第五話「愚者への供物」
『――バッテリーが低電圧状態です。安全な場所で本機を停止の上、バッテリーを充電もしくは交換してください。バッテリーが低電圧状態です――』
激流の音に負けぬ大きさで、辺りに警告メッセージが響く。その声に、一郎は正気を取り戻した。
見れば、ハーキュリー1の前輪は既に階段に差し掛かっていた。安全装置が働かなかったので下りられる傾斜だったようだが、河原まで下りていたらどうなっていたかは未知数だ。タイヤが石に嵌ってしまい、動けなくなっていたかもしれない。
「小山内さん! 大丈夫ですか!?」
押っ取り刀で駆け付けてくる木在と管理人を横目に、一郎はハーキュリー1を慎重に後退させ、階段から抜け出し崖から離れる。コントローラーの近くでは、低電圧を知らせる黄色いランプが点滅を繰り返していた。
「……すみません、ご心配をおかけしました。大丈夫です」
「いきなり階段に向かって走り出したから、肝を冷やしましたよ。――子どもがどうの、とか仰ってましたけど、何か見たのですか?」
「いえ……気のせい……というか、幻……? いや、あれは……」
木在の問いかけに答えているのか、それとも独り言を呟いているのか。一郎が心ここにあらずといった様子だったので、木在と管理人は思わず顔を見合わせた。
そのまま、ややあって。一郎はようやく木在達の方に向き直ると、こう言った。
「管理人さん。二十年前のあの日の利用者って、分かりますか?」
***
ハーキュリー1のバッテリーを交換してから、一郎達は管理事務所へと舞い戻った。
一郎が事故に遭った日の利用者はすぐに分かるそうだ。管理人が、過去にトラブルや事故が起きた時の記録を、帳簿とは別口で保存していたのだ。
「随分と準備が良いですね」
「長くこの商売をやっていますと、こういうものの蓄積が頼りになったりもするんですよ。困ったお客さんのブラックリスト、なんてのもありますよ」
木在の言葉に、管理人が苦笑いしながらページをめくっていくと――あった。二〇〇四年八月のあの日の記録だ。
そこには、利用者のフルネームと性別、年齢、代表者の住所と連絡先などが並んでいた。もちろん、一郎達のものもある。椛田の雑な字に顔をしかめつつリストを眺めていくと、一郎が探しているものがあった。
「……これだ。笹倉彰人さん一家。ご夫婦と、四歳の女の子。……ありゃ、この人達も救世山の住民だったんだ。凄い偶然だな」
「小山内さん、いい加減教えてくださいよ。そのご一家が、何だって言うんです?」
木在がやきもきとした感じで尋ねてくる。それも無理はないだろう。一郎は管理事務所に戻ってくるまでの間、説明らしい説明を何一つしていない。
「子どもがね、一人で遊んでいたんですよ」
「えっ?」
「俺が酔い覚ましに川を眺めにあの休憩所に行ったら、小さな女の子が河原で遊んでいたんです。あの日のことですよ」
「思い出したんですか!?」
「はっきりとでは、ないですけどね」
そう、はっきりとした記憶では決してない。だが、一郎の脳裏には、あの日の光景が古いフィルムのように甦っていた。
河原で独り遊ぶ小さな女の子。近くに両親の姿はない。すぐ傍には危険な激流。慌てた一郎は階段を駆け下りて――その後の記憶はない。
「管理人さん。この笹倉さんご一家のことは覚えていますか?」
「いえ……言われてみれば親子連れはいたなぁ、くらいにしか。木在さんはどうですか?」
「……ちょっと待ってくださいね。確か、証言者の中に……ええ、はい。笹倉さんご夫婦と娘さんですね。ご夫婦はだいぶ酔っぱらっていて、娘さんは幼過ぎて警官が何を尋ねても『わかんない』としか答えなかった、とあります。ご両親の方はずっとバーベキュー場にいたようで、頼りになる証言者としてはカウントされていませんね」
「そう、ですか。じゃあ、それが全てなんでしょうね」
