雪の魔女

淳一

雪の魔女


「お父さん、雪だよ!」

 息子の声に、ああもうそんな季節なのかと、窓の外を見上げた。

 空にはどんよりとした重い雲が漂い、ちらりちらりと白い粒が舞い降りているのが見える。

「降り始めちまったかあ」

 積もるかな? と息子ははしゃぐが、雪かきが待つ俺にとってはため息しか出ないものだ。

 この村の雪は、一度降ったら春まで溶けない。主要道路が整備される前までは、初雪が観測された一週間後には街に続く道さえも封鎖されて、文字通り陸の孤島となっていた。当然ながら狩りもできないため、食糧の備蓄は必須だった。

「………………」

 今はまだ淡雪のようなものだが、明日には一面雪景色に変貌していることだろう。

山が拓かれた今は、街に出て行くのも難しくはなくなって、以前ほど備蓄に力を入れる家も少なくなったが、それでも何が起こるかわからない。冬備えの準備はしていたが、今日中に足りないものがないか確認しておいた方が良さそうだ。

 椅子から立ち上がり息子の名前を呼ぶ。

「はーい」

「雪が降ったので、冬備えの確認をするぞ」

「わかった!」

「足りないものは今日の昼までに俺に提出すること」

「はい!」

 どこで覚えたのか、敬礼の真似事までして息子は台所に走っていく。まずは食糧――もといお菓子のチェックから、ということだろう。

「さて、俺もやらないとな」

 食糧はもちろん、暖房に使う燃料、衣服、なくなったら困る道具類……確認しなければならないものは思いのほか多い。事前に一覧表を作っておいて正解だったと思いながら、もう一度、窓の外を見た。

「雪、か」

 この村で見ない年はない、ありふれたもの。けれど、俺にとっては、少しだけ特別なもの。

 彼女と会ったのは、いずれも猛吹雪の中だった。視界一面が白一色の世界。彼女の赤いローブ姿は、今でも鮮明に思い出せる。

   ―――

 ぱちぱちと、薪の爆ぜる音が目を覚ました。

「――っ、俺」

 体を起こせば、視界に入ったのは絶望的な吹雪ではなく、少し湿気を帯びた岩肌。近く漂う暖気の源は小さな焚火で、明かり代わりに周囲を照らすのもその炎だった。

「たす、かったのか……?」

 吹雪になる前に帰る予定だったのだ。

 しかし、山の天気というものは読めないもので、気付けば視界もまともに確保できないほどの猛吹雪となっていた。あたり一面真っ白で、前後も左右もわからない。とにかく、とにかく雪を凌げる場所に行かなければと、彷徨い歩いた末に洞窟らしきものを見つけたところまでは覚えている。

 そこから先の記憶は、ない。

 ちらと、燃える焚火を見る。

 まさか洞窟に逃げ込んだ自分が自力でつけたわけではないだろう。誰かが助けてくれたと考える方が自然だ。

 だが、こんな猛吹雪の中でいったい誰が?

