重陽の菊

小野塚 

『根古間神社祭禮』二尾香子

この明治から続く由緒ある旅館に私が

嫁いで来たのは、もう彼此かれこれ三十年以上も

前になるでしょうか。


元々、山深い温泉地の小さな温泉旅館を

経営する両親の三番目の娘だった私は、

高校を卒業すると直ぐに実家の旅館の

中居として働き始めました。

 上の姉は若女将として、母でもある

女将について修行を始めていましたし、

次姉も早々に進路を決めて、東京にある

アナウンサー養成の専門学校に通う為、

北海道を出ていたのです。


私は、というと。良く言えばあまり

手が掛からない、悪く言えば無気力な

娘だったと思います。



あれは、私が二十歳になった頃。


偶々、父が理事を務める旅館業組合の

会合で『渚亭』の 後継者問題 が

話題となったのです。


『渚亭』は、創業明治元年の歴史ある

旅館。珍しい和洋折衷の建築様式で、

海外からも態々お客様が訪れるのは

旅館組合の中でも有名な話でした。

 只、歴史的建造物ではあるのですが

如何せん立地が 鄙びた漁村 では

余りにも勿体無いと、父からもよく

聞かされたものでした。


その『渚亭』に私を嫁がせて、ゆくゆく

女将にしてはどうかという縁談が、

私の預り知らない所でトントン拍子に

纏まっていたのです。


何を勝手な事を、と思いましたが。


生まれてこの方、私は山深い渓谷の

温泉郷しか知りません。しかも

これといって人生の目標がある訳でも

ありませんでした。

歴史的にも由緒ある旅館の若女将に

推薦されたという事は、何かと姉達の

陰に埋もれて来た私にとって、ほんの

少し魅力的に響いたのです。

 