木在の言葉に、一郎は深く大きなため息を吐いた。何か、体の中の悪いものが口から出ていくような、そんな感覚がした。
「小山内さん。まさか……まさか、貴方、こう仰りたいんですか? あの日貴方は、河原で遊んでいる子どもを見かけて保護しようと河原へ下りていった。その際に足を滑らすかして、川へ転落した――唯一の目撃者は幼すぎて、目の前で事故が起こったことも理解出来ず、無事に親元に戻って、何事もなかったように過ごした……と?」
「流石は元刑事さん。俺が自分でまとめるより、理路整然としてて分かりやすいです」
「な、何を落ち着いてるんですか小山内さん!」
一郎の落ち着きぶりが癇に障ったのか、木在が声を荒らげる。
「貴方が二十年もの時間を奪われた原因は、本当にただの事故で、しかも唯一の原因とも言える子どもはそのことを全く覚えていなくて、誰にも何も分からなくて! そんな……そんな、誰も責めようがないことが真相で、本当にいいんですか!?」
「良くはないですけど、仕方ないじゃないですか。そりゃ、俺だって分かりやすい黒幕がいて、そいつが全ての元凶だったってことなら恨みをぶつけられますけど、実際はそうじゃなかった」
激昂する木在とは対照的に、一郎の表情は菩薩のように穏やかだった。
「でもきっと、それでいいんですよ。だって、悪い奴がいて、そいつをずっと恨んで生きていくよりは、誰も恨まないで済む方が百倍マシですから」
一郎のその言葉と表情を前に、木在はそれ以上何も言えなかった。
***
管理人に丁寧に礼を言ってから、一郎と木在はバーベキュー場を後にした。恐らく、もう訪ねることもないだろう。一郎は見納めとばかりに、早くも薄暗くなり始めた辺りの風景を心に刻み付けた。
「木在さん、今日はありがとうございました。その……こんな結果になって、なんですが」
「いえいえ。先程は思わず声を荒らげてしまいましたが、私もですね、なんと言うか、憑き物が落ちた気分ですよ」
木在が軽快に車を走らせながら答える。その声音は言葉通り、穏やかそのものだ。心なしか行きよりも運転が丁寧でゆっくりに感じる。
「小山内さん、刑事ってのは疑ってかかるのが仕事なんですよ。だから、時に頭の中に勝手なストーリーを描いて、それを追ってしまって、明後日の方向に進んでしまうこともある……分かっていたはず、なんですがね。いやはや」
「俺も、色々あって『俺の事故には何か原因があったに違いない』って思い込みたかったんだと思います。恨みや怒りをぶつけられるものが、欲しかったんですよ、きっと」
車は早くも市街地へと入っていた。もうすぐ、木在と一郎の即席凸凹コンビも解消となる。そう考えると、うら寂しい気持ちも湧いてきた。
――と。
「小山内さんは、ミステリ小説とかお読みになります?」
「ミステリーですか? まあ、少しくらいなら」
「なんて言ったかなぁ、若い頃に読んだミステリでですね、こんな話があったんです。ちょっとうろ覚えですが――とある界隈で不審な死が相次いで、主人公達はそれが連続殺人ではないかと疑うんです。そこから、名探偵よろしく喧々諤々の推理合戦が始まるんですが……実は、本当に殺人事件だったのは一件だけで、後は偶然の連続死だった、というオチがつくんですよ」
「へぇ、人によっては怒りそうなオチですね」
「でしょう? 私も昔は『ふざけてるのか』って思ったんですけど、いやはや、今となってはそんなことは口が裂けても言えませんね」
「……ああ、なるほど」
少し考えてから、一郎は木在の言葉の意味を理解した。全く別個の様々な状況同士に、無理矢理に因果関係をでっち上げて、「全ての元凶である犯人」なるものが存在すると考える。これは、度合こそ違えど今までの木在の姿によく似ている。
「名探偵の『論理的帰結』が成り立つには、この世の中は少し複雑すぎるんですよ」
木在のその言葉が、一郎の胸に深く沁み込んでいった。
