3.哲夫


 雨は既にやんでいて、あたりはいくぶん薄暗くなってきていたが、風は、緑雨の匂いを含み、心地が良かった。

 鴨川かもがわ沿いをしばらく歩いて、河原から離れ、階段で上の道に上がった後である。夕陽ににじ鴨川かもがわを背に、哲夫は古い商店街に入り、その一角に、カフェ&バーが一軒、たたずんでるのを指差して「ここなら学生はいない。」と、お雪を中へいざなった。

 「気まぐれ屋」と書かれた札を横目に暖簾のれんをくぐると、鏡張りで、狭いスペースを広く見せる工夫のなされた、洒落た長細い空間がふたりを出迎えた。カウンターは木でできていて、全体に温もりを感じる造りである。

 彼がようやく見合いについてコメントしたのは、カウンターに座り、注文した酒を店主が差し出し、ふたりで乾杯してしばらくした頃であった。

「お雪が抱いたんは、殺意までいくんか。鉛筆で刺すくらいなら、兄弟喧嘩の域を超えてへん。」

「ほんまに殺したくなったんよ。ナイフで刺されたあの詐欺師が、やめてくれ、済まなかったと言いながら、血を流して泣いている所まで想像したわ。」

 店主が柔かな口調で「物騒ですねえ。」と口を挟んだ。

「鉛筆に言い換えた所が、お雪の理性さ。気い狂ってるけど、確実に。」

 数秒を置いて、お雪は哲夫に顔を向けた。

「なんで。気なんか、狂ってへん。」

「考えてもみろよ。お前、今日見合いした人と、いくらかでも話したんか。」

 鏡に映る彼女の表情が、微妙に変化した。哲夫の投げた問いは、確かに、彼女に何がしかの兆しを与えたように見えた。

 お雪は哲夫に無言で返した。何か考えている様子である。一瞬、涙の乾いた頬に、哲夫の右手が伸びたかに見えた。が、すぐに引っ込められて、彼の手はグラスに戻った。

 とろりとした、店主お手製の特大卵焼きで酒と食事をフィニッシュさせた満腹のお雪に、もう少し飲まないかと哲夫は誘ったが、お雪はすぐに返事をしなかった。

 哲夫は、言葉の少ない彼女を連れて、鴨川かもがわの河原をずっと歩いた。三メートルおきにカップルたちが座っているのが見える。歩いている河原より高い位置、川に沿ってつねに京都の街の通りがあって、橙色だいだいいろの光を投げている。やがて四条の繁華街が見えてくると、お雪も物思いから覚めたようだった。

 河原から四条の通りへ階段で上がった後、しばらくしてお雪は口を開いた。

「私、今日見合いした男性と、詐欺師と、同じに見てたわ。ふたりは別人や。刺したい気持ちになるくらい憎いのは詐欺師で、今日の美男とは違う。」

 哲夫は下を向きつつ微笑した。

「哲夫は今、どこに住んでるん。」

 四条の宵の口は、観光客でごった返している。その雑踏のざわめきに掻き消されるくらいの小さな声だったが、哲夫はその声を逃さなかった。

「ここから十五分くらい歩いたとこ。」

 彼は寺町通をしばらく歩いたのち、「うちに来るか。」とお雪にうた。

 お雪は返事をしなかったが、哲夫の肩に触れて嫌がる素振りを見せない。そのうち、だんだんと、ふたりの体が触れたままになった。

 しばらく歩いて到着した哲夫のアパートは、木目調の壁が目を引く洒落た造りである。部屋に入ると、お雪はベッドの隅に巨大なクマのぬいぐるみが置かれているのに目を留めた。

「卒業して随分経つもの。趣味も変わるよねえ。それともカノジョのぬいぐるみ?」

 哲夫は身じろぎし、ただ「今はおらん。」と答えた。

 お雪はぐるりと部屋を見渡し、飾られている写真を手に取ったり、哲夫がお茶を淹れるのをじっと見つめてたりしていたが、マグカップを受け取ると、不意に、独り言を吐いた。

「結婚相談所のお見合い、まだ、いい人いるかな。」

 今度は、何か企んでいる声である。

「いい人って、どんなん。」

 お雪が身じろぎした。

 哲夫の目は、みるみるうちに細められて、もはや三分の一ほどしか開いていない。彼は鋭く質問を投げた。

「お前、ようやっと就職して安定した俺を、結婚の保険にするつもりか。」

 彼の声には、ツッコミを入れる調子が混じっているが、意外にも、怒りを含んではいない。数秒ののち、罪深きお雪は「うん。」と小さく頷いた。

 哲夫の右手が、ふたたびお雪の頬に伸びて、今度は確実に、彼女の顔を捉え、両手で包んだ。瞬く間に、哲夫とお雪は接吻せっぷんしていた。

 ふたりはベッドに座りこみ、キスを続けた。長かった。舌を絡ませる音や吐息が、耳元まで聞こえてくる。哲夫の手がイヤリングの私に伸びてきて、お雪の耳たぶから外され、私はベッドのサイドテーブルに移動を余儀なくされた。

 イヤリングの宿命だがこんな近くに置くのはやめてくれ。他人のあんなこんななぞ見たくもない。

 哲夫の唇がお雪の唇から離れて首筋に移った時、お雪が「くすぐったい。」と艶のある声を漏らした。哲夫が布団の下で手を彼女の腰に回したらしい。これは最後まで行くつもりだと、私が訳の分からん覚悟をしたかしないか、哲夫が、

「コレ、食いすぎだろう。」

 と呆れた気持ちの混じる、まるで色気のない声を漏らした。

 二、三秒ののち、哲夫は頬をひっぱたかれて、体を離した。ベッド横に設置された鏡に映る彼女の目が、不気味な光を帯びている。

「お腹がだぶついていて、悪かったわね。」

 お雪の手には巨大なテディベアがぶら下がっている。哲夫はお雪の腹をつまんでしまったらしい。彼はしまったという顔をして、もう一度彼女を抱きよせようとした。が、抱きよせたそれは、たった今お雪が哲夫に投げた、クマのぬいぐるみであった。哲夫は両手で顔を覆い、ベッドに倒れ込んだ。私も彼も放りっぱなしにされて、お雪が憤然と玄関から出ていった後、私はもちろん、哲夫もそのまましばらく動かなかった。

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盛夏 吉田理津 @ritsuy

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