2/7 サウの白豚
湖の底には、追い落とされたものが沈んでいる。わたしもそこへ……行くのか……
(わたしは……………………わたしは、足のつかない所では…………泳げな……)
ゴボゴボゴボゴボ……ゴ…………
光。
ベッドサイドテーブルの奥歯を叩いて、
起きて、トイレへ行く。洗面台で顔を洗う。顎の下に……余計な肉がついている。埋もれた鎖骨は、肉に圧倒され続けている。部屋へ戻って、着替えた。わたしはフロントへ向かう。朝食の時間だ。
豚になった憐れな男は、どうなったかって? さぁ、知らないな。
食堂には、誰も居ない。
「おはようございます、菊池さん」
グレゴリオが居た。
「トースト何枚食べます?」
「二枚」
掃き出し窓。
「コーヒーに砂糖とミルクは?」
「砂糖一杯、ミルクはなしで」
中庭にはプール。
「トーストは、何を塗りますか?」
「バターかマーガリン。塩を二振り。もう一枚はジャム」
奥の小窓からは朝陽。
「菊池さん、ちょっと」
「なんだ」
グレゴリオにバックヤードへ呼ばれた。グレゴリオの冷蔵庫を見るのは、二度目だ。教会のとは異なる、銀色の業務用大型冷蔵庫。観音開きのドアを開けると、一角にジャムがズラリと揃って入れられたコンテナ。グレゴリオはわたしに、それを引き出して見せた。(口頭で並べ立てるのが面倒になったのか? グレゴリオめ)
「ブルーベリーと、半分は…………マーマレード」
「承りました」
変わり種は明日にしよう。
わたしらは食卓へ着席した。今朝は、
「いただきます」
「父よ、あなたの
グレゴリオは、小さな声でお祈りを唱えている。いつか、その祈りの
「そのお祈りは、食べ物を与えてくれた神様へのお祈りかい?」
「そうですね」
「ふぅん」
神様が万物の創造主で、その末端の生きものが、食卓にあがった食べ物に感謝を捧げる。一枚の食パンも、一本のソーセージも、一人のわたしも、神様にはちゃんと区別されて、別物に見えているのだろうか? 食卓に置かれた調味料入れの、ガラスの小瓶どもが、神の
「菊池さん」
「なんだ」
「デザートがあります」
それは予告か? ふん。
「今日はちゃんと食べるわい」
「私は朝食の後、走りに行くので」
知っている。昨日見た。しっかり食べて、しっかり運動して、しっかり生きている訳だ。
「菊池さんも、私と走りに行きますか?」
「わたしが、走ると思うか?」
モーテル・パラジウムの朝食は、ワンプレートだ。コーヒーとデザート付き。大きな平皿に、トーストとスクランブルエッグとカリカリベーコン。トーストは、八枚切りの薄い食パン。
わたしは、バタートーストに卵とベーコンを挟んで、半分に折り畳んで食べた。トーストは、こんがり狐色によく焼かれて、プレーンな卵と
もう一枚のトーストは、グレゴリオがジャムをたっぷり塗ったので、薄いのに食べ応えがすごい。噛むと、ジャムのぬかるみに突っ込んだ感触……確かに、こんなボリュームがあるトーストなら、食後に少しくらい走ってきても、いいのかもしれない。
「どうぞ」
グレゴリオは、わたしが皿を空けるのを見計らって、デザートを出してくる。ガラスの小鉢に、ヨーグルト。
「じゃない……アイスクリーム?」
「朝からアイスを食べたいなって」
かっこいいほど斜めにカットされたバナナを添えて、クラッシュ・ナッツ、そして蜂蜜。
「メイプルシロップです」
ヨーグルトなのか。アイスなのか。
「ヨーグルトアイス……ですかね」
アイスかソルベか、定義について考えることは、それほど重要なことではない。朝から氷菓にありつける。今はそれで充分だ。
グレゴリオはコーヒーじゃなくて、オレンジジュースを炭酸水で割って飲んでいる。
「それ、薄くならないのか?」
「一〇〇パーセントだと濃いので」
わたしはコーヒーを飲みながら考えた。今日は予定が入っている。それまで、どう過ごしたものか。わたしは食堂の窓辺から、四角い中庭を見遣る。
「芝生の手入れだけで、手一杯……か」
人工芝のように短くカットされた芝生に囲まれた、真四角の空間に、四角いプール。
「業者さんに頼んでます。一度自分で雑草を取って、芝刈り機で整えてみたら」
「難しかったのか?」
「疲れました」
「だろうな」
芝生や植栽は几帳面に整えられているのに、四角いプールは手つかずな様子。グレゴリオの投げ出したプールには、落ち葉が積もり、蓋になっていた。
グレゴリオは既に、走りに行く格好をしている。黒いエプロンの下は、Tシャツにハーフパンツ。その黒いタイツみたいのは何だ?
