サウの白豚

連休

1/7 モーテル・パラジウム

 わたしは旅人である。

 旅は良いものだ。日常からの解放、周遊の贅沢、未知なるものとの出逢い。





 …………いけない、そろそろ今晩の宿を決めなくては。


 わたしは迷っていた。街中を通り過ぎ、何件も宿泊施設に心中難癖をつけては入りもせず、とうとう本当に見知らぬところまで、足を踏み入れていた。まるでわたしの人生のよう…………いや、やめよう。

 カーナビの様子がおかしい。表示はされていないのに森の中、よくわからない道を走っている。この辺は高原リゾート地。造成を繰り返しているから、マップがバグっているのだろう。まだ絶対、どこかに泊まれる場所があるはずなんだ。道なりに車を走らせていると、背の高いポールに、ネオンサイン。ラブホ? いや…………モーテル? こんなところより、さびれた国道沿いの方が似合いそうなたたずまい。

 吸い込まれるように、そのモーテルのゲートをくぐって、モータープールに駐車する。わたしの車は旧車だ。大分くたびれたノッチバックセダンで、リゾート地を走らせていると、ピカピカの新車やイカれた大型車が、街中よりも殊更ことさら目につく。溜め息を吐き出して、深く息を吸い込んだ。バンと、ドアを閉める癖は直らない。


 フロントはどこだ?


 敷地に入ってすぐの建物のドアに、貼り紙の案内がある。『裏の教会に居ます』…………本当にやっているのか? 今更別の宿を探しに行くのは、もう嫌だ。渋々裏手へ回り込んでみると、なるほど小さな教会が見える。尖塔せんとうの外壁に、煌々こうこうと赤い、ネオンサインの十字架。夕映えに浮かび上がって…………いいじゃないか。

 正面の石段を登って、両開きのドアは鍵が掛かっていないようだ。中は薄暗いが、厳かな雰囲気。…………誰か、居る。

「あのぅ」

 間抜けな声が、高い天井に響く。祭壇の前にひざまずいていた人影が、立ち上がって振り向いた。

「裏のモーテルは、やってるのかい?」

 尋ねてみる。歩み寄ってきた者は……修道士? ローブ姿の青年だ。

「いらっしゃいませ。今晩のご宿泊をご希望ですか?」

 フードを被った、西洋の坊さんみたいな青年が応えた。

「あぁ。一泊したい」

「ご案内致します」

 連れ立って教会をあとにする。モーテルへ戻って、彼はフロントを開けた。

「モーテル・パラジウムへようこそ。一泊五千円で、翌日の朝食付きです」

「安いな、おい。朝食が付いて、その値段なのか?」

 ビジネスホテルの料金みたいだ。

「朝食と言っても、トーストにコーヒー、卵くらいのものですよ」

 青年は料金表を示し、台帳を差し出してきた。備え付けの銀色のペンで記帳する。菊池きくち 武雄たけお。なるほど……過ぎてしまったが、十五時までにチェックインしていたら、夕食も付いたのか。

「菊池様。朝食は八時。奥に食堂がありますので、いらしてください。チェックアウトは午前十時です」

「それにしたって、どうしてこんなに安いんだ?」

 相場の宿泊料金より大分安いぞ。どんな経営してるんだ。

「元々都会で儲けた歯科医が、晩年始めた道楽みたいなものなので」

「その歯科医は、あなたのお父さん?」

 ふ、と青年は笑った。

「私は、下間しもつまグレゴリオ。モーテルの管理人をしています」

 青年グレゴリオは、質問には答えなかった。後ろの棚からモーテルの鍵を取って、渡してくる。キーホルダーは銀歯だ。無限大の刻印……

「八号室へどうぞ」

 8だった。

「夕食は残ってないのか? 金なら払うから、何か食べさせてくれ」

 グレゴリオは口角を上げて、言った。

「しょうがないですねぇ。後で……えぇと、一時間くらい後で……先程の教会へいらしていただけますか? 何か、作っておきましょう。入って右手の階段を、地下に降りてどうぞ」

 グレゴリオは拒否しない。そんな感じだった。何でもいい。お腹が空いた。わたしはもう、探し回る気力が残っていなかった。


 八号室へ行ってみると、ありきたりな部屋で……キッチンとバスルーム、奥に窓のある寝室と……それから、デスクには充電用のコードと内線電話、小さなテレビモニターとDVDプレイヤーも置かれていた。

