第四話「幻視」
救世山から幾つかの電車を乗り継いで、三時間以上。一郎は山梨の地に立っていた。身体が不自由になってからは、初めての一人での遠出だ。
途中、駅のホームが思ったよりも車椅子に優しくなくて難儀した部分もあったが、天気も良く、当初考えていたよりはスムーズな道程だった。
ハーキュリー1のバッテリー残量をチェックすると、既に半分を下回っていた。こちらは想定よりも減りが速い。一応、予備バッテリーも持ってきてはいるが、どこかで一度充電しておいた方が良いだろう。
――道々において、一郎は久しぶりの「浦島太郎状態」を味わっていた。見慣れた駅の数々はすっかり様変わりしていて、乗り換えの際にも戸惑うくらいだった。二十年という時間は、それだけのものなのだ。
様変わりしたのは途中の駅だけではなく、一郎が今いる駅もそうだ。まだ学生の頃に、一郎も何度か訪れたことのある山梨県郊外の駅。以前は殺風景で駅員の姿も殆どなく、駅舎らしい駅舎もなかったのが、今は近代的で立派な駅舎が建っていて、バリアフリー設備も完備している。
その一方で、「みどりの窓口」が無くなっている事には驚いた。帰りの切符を買うのには戸惑いそうだ、等と一郎は思った。
――と。
「小山内さん! こちらです!」
駅舎を出たところでぼんやりとしていた一郎に呼び掛ける声があった。木在だ。くたびれたスーツに身を包み、豆タンク然とした体を揺らしながら駆け寄ってきていた。
「木在さん、どうも。本日はお世話になります。お忙しいところ、本当にすみません」
「なになに、こちらは半分隠居したような身ですから、お安い御用ですよ。ささ、車は近くに停めてありますので、こちらへ」
一郎の返事も待たずにドスンドスンと歩き出す木在。その姿に苦笑しながらも、一郎はハーキュリー1で後を追った。
***
一郎が木在に連絡を取ったのは、松浦の件で病院側から謝罪を受けた翌日のことだ。
以前に会った時は半ば追い返すような形になってしまっていたにも拘らず、木在は一郎からの連絡を喜んでくれていた。余程、二十年前の事故の真相を明らかにしたいらしい。
とはいえ、お互いに新しい情報がある訳ではない。――弥生の裏切りや椛田の正体を木在に明かすのは抵抗があったので、話していない。そんな状況では、「真相」に辿り着けるはずもない。
そこで木在が提案してきたのが、「一度、現場を見てみてはどうか? 何か思い出すかもしれません」というものだった。
確かに一郎は、目覚めてこの方、自分が事故に遭った現場を見ていない。身体が不自由になり、未だ病院のお世話になっている身では仕方のないことではあるが、今までその考えさえ浮かばなかった。もしかすると、一郎の中に現場を恐れる心があったのかもしれない。
以前に受けたカウンセリングでも、失われた記憶は「戻るかどうか分からない」と言われつつも、「何かきっかけがあれば戻るかもしれない」とも言われていた。だから、木在の提案は一郎には魅力的に思えたのだ。
――そうして一週間後、一郎は木在と再会を果たした、という訳だ。
ちなみに、山梨に来ることは別府と中川くらいにしか伝えていない。なんとなく、椛田や弥生には伝えたくなかった。
「車はあちらです」
駅近くに停めてあったのは、車椅子マークの貼られた軽自動車だった。わざわざ木在が用意してくれたものだ。そのまま木在は、慣れた手つきでスロープの準備をすると、丁寧に一郎を誘導してくれた。
「木在さん。もしかして、お身内に車椅子の方が?」
「ああ、分かりますか? 実は、下の息子が生まれつき足が悪くてですね。とうの昔に成人して、今は立派に自立してますが。――まっ、私は息子の世話なんて、ろくにしてこなかったんですがね」
「……というと?」
「お恥ずかしい話ですが、若い頃は仕事仕事で家庭を顧みなかったもので。妻と、私の両親に息子の世話を任せっきりだったんです」
「昔は、そんなものじゃないんですか?」
実際、一郎が子どもの頃にはまだ共働き世帯は少数派だった。確か、一郎が大学生になった頃に、ようやく共働き世帯の方が多くなったと報じられていたはずだ。刑事のような、言ってみれば前時代的な働き方が続いていたであろう職業では、家庭にまで手が回せなかったのではないだろうか。
「はは、そうですね。ここ二十数年で、随分と様変わりしたもんですよ。でも、変わったのは何も世の中だけじゃなくて、私の認識も随分と変わりましてね。――急に、悔しくなったんです」
「悔しくなった? ……息子さんのお世話をしてこなかったことが、ですか?」
「はい。下の息子はね、障碍にも負けず、そりゃあ立派に育ってくれました。私に恨み言を言うようなこともありません。でもね、私以外の家族が、『あの時は大変だったね』みたいな介助の苦労話をする度に、その、疎外感がありましてね」
なるほど、それは一郎にも少し分かる感覚だった。自分が不在だった時の話を周りがしていると、疎外感というか寂しさのようなものを感じることは多い。何せ、一郎の場合は二十年分だ。疎外感もひとしおだ。
