第三話「虚脱」

 美佳の口から、姉の優子の身に起こった悲劇を聞かされた翌日。自宅リビングで弛緩しきった一郎の姿があった。

 ハーキュリー1の上で体をだらしなく脱力させ、何をするでもなく天井を見つめている。そんな一郎の姿を見る者があれば、何事かと思ったことだろう。

 普通の車椅子なら落下か転倒かしているところを、ハーキュリー1は優秀なオートバランサーのせいでそれすらも許してもらえない。「いっそ、転げ落ちてみっともなく床に這いつくばるのがお似合いなのに」――そんな益体もない考えを浮かべ、一郎は自嘲した。

 母の嘆きと苦しみの末に生まれてきた。その事実を自らの口から語った美佳の辛さは、如何ばかりのものだったろうか。

「あの野郎……よくも俺の前に友達面して顔を出せたもんだ」

 腹の奥底で、椛田への恨みの炎がじりじりと顔を見せ始める。親友のはずだった。一郎が昏睡から目覚めてからも、何かと気遣ってくれた。信頼、していた。

 今は、その信頼が大きかった分、椛田への恨みと憎しみが反動のように押し寄せている。ただでさえ、最愛の姉を犯し孕ませた男なのだ。許せるはずがなかった。

 ――あの告白の後、美佳が語った言葉が脳裏に甦る。

『あいつがいなければ私は生まれなかった。でも、あいつさえいなければママは苦しまなかった。私だって、あんなクズの血が入ってることに悩んだりしなかった。……それにね、叔父さん。叔父さんは何も悪くないんだけど、やっぱりこう思っちゃうんだ。叔父さんがあのクズと友達だったせいでママは傷付けられて、私は自分の生まれに苦しむことになったんだって――叔父さんが昏睡状態になんてならなければって』

 その言葉に、一郎は何も返せなかった。返せるはずもなかった。

 美佳にとっては、自分が生まれたこと自体が母の傷の結果であり、その傷を付けた椛田が父親であるという事実は一生消えないものなのだ。それと向かい合い毅然として生きている姪に、一郎が言えることは何もないと思ってしまった。

 優子や美枝にしたってそうだ。娘に、孫に、重いスティグマを刻んでしまうような事実を明かさなければならなかった。その心中は今となっては推し量るしかないが、二人にとっても苦渋の決断だったのだろう。

 ――そう、例えば。美佳は、以前は椛田のことをそう嫌ってはおらず、椛田は娘の純真を利用して何か良からぬことを企んでいた、とか。

 その辺りの詳しい事情までは、美佳も語らなかった。だがきっと、一郎が耳を塞ぎたくなるような事情があったのだろう。そうでなければ、優子と美枝が、美佳に己の出生自体を苦悩させるような事実を語る訳がない。

「椛田の野郎、どうしてくれようか」

 未だ力の入らぬ体とは裏腹に、昏い感情だけはますます力を増し爆発しそうな勢いだった。――スマホが鳴ったのは、そんな時のことだった。

 一郎のスマホではなく、ハーキュリー1の管理用スマホの方だ。合成音声が、発信者が別府であることを告げている。

「もしもし」

『お忙しいところ失礼します、別府です。小山内さん、今お電話よろしかったでしょうか?』

「問題ありません。何かありましたか」

『ええ、実は……ハーキュリー1のタイヤにピンを刺した犯人が分かりました』


   ***


「この度は、当院の看護師が大変なことをしでかしまして……まことに申し訳ございませんでした!」

 初老の男性が深々と頭を下げ、薄くなった頭頂部が露わになる。どう反応していいのか困った一郎は、助けるを求めるように別府の方を見た。が、別府は真顔のまま男性を見つめているばかりで、一郎の方をチラリとも見てくれなかった。

 ――場所は、最早お馴染みとなった救世山総合病院の例の会議室だ。頭を下げている男性は、例の病院の渉外担当者である。どうやら彼は、謝罪担当でもあったらしい。名を佐土原といった。

 ハーキュリー1のタイヤにピンを刺した犯人は、救世山総合病院の看護師だった。しかも、一郎もよく知っている人物だ。

 別府達がハーキュリー1のドライブレコーダーを解析した結果、録画映像には犯人の姿は映っていなかった。が、一郎が病院に入るまでピンは刺さっていなかったことが確認出来た。つまりピンは、一郎が病院にやってきてから刺されたことになる。

 別府はそのことを、まずは病院関係者に報告した。すると、あっという間に目撃者が見付かった、ということらしい。

 その意外な犯人とは――。

「頭を上げてください。それで、その。松浦さんはなんでそんなことを?」

 一郎が犯人――松浦の名を口にすると、佐土原の体がビクッと震えた。きわめて優しく言ったつもりだったが、少し様子がおかしかった。

「その……非常に申し上げにくいのですが、やや込み合った動機なようでして」

 佐土原が冷や汗をかきながら答える。「込み入った動機」というのは聞き馴染みの無い言葉だが、つまりは口にするのも憚られるような内容ということかもしれない。

「佐土原さん。小山内さんも先程『事を荒立てるつもりはない』と仰いましたし、弊社としましても再発防止策をしっかりとしていただければ、それで結構です。ゆっくりでいいので、話していただけますか?」