 そんなことを考えていれば、ざり、と地面を踏む音がした。獣の音ではない。人の足音だ。

 顔を上げれば、人影がこちらを向いている。

「あ、えーと」

 ゆったりとした赤のローブを纏ったその人は、おそらく女だろう。目深にフードを被っているせいで顔は見えない。

「あんたが、助けてくれたのか?」

 女はすっと壁に寄ったかと思うと、一方――外を指さす。

「ええと……」

 視線をそちらにやれば、吹雪がやんで青空が見えていた。「晴れた」と言いたいのだろうか。

 体の調子を見る。吹雪の中で倒れたとは思えないくらい、不調はなかった。怪我もない。いまのうちに村に帰れれば、それがいちばんだろう。

「その、ありがとう」

 立ち上がり、すれ違い様に礼を言った。思ったよりも身長が低く、やはり顔は見えない。

「……あんたは、どうすんだ? うちの村の人じゃないよな?」

 振り返った先の女は、しかし無言のままだった。

 よくよく見れば、冬の山にいるには不自然なほどに薄着だ。遭難者にしたって不自然だ。となれば――

「……ああ、うん、事情は聞かねえよ」

 それだけ言って背を向ける。こういうものは深入りしない方がいい。

 外に出てみればあの猛吹雪が嘘のようで、雪焼けしそうなほどに視界が眩しかった。

 とはいえ、またいつ空が機嫌を損ねるかわからない。早々に村に帰ろうと、振り返りもせずに山をくだった。

   ―――

「魔女?」

 村に戻ってからしばらくして、ふと友人に洞窟で出会った女の話をしたら、そんな単語が出てきた。

「そ、雪の魔女」

「なんだそれ」

「時折ある猛吹雪は、その魔女が降らせてるって話だよ。お前知らないのか?」

 確かに雪は強いときもあれば弱いときもある。だがそれらすべては空の都合だろう。猛吹雪は人為的に起こされているなど、いったいどこから出てきた与太話なのか。

「聞いたことないな。村のやつら全員それ信じてるのか?」

「村のやつ全員……ってわけじゃないなあ。古い年寄りとかはけっこう信じてるみたいだけど」

 そういえば、と友人の家族構成を思い出す。両親がよく街に出稼ぎに行くものだから、友人は祖父母の家で育った。そんな昔話もよく聞いたのだろう。あいにくと俺は古い年寄りでもないし、家にそういう人もいないので、今日が初耳だが。

「それにしても」

 この話題はこれ以上続きようがないと判断したのだろう、友人が窓の外を見た。

「今年の冬は長いな」

「そうだな」

 窓の外は相変わらず吹雪いていて、村の中でさえ時間帯によっては遭難しそうな勢いだった。

「……今日、家に帰れないかも」

「泊ってけ」

 止む気配のない雪を前にぼやく友人。俺は残りの食糧を思い出しながら、そう言った。

 雪は、数日経っても止まなかった。いよいよもって、異常事態だ。村全体にも緊張が走る。

「これ以上雪が降り続けたら、食糧がなくなってしまう」

 各家庭の備蓄もあるし、村全体での備えもある。

 けれど、例年より長い冬の気配に村人が恐れを抱くのは自然な流れだった。

 そして、そんな状況だったからだろう。誰かが言ったひと言が、瞬く間に村全体に広がっていったのは。

 ――雪を降らせているのが魔女ならば。

 ――その魔女を退治しよう。

   ―――

 こんな吹雪の中で魔女狩りなんて正気かと疑ったが、一度湧いた魔女への嫌疑は冷める気配もない。普段ならそんな与太話を信じないような人まで、今回ばかりは魔女のしわざと信じてやまない状態だった。

 吹雪もずっと吹き続けているわけではない。俺が村に帰ってきたときのように、時折青空を見せる瞬間がある。それも数時間単位だ。であれば山に入っても吹雪を凌ぐ場所さえ見つけられれば動き回れる。そうやって、魔女狩りをしようという考えらしい。

 この広い山で、魔女がいる場所の検討なんてついているのかと思ったが、どうやら俺が友人に語った不審な女が魔女として触れ渡っているようだった。確かに吹雪の中にいそうにもない軽装だったが、そもそも顔も見ていないし、女というのはあくまで予想だ。だぼっとしたローブでは、体形だって出てきやしないのだ。

 残り少ない資源を魔女狩りのために費やすのを馬鹿らしいと思う反面、焦る気持ちは嫌というほどわかる。

 食糧はもちろん、燃料ももうないのだ。極寒の土地で燃料を切らすということは、それだけで死を意味する。

 やってみなければわからない――そんな、いつもならポジティブに捉えられそうな言葉が、今回ばかりは「ひとりの女を殺せば吹雪が収まる」などという幻想について回っていた。

 ──だからってなあ……

 はあ、とため息をつく。背後からはザクザクと雪を踏む音が続いていた。

「俺を先導にしなくてもいいだろうが」

 確かにあの女と会ったのは俺だ。だが、あの女が魔女という証拠は何もない。ただの、そう、ただの自殺願望者という可能性だってあるのだ。にもかかわらず、この魔女狩りに強制参加だ。小さな村である以上、助け合いの精神は義務だし、村長の命令は絶対だ。

 だが、それでも自分の命は惜しい。冬の雪山に入るというのは、それだけで死を覚悟しなければならないものなのに、それが事実かもわからない魔女伝説のためとなれば、なおのこと我が身の不運を呪いたくなる。