***
『椛田が逮捕された』という知らせを一郎が受けたのは、山梨から帰ってきた数日後のことだった。しかも、知らせてきたのがまさかの代田だというオマケつきだ。
すぐに中川と美佳に連絡を取ってみたが、返事がない。一郎は仕方なく、代田に詳しい話を聞かせてほしいと連絡した。
「……こっちの家に来るのは、初めてだったか」
代田はあっさりと、一郎の自宅マンションを訪れていた。もう少しごねられるか嫌がられるかと思っていたので、一郎としては逆に驚きだった。
「そっか。元々の実家には、高校の時に何度か遊びに来てたっけ」
「ああ。……いい家、だったよな。遅くなったが、親父さんとおふくろさん、姉ちゃんのこと、お悔やみ申し上げる」
「ど、どうしたよ、急に」
「こういうのは、きちんと言っとくもんだろ?」
骨ばった神経質そうな顔に、思いの外爽やかな笑顔を浮かべる代田。一郎が初めて見る表情だった。
「さて、椛田のアホのことだが……全く、しょうもない話さ」
そうして、代田が語り始めた椛田の逮捕劇は、文字通り「しょうもない話」だった。
逮捕の容疑は詐欺罪。なんでも、椛田が出資していた会社の一つが巨額の投資詐欺を働き、そこの役員に椛田も名を連ねていたのだとか。
代田が関係者から聞いた話では、椛田は名義を貸していただけで、犯行には直接関与していなかったらしい。とはいえ、会社自体が詐欺目的で設立されたものであり、出資者兼役員の椛田は無罪放免という訳にもいかない状況なのだとか。優秀な弁護士も付けたが無罪はないだろう、ということだ。
更に困ったことに、椛田自身には罪の意識が全くないのだという。「自分は善意で出資していた。だから、それを利用されたただの被害者だ」と言い張っているのだとか。このままでは「反省の意思なし」として、今後の裁判に不利に働くことは必至だろう。
一郎は「椛田に人並の倫理観を求めるのは、きっと無理なのだろうな」と、呆れ果てた。
――後に中川から聞いた話だが、椛田は優子へのデートレイプの件も、全く悪いと思っていないらしい。「恋人同士が盛り上がった結果の行為だ」と言い張り、未だに考えを改めていないのだとか。
きっと人として必要な何かが欠落しているのだ。だから、一郎の前にも平気で顔を出せたし、美佳に対して父親面出来たのだろう。剛堂が事態を司法の手に委ねなかったのも、椛田のそういった異常性を認識していたからかもしれない――。
「椛田の野郎、『怪しい車につけ狙われてるんだ』なんて周りに吹聴してたけどよ。何のことはねぇ、警察に張られてたってだけっぽいな」
「ああ、それで……」
なるほど、と一郎は納得した。椛田が「誰かに尾行されている」と警察に訴えたところで、尾行していたのは当の警察なのだ。解決するはずもない。
――余談だが、一郎の部屋のインターホンが押された件も、脱力するような真相だった。管理会社が防犯カメラの録画をチェックしたところ、来客によるただの押し間違えだったそうだ。一郎の部屋のインターホンを押した「犯人」は、それにすぐに気付き、正しい部屋番号を押して素早くエントランスを抜けていた、という訳だ――。
「全く、あの野郎……前科モンになるなんて、娘の就職に不利に働いたら、どうするつもりなんだ」
「……美佳のこと、心配してくれるのか?」
「ああっ? そりゃ、知らない仲でもないしな。俺はお前の姉ちゃんには、だいぶお世話になってたしよ」
「そうだっけ?」
「……『そうだっけ?』じゃねえよ。はぁ……お前、もう少し他人に興味を持った方がいいぞ? そんなんだから――いや、なんでもない」
代田が突然口ごもる。「もう少し他人に興味を持った方がいい」というのは、一郎が目覚めて以来思い知ってきたことなので、正鵠を得た苦言だ。だから最初は、代田が言い淀む理由が分からなかったのだが――。
「ああ、そうか。そう、だな」
