4.『気まぐれ屋』

 不器用だなあ。この一言に尽きる。

 失態を犯した哲夫を、お雪がひっぱたいた夜から、私は一時的に哲夫に預けられる身になった。

 あの後のそのそとベッドから起き上がった彼は、私を玄関に連れて行き、棚の上に置いていた。

 彼は気持ちが沈んでいたのか日曜日になっても出かける様子はなく、一日自分の部屋で過ごしていた。が、夜には研究室の秘書である田山に電話をかけたらしい。頼みたいことがあるから月曜日の夜に『気まぐれ屋』に来てくれないかと、ぼそぼそ話す声が、キッチンから聞こえてきたのである。

 月曜日の朝になると、彼は丁寧な手つきで棚から私を取り、手作りらしき小さなお守り袋に入れて、自分のかばんに下げた。出勤途中、目の粗いお守り袋からは、外の風景が透けて見えた。哲夫の気持ちとはおそらく裏腹に、晴れ渡る、心地良い風の吹く朝であった。

 研究室に田山はいなかった。今日は出勤日ではないらしい。

 哲夫の机にかばんと一緒に吊り下げられていると、学生にきちんと応じ、教授に言われた仕事もこなしている彼の様子がよく伝わってきた。が、時折「今日は寝癖がひどいですね。」と学生に指摘されたり、二度か三度、本棚の角かどこかに頭をぶつけているだろう音が、哲夫の「いてっ。」という声と共に聞こえてきたりした。それ以外には、おおむねすべき事を彼はきちんとこなしているように思われた。


 京都の初夏は、夕方を迎えてもかなり蒸し暑い。ほどよくクーラーを効かせた『気まぐれ屋』に哲夫が入ったのは、日が暮れた後のことである。店では三方の壁に張りつけられた鏡が今夜も客を映し出していて、ただ、じっと酒や食事を楽しむ人々を見守っていた。

 カウンターに、何やら色気のある茶髪の女性が座っているのが見える。店の照明も手伝ったたのだろう。鏡は、ジーンズをはいたごくラフな服装のこの女の姿を、実に美しく映していた。この色香に惑う男は多いだろうと思われる。が、切れ長の目は、鋭い。妖艶ようえんであると同時に、容易に男が手を出せない何かもまた、持ち合わせていた。この女性が研究室の秘書である田山であった。

 哲夫は私をお守り袋ごとカウンターに置いて、店主に軽く挨拶し、酒を頼んだ。哲夫やお雪と同期生であった気軽さだろうか。大学教員と秘書が話しているという雰囲気はない。事の詳細を哲夫から説明された彼女は、まず「あかんやん。」と、ため息をついて柔らかに微笑びしょうした後、ベージュのマニュキュアの光る美しき指でグラスのふちをなぞりながら「そこは、お雪から来るのを待たんと。」とつけたした。

「たしかに焦った自覚はある。けど、問題の本質はそこじゃない。」

 ふがふがと答えた哲夫の声は、無機質である。私はこれを、感情を抑えて懸命けんめいに客観的に土曜日の事件を考察しようとしているのだと見た。

「お雪のお腹をつまんだ事が問題よね。」

 田山が無遠慮に指摘した。

「お前の押しつけてきたクマのぬいぐるみが、事態をややこしくしたんだ!」

 哲夫が語気を強めた。

「あら。あれは、ただ、あなたにあげたんよ。フッた男のくれたものなんて、いらへんやん。」

フッた男のか。」

フッた男のよ。」

 不毛なやり取りになりかけた絶妙のタイミングで、店主がコメントした。

「いや、でも、深雪みゆきさんてね、田山さんのように、ご自分の魅力を分かってないですよね。もっと自信を持てばいいのに。哲夫さんが、学生の頃からずっと片思いしていたの、わかる気がしますよ。」

 店主の声は優しい。田山にもお雪にも配慮しているあたり、哲夫より女心を心得ていそうだ。

 田山は物知顔ものしりがおで「結婚する事を目的にしているから、悪循環に陥って、あんな風にフラれてばかりで泣き食いするのよ。」と独り言のようにつぶやいた。声には、なぜか、共感が入り混じっている。

「私の相方が、旦那さんになったのは、ほんとに偶然やもん。アレがなければ、あんな事がなければ、私も今、独身やったかもしれへん。」

 鏡に映る哲夫の横顔が、少し変化した。隣に座る田山を気遣うような表情をしている。

「まあ、見合いってのは、けっこう難しいんよ。その人と合うかなんて、三、四ヶ月ではわからへんかもね。うまくいく事やって、あるけど。お雪も結婚登録所のお見合い、まだするつもりみたいやし。哲夫には、複雑よね。」

 からかうような、にやりとした笑いを哲夫に投げながら、田山が言った。哲夫はすぐに田山に調子をあわせて「うるさいよ。」と返し、続けた。

「頼みがある。このイヤリング、お雪に、田山から返してくれないか。」

 哲夫はカウンターに置いてあったお守り袋から私を出して、彼女に見せた。田山は受け取って、言伝ことづてはあるかと、哲夫にうた。

「ない。」

 哲夫が言い切った。田山は「私から無言でお雪に渡せと言うの。」と言いはしたが、しょうがないわねとつぶやいて、薄ピンク色のポーチをバッグから取り出しながら、哲夫に念を押した。

「どうするかは哲夫の自由やけど、でも今これ以上、お雪に余計な事せん方がいいと私は思うよ。」

 田山のポーチに放り込まれる時、哲夫が苦い顔をしていたのを、私はしっかりと見た。



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盛夏 吉田理津 @ritsuy

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