「……気になります?」
グレゴリオの何か履いてる脚を、つい見ていた。
「わたしには、女が履くものにしか見えないんだが」
「スポーツやる人や、自転車、登山とかでも男の人、履いたりしてますよ」
「ふぅん。ジャージより何か良いのか?」
「私の場合は、走りやすいですね。ジャージだと風の抵抗とか、走る脚の邪魔をしてこないし……あ、これはトレンカで(※レギンスの一種。レギンスは足首まで、トレンカは爪先と
「ラッシュガード?」
「えぇと……スパンデックス(※ポリウレタン弾性繊維)とかナイロンとか、こう、ツルツルした素材で出来てて、身体にフィットする……あとUV! 紫外線もシャットアウト出来るんですよ」
ますます女性的に聞こえるんだが。
「肌が露出しないから、虫よけや
「あぁ、だから山登り」
「そうそう」
喋っていると、グレゴリオは若者らしく、わたしには子どもに見える。
「私とウォーキングしに行きませんか? 菊池さん」
屈託ない笑顔で言われて、わたしは応えた。
「いいだろう」
子どもの言うことは聞いてやるものだ。
わたしは、あるものを確認しに行かねばならない。散歩も兼ねて、ちょうどいい。
グレゴリオと森を歩いて、湖のサウナ小屋へ向かった。モーテル・パラジウムから歩いて、三十分もかからない。
…………晩に走った森は広過ぎた。悪夢の風景と、現実の光景は重ならない。悪い夢の中は、空気が水飴のように重くて……プールの中で走る感覚、わかるか? あんな感じだ。
「私も……最初は歩いていたんです」
何がだ? わたしはグレゴリオの話を聞いていなかった。
「こんな風に、森を散歩していたのに」
のに?
「だんだん早足になって」
何故に?
「散歩で歩いていただけなのに。……向かう方向が同じだと、少し気まずい気がして」
なんか、大事な部分を聴き逃した気がするぞ。
「追い抜かされて、先越されました」
「抜き返せばよかろう」
「スピード変えないで、抜かしていくんですよ。…………
お祈りを唱えるくらい小さな声で、苛つくと言った。グレゴリオが。いや、それくらい言うか。グレゴリオがこちらを見てくる。ちゃんと聴いとるわい。
「ちょっとだけ、少しだけ、早足で歩くようにしたんです。こんな感じの緩い斜面なら、脚のりだって良くなるし」
わたしはのらない。早過ぎるとグレゴリオを見遣る。
「他の追随は振り切れた訳だ」
「まぁね」
不遜な顔を覗かせたグレゴリオは、如何にも若く、わたしは嫌いではないと思った。が、グレゴリオはまだどこか不満げだった。
「で? まだ何かある訳だ。ほれ、言うてみい」
グレゴリオは、スタスタと軽い足どりで歩いていく。本当はわたしと走りたいのかもしれない。無理な話だが。
「神様だって、グレゴリオばかり見ている訳じゃなかろう。何でも言ってしまえ」
「菊池さん……」
呆れた目を向けるな。失敬な。
「菊池さん、
わたしだって嫌だ。グレゴリオが言い淀むほどのことではない。
「蜘蛛は殺さんのか」
「蜘蛛は友だちなので」
地味な友だちだな。
「神様は殺すよな、人間」
グレゴリオがわたしを見る。
「人間が死ぬだけですよ、神様は……」
グレゴリオがわたしに向き合う。
「止まらんでいい。…………そうだな。神様じゃなくて、人間が死ぬだけだよな」
わたしはグレゴリオの言葉を繰り返して、グレゴリオを歩かせる。
「走っていたら…………今度は別の人に、ペースメーカーにされました」
ペースメーカー? 拍動サポートの心臓ペースメーカー…………違うな、
「マラソンの?」
グレゴリオは嫌そうに肯いた。
「私の後ろから、走ってくる気配が近付いて来て、追い抜きはしないんです」