代田があまりにも普通に接してくるものだから、一郎はすっかり失念していた。この男は、かつて弥生を寝取っておきながら、それをずっと黙っていたのだと。だが、不思議と怒りは湧かない。少し前なら、不自由な身体を押してでも掴みかかっていただろうに。
「……代田はさ、俺に言うことが、あるんじゃないのか?」
「なんだよ、藪から棒に」
「弥生のこと」
「……ちっ。誰かが余計なこと言ったみたいだな。どうせ椛田のバカだろうが……まあ、そうだよな。お前には、きちんと言っておかないと駄目だよな」
代田が姿勢を正す。先程までのざっくばらんな雰囲気とは違い、真剣さが一郎に伝わってきた。
「……二十年前、いや、それよりも少し前か。弥生は仕事でトラブルに巻き込まれてな。それは大変な目に遭ったそうだ」
「大変な目? 何があったんだ」
「仕事上のことだから俺も詳しくは知らん。患者の家族に看護ミスをでっち上げられて、危うく警察沙汰になるところだった、としか」
「なんだ、それ。でっち上げなら、警察が動くはずもない……いや、あるか」
先日の木在とのやり取りを思い出し、一郎は考えを即改めた。警察は疑いや訴えさえあれば、徹底的に調べなければならない。その中で、間違った方向に捜査が進んでしまうこともあるのだろう。
「やけにすんなり納得したな? まあ、いい。とにかく、弥生は全くのでっち上げで警察の取り調べまで受けた。幸い、普段の行いの良さを知ってる警察関係者も多かったし、病院側も全面的に反論したから事なきを得たんだが……そのことが原因でノイローゼになっちまったんだ。お前、知らなかっただろう?」
「うっ……」
代田の言う通りだった。恐らくその時期は、一郎も会社で酷い扱いを受け、自分のことさえもままならなかった頃だろう。言い訳になってしまうが、弥生の異変に気付く余裕さえなかった。
「偶然街中で会ったらさ、弥生がそりゃあ酷い顔色をしてたんだよ。そこで色々と相談に乗ったりしてる内にな、まあ。お前への愚痴も沢山聞いたぞ。で、説教がてらお前に三行半を突き付けて、きちんと弥生と付き合おうと思っていた矢先、お前が倒れた」
「ああ……」
ようやく前後関係が分かってきた。全ては、お互いのタイミングが全く噛み合わなかった故なのだ。代田と弥生はきちんと仁義を通そうとしていた。だが、その前に一郎が倒れ、精神を病んだ。
とてもではないが、別れ話を切り出せるタイミングではなかったのだろう。
「だから、詫びなんて入れないぞ。お前の姉ちゃんには、それはもう怒られたけどさ……やっぱりお前が悪い。結局、お前のこともあって結婚もだいぶ遅くなっちまったからな。聞いて驚け、俺達が入籍したのは三十代も半ばを過ぎてからだ。子どもも出来なかったし」
「それは……なんというか……すまん」
「バカ。お前だって酷い目に遭ってたんだ。謝るところでもないだろ。お前はもっと我儘言ったっていいのによ。いつも馬鹿正直に聞き分けが良くて。お前のそういう生真面目な所が、昔から嫌いなんだよ」
フンッとそっぽを向く代田。なんとなくだが、一郎はそれが彼の優しさであるように感じた。
***
椛田が逮捕されたことで、プロメテウス社の事業にも影響があるかもしれない――そう考えた一郎だったが、驚くほど影響がなかった。そもそも、プロメテウス社に出資しているのは椛田商会であって椛田丈志個人ではない。椛田商会としてもプロメテウス社とハーキュリー1には可能性を感じているそうで、事業は万全、とのことだった。
――のだが。
「これは持ち帰ってオーバーホールしないと駄目ですね」
プロメテウス社の開発スタッフが渋面になりながら言った。わざわざ一郎の自宅にまで来てもらったのだが、最悪の結果となった。
ハーキュリー1から異音がしたのは、代田と話してから更に数日後のことだった。オートバランサーの効きも悪くなっていたのでサポートセンターに連絡したところ、こんな顛末となった。
