彫像の囁き

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彫像の囁き

 曇りがちな午後だった。

 空には鈍色の雲が垂れこめ、いまにも降り出しそうだったが、風はなかった。湿気をふくんだ空気に、雨のにおいはない。それでも季節の変わり目だ。このところずっと晴れ間が続いていただけに、急に降り出すかもしれないと、加部谷かべや恵美えみは思った。

 恵美は家政婦協会から派遣されている家政婦だ。細身で髪が長い。化粧が上手なのか、それとも顔立ちが美しいのか30代半ばでも学生に間違われることがあったのは、どちらかというと童顔のせいだろう。

 しかし、最近になってやっと自分でも年齢相応の落ち着きが出てきたのではないかと思うこともある。

 静けさが漂う住宅街を抜けると小高い丘があり、そこに古い屋敷がある。木々が茂り道路からは見えにくいので、うっかりすると見落としてしまいそうだ。

 しかし近づくにつれて異様な存在感を示しはじめ、やがて全体が視界に入るようになる。

 彫刻家・高岡たかおかまことのアトリエ兼住居である。

 門をくぐり、車一台分ほどの幅の道を進むと玄関が現れる。その正面にも大きな木があった。高さはそれほどでもないが、太さがあるので屋根を覆い隠している。枝葉の広がり方が独特で、まるでオブジェのようだ。

 インターフォンを押すと、すぐに玄関の扉が開いた。

 顔を出したのは、長身の男性だった。

 年齢は40代後半か50代の前半だろう。痩せていて頬がこけている。白髪混じりの髪には幾分ウェーブがかかっているようだ。銀縁のメガネをかけ、鼻が高い。

 彼が彫刻家・高岡誠であることは依頼書から知っていた。

 恵美は名刺を出して挨拶をした。

「家政婦の加部谷恵美です」

 誠は頷いて中へ招き入れる。

「前の家政婦さんが急に辞めてしまってね。急だったから驚いたよ」

 彼はそう言いながら、廊下を先に立って歩いた。

 彫刻を制作するアトリエなので、もっと雑然とした空間を想像していたのだが、意外と片付いていた。床に置かれた段ボール箱や彫刻材などは目立つものの、散らかっているという感じでもなかった。

 案内された応接室は彫刻家らしく抽象的な造形物がいくつか飾られていたし、絵画も何枚か壁にかけられていたが、それも静物画のような穏やかなものばかりであった。

「私は彫刻に没頭すると家事が疎かになるものでね。掃除・洗濯・料理をしてもらうと助かるよ」

 応接セットのソファーに座りながら、誠は言った。

 彼の向かい側に腰掛けた恵美は、黙って頷いた。

 自己紹介のときに聞いたのだが、高岡誠は現在54歳。東京藝術大学を卒業後、パリに渡り留学生活を送る。

 その斬新な作風で美術界に衝撃を与えていた。彼の作品は驚くほど生命感にあふれ、まるで生きているかのようだと評されていた。


《私の彫像には魂が宿っている》


 国際芸術祭で彼がそう発言して話題になったことは、もちろん知っている。

 しかしそれは、単に彼独特の表現にすぎないと思っていた。だから、まさか本当に生命を持っているわけではないだろうと、恵美は思っていたのだ。

ところが……。

 実際に会ってみると、確かに彼にはなにかオーラというか雰囲気というか、人並み外れたものを感じるのだった。芸術家とはこういうものか、と妙に納得してしまうほどだ。

「お任せ下さい。その為の家政婦です」

 恵美は館の中を簡単に案内されると、さっそく仕事に取りかかった。

 まず溜まった洗濯物を集め、洗濯機に放り込んでスイッチを押したあと、風呂場とトイレの掃除をする。廊下の拭き掃除をし、最後に各部屋の整理整頓を済ませた。

 5LDKほどの広さだったが、一人でこなすとなるとなかなか骨が折れる作業量だ。

 だが、午後5時前には一通り終えるところは、さすがはプロと言えた。

 恵美の仕事ぶりに誠は、一言も文句をつけなかった。

 逆に感心していたくらいだ。


 ◆


 恵美が高岡誠の館に勤務し始めて二週間が過ぎた頃、アトリエでの仕事にも少しずつ慣れてきていた。

 誠は変わらず寡黙で、彼女に細かい指示を出すこともなかったが、黙々と仕事に没頭する姿勢には不思議な魅力があった。恵美は彼の才能に敬意を抱きつつも、心の奥底に潜む何か不穏なものを感じ取っていた。

