2.緑雨の京都

 イヤリングである私の使命は、ただ、主人の幸せを祈ることである。でもねえ。初対面の見合い相手にあんなことを言う女性なんて、なんて女の所有物になってしまったのか。私には、深雪みゆきの感じることなぞ分からん。少なくとも完全にはわからん。まあでも、共感がまったくない訳でもない。見合い相手に見た目で判断されて、あんな落胆した様子を見せられたら、たしかに良い気持ちはしない。


 これは、お雪が見合い相手に喧嘩を売った直後の、私の気持ちである。こんなことをうだうだ、ぼんやりと、ただ考えているうちに、お雪は、ホテルの最寄り駅のプラットフォームから、とっとと特急電車に飛び乗っていた。

 お雪が向かったのは、自宅の最寄り駅ではない。京都であった。電車の中で、彼女はハンカチを取り出し、全身の雨粒を拭ったが、着ていたツーピースがぐっしょりとしていることに変わりはなかった。スマホを取り出し、誰かとメールし、「三条へ」と呟いた後は、車窓から見える住宅街を眺めているばかりであった。

 ほどなくして降車し、たどり着いた京都の三条は、雷雨ではなく、柔かな霧雨が降っていた。色とりどりの傘をさした人々が、三条大橋の上で、鴨川かもがわを眺めたり、人を待ったりしている。

 お雪も三条大橋で人を待った。ずぶ濡れ姿のお雪は、周囲の目を引いたが、本人に気にしている様子はない。

 鴨川かもがわの風景を背に、数分経った頃である。眠そうな、寝癖を直しきれていない黒髪の男が、ゆっくりとお雪に近づいてきた。

 新緑の季節、京都の三条大橋に煙る霧雨は、橋に立つ人々の輪郭をぼかして、誰が立っているのか、判別することを難しくしていた。が、寝癖頭の男の目は、すぐにお雪を捉えたらしかった。

 雨雲が切れて、金色の陽光が一筋、橋に射した。霧雨はまだいくらか降っていたが、カップルたちがお雪から視線を外し、一組、また一組と河原に下りていく。他は、鴨川かもがわを橋から眺める観光客が数組いるばかりである。

 寝癖男は、ずぶ濡れのお雪の前に立つなり笑いを噛み殺した顔をして、

「そのびしょ濡れは、どうしたん。ほっぺたにクリームもついてるけど。」

 と、問うた。人目をはばからずにすすり泣くお雪の頬は、つい先程、駅の売店で買ったばかりのシュークリームで、リスのように膨らんでいたのである。

 「あとで説明する。」と短く答えたお雪に、男は橋柱近くのベンチを指差して、下りようかといざなった。お雪は首を振った。

 濡れた服では店にも入れないと思ったのだろう。寝癖頭の男は、少し考える様子を見せた後、ひとつ、提案した。大学の同期の女性で、お雪も知っているタヤマが、今研究室で秘書をしている。彼女はいつも研究室のロッカーに服を一式置いているようだから、借りて着替えてはどうかと言うのである。お雪は、今度は承知した。


 タヤマにその場で電話して、承諾を得たお雪は、大阪から移動して来たのと同じ電鉄の駅に寝癖男と引き返し、最終駅で降車して、徒歩で、煉瓦れんが造りの美しい大学にたどり着いた。

 研究室のドア横に「教授」「准教授」「助教授」とあって、それぞれ名前の書かれた札がかかっている。寝癖頭は「助教授 山際 哲夫」の札を指差して、お雪に笑みを投げた。

「哲夫、母校に就職できたの。」

「まあね。非常勤ではなくなった。今年度から。」

 「タヤマのロッカー」とは、「秘書 田山春子」と名札のついた灰色の長細いロッカーであった。お雪はロッカーの扉を開けて、服を取り出し、トイレに向かい、そこで着替えた。ゆったりとした、Tシャツの丈をそのまま伸ばしたようなてろてろのワンピースである。洗面台の鏡に映し出された彼女の目からは、怒りに満ちた光が消えている。いくぶん安定したらしい。

 研究室に戻ると哲夫は珈琲コーヒーを淹れていて、お雪は促されるがままに一口飲んだ。

「淹れるの上手ね。」

 彼女は笑みを漏らし、本日のメインイベントであるはずだった、見合いの話を哲夫に話して聞かせた。

 仕事机に座る哲夫の肩越しに、窓際に飾られている写真が見えた。それは、集合写真だった。「第十五期 重原ゼミ」とある。屈託なく笑う今より若い哲夫の横に、可愛らしいお目めの、ふっくらとした、しかし太り過ぎてはいない女学生が映っている。お雪である。学生の頃は、こんなにも可愛らしかったのだ。

 しばらくふたりは無言で過ごした。時は、ただ、ゆっくりと流れていく。やがて哲夫の机の近くにある時計が六時を指して、教授の机の横に掛けてある古時計も、ボウンボウンと、部屋に響くように鳴った。

 哲夫は思いついたように、少し散歩に出ようと言い出した。哲夫は、無言で頷いたお雪を連れて、外に出た。ふたりは、再び、夕方の美しい京都の鴨川かもがわへ出掛けたのだった。

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