しかもタイミングが悪いことに、今から新たに貸し出せる機体が無いのだという。一郎からのフィードバックもあり、ハーキュリー1の開発はいよいよ加速していた。そこで、モニターを拡充し、より多くのデータを集め始めたのがつい先日のこと。そのせいで、使える機体は全て出払っていて、新しい機体が出来上がるのは数日後の予定だそうだ。
運が悪いとしか言いようがなかった。
「すみません、小山内さん。せめて、代わりになる車椅子を弊社でご用意しますから」
「ああ、いや。大丈夫ですよ。こういう時の為に、普通の車椅子も家に置いてありますから。時々リハビリでも使ってますし」
一郎がリビングの隅を親指で指す。そこには、折りたたまれた状態の所謂普通の車椅子が鎮座していた。そもそも、シャワーを浴びる際にもそれ用の車椅子に乗り移っているくらいだ。今までよりも行動に制限は出るだろうが、なんとかなるはずだった。
そのまま、平謝りする開発スタッフを見送り、一郎も出かける準備をする。運が悪いことは重なるもので、今日は救世山総合病院へ通う日だった。
病院までの道のりはアップダウンが厳しい。未だ腕の力が戻りきらぬ一郎には、中々に辛い道程だ。
「タクシー呼ぶか」
一郎が呟いたその時、メッセージの着信があった――美佳だった。
***
「じゃあ、美佳の身の回りは落ち着いてるんだな?」
「とりあえずは、ね。この先は分からないけど」
自宅マンションからの下り坂を、美佳に車椅子を押してもらいながらゆっくりと下っていく。救世山総合病院へは、長く緩い坂道を下り、今度は病院前のまっすぐな長い坂道を上がっていく必要がある。車でも数分かかる距離なので、歩くとそこそこある。
住宅街を縦に貫くように存在する幾つかの大階段を抜けていけばショートカット出来るのだが、ハーキュリー1でも厳しかった傾斜の階段だ。普通の車椅子では、通れるはずもなかった。
「でも美佳、本当に良かったのか? 何か用があったんじゃ」
「別に。気まぐれに連絡したら、病院行くって言うから、ついで」
「車椅子押すのも大変だろ」
「運動不足だから丁度いいよ」
――なんだろうか。今日はやけに美佳の機嫌が良い。もしや、父親が逮捕されたことが、彼女にとってはむしろ痛快だったのか。一郎は訝しがった。
住宅街の中を縫うように進む緩やかな下り坂を、叔父と姪は進んでいく。ゆったりと、ゆっくりと。思えば、二人だけでこんな緩やかな時間を過ごすのは初めてかもしれない。
――気がかりだった優子の事故の件も、ほぼ解決していた。椛田は「第三者の関与」を疑っていたが、結局その説を唱えていたのは椛田だけだった。美佳も、中川も、その他の関係者も、「あれは事故だった」で納得していたのだ。
一郎は椛田の独り相撲に巻き込まれて、悶々としていた訳だ。椛田が出所してきたら、優子の尊厳を汚した件も含めて、五、六発殴ってやろうと一郎は思った。
昼間だからか、住宅街の中に人通りは殆どない。生憎の曇り空で随分と肌寒いが、気分は晴れている。様々な疑惑が消えたお陰だろう。一郎は久しぶりに、本当の意味でリラックス出来ていた。
――と。
「よいしょ、と。ちょっと一休みね」
「美佳? やっぱり疲れたんじゃないか」
「ま、色々ね」
丁度いくつ目かの下り階段の前を横切った時のことだった。美佳は車椅子を停めブレーキにロックをかけると、肩をグルグル回し始めた。そこで一郎ははたと気付いた。化粧で隠しているが、美佳の目の下には濃いクマが出ている。
「美佳、もしかしてあまり眠れてないんじゃないか?」
「ん? そうだね。あのバカが逮捕されてからは、あんまりね」
そのまま、柔軟体操を始める美佳。相当に身体が凝り固まっているらしい。美佳はそのまま、辺りをキョロキョロと見回すと、再び一郎の車椅子のハンドルを掴んで――。
