虫けらみたいに交尾した
黄黒真直
虫けらみたいに交尾した
「あっ、逃げたっ!」
理科室のドアを開けると同時に、由依先輩の悲鳴に近い声が聞こえた。
「
黒いテーブルの上で、緑色の何かが飛び跳ねている。体長数センチメートルほどのアマガエルだった。由依先輩はガスバーナーの火を慌てて消しながら、部室に来たばかりの僕に指示をする。
先輩の指示には逆らえない。僕は通学カバンを放り投げるように置くと、腕を伸ばし、パッとアマガエルを捕まえた。手の中でウゴウゴとうごめく緑色の生き物は、両生類とは思えないほど生温かった。
「由依先輩、今度は何やってたんですか」
「何って、実験よ」
テーブルの上には、火を消したばかりのガスバーナーと、水の入ったビーカーがあった。
「ほら、よく言うじゃない。『カエルを熱湯に入れるとすぐ逃げるけど、水に入れてから熱すると気付かずにそのまま茹で上がる』って。それを確かめてたの」
「また非倫理的な実験を……。
「あの先生、私には怒らないわよ」
たしかにいつも怒られるのは僕なのだった。
「そんなことより、それ、貸して」
先輩が手を伸ばす。僕は言われるがまま、手を開いた。僕の手から逃げ出そうとしたアマガエルを、先輩がひょいとつまみ上げる。先輩の指先が一瞬だけ僕の手のひらに当たってドキリとしたが、先輩は全然気付かずに、
「わぁ、カエルなのにあつーい」
と笑っていた。
この生物部に、部員は僕と先輩の二人だけ。部活といっても、大したことはしていない。森や田んぼで生き物を捕まえて、実験をするだけの部活だ。
どこまでも田んぼが広がり、古びたカラオケしか娯楽がないようなこの田舎町では、先輩と過ごすこの時間が何よりも癒しだった。
由依先輩と知り合ったのは小学生の頃だった。僕が五年生のとき、六年生の先輩が近所に越してきた。東京の近くの街から、この片田舎に。
この地域には大企業の工場がいくつかある。だから、こういう転入はときどきあった。だけど六年生の、しかも六月の中頃の転入なんて、珍しかった。
学年が違うのでクラスは当然違ったけれど、噂によると、先輩はクラスで浮きまくっていたそうだ。
転校生はときどきいるし、クラスの人達も最初は友好的に受け入れる空気だった。でも、先輩はほとんど喋らなかった。加えて、あの性格だ。あっという間にクラスで孤立し、それは中学に進学した今でも続いている。
そんな先輩と僕が出会ったのは、五年生の夏休みのことだった。友達と別れ、夕方の帰り道で自転車をこいでいると、どこからか「ガン、ガン、ガン」と音が聞こえてきた。音の出所を探してみると、噂の転校生の姿があった。
そこは由依先輩の家だった。門から玄関へ続く石畳に、先輩がしゃがんでいた。手に石を持ち、石畳を何度も叩いていた。
僕は、その横顔から、なぜか目を離せなかった。
わずかに開いた口から、白い歯が見えている。うるんだ目で、地面をあちこち見ている。そして狙いを定めて、ガン、また別のものに向かって、ガン。
「何してるの?」
僕は思わず聞いていた。彼女は一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐにニタニタと笑い始めた。
「アリ」
「アリ?」
「アリを潰してるの」
石畳の上に、アリの行列ができている。その周りに、潰れたアリの死骸が散らばっていた。
「なんでそんなことしてるの?」
「なんでって……」
先輩はやはり、ニタニタと笑っていた。それは、特別な秘密を打ち明けるような、いたずらっぽい笑みだった。
「いけないことだから」
僕は、この笑顔に惚れたのだ。
それ以来、僕は何かと理由を付けては由依先輩のそばにいた。
この頃には既にセックスの知識はあったが、それが目の前の女の子と結びついてはいなかった。
その認識が変わったのは、中学に入ってからだ。あのときのことはよく覚えている。去年の秋のことだ。
由依先輩と二人でカラオケに行った帰りだった。自転車をこぐ由依先輩が、突然急ブレーキをかけた。
「どうしたんですか?」
僕も急ブレーキをかけると、先輩は前方を指差した。民家の石塀の上に、細長い緑色の何かがいる。
オオカマキリだった。それも二匹。大きいカマキリの背中に、一回り小さなカマキリが乗っていた。
あれは、交尾だ。メスの上にオスが乗っているのだ。オスのオオカマキリがゆらゆらと腹を動かし、メスはじっとしていた。
すると先輩は、ニタニタと笑いながら、僕を見た。
「逃げられないように、そっと近付きましょう」