 別府が、相変わらずな感情の抑制された声音で事務的に伝えた。こういう時、無感情に言われると、人間は却って圧を感じてしまうものだ。佐土原もその例に漏れず、動揺ししどろもどろになりながら重い口を開いた。


 佐土原の説明はいまいち要領を得なかったが、それも仕方ないものだった。

 犯人の松浦――一郎も沢山お世話になった若い女性の看護師――がハーキュリー1のタイヤに虫ピンを刺した動機。それは端的に言うと「ハーキュリー1に不具合が出る等して、一郎の短期入院の期間が延びてほしかったから」というものだった。

 それだけ聞くと、松浦が一郎に対してストーカーじみた恋愛感情を持っていたようにも思えてしまうが、事実はもう少し異なる。

 佐土原は所々で言葉を濁していたが、どうやら松浦は特定の属性を持つ男性に執着する性癖の持ち主だったらしい。「特定の属性」とはズバリ、一郎のようにまだ中年だが病気や障害で男性機能が低下しており性的欲求を自ら解消することが難しい、というものだ。

 なるほど、道理で自分の体を拭いていた時の松浦の手つきが煽情的だった訳だ、と一郎は妙な納得をしてしまった。

 松浦の「被害者」は他にもいるらしい。が、「被害者」の殆どはむしろ若くて美しい松浦に体をまさぐられることを喜んでいたらしく、今まで明るみには出なかった。

 それでも、少しずつ周囲は松浦を怪しみ始め、最近は満足に「犯行」に及ぶことが出来ていなかった。どうやら一郎が最後の「被害者」だったようだ。それだけに、松浦は一郎に対して今までにない執着を見せた、ということらしい。

 それにしても、やることが「車椅子のタイヤに虫ピンを刺す」というのが、なんとも幼稚であるし看護師としてどうなのだろうか。

「それで、その。当院としましては出来るだけ穏便に、ですね」

「佐土原さん。先程、別府さんも仰ってましたけど、俺は事を荒立てるつもりはないですよ。病院を訴えるとか、松浦さんを辞めさせろとか言いません。ただ、再発防止をしっかりしてほしいだけです」


   ***


 佐土原との面談が終わった後、珍しく別府が「少しお茶でも飲んでいきませんか?」と提案してきた。一郎が思わず外の天気を確認したのは、言うまでもないかもしれない。

 場所は、例の病院内のカフェだ。時刻はちょうど二時を回った辺りで、混雑具合はぼちぼちといった感じだった。

「私からお誘いしたのですから、ここはおごらせて下さい」

「いやいや、悪いですよ」

「大丈夫です。経費で落ちますから」

 別府が真顔のままで、冗談なのか本気なのかよく分からないことを言ったので、一郎は思わず苦笑いしてしまった。結局、別府に押し切られる形で、一郎はブラックコーヒーをおごってもらうことにした。

 あいにくと窓際の良い席は塞がっていたので、フロア中ほどの二人掛けの席に着く。一郎が自力で椅子をどけようとする前に、別府がサッと除けてくれたのは流石だった。

「じゃあ、いただきます」

「どうぞ」

 ブラックコーヒーを飲みながら、一郎は正面に座った別府の姿をそっと盗み見た。彼が頼んだのは、意外にもクリームたっぷりの甘いコーヒーだった。なんというか、とても似合わない。

「なにか?」

「いえ、甘いものお好きなのかなって」

「ああ、これですか。カフェインと糖分は摂り過ぎさえしなければ、頭を使う上で強い味方です。午後一番には必ず、甘いコーヒーを飲むようにしているんです」

 いつもと変わらぬ無感情な表情のままで別府が答える。別府はどこまで行っても別府なようだ。

 そのまま、二人で無言でコーヒーを啜るだけの時間が過ぎていく。いい年をした男二人が、ろくな会話もなく黙々とコーヒーを飲む姿は、見る者によっては滑稽に映ったかもしれない。

「あの、別府さん」

 その沈黙に耐え切れず、一郎は意を決して口を開いた。

「なんでしょう」

「今日はどうして誘ってくれたんですか? いつもなら、お仕事と関係ないことは殆どしないのに」

「ふむ、どうして、ですか……。そうですね」

 別府が小首も傾げずに、じっと自分のカップの中を眺めながら考え込む。一郎は失礼とは思いつつも、その姿を「計算中のロボットみたいだ」と思ってしまった。

「強いて言えば、勘でしょうか」

「勘、ですか?」

「ええ。こういう商売をやっていますと、あるのですよ。理屈やデータに基づく訳でもないのに、『今はこうしなければいけない』と、確信めいた予感がすることが」

 意外過ぎる答えだった。今まで、一郎には別府が全てにおいて理屈でもって動いている人間に見えていた。そんな、「直観」に従うようなことを出来る人間とは、思っていなかったのだ。