背の高い、スラッとしたグレゴリオは、髪の毛も無いし、目立つのだろう。わかる。目印にはちょうどいい。(自分の前にグレゴリオが走っていたら、わたしだってグレゴリオの後頭部を見て走る)
「グレゴリオが止まって、先行かせるのは……ダメなのか?」
「…………やだ」
心底嫌そうに。
「スピード上げるのは?」
「そんなに走れない」
どうやらジョギングコースの中盤で現れるので、グレゴリオは抜きたくても抜き返せないらしい。しかもそいつは、現れたり現れなかったりして、グレゴリオを苛つかせると。なんだか……グレゴリオでもあるんだな。そういうの。
「今日は走れるだろう? グレゴリオ。わたしは行く先がある。走れ! グレゴリオ」
ウォーキングはお終いだ。
「菊池さん。付き合ってくれて、ありがとうございました」
そう言って、グレゴリオは走り出した。
午前中、朝方の森は爽やかで…………湖が見えてくる。小屋は、本当に小屋で…………夜中に、こんなところへ来る者の気が知れない。いや、日中でも大概だな。どれどれ。
サウナ小屋の入口に掲げられていたのは、看板だった。『サウナ・ルチア』…………サウナ・ルチア。それが小屋の名前。あの恐ろしげな
充分だ。あれは確かに夢だったのだ。
わたしはグレゴリオと来た道を、独りで八号室へ引き返して、出掛ける準備をした。
箱根には、ラリック美術館がある。残念ながら、ここは箱根ではない。
「ガラス工芸美術館へようこそ」
高原リゾート圏内にある、ちょっと大きなアート施設へ来た。入口でスマホのデジタルチケットを提示して見せる。(便利だが趣きはない)
館内で紙のマップを取る。鑑賞のついでに、感想を書き込むのだ。(出たら忘れるからな)
アール・ヌーヴォーは植物的な曲線を多用した有機的なデザインで、アール・デコは都会的な直線フォルムを様式化したデザイン。ここには良い時代の作品が集められていて、まあまあ展示されている。(わたしの好みはアール・デコの方だ)(ミュシャよりラリックが好きな人間も居るのさ)
美術館には、カフェとワークショップが併設されていて、本日は十二時の工作体験教室を予約している。昼時はカフェの方が混むから、ちょうどいいだろう。
ガラス工芸品が好きなのは、わたしの趣味ではない。別れた妻の趣味だ。
「バーナーワークは初めてですか?」
「妻がやっていました。わたしは見ていただけです」
「そうですか」
微妙な過去形の返答に、講師は何かを察して、それ以上は訊いてこない。ワークショップに、独りで参加している中年男性。妻は他界したのか、別れたのか。どちらにしても、楽しそうな話ではないと薄々わかるだろう。わたしはしんみりとしてみせ、妻を
ソーダガラスの棒をくるくる回して、ずっと回転させていなければならないらしい。
わたしは……ガラス工芸は、見るの専門。鑑賞する対象であって、自分で作るものだという認識はなかった。
「……ふぅ」
鉄芯に巻きつけたガラスは、ガスバーナーの炎で赤く燃えて、溶けている。講師のアドバイスを聞きながら、模様をつけたり、色を足したり、形を整えたり、何やかんやした。
四つ。わたしは自作した蜻蛉玉、一つずつに細い
ランチタイムも終盤、美術館併設のカフェは多少空いている。わたしはテラスサイド席で、アフタヌーンティーと洒落込んだ。
「お待たせ致しました。食用ガラスのデザートプレートとニルギリティーです」
全面ガラス張りの壁は、屋内と屋外の境界を曖昧に思わせてくれる。
食用ガラスは…………まぁ、見映え重視の水饅頭だな。別添えのベリーソースを垂らすと、ツルリとした球面を伝い、美しく彩られる。
「いただきます」
イメージのガラスと実際のガラスについて、違いなどを思いながら、食す。ゆるい形、甘さは遠くで手を振っている。喉を落ちていく、
