する小さな銀のペンダントが、かすかに揺れている。一方、レイトの手首には、絶えず流れる時間を表す砂時計のブレスレットが光っていた。


 永遠と変化、相反するようで深くつながったその概念が、今、二人の間で美しく調和しているかのようだった。そして、その調和こそが、真の美徳の姿なのかもしれないと、三人は静かに感じていた。


 夕暮れの陽光が花壇を優しく包み込む中、イデアとレイト、そしてアレーテは、美徳の花園を育む喜びに満たされていた。それは、永遠の真理と日々の変化が織りなす、美しい愛の形だった。

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