 その日、恵美はいつも通りアトリエの掃除に取りかかっていた。

 薄暗い光が差し込む窓からは、外の庭の木々が風に揺れる音が微かに聞こえてくる。アトリエは広く、無機質なコンクリートの床に散らばる彫刻材や道具が、どこか冷たい印象を与えていた。壁際には未完成の彫像がいくつも並んでいる。その中には、まるで息を潜めているかのような、静けさがあった。

 恵美は、床の上をホウキで払いながら、ふと近くの石像に目をやった。

 女性の半身を象った作品で、細部まで精巧に作り込まれている。

 石の肌は冷たく、無機質なはずなのに、そこからは微かに温もりが感じられるようだった。彼女は一瞬、石像が生きているように感じ、思わず目をそらした。

「……気のせいよね」

 自分に言い聞かせるように呟き、掃除に戻ろうとしたその時、背後から微かに声が聞こえた。

 恵美は一瞬、耳を疑った。

 アトリエには誰もいないハズだ。

 高岡も外出中で、彼女一人だ。


 う……ぅ…


 それは、うめき声のようだった。

 耳を澄ますと、確かに近くから聞こえてくる。

 恵美は恐る恐る石像に近づいた。

 声は、その石像から発せられているように思えた。胸の鼓動が早まり、冷たい汗が背中を伝った。

「そんな、まさか……」

 声が震え、足が竦む。

 それでも好奇心と恐怖が入り混じる中で、彼女は石像に手を伸ばした。その冷たい石の表面に指先が触れると、再びうめき声が響いた。

 恵美は息を呑み、後ずさりしたが、背中に別の石像が当たってしまい、逃げ場がなくなった。


 た……けて…


 その瞬間、明瞭な声が聞こえた。

 いや、それは声というより、《念》といったほうが近いかもしれない。強い意志を持った何かが恵美の心に語りかけてきたのだ。

 信じられない現象に恵美は目を見開き、心臓が今にも飛び出しそうだった。

 石像は助けを求めるように、今にも動き出しそうだった。

「どうして。こんなことが……」

 恐怖に駆られた恵美は、すぐにその場から逃げ出したかったが、足がすくんで動けなかった。彼女の中で、現実と幻想の境界が曖昧になり、頭が混乱していく。まるで悪夢の中に迷い込んだかのようだった。

 その時、アトリエのドアが静かに開いた。

 恵美は反射的に振り向いたが、そこには高岡誠が立っていた。彼の目は冷たく、何かを知っているような表情をしていた。

「加部谷さん。どうしたんだい?」

 誠の冷静な声が、恵美の耳に届く。

 だが、その声にはどこか冷たさと威圧感が含まれていた。恵美は言葉を失い、ただ震えながら誠を見つめた。

 恵美は、周囲に立つ石像に目をやり、もう一度彼の顔を見た。

「あの……。彫刻から、声が……」

 かろうじて声を絞り出したものの、それ以上は言葉が続かなかった。

 誠は表情を変えずにゆっくりと歩きだし、恵美の隣を通り過ぎたところで立ち止まった。彼の視線の先にあるものは、もちろん彫刻だった。彼はそれを一瞥し、小さく息を吐いたあと言った。

「おかしいことは何もない。それは、ただの彫刻だ」

 誠はそう言いながら、石像に近づき、手をかざした。

 彼の言葉には、強制的なものが感じられた。

 誠は振り返りもせず言う。

「君は疲れているんだ。もう帰りなさい」

 恵美は何も言えず、ただ黙って頷くしかなかった。

 しかし、彼女の胸の中には恐怖と疑念が渦巻いていた。

 何かがおかしい。

 ここには、言葉にできない何かが存在する。その確信は、これからの彼女の行動に暗い影を落とすことになるのだった。


 ◆


 恵美は高岡誠の周囲を調べる中、奇妙な噂を聞いた。それは、誠の館を出入りする人が失踪をするという不穏なものだ。

 彼の元を訪れた美術評論家や取材陣が、突如として行方不明になるという。無論、捜査の過程で警察は誠の周辺を調べ上げるが、これといって事件性を裏付けるような証拠は見つからなかったらしい。

 恵美は、以前勤務していた家政婦・橋本由美子のことが気になり、勤務経歴を調べて驚くことになる。それは名前ではなく、顔に驚いたのだ。

 なぜなら、誠のアトリエに橋本由美子と瓜二つの彫刻像があるのを見かけたからだ。もちろん、角度を変えて見ると違いはあるだろうが、顔の輪郭や口元など、そっくりではないかと思った。