 わたしは鞄を置いて、ベッドに腰掛け、後ろへ倒れた。横を向くと、ベッドサイドテーブルのランプが、奥歯だ。…………悪趣味だ。叩いたら点いた。このまま眠りたい。鞄からスマホを取り出して、一時間のタイマーをセットする。もう何時とか、はっきり見たくない。Wi-Fiは……ないな。途端に、時間を食い潰す端末から興味が失せて、置いた。鞄に手を突っ込んで、ジップロックを手探りで取り出す。薄い文庫本を、適当にパッキングしてある。わたしの暇つぶし。おみくじのように引いた一冊は、ワゴンセールの古い岩波文庫。これこれ。こういう時間に、積ん読を崩すんだ。一時間なんて直ぐに経つ。


 再び教会へ出向く。

 グレゴリオが明かりを点けておいてくれたのか、教会の入口だけ明るい。右手の階段を降りていくと、陰気な廊下にドアがいくつかある。

「グレゴリオ! 来たぞ」

 足音がして、ドアが開く。

「菊池さん」

 くだけるの、早いな。いや、ここは彼のテリトリーか。

「土足でいいのか?」

「そのままどうぞ」

 半地下の狭苦しい部屋。奥に後付けしたようなキッチンが見えて、ダイニングっぽくなっている。

「モーテルの客に、ここで夕食を出したり、しているのか?」

 元々は書庫か物置なのだろう。ここに人を呼ぶのは、およそ向いていない。

「いいえ。ここは、私の部屋みたいなもので」

「それで……何を、食べさせてくれるんだ?」

 一応クロスの掛けられた食卓へ着席すると、グレゴリオは平皿に盛られたピラフと、山盛りのサラダを出してきた。

「君は……食事に野菜を欠かさない人種か」

「え? あぁ、これを……いっしょにどうぞ。ドレッシングは何にします?」

 グレゴリオは、サラダボウルの上に、ほぐした蒸し鶏を大量に載せてきた。

「フレンチ、イタリアン、サウザンに胡麻……中華、シーザー、コブサラダ」

 グレゴリオの冷蔵庫には、ドレッシングがズラリと揃っている。

「胡麻のと、その梅ペーストをくれ」

「私も、梅好きです」

 家庭料理的夕食。坊さんのグレゴリオが作るものは、質素なものかと思っていたら、至って普通。

「いただきます」

 グレゴリオはお祈りを唱えてから、食事を始めた。生憎わたしは無宗教だ。

 スプーンを手にして、ピラフを食べる。ミックスベジタブルをブチ込んで作ったなと、すぐに素性が知れる。でも、冷凍食品のピラフじゃない。炊飯器からよそわれて熱々だ。わたしの奥歯と邂逅した塩辛いベーコンダイスは、食欲のスイッチを入れる。きっぱらなので、面白みもないピラフが大層……

「…………うまい」

 氷がカランと鳴った。グラスにがれた冷水を煽る。

「それはよかった」

 蒸し鶏の胡麻ドレサラダは、普段サラダな

んて進んでは食べないのに、おかずの如く箸が進む。シャキシャキの葉物と、時折梅の酸味、そしてグレゴリオが多めに載せてくれた蒸し鶏が、胡麻ドレッシングを纏って……とまらない。グレゴリオはサラダに、小鉢で作ったオーロラソースをかけていた。(※ベシャメルソースに裏漉ししたトマト、もしくはトマトピューレ、とバターを加えたソース。日本では、マヨネーズとケチャップを一対一の割合で混ぜた、フライソースをこの名で呼ぶことが多い)(グレゴリオがかけていたのは、多分こっち)

「デザートも入りますか?」

 たった二品。でも、結構な量を平らげた。

「入る!」

 グレゴリオが冷蔵庫から取り出したのは、只のオレンジ。デザートと言うか、食後の果物だな。

「ちゃんと、オレンジも手も洗ってあります」

 わたしは、そんなに神経質な潔癖症ではない。グレゴリオは果物ナイフで器用に、わたしの知らない切り方で、ガラスの小皿にいたオレンジを、次々盛っていく。

「これは甘いオレンジですよ」

 言い切った。

「何故甘いとわかる」

「ふふ。デザート用に、分けておいたので」

 いぶかしげな一口。果たしてオレンジは、甘かった。そして、食べやすかった。人に剥いてもらう、種も皮も取り除かれた(しかも甘い)オレンジは……こんなにもおいしいのか。