 何より、俺が彼女と会ってからもう何日も経過している。同じ場所にいるとは限らないし、普通の人間であればとっくに死んでいるだろう。

 そうこうしているうちに少しずつ視界も悪くなってきた。もう間もなく吹雪が来る。

「グループに分かれて洞窟を探せ。吹雪いている間は絶対に外に出るなよ」

 全体リーダーが声を張る。既に何ヶ所か洞窟は確認していたためか、避難も早い。

 所属するグループリーダーについて、俺も避難を開始する。──した、つもりだった。

「あ──」

 白い雪の中に赤は目立つ。それも、血の色とは違う鮮やかな赤だ。

 ──あいつ……っ

 生きていた。

 いや、それどころではない。

 この集団は、彼女を殺すためだけにわざわざ遭難覚悟で冬の山に入った馬鹿どもだ。

 気付けば、その赤い影を追ってグループから離れていた。

   ―――

 何をしているんだろう、と我ながら呆れた。

 赤い影はすぐに見失い、代わりに辺り一面は猛吹雪。四方が白い壁で覆われていて、下手に動くことさえできない。せっかく拾った命だというのに、またしてもこの雪に奪われるのか。

 とはいえ、考えなしに動いた自分が悪い。おとなしくチームリーダーに従い、吹雪がやんだあとに改めて探せば良かったのだ。

「ばかみてえ」

 口に出して呟いたのか、それとも頭の中だけでひとりごちたのか、最早それすら判断がつかなかった。

 ざく、ざく、と雪を踏む音が聞こえてくる。こんなもう吹雪の中で動き回る生き物などそうそういない。ついに幻聴まで聞こえてきたかと笑っていれば、白いばかりの視界に朱が入った。

 最初はぼんやりと、だが次第に形をなしていく。

 赤いローブ姿の人影。多分、女。相変わらず、顔は見えない。

「――――――」

 何か喋ったような気がしたが、うまく聞き取れなかった。

「……あんた」

 声が出ているのかわからない。だが、これだけは言わなければならない。

「あんた、逃げた方がいい」

 思っていたよりも流暢に舌が回った。赤い影が動く。まるで困惑しているかのようだ。

「何しに、山に入ったのかは知らないが……逃げた方がいい」

 左手を伸ばす。フードの奥の、顔に触れた瞬間、焼けるような熱が指先を襲った。

   ―――

 目を覚ますと、村の診療所だった。

 どうやら俺は遭難扱いになっていて――実際、遭難していたのだ――吹雪がやんだあと捜索が行われたそうだ。魔女狩りの方はと言えば、探そうにも実際に目撃した俺がいなければ探しようがないということで、一時中断となったらしい。