結局、初めて私が『渚亭』のある

漁師町を訪れたのは、形ばかりの

 お見合い の為でした。



JRの駅を出ると、湾を描く白い浜と

陸繋島りくけいとうが視界に飛び込んで来ました。

島の突端には灯台。そして頂には

神社があるのでしょう、朱い鳥居が

幾つも重なって山の上へと続いて

いるのが見えました。


「…あれが明神様の『千本鳥居』だべ。

月に一度、篝火焚いてライトアップする

催しがあるっけ、きっと綺麗だべや。」

呑気な父は、そんな事を言いましたが、

もしこの縁談が上手く行かなかったら。

そう思うと、心の中に不安という名の

暗雲が広がって行くのでした。


「二尾の謙介君は優しい青年さ、何も

心配すっ事ねぇべ。」「…。」当時、

夫の為人ひととなりを知るのは父だけです。写真を

見た限り平凡というのか、特に好きな

タイプでもなかったのです。





明治元年創業の、歴史的建造物とも

言われる『渚亭』は、外壁を赤煉瓦あかれんが

そして門構えや庭などは純和風建築の

和洋折衷。創業当時はハイカラで

珍しい、それこそ 竜宮城 の様な

旅館だったのでしょう。


 しかしながら、


私の第一印象は

の様な、何だか不気味な

印象でした。


 しかも、更に私を驚かせたのは


  開 か ず の  間 


そう呼ばれている二十畳の和室が

存在している事でした。

其処には海神の娘 玉依毘賣たまよりひめ が

屋敷神 の如く祀られていて、

、その御世話が許されて

いるというのです。



見合いは粛々と進み、夫の謙介さんとも

思ったよりもウマが合って、結局、私は

この『渚亭』へと嫁いで来る方向で話が

纏まって行きました。

 勿論、単なる縁談ではなく『渚亭』の

女将になる為の政略結婚ですから、当然

私にはそのが課せられる訳です。


『渚亭』の先代女将は私にとっては

義理の母ですが、私は初めから彼女を

 と、そう呼んでいました。

 姑と嫁であると同時に

関係になるのが、この世界なのです。


二尾に嫁ぐ事が決まった私の初仕事は

『開かずの間』を訪い、中の

ご挨拶をするというものでした。



「ここは、ウチら代々の女将にとって

最も重要な部屋だべさ、他の客室は

従業員に任せていいけど、ここだけは

絶対 女将 自らが管理するさ。

中にいらっしゃるのは 玉依毘賣 と

呼ばれる、商売繁盛と縁結びの神様で

海の神様『猫魔大明神』様の娘って

言われてるっけ。」女将はそう言うと

襖の前で両手を着いて、私にも同様に

する様に指示しました。


「畏み、畏み申し奉る。此度は二尾の

若女将と成ります香子きょうこを御目にかけたく

罷り越しました次第。是々非々にも弥栄いやさか

御慈愛、御願い申し奉りまする。」


朗々とした女将の声の後で、それまで

ピタリと閉じられていた襖が、すうっと

開きました。「…?!」誰も指一本

触ってはいないのに。

「さ、中へ入ってもいいってさ。」

女将さんは嬉しそうな顔で私を促すと

先ずは自らが和室の中へと入り、

一つ礼をしてから立ち上がって部屋の

奥に進みました。そして正座をすると

両手を着いて頭を下げました。


 其処には異様な仏壇が一つ


いえ、何故それを私は 仏壇 だと

思ったのか。

 、よく分かりませんでした。


仏壇だと思ったのは実際は 神棚 で

そこには注連縄しめなわしでで仕切られた台に

真榊まさかきに鏡が、神社の社殿の如くうやうやしく

まつられていたのです。

 その横には菊の花が、まるで仏花の

如く。いえ、仏花よりも余程沢山の

色取りどりの菊が左右の大きな花瓶に

活けられていました。


 私はふと、今日が九月九日だった

事を思い出しました。

          『重陽の節句』


今は余り一般的ではありませんが、

菊の花を飾り、 家族の無病息災や子孫

繁栄、不老長寿を願う 五節句 の

一つです。



「…御挨拶するべさ。」女将さんが

私に促し、私も慌てて両手を着いて

頭を下げました。

「この度、二尾におの家に嫁入り致します

香子きょうこで御座います。この『渚亭』の

若女将として勉強させて貰いますっけ

何卒宜しくお願い申し上げます。」



「承知。」


「…?!」驚きで思わず顔を上げて

しまいましたが、目の前には祭壇が

あるばかりです。声は、まだ若い

女性のものでした。

「…。」私は隣に平伏する女将さんを

見ました。「有難き事、謹んで御礼

申し上げ奉る。」額を畳に付けた

女将さんの背中越しに、

しまったのです。


 「…ひッ!」瞬間、恐ろしい映像が

一気に頭の中に流れ込んできました。


血みどろの闘いが。まさに戦火の中を

掻い潜って逃げ惑う人々の絶望が。

 そして嵐の荒濤の中で、朱い鳥居の

中を降ってゆく。これから死に征く

恐怖や悲嘆というよりも、何故か心が

次第に凪いで行くのが分かりました。






「…。」気が付くと私は畳の上に

敷かれた布団に寝かされていて、父、

女将さんと謙介さん、それに地元で

『猫魔大明神さん』と親しみを込めて

呼ばれる『根古間神社』の宮司さんが

心配そうに見守っているのが目に

入りました。


「…香子ちゃん、大丈夫かい?よく

頑張ったねぇ。あれは二尾の御先祖に

あたる 富子様 の記憶さ。神様に

成った娘だべ。それを見せられるのは

次の女将と認められた、って事さ。」


死者に手向ける仏花の様な沢山の菊。

若い娘の声。そこにいる筈のない


    沢山の猫達の光る瞳。


そしてあの恐ろしい光景。


私は思わず身震いしましたが、心は

秋晴れの如く爽やかでした。




でも

   もし、気に入られなかったら。




 そう思うと。






語了

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重陽の菊 小野塚  @tmum28

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