紅茶には、小さなピッチャーが揃えられている。……カラメルシロップか! カクテル用の。……これはいい。一段と風味が増す。
いつもなら、食べる前にスマホを取り出して、いそいそ写真を撮って、それから食べていただろう。SNSに投稿して悦に入る。それがいつの間にか習慣化していた。わたしは、それをしなかった。不粋とか、集中の分散とか、そんな大層なものでもない。ただ単に忘れていた(実際忘れていた)…………それだけのことだ。
四つ作った蜻蛉玉の一つを取り出して、眺める。小さなガラス玉の中に、キラキラしている午後を集めて、記憶する。(これで、
ガソリンスタンドへ寄って給油中、売店で観光案内リーフレットを入手。高原リゾートの紹介とマップだ。
ふむふむ、あのデカい湖はカバネル湖と言うのか。冬になると全面凍結して『氷地獄』の異名もある。店員に訊いたら、凍ってもアイススケートには向かず、物好きが歩き回るくらいなんだそうだ。
サウナ小屋はなんと、載っていなかった。益々もって、秘密の集いし場所めいている。いや、隠されて……いる?
マップを見て、カバネル湖のほとりにあるサウナ小屋の対岸には、燻製小屋があった。丸太小屋のアイコンに、説明文では地元名産のソーセージやサラミ、燻製品なんかを販売しているようだ。よし、行ってみるか。
水際をぐるりと回る道は無く、一度カバネル湖から離れた街道沿いに出て、高原リゾートの奥地側からアクセスした。奥地と言っても、勾配の利いた斜面にグラススキー場があったり、名の知れた大きなホテルがあったり、リゾート地としてはこちらの方が栄えている。
ケルヴ燻製所。
対岸のサウナ小屋とは、まるで違う。森の木々の囲いの中に、アスファルトで固められた広い駐車場があって、それほど大きくはない、小綺麗な丸太小屋の小売店がある。
「いらっしゃいませ」
ドアベルに乗せられる挨拶の声。ガラスのショーケースには肉々しい、燻製肉が所狭しと並べられている。モーテル・パラジウムの夕飯に出てきたソーセージも、ここのものなのだろうか?
まだ、今のところは食品の買い物をする気はない。それでもわたしは、加工肉に目が吸い寄せられる。
「干し肉のご試食はいかがですか」
干し肉……
「ジャーキーとは違うのかね」
「ジャーキーは干し肉の一種ですね。違いをお試しになります?」
「あぁ」
なるほど、ジャーキーも干し肉か。パラフィン紙に挟まれた肉片を二つ受け取る。
「ジャーキーは、牛モモ肉で作られるのがポピュラーで、歯ごたえがあります。干し肉は、地域に寄って様々な肉材から作られ、ジャーキーほど硬くはありません」
ジャーキーは……想像通りの味だな。スパイシーでツマミ的な。干し肉は……
「なんか、どこかで、食べたことあるような??」
「こちらは、
「ジンギスカン!」
そうだ。それだ。
「プレーンな干し肉もお試しになります?」
色味の薄い肉片。
「味付けに凝らなくても、美味いな。一袋いただこう」
わたしは干し肉らしい干し肉と、
駐車場内を移動して、レイクビューの良さげな場所に止め直す。両サイドの窓を開けて、風が通り抜けるようにして、倒したシートへ横になった。三十分か一時間か。わたしは昼寝して、もう一度ミュージアムショップへ向かった。
コンビニや飛び込みの店では簡単に探せないものが、ここには置いてある。妙に充実しているレターセットのコーナー。透かし模様の入った便箋と、箔押しに
ショップを出る時、わたしはそれを見てしまった。
ガラスのオブジェクト。
飴がけしたような
見本展示品のそれらは触れてもよくて、わたしは桃に手を伸ばした。
欲しい……
いや、要らない。使い