僕達は自転車を下り、そろそろと歩み寄った。
二匹は僕達に気付いていないのか、気付いてても無視しているのか。僕達が真横に来ても、二匹はそのままだった。
「
「習性?」
「カマキリって、動くものは何でも獲物だと思って飛び掛かっちゃうの。相手が同じカマキリでもね。だから、オスのカマキリが交尾するのは命懸けなんだよ」
「メスに食べられちゃうからですか?」
「うん。正面からだと、獲物だと思われて食べられちゃう。だから後ろから、メスに気づかれないように忍び寄るしかない。まるでレイプだよね」
「えっ」
由依先輩の口から突然出てきた性的なワードに、僕はギョッとした。でも先輩は気にせず、話を続けた。
「しかもそれは、セックス中でも変わらない。だからこうすると」
先輩はオオカマキリ達に指を近付けると、メスの頭の後ろでサッと指を動かした。それに反応して、メスが振り返る。そして、目の前で動くオスに噛みついた!
「うぇっ」
メスはオスの頭を押さえつけ、バリバリと食べ始めた。それを見て、先輩はニタニタと笑っている。
「すごいよね。このメスは、いま自分が誰と何をしているのか、わかってないの。そしてオスもすごいわよ」
オスは、頭を半分かじられても、まだ腹を前後に動かしていた。
「昆虫の脳は、体中に散らばってるの。だから、頭がなくなっても、体は動く。頭を食べられても、メスとの交尾を続けるのよ」
由依先輩はニタニタと笑いながら、僕の方に振り返った。
「ねぇ一途君。どうして男って、そんなにセックスが好きなの?」
「えっ、いや、それは……わ、わかんない、です。したことないし……」
「へぇ。ないんだ」
「由依先輩だってないでしょう」
僕の負け惜しみを聞いても、先輩は笑顔を崩さなかった。
「え、まさか」
「わかんない」
「わかんない?」
「私ね、襲われたの。小学校の担任の先生に」
「え」
襲う、というのはつまり、そういう意味だ。由依先輩はまだニタニタ笑っていて、冗談なのか本気なのかわからない。
「でも、全然覚えてない。気が付いたら私は、先生の家にいて、お腹がすごく痛くって、目の前には首から血を流す先生が倒れていた」
僕は何を聞かされている?
「私の手にはカッターナイフがあって、先生はまだ少し動いていた。私は先生の首に傷があることに気が付いて、そこにカッターを差し込んだ。そして先生は動かなくなった。覚えているのは、それだけ」
普段は気にならないコオロギの声が、やかましく耳に響いた。僕の頭の中に、一度に色々な思いが駆け巡った。何かを言わなきゃいけないけど、何を言えばいいのかわからない。
「つまり先輩は、非処女なんですか」
出てきたのは、考えうる限り最低最悪の言葉だった。僕は自分自身を呪い殺したくなった。
「どうして男って、処女にこだわるの? 子供を作る上で関係ないのに」
「いや、それは……」
「あの先生も不思議だよね。あのときの私は、まだ生理が来てなかった。つまり子供が産めない。なのに先生は、私に性欲を抱いた。性欲って子供を作るためのものなのに、それ以上の何かを内包している」
「う、うん」
「どうして男って、そんなにセックスしたがるの?」
「……」
僕は声を絞り出した。
「わ、わかんない、です……」
先輩の後ろには、カマキリの足が散らばっていた。
「バタイユによれば、性欲とは、非連続性の人間が連続性を求める欲求だそうよ」
「誰です、バタイユって」
「フロイトとかの仲間」
放課後の理科室で、今日も先輩は実験をしている。テーブルの上には大きな虫かごと、コルクボードが一枚。その上に、羽を広げられたトノサマバッタが、待ち針で止められている。大きな羽に一本ずつ針が刺さり、体にも何本か。バッタはまだ生きていて、なんとか逃げようと足を動かしていた。
「連続性とは、他者とのつながりのこと。人間は本来一人ぼっち、つまり非連続性で、常に連続性を求めているというのよ」
「一人でいるより、友達といる方が楽しいですからね」
「そして究極の連続性がセックスよ。だから人は、常に性欲を抱いているとバタイユは言っているわ」
僕はまた、口ごもるしかなかった。
「それで、それとこれと、なんの関係があるんですか」
僕はトノサマバッタを指差した。先輩がまた一本、節の間に針を刺す。バッタはもがいているが、針はびくともしない。
「バタイユは、連続性は死によって完全に断絶されると言ったわ。でも本当かしら。死んだって他者とつながれるわ」
「どうやって?」
「食べるの。体に取り込むことだって、連続性のはずよ」
物理的な話?