「定年してからですね、障碍者支援のボランティア活動なんてものを始めまして。この車も、お手伝いをしてる団体からお借りしたんです……っと、固定完了。では、行きましょうか」
言いながら、木在がバックドアを「バンッ!」と閉める。先程までの丁寧さはどこへやらだった。「人間、得手不得手があるものだな」等と、一郎は苦笑した。
***
事故現場となったバーベキュー場は、まだ営業を続けているらしい。駅から車で十五分程かかるという話だ。「案外、近いんだな」と一郎は思ったが、渋滞しらずの田舎道を軽快に飛ばす木在の運転を見るに、距離自体はかなりあるのかもしれない。
窓の外には山間の長閑な風景が広がっている。家よりも田畑の方が多いくらいだが、道路は広く、都市部のものよりも奇麗だ。そもそもの交通量が少ないから、傷むのも遅いのかもしれない。
四方は高い山々に囲まれていて、場所によっては富士山もよく見える。救世山から見るよりもだいぶ大きく感じる富士山は、既に冠雪していて美しい威容を誇っていた。
一郎がそうした景色を楽しんでいる間に、車はいつの間にか山道へと差し掛かっていた。鬱蒼とした木々に囲まれた細い道路には見覚えがある。例のバーベキュー場が近いのだろう。途中、「熊注意」の看板があったが、見なかったことにした。
そのまま、未舗装の道をしばらく進むと急に視界が開け、砂利が敷かれた駐車場が姿を現した。二十年ぶりに訪れる、彼のバーベキュー場だった。駐車場から少し下った所にあるログハウス風の建物は、管理事務所か。
――遠くに、沢の音が聞こえた。
「だいぶ足元が悪いですが、その車椅子大丈夫ですかね?」
木在が車を停めながら尋ねてくる。確かに、普通の電動車椅子では辛そうなシチュエーションにも思える。
「開発元は大丈夫って言ってましたよ。それどころか、『良いデータがとれそうです』なんて」
「あははっ、商魂逞しい、というやつですね。では、スロープを準備しますね」
木在が淀みない手つきでスロープを準備し、一郎を誘導する。――自分の足ではないが、一郎は遂に、二十年ぶりに因縁の地を踏んだ。
「どうですか、小山内さん」
「そうですね……景色は変わってないけど、建物とか看板は変わってる感じがします。薄っすらとですが」
「仰る通り、何年か前に管理事務所の建物はリフォームしたらしいですよ。看板なんかも、その時に変えたのだとか。変わってないのは、地形くらいかもしれませんね――さ、行きましょうか」
一足先に管理事務所へ向かう木在の後を追う。管理事務所の建物は、一郎の記憶ではただのプレハブ小屋だったはずだが、今は立派なログハウス風のものに変わっている。リフォームどころか建て替えレベルだ。
管理事務所の入り口は他よりも高くなっていて、階段が五段程ある。ここは流石にバリアフリーとは行かないらしい。「少々お待ちくださいね」と言ってから、木在がトントンと階段を上っていく。一郎は少しのもどかしさを感じてしまった。
「ごめんくださ~い」
木在がドアベルを鳴らしながら呼び掛けると、ややあってから管理人らしき男が姿を現した。年の頃は六十と少しくらいか、木在と同年代に見えた。もしかすると二十年前と同じ管理人かもしれないが、残念ながら一郎には判断が付かなかった。
「ああ、どうも。木在様と小山内様ですね? お待ちしておりました。今日は、場内の見学という話で良かったですかね?」
「はい、お世話になります」
「……お世話になります」
愛想の良い管理人の挨拶に、木在が、次いで一郎が挨拶を返す。管理人はそのまま引っ込むのかと思いきや、ドアに「外出中 すぐ戻ります」と書かれた札を下げてから、階段を下りてきた。
「確か、河原の方をご覧になりたいんでしたよね? ご案内します」
「……それは助かりますけど、事務所の方は空けて大丈夫なんですか?」
「あはは、恥ずかしながら十一月のこの時期ともなると、閑古鳥が鳴いてるんですよ。もう、この辺りは寒いですからね。この時期だと、清里とかあっちの方に客を取られがちでして」
管理人の苦笑に、一郎は今更ながら肌寒さを感じた。十分に暖かい格好をしてきたつもりだったが、救世山とここいらとでは体感気温がだいぶ違うらしい。
「この辺りは、今の時期でも夜は一桁ですからね。神奈川県民の小山内さんには、少しこたえるかもしれません。上着、貸しましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
そもそも、一郎と木在とでは体格にかなり差があるので、上着のサイズも合わないはずだ。一郎は謹んで辞退した。
「では、こちらです。足元が悪いので、気を付けてくださいね」
主に一郎の方を見ながら、管理人が歩き出す。一郎の記憶では、管理事務所から山道を少し下った所にバーベキュー場が、そこから更に下ると河原へと出るはずだった。尤も、おぼろげな記憶なので合っているかどうかは怪しいのだが。