ガラスの桃はフロストガラスで、淡い果実の色合いは白濁の向こう側にあって、手にしているのに触れることが出来ていないような、
氷漬けの甘露。
フロストガラスという表層が、遮る膜が、桃の色味を一段と
記憶……
時間外に供された夕食のデザート。わたしの為に切り分けられた果実。グレゴリオが…………自分の為には無造作に、かぶりついていた桃。
わたしはミュージアムショップの店員に、訊いていた。
「これと同じものはあるかね」
「申し訳ございません、お客様。こちらは品切れ中でして」
店員は、手作りの工芸品なので、入荷の予定は答えられない旨を告げた。林檎の方は、店頭の棚にいくつか箱がある。わたしは吃驚するほど桃に惹かれ、見本の置き物へ、熱く
車を走らせているのに、桃の感触や、記憶が蘇ってくる。フロストガラスの手触りと、グレゴリオが
特定の購買欲など、瞬間的最大風速みたいなもので、時間と場所の距離があけば間延びして、薄まってくるものだ。脳の
強欲など振り払え。
もともと身体は生きていく為に、欲張りに仕立てられているんだ。身体中ミチミチに詰まった欲望は、わたしを日々動かしている。この上更なる欲望に自らを明け渡しては、例えば結果、獲得し得た物質的な質量に、何が引き起こされると思う?
想像力に鞭をくれてやれ。
わたしは思考の柔軟性も均衡も失って、カーブも曲がれず、人生の周回コースで派手にクラッシュすることになるのさ。想像してみ給え。整理整頓が崩壊した部屋、把握しきれない物、物、物。わたしはミニマリストではないがな。中庸という美徳。足るを知ることと、無知である自覚。甘くすり寄る強欲に、抗えるということ。これは力だ。
触るな! わたしを乱すもの。
誘惑の手を退けて、鼻息荒く運転をして、ハンドル操作はミスらない。冷静さをわたしは、保てて、いる。
喫茶
暖簾が出ている。店はやっているようだ。(テイクアウトの受け取りに寄る、客の為かもしれないが)
「
引き戸を開けると、カウンターの向こう側に
「……菊池さん!」
狸穴皆十はわたしを見て、わたしの名前を覚えていた。
「いらっしゃいませ。どうぞ」
わたしは狸穴皆十の正面に座った。相変わらず店内は誰も居な……居た。カウンターのいちばん奥に、誰か座っている。
「営業中? コーヒーを注文してもいいかな?」
「ふふふ。今日のメニューですよ」
人好きのする狸穴皆十は柔和で、リラックスという無償のサービスが、真っ先に提供される。
狸穴皆十から受け取ったメニューを開くと、喫茶店のメニューの中に、ハヤシライスやビーフシチューがあって、トーストにもスープが付く仕様になっていた。
「今日は……ハヤシの日? トーストも頼めるかな」
ブラウンシチューのミニスープが付くらしい。試してみよう。
「コーヒーとトースト、承りました」
モーテル・パラジウムのトーストと食べ比べてやる。
「店長、出来ました」
狸穴皆十は、カウンター奥のバックヤードから呼ばれて、大きな手提げ袋を持って戻ってきた。
「お客様、お待たせ致しました。重いので、お気を付けください」
カウンターに居た客に、それを渡している。テイクアウトか。配達しないで、客が受け取りに来るというのは、ほんと旨いこと考えたな。
客がわたしの後ろを通った時、中がチラリと見えた。
「…………鍋」
「ハヤシとカレーは、マイ鍋でのテイクアウトも承っていましてね。少々お高くはなってしまいますが、ご利用いただいてるお客様も居るんですよ」
カフェでのマイボトル・マイタンブラー割引は聞いたことあるが…………まぁ、確かに悪くはないな!
コーヒーを淹れていた狸穴皆十は、一度バックヤードへ引っ込むと、厚切りのバタートーストとスープカップを持って出てきた。
「お待たせ致しました」
バタートースト!