「ほら、男はセックスを『食べる』って言うでしょ。変だと思わない? 口はこっちにあるのに」
先輩は制服のスカートをつまんだ。
「でも、どちらも連続性を得る行為だと思えば、辻褄は合うわ」
「だ、だとして、このバッタはなんの関係があるんです?」
「これはただ、昆虫はどこに針を刺したら死ぬのかと思って」
「全然関係ないじゃないですか。なんでそんなムゴいことやってるんですか」
「いいでしょ。あとでちゃんと食べるし」
「え」
僕は、虫かごの中の無数のバッタを見た。
バッタなんて食べたくなかったけど、先輩に食べろと言われれば、僕は従うしかない。あの最低最悪の発言以来、僕は贖罪として自分自身に掟を課した。先輩の指示には絶対に従うこと、と。もし先輩が死ねと命じたら、僕は喜んで死ぬだろう。僕みたいな最低最悪な人間は、死んだ方がいいだろうし。
二人で調理器具を片付けていると、顧問の
「あ、先生!」
由依先輩が、笑顔で先生に駆け寄る。僕には見せたことのない甘い笑顔だった。
群先生はイケメンで、背も高くて、女子にモテる。由依先輩も例外でなかった。
「遅れてすまないな、
「はい」
「例の話?」と僕が聞くと、「進路の相談してて」と先輩は答えた。
「一途君、あとは任せたわ。先に帰ってて」
それだけ言って、先輩は先生と二人で理科室を出て行った。
皿洗いを終え、電気を消して、僕は学校を出た。
ムカムカしていた。先生が羨ましくて、憎くて、たまらなかった。
まっすぐ帰る気分になれなくて、暗くなるまで寄り道していた。先輩とザリガニを捕まえた川や、タニシを捕まえた田んぼを通る。やがて、視界の悪い森についた。ここにも何度か、ヘビを捕まえに来たことがある。
森の中はさらに暗く、ほとんど何も見えなかった。車が一台通れるくらいの道を歩く。そろそろ引き返そうかと思った頃、前方に何かを見つけた。
大きめの黒っぽい軽バンが停まっていた。群先生の車だ。なぜこんなところに。
後部座席のドアが開いて、人が出てきた。由依先輩だった。先輩は僕に気が付くと、とろけるような笑顔になった。
「ちょうどいいところに。こっち来て」
僕は先輩に逆らえない。言われるがままバンに入る。中に転がっていた懐中電灯が、そこにあるものを映し出す。
血まみれの群先生が倒れていた。
背後でバンのドアが閉まる。僕は先輩に押し倒された。
先輩の息が荒い。とろんとした目で僕を見下ろす。僕に抱き着いてきて言った。
「私、やっぱり、生き物を殺すのが好き。気持ちいいし、興奮する」
先輩はカッターナイフを取り出した。
「バタイユは半分しか正しくなかったわ。死は連続性を断絶しない。だって、殺される人は、殺す人と、つながってるもの。私にとっては、これこそが、性欲!」
わめくように言いながら、先輩は僕の服を切り裂き始めた。
ああ、やっぱり、先生が憎い。郡先生は僕より先に、先輩とつながった。
でも僕も、これから先輩とつながれるのだろう。殺されるのか、セックスするのかわからないけど、どっちだって構わない。
先輩とつながれるなら、僕は死んだって構わない。
虫けらみたいに交尾した 黄黒真直 @kiguro
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