そのまま、管理人の案内で申し訳程度に整備された道を下っていく。一応は車両が一台ギリギリ通れるようにはなっているので、ハーキュリー1も問題なく進んでくれた。
しかし――。
(しまった、充電するの忘れてたな。どこかで予備バッテリーに切り替えないと)
木在に勧められるがままにやってきたので、一郎は充電のことをすっかり忘れてしまっていた。一応、予備バッテリーはハーキュリー1に直付けしてある大きなカバンの中に入って入る。だが、山の中で突然バッテリーが切れると、少し心臓に悪そうだ。早めに変えておこうと、一郎は頭の中にメモした。
そうこうしている内に、突如道が開けた。簡素なつくりの屋根と、その下にレンガ造りのバーベキューコンロが並ぶバーベキュー場だ。管理人の言葉通り閑散期なのか、今は人っ子一人いなかった。
「寄っていきますか?」
木在の言葉に静かに首を振る。ここには、一郎の記憶を刺激するような何かを感じなかった。
「では、河原の方へ」
足を止めていた管理人が再び歩き出す。それを追ってハーキュリー1で走り出した一郎の背後に、在りし日の自分達がはしゃぐ声が響いた気がした。
***
バーベキュー場から少し下った所で、何かが道路を塞いでいた。金属のパイプを組み合わせただけの簡単なゲートだ。両開きになっていて、中央が丈夫そうな鎖と大きな南京錠で固定されている。
「……これ、昔もありましたっけ?」
「いえ。小山内さんの事故の後に設置したんです。その前にも、子どもが河原に迷い込んでしまうことがありましたので、念の為に」
管理人が南京錠を外しながら答える。その言葉に、一郎は辺りを見回してから「なるほど、確かに『念の為』だな」と思った。何せ、道を外れて周囲の森の中に分け入って進めば、こんなゲートなど何の役にも立たないのだ。
つまりは「きちんと『進むな』と明示して対策もしてますよ。これ以上は自己責任です」ということなのだろう。安全対策はすればするほどいいとはいえ、限度がある。これが丁度良い落とし所なのだろう。
「開きました。この先の道はろくに整備もしてないので、気を付けてくださいね」
管理人が言う通り、道行く先には所々に陥没や枯れ枝が見受けられた。「こういう所の走行データは別府が喜ぶだろうな」等と思いながら、一郎はハーキュリー1を慎重に進めた。
そして――急速に視界が開けた。
そこは、河原を望む崖の上の休憩スペースだった。八畳ほどの整地されたスペースに、木製のテーブルと丸太風の椅子が四つ、それと転落防止用の木製の柵とロープだけがある。その脇に……あった。河原へと通じているはずの階段が。
「っ――」
「小山内さん? 大丈夫ですか」
「だい、じょうぶです。ちょっと頭痛がしただけです」
木在に答えながら軽く頭を振る。今、一郎の中で何かの歯車が噛み合う音が、確かにした。カチリと音を立てて、頭の中の無形の何かが目の前の光景と重なったのだ。
「……見覚えが、あります。ここ」
「ここの休憩所は、補修こそすれ二十年前から大きく手は入れてませんからね。普段は立ち入り禁止にしてますし」
管理人が柵やテーブルを手で押して強度を確認しながら呟く。中々景色の良い場所だけに、使われていないのがもったいない、と思う。尤も、立ち入り禁止になった原因は一郎自身なのだが。
「柵とかは大丈夫そうですが、河原を見る時は十分に気を付けてお願いしますね」
「分かりました。ありがとうございます」
管理人に例を言いながら、木在とともに崖際に立ち、河原を見下ろす。川の流れは今日も今日とて急流というか激流というか、荒々しい。河原もごつごつとした石だらけで、もし一郎の足が満足に動いたとしても、好んで立ち入ろうとはしないだろう。
「ひえ~、久しぶりに見ましたが、本当に激流って感じですねぇ。管理人さん、そもそも何故こんな激流の河原に下りられるようになっているのですか?」
「ああ、確か二十年前もそんなことを訊かれましたね。元々はですね、国とか県の河川調査用なんですよ。それ以外にも、昔は命知らずの渓流釣りの連中なんかも来てましたけど」
「ああ、そういえば、捜査資料にもそんなことが……。すっかり失念していました。歳は取りたくないものですね、あははっ!」
――木在の笑い声が、どこか遠くの音のように、一郎には聞こえた。先程から周囲の音が、防音壁を何枚も隔てたかのように遠く聞こえる。視界はぼやけて二重に見えて、今現在の光景とは異なる像がノイズのように混じっている。
「……あっ」
我知らず、一郎の口から声が漏れる。
今、視界に。
現実のものなのか幻なのか分からないどちらかの視界に。
何か、動くものが。
河原に。
「……子ども」
「えっ?」
「子どもが! 河原に子どもが!」
「ちょっ、小山内さん!?」
呼び止める木在の声にも応えず、一郎は走り出す。ハーキュリー1は主の命令を受けて河原へ下りる階段へと果敢にも突進し――。
「小山内さん!!」
渓谷に、木在の悲鳴のような声が響いた。
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