 しかし、なぜそんなに似ているのかまでは想像できなかった。そもそも、同一人物であるはずがないのだから……。

 恵美は疑念を抱きながらも、誠に対して問い詰めるようなことはしなかった。

 誠を追求するだけの証拠がなかったこともあるし、彼が彫刻家として成功しているという事実もあったからである。芸術家というものは社会常識から外れていることが多く、自分の作品に関しては異常なまでの執着を見せるものだし、他人に批判されることを嫌う傾向があることも知っていたので、あえて聞かなかったのである。

 追い詰めるには言い逃れようのない状況が必要だと考えたのだ。

 彫像が完成するたびに、どこかで人が行方不明になるという噂も耳にするようになった。最初は偶然だと思っていたが、奇妙な一致が何度も重なるうちに、恵美は不安を拭えなくなっていった。

 ある日、ついに恵美は、こっそりとアトリエに忍び込んだ。

 そこには、いつもとは違う、異様な光景が広がっていた。

 彫像の前に立ち、低く何かを唱えている。彼の周りには奇妙な紋様が描かれた布が敷かれており、祭壇のように彫像が据えられていた。

「これは……何?」

 恵美は思わず呟いた。

 だが、その言葉はすぐに後悔に変わる。誠は振り返り、鋭い目で恵美を睨みつけたのだ。

「君、ここで何をしている?」

「先生、それは一体」

 恵美の声は震えていた。

 誠は無言のまま近づいてくる。その目にはかつての優しさは微塵も感じられなかった。

 恵美は本能的に危険を察知し、後ずさった。足が彫刻に当たり、彼女はバランスを崩してしまう。

「気をつけろ!」

 誠の声が響く。

 それは恵美の身を案じてのものではない。

 恵美に対する叱責だ。

 時すでに遅し。恵美が倒れ込む勢いで、彫刻の一つが台座から落ち、床に激突した。石の砕ける音がアトリエ中に響き渡る。

 だが、その音よりも恵美の目に映ったものの方が、彼女を強烈に震え上がらせた。

 割れた彫像の胸部に目が釘付けになった。

 そのひび割れた隙間から、何かが不規則に蠢いているのが見えた。光の加減でちらりと見えたそれは、ただの影かと思われたが、よく見ると異様な鼓動がそこに感じられた。


 ――それは……心臓だった。


 石でできた彫像の中にあるはずもない、赤黒い肉の塊が脈打っている。

 心臓はまるで生き物のように不規則に収縮し、膨らんでは萎み、無秩序に動き続けている。鼓動に合わせて、血管のようなものがその表面を走り、ぞっとするほど生々しい脈動を見せている。

 まるで、その音が耳元で響いているかのように、ズン、ズンと鈍い音が響き渡る。その音はただの鼓動ではなく、不気味な生命力を持ち、周囲の空気まで震わせるように感じられた。

 心臓は脈打ち続けている。

 そのたびに、肉塊の表面が不規則に痙攣し、時折、ぬるりとした体液がひび割れから漏れ出しては、石の表面に染み込んでいく。その光景は、見ている者の神経を逆撫でするような異常さを伴っていた。

「な、何んなの。これは……!」

 恵美の声は恐怖に染まっていた。

 割れた石像の中から露わになった心臓は、まるで今も生きているかのように鼓動を続けている。恵美は後ずさり、視線を誠に向けた。

「これが私の芸術だ。私の彫像には魂が宿っている。という意味が、今やっと君にも分かっただろう?」

 誠の声は冷たく、異常なまでに冷静だった。その表情には、狂気と執着が入り混じっている。

 恵美は足が震えて動けなくなっていた。

「まさか……、生きた人間を」

 誠はゆっくりと頷いた。

「そうだ。彼らは永遠に生き続ける。彫像として、私の傑作の一部としてな」

 恵美は全身が凍りつくような恐怖に包まれた。この場から逃げ出さなければならない。

 しかし、恐怖で身体は動かず、頭は真っ白になっていた。

 誠が一歩、また一歩と近づいてくる。

「君も私の作品に加わるのだ。君の美を、永遠に形として残すために」

 誠の両手が自身のカッターシャツを掴む。

 左右に引っ張られるとボタンが弾け飛び、白い布地の間から痩せた胸板が現れ、腹が覗いた。

 そこにあるものを見て、恵美は一瞬息を呑んだ。

 誠の腹に黒々とした大きな円があった。

 身体に孔が開いているのだ。直径25cm程の丸い穴がぽっかりと空いており、そこから黒い血液のようなものが滲み出ていた。

 血?