「俺をお茶に誘うことが、必要だと感じたと?」

「はい。失礼ながら、今日の小山内さんはどこか疲れているというか、心ここに有らずなように感じます。このまま一人でお返ししていいものか、と思いまして」

「……そう、見えますか?」

「なんとなく、ですが」

 なんでもないように言って、再びコーヒーを啜る別府。その一糸乱れぬ所作は、やはりロボット然としていた。

「お気遣いありがとうございます。そうですね、ちょっと色々あって……。確かに、こうやってコーヒーの一杯でも飲んで、落ち着いてから帰るべきなのかもしれません」

「そうですか。それなら、良かった」

 それだけ言って、別府は再びコーヒーに集中し始めた。あくまでも一郎に茶の一杯でも飲ませて落ち着かせるのが目的であって、余計な雑談はしない、ということらしい。普段は味気なく感じる別府の無感情ぶりも、こういう時は助かるのだなと、一郎は内心で苦笑した。

 だが――。

「ああ、そうだ。今はプライベートなので、少しお伺いしたいのですが、よろしいですか?」

 どんな風の吹き回しか、別府が突然そんなことを言い始めた。

「はい、なんでしょう?」

「弊社には、何社かスポンサー様がいるのですが、実は救世山総合病院でのハーキュリー1のモニター事業は、その内の一社様からのご提案なのです」

「はあ」

「その一社というのが、ここ救世山の地元企業様でして。――小山内さんは『椛田商会』という会社をご存じですか?」


   ***


 別府が呼んでくれた介護タクシーに揺られながら、一郎は救世山総合病院を後にした。「同乗しないのか?」と尋ねたのだが、どうやら別府はマイカーでやってきていたらしい。あの別府がどんな車に乗っているのか気にはなったが、結局訊けず仕舞いのまま、一郎は車上の人となった。

 ――窓の外を眺めながら、一郎は別府から聞いた話を反芻していた。

 救世山総合病院でのハーキュリー1モニター事業は、椛田商会からの提案だったという。椛田商会は、あの椛田の実家だ。直接経営には関わっていないが、一族経営なので椛田自身も株式をいくらか持っている。発言権と呼べる程のものがあるかは分からないが、身内の誰かに頼んで、出資先に要望を伝えるくらいのことは出来るだろう。

(俺にはお前が何を考えているのか、さっぱり分からないよ)

 今どこで何をしているのかも分からない「親友」に、心の中で呼び掛ける。当然、答えはない。

 優子の尊厳を汚しておいて、親友面で自分に笑いかけてきた厚顔無恥な男が、その一方で、一郎の助けになるよう実家を動かしてもいる。

 どちらが本物の椛田なのか? 一郎には分からなかった。それとも、これにも何か裏があるのか。

 分からない。何も分からない。何を信じればいいのか、誰を信じればいいのか。一郎には、何も分からなくなっていた。

 こういう時に相談出来る人間は弥生くらいしかいないが、彼女も二十年前に自分を裏切っている。本当に信用していいのか、分からない。

 ――一体どうしてこんなことになってしまったのか?

 答えは明白だ。全ては二十年前のあの事故からおかしくなった。

 事故さえなければ、一郎は弥生と普通に別れ話をして、決別出来ていた。

 事故さえなければ、優子が一郎の介護に疲れた心の隙を椛田に付け込まれることもなかった。

 事故さえなければ、一郎は二十年もの時を失って、こんな不自由な生活に苦しむこともなかった。

「そうだよ。せめて二十年前の事故の原因くらい分からないと」

 自宅マンションに帰り着くなり、ぼそりと、誰に言うでもなく一郎の口から言葉が漏れた。全く無意識の独り言だった。

「別に、俺が間抜けにも河原から足を滑らせたのでも、何でもいい。そもそも、なんでほろ酔い気分のまま、危ない場所に近付いたんだ……俺!」

 頭を掻きむしりながら絶叫する。一郎の心は、自分でも気付かぬ内に限界を迎えていた。今までだましだましやってきたのが、ここにきて決壊したのだ。

 自力で歩くことも出来ず、事故の後遺症なのか、時々フラッシュバックのような悪夢にうなされる。

 最早頼れる両親もなく、姉もいない。姪にこれ以上頼る訳にもいかない。

 恋人は当の昔に自分を裏切っていて、親友だと思っていた男は最愛の姉を犯した性犯罪者だった。

 将来への展望など描けるはずもない。

 ならばせめて、自分の人生を狂わせた事故の原因くらい、はっきりさせておきたかった。

 ――冷蔵庫を見やる。扉には、「とりあえず」目に付く所に置いておきたい書類等をマグネットで張り付けてある。その中に……あった。くたびれた一枚の名刺が。

「捨てないで良かったよ」

 それは、あの元山梨県警の刑事・木在の名刺だった。

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