望月の日に家族と過ごすひとときに関して

白雪花房

その日はきっと、特別な夜だった

 宇宙の果てにまで届きそうなほど澄んだ夜空に、透き通った月が浮かぶ。目には見えているはずなのに、届かない。遥か遠くにあるからこそ、手を伸ばしたかった。胸に湧き上がる衝動の意味は、分からない。

 月に引力があるように、私もそちらへ引き寄せられているのだろうか。


 九月一七日、中秋の名月。

 昼間は畑仕事に精を出す観月家も、夜はゆったりとした時間が流れる。

 面倒な手伝いから解放されて、ようやく自由になった。高校の宿題を済ませたり、スマートフォンを片手にゲームアプリをいじったり、やりたいことを消化する。

 暑苦しかった夏が遠ざかり、このところは過ごしやすい。窓辺の席ではコオロギの声がコロコロコロとよく通る鳴き声で響き、耳にも涼しげだ。外は真っ暗闇に閉ざされており、日が沈む時間帯が早くなった気がする。秋の夜長とはよく言ったものだ。


「秋穂、外に出なよ。夕食まだでしょ? 月を見ながら食べないと、損だよ」


 オペラ歌手のような声をした女性が声を届ける。

 私はスマートフォンから手を離し、顔を上げた。ワイドパンツの脚を広げて立っているのは、母親だ。なんか勝手に入ってきている。

 ハートネックって本来はかわいらしいはずなのに、彼女が着ると恰幅のよさが際立つな。率直に言って似合っていない。

 月見の日だから若作りしてきたのだろうか。白けた目で思う。


 本音を言うと一人の自由を過ごしたい。私が嫌と言えば両親は悠々と縁側を独占し、豪勢な食事を満喫するだろう。

 ……やっぱり嫌だな。さすがに自分だけがハブられるのは、我慢ならない。


 仕方がないので腰を上げ、外に出た。

 ベランダの戸を開け板敷きに座り込む。

 窓辺や庭には花壇に混じって、月見用の装飾をほどこしてあった。

 父の仕業だろう。頭をよぎったのは、なよなよとした柔らかな顔に筋骨隆々のボディをのっけた、中年の男だ。コラージュみたいなアンバランスな見た目をした父は、芝生を踏みつけ、真剣な表情で空を見つめていた。

 私も同じ東の方角を向く。


 雲一つないほど深い黒に染まったキャンパスに、まんまるの月が浮かんでいた。凛とした静けさの中、白い輝きだけがふんわりと庭を照らしている。


「ねえ、知ってる? 今日は一年で一番月が鮮やかできれいな日なんですって。一年に一度、体験しなくちゃ損でしょう?」

 テレフォンショッピングに出演するお姉さんのように、勧めてくる母。言われなくても観るつもりだ。


 普段は仕事上の付き合いという感覚もある私たちだけど、中秋の名月の日だけは、家族という実感が湧く。

 同じ景色を見て同じ気持ちを共有する――たったそれだけで繋がりを持てた。


 深呼吸をすると冷涼な空気が肺に澄み渡り、清々しい気持ちになる。

 秋の風に吹かれ、庭に飾ってあるススキが揺れる様は、風情があった。


 そんな映画の一場面のような雰囲気を台無しにするのが、ほかならぬ父である。彼は見えないところからギターを取り出すと、あろうことか弾き始めた。


「ああ、今宵月は満ちた。幻想的な光の下、我は誓おう。夜を照らす光をたどり、永遠に続く道をともに進まん。ここは常夜の国。ああ君よ、あの月のように輝いていてくれ。そうでなければ地はくすみ、大地は枯れよう。ゆえにこそ愛の唄を奏でるのだ。星よ、想いを天に届けておくれ」


 気持ちよさそうに、酔っ払ったように歌う父を、私はぽかんと眺める。

 そういえば昔も同じ曲を奏でていたっけ。

 和風の曲調なんだから楽器を選びな。琵琶とか持ってないの?