「いただきます」
グレゴリオのトーストとは別物だ。グリルで焼いたのか、一口齧るとサックリしているのに、中身はモッチリ水分しっとりで……トースターで焼かれたのとは、異なる出来だ。
「パン…………食パンうまいですねぇ」
「うちで朝少し焼いているだけなので、なくなったら、トーストもサンドイッチも終わりなんです」
バターが染みててジュワッとなるとこ、ドッと快感が押し寄せて、『美味い食パン』という多幸感にうっとりする。頬張り尽くしたい欲にブレーキを踏んで
ご丁寧にカップまで熱く温まっていて、程良い熱に、唇で触れる小さな快感は…………
「…………ハァ」
どうしてドミグラスソースというものは、かくも旨味に溢れているのか…………
スープカップにソーサーは、保温性の高そうな厚手の造り。熱を帯びたカップの分厚い縁は、瞬間、噛みつきたくなって…………スープの温度を堅牢に守るに、最も相応しいスープカップが選ばれている。
「良い…………」
わたしはトーストの耳で、スープカップに残ったブラウンシチュースープを余さず掬い取って食べ、完食。
グレゴリオのトーストと狸穴皆十のトーストは、別種の旨さを追求しているもので、どちらがより優れているか、そんなことは果てしなくどうでもよかった。わたしにわかるのは、他者から与えられる、『食』という偉大な喜びについて。それだけだった。
「ごちそうさま」
狸穴皆十は微笑んでいる。…………妻も、食卓でこんな顔をしていた…………ような気がする。料理をする側に居る人とは、そう……なの……か?
「又来るよ、
大して喋りもせず、軽食を平らげて去る。それでもわたしは満足して、狸穴を気に入り始めていたのかもしれない。
「ありがとうございました」
狸穴を出て、車を運転して、モーテル・パラジウムへはすぐに戻って来られた。八号室前に車を停めて、わたしは再び出掛ける。
朝、グレゴリオと歩いた森への道を、歩きに行った。晴れ間の森、彫像の佇む森。悪夢の風景では、暗く長かった道を。
グレゴリオの話を思い出して、早足になっていくのを真似してみる。スキップになりそうなくらい、わたしにしては早く。速く。
もしもわたしが、グレゴリオくらい若かったら、もしもグレゴリオくらい痩せていたなら、わたしはとっくに走り出しているだろう。後ろから誰が来ようと、人をメトロノーム扱いしてくる何者をも、振り切って。颯爽と走り抜けてやるのさ。
グレゴリオでもない、豚になった菊池武雄でもない、わたしは…………息切れして、ゼイゼイ鳴いて、湖へ辿り着いた。
サウナ・ルチア。
サウナ小屋は、ちゃんとある。わたしが入手したマップには、どこにもない。
わたしはカバネル湖を見渡して、車がないと対岸のケルヴ燻製所には、到底歩いて行けそうにないと見て取った。サウナ小屋から離れて、湖に沿って歩いていると、打ち捨てられたボートを見つけた。
オールは一本。エンジンは載せていない、手漕ぎのボート。まだまだ全然使えそうだ。辺りを見回して、近くに人は居ない。わたしは侵入者、ボートに乗り込む。オールを片側のオールクラッチ(※オールをボートに固定して、使用する為の輪っか部品)へ通して、漕ぎ出す真似をする。湖へ向けて、
♪Row, row, row your boat
gently down the stream
♪Merrily, merrily, merrily, merrily
Life is ……
子どもの頃は、習い事の英会話スクールで、『Life is a bad dream』と歌っていたっけなぁ……
「ふはっ」
ギョッとして振り返ると、人が居た。わたしは慌てて立ち上がる。
「人生は悪い夢だ、か。いいねぇ」
グレゴリオくらい若い青年が、笑っていた。わたしは驚いたのと、恥ずかしいのと、慌てたので
「……大丈夫?」
駆け寄った青年に手を取られて、わたしはすぐさま立ち去ろうとした。
「ごめんなさい。脅かすつもりはなくて」
「…………」
そうかい。
「この辺の人? 旅行者?」
青年は人懐っこい野良猫のように、気易く話し掛けてくる。
「わたしは旅人だ」
「旅 人」
ククククと笑みを溢して、繰り返される。
「僕は、
「狸 穴…………喫茶狸穴の?」
