3.哲夫
雨は既にやんでいて、あたりはいくぶん薄暗くなってきていたが、風は
『気まぐれ屋』と書かれた札を横目に
彼がようやく見合いについてコメントしたのは、カウンターに座り、注文した酒を店主が差し出し、ふたりで乾杯してしばらくした頃であった。
「お雪が抱いたんは、殺意までいくんか。鉛筆で刺すくらいなら、
「ほんまに殺したくなったんよ。ナイフで刺されたあの
店主が柔かな口調で「
「鉛筆に言い換えた所が、お雪の理性さ。気い狂ってるけど、確実に。」
数秒を置いてお雪は哲夫に顔を向けた。
「なんで。気なんか、狂ってへん。」
「考えてもみろよ。お前、今日見合いした人と、いくらかでも話したんか。」
鏡に映る彼女の表情が微妙に変化した。哲夫の投げた問いは、確かに彼女に何がしかの兆しを与えたように見えた。
お雪は哲夫に無言で返した。何か考えている様子である。一瞬、涙の乾いた
とろりとした、店主お手製の特大卵焼きで酒と食事をフィニッシュさせた満腹のお雪に、もう少し飲まないかと哲夫は誘ったが、お雪はすぐに返事をしなかった。
哲夫は言葉の少ない彼女を連れて、
河原から四条の通りへ階段で上がった後、しばらくしてお雪は口を開いた。
「私、今日見合いした男性と、
哲夫は下を向きつつ
「哲夫は今、どこに住んでるん。」
四条の
「ここから十五分くらい歩いたとこ。」
彼は
お雪は返事をしなかったが、哲夫の肩に触れて嫌がる
しばらく歩いて到着した哲夫のアパートは、木目調の壁が目を引く
「卒業して随分経つもの。趣味も変わるよねえ。それともカノジョのぬいぐるみ?」
哲夫は身じろぎし、ただ「今はおらん。」と答えた。
お雪はぐるりと部屋を見渡し、飾られている写真を手に取ったり、哲夫がお茶を
「結婚相談所のお見合い、まだ、いい人いるかな。」
今度は何か
「いい人って、どんなん。」
お雪が身じろぎした。
哲夫の目は、みるみるうちに細められて、もはや三分の一ほどしか開いていない。彼は鋭く質問を投げた。
「お前、ようやっと就職して安定した俺を、結婚の保険にするつもりか。」
彼の声にはツッコミを入れる調子が混じっているが、意外にも怒りを含んではいない。数秒の
哲夫の右手がふたたびお雪の
ふたりはベッドに座りこみ、キスを続けた。長かった。舌を絡ませる音や吐息が、耳元まで聞こえてくる。哲夫の手がイヤリングの私に伸びてきて、お雪の耳たぶから外され、私はベッドのサイドテーブルに移動を余儀なくされた。
イヤリングの宿命だがこんな近くに置くのはやめてくれ。他人のあんなこんななぞ見たくもない。
哲夫の唇がお雪の唇から離れて首筋に移った時、お雪が「くすぐったい。」と
「コレ、食いすぎだろう。」
と
二、三秒の
「お腹がだぶついていて、悪かったわね。」
お雪の手には巨大なテディベアがぶら下がっている。哲夫はお雪の腹をつまんでしまったらしい。彼はしまったという顔をして、もう一度彼女を抱きよせようとした。が、抱きよせたそれは、たった今お雪が哲夫に投げた、クマのぬいぐるみであった。哲夫は両手で顔を
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