第5話「倫理のジレンマ、揺れる天秤」

 青嶺女子学園の屋上は、夕暮れ時の柔らかな光に包まれていた。そよ風が少女たちの髪を優しく揺らし、制服のスカートをひらひらと舞わせる。羽川イデアと流川レイトは、手すりに寄り添うように立ち、遠くを見つめていた。


 そこへ、桐原ゲネが現れた。彼女は制服を大胆に着崩し、靴下も脱ぎ捨てている。その姿は、まるで社会の規範に挑戦するかのようだった。


「やあ、二人とも。何を見つめているの? 永遠? それとも変化?」


 ゲネの言葉に、イデアとレイトは顔を見合わせた。


「ゲネ、あなたらしい質問ね」


 イデアが微笑みながら答える。彼女の首元で、プラトンの教えを象徴する洞窟の形をしたペンダントが揺れていた。


「私たちは……」


 レイトが言葉を探すように間を置く。彼女の手首に巻かれたブレスレットの砂時計が、静かに時を刻んでいる。


「私たちの関係性について、考えていたのよ」


 ゲネは、にやりと笑った。


「へえ、面白い。で、どんな結論に達したの? 『友情』? それとも『恋愛』?」


 その言葉に、イデアとレイトの頬が赤く染まる。ゲネは二人の反応を見逃さなかった。


「なあに、そんなに真剣に考え込まなくてもいいじゃない。社会の決めた『友情』や『恋愛』なんて枠組み、くだらないと思わない?」


 ゲネは、屋上の床にあぐらをかいて座った。その姿は、まるで古代ギリシャの哲学者のようだ。


「ディオゲネスの教えによれば、本当の自由は社会の慣習から解放されることにあるのよ。二人の関係だって、誰かに定義されるべきじゃない」


 イデアは、ゲネの言葉に戸惑いを覚えながらも、興味深そうに耳を傾けた。


「でも、ゲネ。社会の中で生きる以上、ある程度の規範は必要じゃないかしら」


 レイトが、イデアの肩に手を置きながら言った。その瞬間、二人の間に流れる空気が変化した。ゲネは、その様子を鋭い目で観察している。


「ほら、見てよ。二人とも、その仕草や表情を見れば一目瞭然じゃない」


 ゲネの言葉に、イデアとレイトは思わず体を離した。しかし、その動作さえもが、二人の間の特別な感情を物語っているようだった。


「私たちは……」


 イデアが言葉を紡ぎ始める。


「お互いの考え方に強く惹かれているの。それは友情を超えた何かかもしれない。でも、それを『恋愛』と呼ぶべきなのかどうか……」


 レイトは、イデアの言葉を受けて続けた。


「私たちの関係は、常に変化し続けているわ。それを一つの言葉で定義するのは、難しいのかもしれない」


 ゲネは、二人のやりとりを聞きながら、ふと思索に耽った。


「愛って、結局のところ何なんだろうね。プラトンの言う『イデア』のような普遍的なものなのか、それともヘラクレイトスの『万物流転』のように常に変化するものなのか」


 イデアとレイトは、ゲネの言葉に深く考え込んだ。


「私は……」


 イデアが静かに語り始めた。


「愛は永遠のイデアであり、同時に刻々と変化する現実でもあると思う。それは矛盾しているようで、実は深いレベルでつながっているのかもしれない」


 レイトは、イデアの言葉に強く共感を覚えた。彼女は、思わずイデアの手を取った。


「そうね。私たちの関係も、永遠の真理を求める気持ちと、日々変化する感情の両方から成り立っているのかもしれない」


 ゲネは、二人の姿を見つめながら、思わず微笑んだ。


「へえ、面白い考え方だね。でも、それって結局のところ、社会の枠組みにとらわれているんじゃないの?」


 その瞬間、屋上のドアが開き、他の生徒たちが騒々しく入ってきた。三人の内密な会話は、突然の騒ぎに中断された。


「あら、イデアとレイト、そしてゲネ! 何を話していたの?」


 テイアが明るい声で尋ねた。彼女の後ろには、テリアやクロエ、そして他の生徒たちが続いていた。


 イデアとレイトは、慌てて手を離した。しかし、その仕草は逆に周囲の注目を集めてしまう。


「もしかして、二人の関係に進展があったの?」


 クロエが、からかうような口調で聞いた。


 イデアとレイトは言葉に詰まった。その時、ゲネが立ち上がり、みんなの前に立ちはだかった。


「おいおい、みんな。人の関係に首を突っ込むのは野暮ってもんだよ。二人がどうあろうと、それは二人だけの問題さ」


 ゲネの言葉に、周囲は一瞬静まり返った。しかし、すぐに再び賑やかな会話が始まった。その中で、イデアとレイトは感謝の眼差しをゲネに向けた。


 夕暮れの空が、少しずつ色を変えていく。イデアとレイトは、再び手すりに寄り添って立った。二人の間には、言葉にできない何かが流れていた。それは友情でもあり、愛でもあり、そしてまだ名付けられない何かでもあった。


 ゲネは、そんな二人の背中を見つめながら、独り言のようにつぶやいた。


「結局のところ、愛も友情も、ただの言葉に過ぎないのかもしれない。大切なのは、その瞬間瞬間に、自分の心に正直に生きることさ」


 屋上に集まった少女たちの賑やかな声が、夕暮れの空に溶けていく。その中で、イデアとレイトの心は、新たな境地へと踏み出そうとしていた。永遠と変化、規範と自由、そして友情と愛。相反するものが融合する瞬間、そこに真の哲学が生まれるのかもしれない。

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