第1話「プラトニックな恋の方程式」

 放課後の静けさが漂う哲学研究会の部室に、夕陽が差し込んでいた。羽川イデアは、長い黒髪を優雅に肩で揺らしながら、窓際の椅子に腰かけていた。彼女の澄んだ青い瞳は、遠くを見つめるように思索に耽っている。一方、流川レイトは、波打つ長髪を無造作に結び上げ、机に向かって熱心にノートを取っていた。


 イデアは、ふと我に返ったように背筋を伸ばた。そして暑いのだろうか? スカートをまくり上げて足をぱたぱたとあおぎ始めた。その仕草は、彼女の端正な容姿からは想像もつかないほど無邪気で、レイトは思わず微笑んでしまった。


「ねえ、レイト」


 イデアの声が静寂を破る。


「イデア論について、あなたはどう思う? あたしの名前の由来となった思想だけど」


 レイトは、ペンを置いてイデアの方を向いた。彼女の瞳に、真剣な光が宿っているのが見て取れた。


「永遠不変の真理……か」


 レイトは少し考え込むように目を閉じた。


「正直なところ、私にはピンとこないわ。この世界は常に変化し続けているもの。一瞬たりとも同じ状態にはとどまらない。それこそが、私たちの生きる現実じゃないかしら」


 イデアは、レイトの言葉を慎重に受け止めるように、ゆっくりと頷いた。


「確かに、目に見える世界は絶えず変化しているわ。でも、その奥底に、変わることのない本質……イデアが存在するの。それこそが、真の実在なんだと思うの」


 イデアの声には、確信と情熱が滲んでいた。レイトは、彼女の熱意に引き込まれるのを感じながら、自分の考えを整理した。


「でも、イデア。変化こそが、この世界の本質じゃないかしら。ヘラクレイトスが言ったように、『万物は流転する』のよ」


 レイトは立ち上がり、窓際に歩み寄った。夕陽に照らされた校庭を見下ろしながら、彼女は続けた。


「見て。あの木々の葉が風に揺れる様子。空の色が刻一刻と変化していく様子。これらすべてが、世界の真理を物語っているわ」


 イデアは、レイトの横顔を見つめた。彼女の表情には、何か新しい発見をしたかのような輝きがあった。


「レイト、あなたの言うことも理解できるわ。でも、その変化の中にこそ、変わらないものがあるんじゃないかしら」


 イデアは立ち上がり、レイトの隣に立った。二人の肩が触れ合うほど近い距離で、イデアは静かに語り始めた。


「例えば、私たちの友情。それは日々変化し、深まっていく。でも、その根底にある信頼や理解は、永遠に変わらないものよ」


 レイトは、イデアの言葉に心を揺さぶられた。彼女は、自分の長い髪を解き始めた。


「ねえ、イデア。髪を結び直すのを手伝ってくれない?」


 イデアは、微笑みながら頷いた。彼女の指が、レイトの髪に触れる。その瞬間、二人の間に流れる空気が、微妙に変化したように感じた。


「ねえ、レイト」


 イデアの声が、いつもより少し低く、柔らかく響く。


「私たちの考え方は違うけれど、それぞれの視点が、お互いを補完し合っているような気がするの。永遠と変化……相反するようで、でも深いところでつながっている」


 レイトは、イデアの言葉に深く頷いた。彼女の指先が、自分の髪を優しく撫でる感触に、心地よさと同時に、何か新しい感情が芽生えるのを感じた。


「そうね、イデア。私たちの対話そのものが、真理への道筋なのかもしれないわ」


 二人は、夕陽に照らされた窓辺に立ったまま、しばし沈黙した。その瞬間、永遠と変化が融合するかのように、時間が止まったように感じた。


 イデアは、レイトの髪を結び終えると、さりげなく自分の制服の襟元を整えた。彼女の首元に、小さな銀のペンダントが光る。それは、プラトンの教えを象徴する洞窟の形をしていた。


 一方、レイトは手首に巻いたブレスレットを無意識に触っていた。そのブレスレットには、小さな砂時計のチャームが付いていて、絶えず流れる時間を表現していた。


「ねえ、イデア」


 レイトが、少し恥ずかしそうに言った。


「今度の休日、一緒に美術館に行かない? 哲学と芸術の関係について、もっと深く考えてみたいの」


 イデアは、少し驚いたような、でも嬉しそうな表情を浮かべた。


「ええ、もちろんよ。素敵な提案だわ」


 二人は互いに微笑み合った。その瞬間、彼女たちの間に芽生えた感情は、まだ言葉にできるものではなかった。しかし、それは確かに、プラトニックな理想と現実の変化が交差する、新しい形の「愛」の始まりだった。


 部室の窓から差し込む夕陽の光が、二人の姿を優しく包み込んだ。その光の中で、イデアとレイトは、互いの存在の中に、永遠と変化の調和を見出していった。


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