「あれっ? もしかして、
「ただの客さ」
一客だがな。
「僕は……名乗りましたよ?」
挑発的な笑みに変わっても、青年の人好きする雰囲気は変わらない。
「
「菊池さん、初めまして」
一礼しても、まだニコニコしている。
「初めましての人間に、興味津々か」
「ごきげんな替え歌が気に入りまして」
嫌味がまるで通じない。
「十一朗くん、お父さんはまだ働いているのに、君は遊んでてい」
「お父さん?! 皆十さんのこと? 違うよ、菊池さん」
違う? まさか、
「お孫さん?」
「あっはっはっはっ」
青年は笑いのツボに嵌ったらしく、ヒイヒイ笑っている。
「皆十さんは、
なんとなく親子かと思ったのに。
「菊池さん、皆十さんと喋ったりした? 狸穴が日替わりなの、知ってる?」
タメ口が不躾に聞こえないのは、人柄なのか。狸穴家の気質なのか。
「今しがた、狸穴でコーヒーとトーストをいただいてきた。旨いな、狸穴は」
「本当? うれしいな! 僕も狸穴で」
働いているのか? 狸穴十一朗。
「お昼にハヤシライス食べたんだー。おいしいよねぇ」
…………子どもだ。十一朗は子どもだ。グレゴリオよりは年上そうなのに。
十一朗は漕ぎ手席の隣に座ってきて、ちゃっかり隣に収まっている。
「菊池さんは、日帰りじゃなくて泊まり客?」
「あぁ」
「どこに泊まってるのかな?」
こやつ…………陽キャとかいう人種だな。ナチュラルに、会話のラリーに参加させられる。
「モーテル・パ」
「パラジウムか〜、へぇ〜〜、ふぅ〜〜ん」
「十一朗くん……」
「いいよね、
「わたしは車を走らせていて、偶然見つけた」
カットしてスマッシュは、わたしにも出来るわい。お子様め。
「いいね!」
十一朗はオールを手に取って、草むらを漕ぎ出した。湖には出航しないボートを。わたしが歌っていた替え歌を、真似してハミングする。
「♪〜〜」
「古い歌なのに、よく知っているな」
いや、簡単なメロディだし、わたしが歌っていたのを覚えたのか?
「そうなんだ。これ、昔の歌?」
漕げよ、漕げよ、漕ーげよ、ボート漕げよー。歌詞も簡単なものだ。
「♪gently around the lake
♪Merrily, merrily, merrily, merrily」
十一朗も、川下りの歌詞を替えている。
「「♪Life is a bad dream」」
わたしも歌った。
「これ知ってる? 菊池さん」
十一朗は別のフレーズを歌ってみせる。
「♪Under the spreading chestnut tree」
何十年も昔々の記憶が、知っていると言った。大きな栗の木の下で、だ。
「♪There we sit both you and me
♪Oh how happy we will be
♪Under the spreading chestnut tree」
「どうして十一朗は、英語の方で歌えるんだ?」
「少しだけ、インターナショナルスクールに通ってたことがあるから」
わたしの習い事とは、スケールが違ったらしい。インター校……か。
「英語、喋れるのか?」
ふふふと、悪戯っぽい笑みで、十一朗は答えない。
「菊池さんは英語出来るのー?」
「日常会話程度ならな」
未だに発音はよろしくないが。
「ふぅん」
十一朗は、蛍光色の靴下にサンダル履きだ。派手なネオンカラー。
「僕、これから
「そうだな」
まだ夕飯には早いぞ。
「僕、狸穴から歩いて来たんだー」
「狸穴から?! 遠いだろ!」
「お腹空かして食べた方が、おいしいじゃん!」
どうやら十一朗は、腹ペコでモーテル・パラジウムの夕飯へ来る気で、早く着きそうだからカバネル湖を散歩していたらしい。
「もう一周したから飽きてたんだよ」
若さってやつは……
「わたしの部屋へ来て……いっしょに待ってるか? 夕飯」
「うん!」
やれやれ。
食肉解体処理工場。
「食肉解体処理工場?」
モーテル・パラジウムの食堂に着席した十一朗は、グレゴリオが午後を潰して
食卓のど真ん中には大きな
「ヴァイスヴルストですぞ、菊池様」
「
「丸ごと頼みます。若様」
「わ〜、でっかいプレッツェルーー!」
十一朗は又してもナチュラルに、馴染んでいる。グレゴリオの友だちか?