「左手の薬指は残念だったな」

 見舞いに来た友人がそう言うのに、俺は寝たまま左手を掲げる。五本の指の中で一本だけ、薬指だけがなくなっていた。凍傷によるやむを得ない措置だった。

「でも、なんで薬指だけなんだろうな」

 指輪をしていたならまだしも、と友人がぼやくのに、俺は「さあな」と返す。

 左手と言えば、あの女に触った手だ。触れた瞬間、指先が焼ける感触がしたのは覚えている。それほどまでに、あの女の肌は冷たかったのだ。

「……これじゃあ結婚しても指輪ははめられねえなあ」

「アテでもあるのか?」

「それを聞くなよ」

 気の利かない友人に口を尖らせれば、対する相手はにやりと笑う。軽口だったらしい。

「……そういえば、あれ以降、嘘のように雪が降らなくなったぜ」

「そうなのか?」

 日がな一日、診療所で療養しているからか、外の様子をあまり気にしていなかった。

「例年には遅いけど、春が来てる」

「ふーん」

 確かに、今でも吹雪が続いていたら、村はもっと騒がしいだろう。それがないということは、春の兆しが見えてきたということだ。

「魔女狩りもなくなったってことか」

「とっくにみんな日常に戻ってるよ」

 あの一瞬の狂熱はなんだったんだろうな、と友人は遠くを眺めた。

 冬が終わらない閉塞感、日々減っていく備蓄から感じる飢えと寒さ。あのときは村の誰もが、切羽詰まっていたのだ。

 ――魔女、か。

 あながち、雪の魔女の伝説というのは、誤りでもなかったのかもしれない。

 今となってはそんなことを思う。

 結局一度も見なかった顔、聞かなかった声。猛吹雪の中の、赤い影。改めて考えてみれば、あれがまっとうな人間であると考える方がおかしいくらいだ。

「どうして、俺を助けたんだろうな」

「何言ってんだ、助けるに決まってるだろ。それとも何か、自殺願望でもあったのか?」

 俺の言葉を友人は別の意味で捉えたらしい。

「そっちじゃねえよ」

「? ……ああ、前に話してた魔女の話か」

「魔女なのかは知らないけどな。……でも、確かに魔女って考えた方が納得もいくんだよな」

「………………お前、会ったの?」

 友人の問いに、俺は無言を返す。それが肯定だということくらい、こいつならわかるだろう。

 吹雪が止んで、山に出ていた全員で捜索を行った日。見つかったのは、比較的近い場所で、けれど雪に埋もれることなく倒れていたのだと、話だけは聞いている。あの猛吹雪、普通だったら死んでいてもおかしくない。

「……ははーん」

 不意に友人が変な声を上げた。振り返ればにんまりと笑っている。嫌な予感がして体を起こした。

「……なんだよ」

「お前、惚れたな?」

「はあ?」

「ま、死にそうなところを助けられたら、そういうこともあるか」

「おいこら、勝手に話を進めるな。だいたい顔すら見てないんだぞ」

 なるほどなるほどと笑いながら立ち上がる友人を追おうと、俺もベッドから身を乗り出す。

「まだ安静にしてないとだめだぞー。先生は怒ると怖いぜ?」

「うるせえ、お前、変な噂立てたら殴るからな」

「誓って口外はしないとも」

 そう言う背中がまったくもって信用ならない。狭い村だ、一度立てた噂はあっという間に広がっていってしまう。

 だが、友人が言うように診療所の医者が怖いのも事実。「くそっ」と悔し紛れに吐き捨てていると、扉を閉めながら笑う友人の顔が目に入った。

   ―――

 実際は、魔女の方がお前に惚れたんだろうよ。

 そんなことを友人に言われたのは、あれからもう何年も経って、互いに所帯を持つようになってからだ。

 それ以降の冬は例年並みの長さで、あの年の猛吹雪は異常気象という扱いでいまは終わっている。魔女の伝説はまだ残っているが、それを心底信じてる村人はもう少ない。

「起きて早々に帰れって言われたぜ?」

 正確には、言われた、のではなく、行動で示されたのだが。

「追い返してから、やっぱ手元に置いておきたいって思ったんだろ」

「気分の移り変わりが激しすぎるだろ」

 山の天気だってもう少しわかりやすい。

「相手は魔女だぜ、常識が通じるわけないだろ」

「ま、それもそうか」

「薬指一本で満足してもらえて良かったな」

 足りない左手の指を眺める。

 これが「連れて行かれた」ということなら、相手がもっと欲深ければ死んでいたということだ。最悪、雪の下に埋もれてそのまま行方不明扱いになっていたかもしれない。

「……暫く、雪山には入らないほうが良さそうだな」

「今度こそ村が滅びるかもしれないしな」

 冗談のように言う友人に「勘弁してくれ」と俺は息をついた。

「もう少しで産まれるんだからさ」

   ―――

「お父さん!」

 庭に置いてあった薪を室内に運んでいれば、息子が声を掛けてきた。家の中からぴょんと庭に飛び降りる。

「これ!」

「お、足りないものまとめてくれたのか。どれどれ……」

 拙い字で書かれているのは靴下――何足か穴が空いていたらしい――、最近ハマっているお菓子、そしてちゃっかり街で流行っているボードゲームの名前まで。確かに冬はあまり外で遊べないが。

「村で買えないものは無理だぞ」

 期待の眼差しを向ける息子に対し、厳しいが悲しい事実を告げる。それにあからさまにショックを受けた表情を見せ、苦笑しながらその頭を撫でた。

「代わりにこっちは多めに買ってやろう」

「!」

 好物のお菓子を指してそう言えば、やったあと跳ねた。

 買い物に行く準備をする、と部屋の中に戻っていく息子を見送ってから、まだ淡雪ばかりを降らす空を見上げた。

 今年の冬は、どれほどの雪が降るだろうか。




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雪の魔女 淳一 @zyun1

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