 いや、違った。

 黒くて、不気味で、禍々しい穴の中で何かが蠢いていた。

 孔の中で巨大な影が揺らめき、その存在感は空気を重たく歪めていた。そこにいるだけで、周囲の温度が異常に低くなり、肌を刺すような寒さが広がる。

 無数の肉塊が絡み合い、腐敗しつつも生きているかのように蠢いている。

 ねじれた触手が絡み合い、うねりながら這い、何かを捕らえる準備をしているかのように動く。その触手の先端は、獲物を絡め取るための鋭い棘や、悪夢のような口腔が備わっており、そこからは瘴気が漂い出している。

 その全身からは腐臭が立ち込め、近づく者を引き寄せ、心を折るような力を感じさせる。異形の身体が動くたびに、周囲の空間がねじれ、現実が歪んでいくようだった。

 その異様な存在感は、見る者の理性を削り取るような異形の姿をしていた。

「私は芸術の為、捧げたのだよ。ガタノソアに……」

 そう呟くように言って、彼は両手を大きく広げた。


【ガタノソア】

 旧支配者クトゥルフの第一子で、ゾス星系で生まれ一族で地球に飛来した。

 その姿は特別に恐ろしい怪物として知られる。輪郭のはっきりした無数の触肢と口と感覚器官を持っている。

 ムー大陸で信仰され、棲みかである火山ヤディス=ゴー山に潜む。

 20万年前の原始ムー大陸において、人々はガタノソアに毎年12名の若い戦士と12名の娘を生贄にしていた。ムー大陸の人々はガタノソアとその神官に多くの生け贄を捧げたが、それはガタノソアを鎮められなければ、棲家を出て生け贄を探し求めるだろうと恐れていたからであった。

 ムー大陸が沈んだ後の消息は不明。

 だが信仰の名残が、ムーが存在した太平洋地域を中心に世界中で見られる。『無名祭祀書』の著者フォン・ユンツトは、伝説の地下世界クン=ヤンでもガタノソア信仰があったとほのめかす。ヨーロッパの妖術にも関係し、キリスト教勢力によって徹底的に破壊されたが、邪教団根絶には至っていない。

 現代のガタノソアの信仰は環太平洋を中心に世界各地で見られる。アトランティス、エジプト、クンヤン、カルデア、ペルシア、バビロン、アフリカ、中国、メキシコ、ペルーなどでも崇拝の痕跡が確認されている。

 1878年にニュージーランドとチリの間の海域に一時的に浮上して沈んだ島の、切頭円錐の形状をした場所はヤディス=ゴー山だといわれる。

 人間がガタノソアを見ると、たちまち皮膚が硬化して石のようになり、脳と主要器官だけを生かされ、意識を保ったまま永遠に身動きもできないまま生きなければならない。

 これはガタノソアを映した写真はもちろん、精巧な絵や像を見た場合でも避けられない。

 とある手段でガタノソアの姿を垣間見たジョンスン博士は「巨大で、触腕があり、象のような長い鼻が備わり、蛸の目を持ち、なかば不定形で、可塑性があり、鱗と皺に覆われている」と表現している。


 恵美は悲鳴を上げたつもりだったが、それは声にならなかった。ただ口から息が漏れるだけだった。

 誠の腹の中で、うねり動く肉の中から黄色く光る無数の目が現れると、こちらをじっと見据えてきた。それらの目は理性を超えた知性を宿しておそして、恵美はその視線によって身体の自由を奪われたように感じた。

 その瞬間、世界が暗転した。彼女の視界は闇に包まれ、全身が麻痺したように感じた。

「さあ、私の芸術に」

 誠の声が、恵美の耳元で低く響いた。それが最後の言葉だった。恵美の身体は硬直し、皮膚が石のように変わり始める。

 そして、彼女の意識は、永遠に閉じ込められた。


 ◆


 恵美は、新たな彫像として高岡誠のアトリエに加わった。

 アトリエには不気味な静寂が広がり、その中で新たな彫像たちが、無言のまま永遠に生き続ける。

 石化した身体の中で脈打つ心臓は、今も静かに鼓動していた。

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