「だから、押すのはこれが最後だよ、叔父さん」
そう言いながら、美佳がブレーキのロックを解除しハンドルを思い切り押した――下り階段の方に向かって。
「えっ」
間抜けな声を上げながらも、咄嗟に手元のブレーキレバーを引こうとした一郎だったが、普段使いしていない故に手探りでは場所が分からず、間に合わない。
一郎を乗せた車椅子はそのまま階段を勢いよく転げ落ち、一郎の世界は激しい痛みと共にグルリグルリと回り続け――やがて、全てが止まった。
***
「この辺りはね、住民の反対で防犯カメラが設置されてないんだって。この時間は人通りも殆どないし、おあつらえ向きだったの。――って、もう聞こえてないよね?」
ひしゃげた車椅子の横でピクリとも動かぬ一郎に、階段を下りてきた美佳が語りかける。その顔は歪な微笑に支配されていた。
「叔父さんはきっと何も悪くないんだよね。だから、これは八つ当たり。――大学でね、あのバカと私が親子だって噂が流されたの。あいつ、ニュースでも名前出ちゃったんだよ? バカすぎるよね。詐欺集団にお金出して、名前まで貸して。私とあいつは無関係だって言っても、誰も聞いてくれないよね? 血縁は呪いなんだから」
一郎の頭から、どす黒い血が流れ始めていた。美佳は汚らわしいものから逃げるようにそれを避け、辺りを見回した。
「目撃者なし。後は、私が『叔父さんとは途中で別れた』って言えば、私の仕業だって証拠はなくなる。あはは、完全犯罪、だね」
美佳が一郎から段々と離れていく。いつしか、その瞳からは涙が溢れていた。
「私って何なんだろうね? あんな糞に母親がレイプされて生まれた子どもで、おじいちゃんとおばあちゃんとママの愛情は眠りっぱなしの叔父さんにばっかり注がれて。そのおじいちゃんもおばあちゃんも、ママも死んじゃって! 挙句の果てに、実の父親が犯罪者だって噂を広められて……。今までいい子にしてたのが、バカみたい」
美佳が一郎に背を向ける。それでも一郎は動かない。軽く指を痙攣させるばかりで、うめき声さえ上げない。
「いっそのこと、ママも誰かに薬を盛られて殺されたんだったら、犯人を恨むことも出来たのにね。自分で飲んだ薬で、しかも私を迎えに来る途中で事故って死んだって……それは、ないよ。ホント、酷い」
そこで美佳は一度だけ振り返り、すぐにまた一郎から目を逸らした。見る者があれば、彼女の肩が小刻みに震えていることに気付いただろう。
「……バイバイ、叔父さん。完全犯罪なんて、本当に成立するとは思ってないよ。私もきっと、近い内に皆の所に行くから。――そしたら、いっぱい叱ってね」
美佳が走り出す。その姿を見送る者もなく、彼女は住宅街から去っていった。
――。
「うっ……」
うめき声を上げながら、一郎が手を伸ばす。美佳が走り去った方へ向けて。けれども、姪の姿は既になく、その手は虚空を掴むばかりだった。
「美佳……追いかけなきゃ……」
だが、体は動かない。かろうじて動くのは右腕だけ。頭を強く打ったせいか、視界すらもぼやけている。――激痛に耐えながら上着のポケットを探り……あった。画面はバキバキに割れているが、スマホは壊れていなかった。
そのまま、痺れゆく右腕に鞭打ちながら、思い付く限りの知り合いを送信先に入れ、メッセージを打つ。
『美佳が自暴自棄になって飛び出していった。俺は途中で転んで動けない。自宅と救世山総合病院の間くらい。俺は大丈夫だから、誰か美佳を保護してくれ。自殺するつもりかもしれない。頼む』
予測変換機能のお陰で最短でメッセージを打ち終え、送信する。右手は既に限界を迎えていたのか、スマホがアスファルトに滑り落ち、乾いた音を上げた。
(ああ、これは駄目かもな……)
救急車を呼ぶ余力はない。美佳の言っていた通り、この時間は人通りも少ない。車椅子が落ちた派手な音を誰かが聞きつけてくれればと願うが、そればかりは運任せだろう。