「私が作ってきました。どうぞ、召し上がってください」
グレゴリオが皆にヴァイスヴルストを取り分ける。今日はナイフ・フォークだ。
「いただきまーす」
「いただきます」
金井さんとグレゴリオは、やはりお祈りを唱えている。
「十一朗さん、食べ方は知っていますか?」
「知らなーい」
グレゴリオと十一朗。どう見てもグレゴリオの方が年下なのに、十一朗の末っ子のような雰囲気が、年齢差をあやふやに思わせる。
「私の真似して皮を
グレゴリオは、ナイフ・フォークで大振りのヴァイスヴルストを縦半分に、底の皮を切らないように、切り開くと
「こう」
くるんとフォークの先で、
「これは甘いマスタード」
つけて、食べる。十一朗は、早速グレゴリオと同じようにしている。わたしも真似をする。
「今回は、レッドチェダーのチーズソースと
グレゴリオは一人ずつ、ココット皿に三種類もソースを用意していた。
「『ソーセージは教会の正午の鐘を聞くことを許されない』という
「金井さん……午前中は、さすがに無理です」
なんだ、なんだ?
「どうして? ソーセージ、どうにかなっちゃうの?」
十一朗が金井さんに訊いた。
「ヴァイスヴルストは、ドイツ、バイエルン州の伝統的な白ソーセージで……よく
「肉を燻さないから、味が落ちるの早いんです」
グレゴリオも答えた。
「グレゴリオは午後いっぱい、これを作る為に食肉解体処理工場へ行ってた訳か」
「えぇ。知り合いが居るので、ちょっと都合してもらいました。自分でソーセージを作ってみたかったので。どうですか? ヴァイスヴルスト」
「おいしーい。凄いね、グレゴリオ」
「美味しゅうございます、若様」
「旨いな」
グレゴリオは嬉しそうに、にっこりしている。ほんとに美味しい。
食感がふわっふわで、レモンか……カルダモン? 爽やかな風味もして、確かに昼前のスナックというのはよくわかる。これを手作りして、夕飯にしようというグレゴリオも、上出来だ。いくらでも食べられる。
「付け合わせが若干アメリカンなのも……これはこれで、いいな」
芋とザワークラウト、ではなくフライドポテトとピクルス。ドイツ料理感もあやふやだ。
「十一朗さんが、ピクルス多めのバーガー好きなんですよね?」
「あっ、これ僕に合わせてくれたんだ。ありがとう、グレゴリオ」
「今日は、こちらもあけてもらいたくて」
グレゴリオは足元に置いていた箱を開けて、グラスとクラフトビールを配った。
「私はお酒を飲まないから」
「それは宗教的な理由?」
「ふふ」
グレゴリオめ。
食後のデザートは、朝と同じ。ヨーグルトアイスに、ミントリキュールのクリーム添えだった。グレゴリオは…………グレゴリオは、モーテルの管理人なんぞしてていいのか? 今日の夕飯は、凝りに凝っていた。ゴリゴリのドイツ料理にするでもなく、
おかげで物欲に駆られた焦燥は、割とどうでもよくなった。
十一朗は、金井さんが車で狸穴家へ送っていった。グレゴリオも夕食が終われば、モーテル・パラジウムから教会へ帰る。教会? いや、グレゴリオにはグレゴリオの帰るべき場所があるだろう。わたしの帰る場所は……今はモーテル・パラジウムの八号室だ。
わたしは湯船に浸かりながら、まったりしている。
食卓に置かれたヴァイスヴルストと変わらない。わたしは白豚の、白ソーセージ。冷めないよう、
グレゴリオは、大きな平皿を並べて……
グレゴリオは、ナイフ・フォークを用意して……
人生は、悪い夢だ…………
湯冷めしないうちに、ベッドへ潜り込む。傷みやすいヴァイスヴルスト。わたしは
サウ。
【次回】3/7 奥歯
サウの白豚 連休 @ho1idays
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