 私がリアクションに困る中、父は自分の世界に入り込み、母は感激で目を丸くし、大げさに拍手を送っていた。

 うん、歌詞はよく分からないけど、無駄に歌唱力はあるよね。農家じゃなくて歌手になればよかったのに。

 皮肉をこめて口の中でつぶやいたとき、母がニヤニヤと頬を緩めながら、すり寄ってきた。


「聞いて聞いて。私のことを月だなんて、本当のこと言わなくても、知ってるわよ。ああ、私はやっぱり永劫、輝きを放つのね」


 頬を高くし目をぎゅっと、つぶる。恋する乙女のようなドキドキとした感情が表に出ていた。

 つまり月は母で、父がきれいだと称したのは、若がりしころの姿というわけ。

 別に深い意味なんてないよ。ただのポエムだ。

 母の名前は杏珠あんじゅ。月とはなんの関係もない。外見も線が太いし、田舎出身感が満載だ。朝方に黎明の向こうへ消える月にしては、儚さが足りていない。


「プロポーズとかもう、ロマンチックだったのよ。なんて言ったと思う?」

「『月がきれいですね』?」

「そう、今時めずらしいとは思わない?」

 確かに古風だけど、少しクサいよ。

 それに母の時代でいう今時って、どのくらいのことを指しているのだろうか。

「そういえば月のうた。常夜の国とかどうとか。父さん、母さんのことを月から着たお姫様とでも思ってるの?」

「そうなのよ。月の都にはね、お母さんみたいな永劫に美しい娘がいるんですって。いつか里帰りに行きたいわ。月の船とか来航しないかしらぁ」

 キャピキャピと目を輝かせて、母はハシャイでいる。

 嘘か本当か分からない言い回しはやめてくれない? まあ、実際に月には凸凹とした大地が広がっているだけだし、私は人間だから妄想だと分かるのだけど。

「観月家は代々農業を営んでるからね。月を見て過ごすのよ。暦とか重要でしょ。昔、この玉露たまつゆって地域は、秋になると収穫を祝ってお月さまに感謝を捧げてたのよ。それが月見として現代に引き継がれてるなんて、素敵でしょ?」

 声を高くして、早口で語る。

 放って置いても勝手にペラペラと続けそうな勢い。


 私は母の話にぼんやりと耳を傾けていた。

 恋バナを交えて聞かされると微妙に気持ちがクサクサとする。

 彼らのバラ色の思い出の中に、私の姿はない。

 みんなにとっての娘ってなんだろう。もしも二人にとっての輝かしい時期が過去に詰まっているのだとしたら、私の居場所はない。

 置き去りにされた気分。急に感傷的になって、体を縮めた。


 それはそれとして、月に関する内容には、やや惹かれる。血筋かもしれない。後者の話をもっと深く聞いてみたくなった。


「だから今日みたいな日は特別なのよ」

 娘の感情などいざ知らず、母は勝手に語り終えて、彼方を見据える。

 父はギターをしまって、月を拝み始めた。私もとなりにちょこんと座る。

 そばには真珠のようにツヤのある団子が、ピラミット状に積み上がっていた。今宵は収穫祭も兼ねている。約束通り、豪勢な料理を振る舞われた。

 さつまいもを大量消費したレシピ。ぶつ切りの固まりを煮込んたスープだったり、あんこを投入したおはぎ、ウサギを象ったスイートポテトなど。ほかには目玉焼きを載せたうどんや、チキンマフィンも用意されていた。