一郎は覚悟を決め、ゆっくりと目を閉じた。
せめて、次に目覚めるのは二十年後ではなく、天国でにしてくれと祈りながら。
――。
「……ないさん! 小山内さん! しっかりしてください! 今、救急車呼びましたから!」
――誰かの呼ぶ声で目覚める。ぼやける視界に鞭打ち、声の主を見やるが……覚えがない。
若い女性だった。二十代半ばくらいか、泣きそうな顔で一郎の手をしっかりと握り、必死の呼びかけを続けている。
「誰……?」
「良かった! すぐに救急車が来ますから、しっかりしてください!」
ぎゅっと握られた右手に感覚が戻る。一郎の意識は急速にクリアになっていった。が、身体は動かない。頭からの出血も酷い。救急車が来たところで、間に合うかどうか怪しいものだった。
「君は……? なんで、俺の名前……」
「あの、私、笹倉と言います! ずっと、小山内さんのことを探していて」
「ささ、くら?」
どこかで覚えのある名前だった。どこかは分からないが、つい最近目にしたような気がする。
「私、たまたま小山内さんの記事を読んで、それで、思い出して! あの時のおじさんだって! 私を助けに来て川に落ちちゃったのに、子ども過ぎて訳が分からなくて、そのまま忘れちゃってたんだって!」
――まさか、と一郎は思う。そんな偶然があり得るだろうか、と。
確かに、いつぞやのお涙頂戴記事は、ネットに顔写真付きで掲載されていた。だが、一郎の姿は二十年からは変わり果てている。気付くものなのだろうか。
「街中でばったり見付けて、同じバスに乗って、でもその時は声なんてかけられなくて……この辺りに家があるんだろうって、ずっと探してたんです! でもまさか、こんな……ああ、どうしよう! 血が、血が!」
半狂乱になって叫ぶ女性――笹倉――きっとあの時の女の子の手を、一郎は弱弱しく握り返した。「このまま俺が死んだら、この子には一生モノのトラウマだな」と、消えそうな意識を何とか保つ。
何より、唯一の肉親である姪を殺人者にする訳にはいかなかった。
絶対に死ねない。
「だい、じょうぶ……俺は、絶対に死なない、から。だから、ごめん。手を、握っていてほしい」
「――はいっ!」
笹倉が痛いほどに一郎の手をぎゅっと握る。その痛みは、一郎の魂をこの肉体に留める錨のようで頼もしかった。
そして――。
「どうしたんですか!? わ、酷い出血だ! おい、奇麗なハンカチあったろ! 早く!」
笹倉が騒いでくれたからか、近所の人々が飛び出してきてくれた。通りかかった車も停まってくれて、皆でうろ覚えの救急知識を出し合い、止血や呼びかけを続けてくれた。
(なんだ、世の中捨てたもんじゃないじゃないか)
蜘蛛の糸一本で繋がるような意識を必死に保ちながら、一郎は笑った。表情が動いたかどうかは分からないが、気持ちで笑っていた。
――と、耳に人々の呼びかけ以外の何かが聞こえてきた。
救急車のサイレンではない。
音楽だ。誰か女性の歌が聞こえている。どうやら、通りかかった車のカーステレオから流れてきているらしい。
(……この歌は)
その歌に、一郎は聞き覚えがあった。
忘れもしない、二〇〇四年八月のあの旅行の時、椛田の車の中でかかっていた、あの歌だ。終ぞ、歌手の名前を思い出せなかった、あの。
「……笹倉、さん」
「はい! なんですか小山内さん!」
笹倉が一郎の右手を胸に抱えるようにしてぎゅっとする。一郎の手に、柔らかな女性の感触が伝わってきて、「立派に育ったな」等と場違いな感想が浮かぶ。
そんな自分のどうしようもなさに心の中で苦笑しながら、一郎は笹倉に尋ねた。
「あの歌を歌っているの……なんて歌手だっけ?」
(了)
夢なき暗闇を抜けて 澤田慎梧 @sumigoro
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