 バイキング形式で好きに取ってもいいらしい。選り取り見取りだ。

 一生分のごちそう。こんなに大量のレシピはお月見以外じゃ、見られない。


「うーん、甘くてホクホク。このさつまいもは格別ね。いい気になっちゃった。私も舞いを披露するわね」

「やってやってー。すごい見ものだと思うからー」

「あんたは笑いものにする気満々でしょうが」

 わざとらしく眉をひそめながらも、母はやる気だ。


 緑に芝生を整えた庭の中心に立ち、月光を浴びながら扇子をひらめかせる。くるくると、武芸で倣ったようにキレキレの踊り。

 一瞬、時が戻ったのを感じて、目を疑う。

 嘘でしょ……神秘的な輝きを受けた母が、天女に見えるなんて。

 透き通る光をスポットライトのように浴びながら、母はポーズを決めた。

 父が当然のようにウンウンと唸り、誇らしげに口角を上げる中、言葉も出ない。あんぐりとしたまま、固まってしまう。うっかり皿を落としかけて、慌てて掴む。


 正気に戻り、目をこすった。母はすっかり、ごつい外見の中年女性に戻っていて、意気揚々と縁側まで歩く。

「ねえねえ、どうだった」

 喜々として感想を求めてくるけれど、こちらからはなにも言えない。

 見入ってしまったのが悔しかった。

「これぞ月が認めた舞いだ」

 腕組みをし、ほくそ笑む父親。

 モヤモヤした気持ちを抱えながら、スイートポテトに手をつける。容赦なくウサギを真っ二つにして口に運ぶと、しっとり甘い。昔の母が乗り移ったかのようで、妙に癪だった。


 皆で和やかに団欒を過ごす。ほんのりと金木犀の匂いがただよう庭は、暖かな空気で満ちていた。柔らかな光があたりを包み込み、頭上では高く上った月の本体が、冴え冴えとしている。幻想的な存在感。まるでファンタジー世界に繋がっているかのようだ。あながち両親の話も嘘じゃないなと思えてくる。


 しばし見入っていると母がなにも考えない顔で、寄ってきた。


「ほら、富士の頂きから汲んできた清廉なる水よ」

 ただのミネラルウォーターじゃない?

 母がペットボトルから透明な水を注ぎ、手渡す。そばでは父が日本酒を煽り、宴のムード全開だった。

 私も水を飲む。宴なのに、なんで水?

 よくよくグラスを見ると、透明な器にススキやウサギの模様が刻まれていた。月見専用のデザインをしている。

 あれ? きょとんとまばたきを繰り返す。

 戸惑いながらミネラルウォーターに口をつけた。無色透明の涼やかさの中に、柑橘系の爽やかな味がにじむ。香料つきの水じゃない。

 このタイプの飲料を好きなこと、知っていたのか。いささか驚き、目を丸くする。


「プレゼント。誕生日はまだだけど、先にあげておく」

「本番はもっとすごいのを用意しておくぞ。楽しみにしとけよ」

 両親は胸を張り、得意げに主張する。

 私はハッと息を呑んだ。なんて、サプライズ。心臓がはずみ、気持ちが高ぶる。体が熱を帯び、一気に顔が赤くなるのが分かった。

 眉を寄せながら口元に花を咲かせる。気持ちをごまかすようにうつむいて、さつまいものスープを飲んだ。ほっこりとした温かさが身にしみる。気持ちまで暖色に色づくようだった。


 不意に明るい光が差し込む。顔を上げると、クリーム色の月と目が合った。

 昼間は見えないけれど、ずっと私を見守っていた光。普段は遠く距離を感じていたけれど、いつだって同じ場所にただよっている。

 月光の下にいるとまるで両親の愛に包まれているかのようで、安心感があった。

 そうか、二人はちゃんと子どもを見ていてくれていたんだと。しみじみと実感するだけで満たされた気分になる。

 今、どうしようもなく幸せで、月見を特別な日に思えてきた。


 おしゃれなグラスで飲むと、ただのミネラルウォーターも高級品に思える。グラスを掲げると、透明な水面に映り込んだ月はよりきれいに映えていた。

 まるで平安時代の観月の宴みたい。


 かくして月見はつつがなく終わりを迎える。


「月に向かって願い事をしてみなよ」

「そんな流れ星みたいなこと」

「ほら、いいから。私たちなら叶うかもよ」

 なら、遠慮なく。

「強いていうなら月読尊に会ってみたい」

 冗談のように口にした。

「会えるわよ。あなただけの特別な神様にね」

 母は真面目な顔で背中を押した

「お父さんみたいな男を選ぶんだぞ」

 父は勝手に決めつけ、得意げに腕を組む。なんか酒臭い。テンションが上がっているけど、酔っ払ってるのかしら。

 言われなくても父とは真逆の相手を選ぶよ。

 第一、私は本気だ。

 だって、こんなにも月に焦がれているのに、ツクヨミのことをなにも知らないのはおかしい。きっと、隠された神話があるはずだ。本体に直接逢って、確かめたい。


 それはそうと稲穂の刈り取りがまだだった。

 よく採れるといいなと、今の内に祈っておこう。

 目を閉じ、手を重ねる。簡単な儀式を済ませると私はようやく、家族の一員になれる気がした。

 いっそのこと月神に直接頼んでみよう。

 願いごとそれにしようか。

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