「もっときますか?」

 座って待っているだけで、綺麗に剥かれたオレンジが出てくる。これはいい。

「あぁ」

 わたしはグレゴリオに、オレンジを剝かせた。

 家庭料理なのに、どことなくプロっぽい食事の提供は、対価を支払うのに相応しく思えた。が、グレゴリオには断られた。

「私の夕飯のついでなので」

 謙虚な青年だ。わたしは、グレゴリオに一週間分の宿泊代を先払いして、八号室へ戻った。車を部屋の前に停め直す。





 妥協せずに探して、正解だったろう? モーテル・パラジウム銀歯は、大当たりだ。安くて、気さくで、旨い食事。最高だ。少し早いが、わたしはベッドサイドの奥歯を叩いて、眠りに就くことにした。





 薄明かりの、早朝とも曇りの昼過ぎともつかぬ光で、目が覚めた。久しぶりによく眠れて、頭がスッキリしている。

 ちょっと、散歩にでも……(そんな習慣はないが)朝の澄んだ空気の中を歩くのは、気持ちが良さそうだ。行くとしよう。

 外は朝靄あさもやかすんでいる。きりだ。モーテルを出て、来る途中に見えた森や野っ原へ行ってみる。自然と深呼吸をして、いい匂いの空気を胸いっぱい吸い込んで、身体中の血管を新鮮な酸素が駆け巡る。只そこいらを歩くだけなのに、身体に良いことでもしているみたいだ。





 ここは……人工の森なのだろう。下生えの草が刈り込まれていて、歩いていると突然彫像が現れる。車ではわからなかったが、森の中に、人魚に寄り添って泳ぐ人が居た。木立ちの高い位置に、そんな彫刻がある。空を泳いでいるようで、暫し目を奪われる。

 時折、散歩をする者とすれ違った。地元民か、旅行者か。走っている者も居て……………………グレゴリオだ。Tシャツにハーフパンツで…………坊主頭。グレゴリオの頭には、髪の毛がない。若いのに、気の毒に。いや、スキンヘッドというものか。こちらに気が付かないのか、走るのに夢中なのか、グレゴリオも通り過ぎて行った。結構なスピードで。グレゴリオは…………モーテルの管理人で、教会の坊さんで、料理が出来て、そして早朝ジョガー…………忙しくしおってからに!


 折り返しもせず歩いていたら、湖が見えてきた。小屋もある。湖はなかなか大きい。

 あれは船着き場だろうか? いや……ボート乗り場? 小屋から人が出てきた。……裸だ。裸の男が、何か叫んで……湖に……飛び込んだ! わたしは慌てて駆け寄った。が、飛び込んだ男は、自分で上がってきて、湖畔沿いに置かれたデッキチェアへ横たわった。小屋から数人、裸の男たちが出てきては、何やら叫んで、湖へ飛び込んでいる。


 あれは…………サウナか!


 わたしは彼らを見て……呆れていた。


 野蛮人。


 何故だか、そう思った。湖を水風呂代わりにする、サウナ小屋へ集う男たち。早朝から、おかしなものを見てしまった。…………戻ろう。





 八号室。

 二度寝をする気にもならない。ベッドに大の字で、記憶のスクリーンには先程の光景が映し出されている。わたしはサウナに入ったことがない。別段入りたいとも思わない。がしかし……サウナ小屋で蒸されて、外の湖へ飛び込むのは、どんな感じなのだろう? そんなことをずっと反芻していた。


 出掛けよう。


 内線でフロントに、朝食は要らないと伝えた。さっき走っていたグレゴリオと話すのは、不思議な感じがした。


 わたしは車を適当に走らせて、あまり混んでいない何処か……観光地的なところへ行ってみたい。美術館やワークショップ、にはまだ少し早い。高原は……朝の散歩で、だいたい満喫出来た。ドライブインのファストフードは、さすがに今行きたい場所ではない。走っていたら、道の駅を見つけた。

 開いている。店内にはイートインスペースもあるようだ。駐車して、中へ入ってブラブラ見ていたら、この辺のご当地キーホルダーが並んでる。端から見ていくと、モーテル・パラジウムのも何故かあった。ロゴ入りの、オシャレなモーテル・キーホルダーにされて、ぶら下がっている。

「っふ」

 笑ってしまう。実際のキーホルダーは、銀歯だぞ。

 よぉし、これを買おう。二つ買おう。会計を済ませて、一つは早速車のキーに付けた。

 まだまだ見て回る。店内の大半は食品で埋まっている。が、食べ物系のお土産を買うには、時期尚早。魅惑的な棚には、時折様子のおかしい民芸品も何食わぬ顔で並んでいて、目立つところに居るご当地キャラクターとは対照的だ。

 フードコートの出店はほとんどが十時開店で、まだ閉まっている。開いているのは蕎麦屋だけ。……蕎麦でいいか。注文して、イートインスペースのテーブルでおとなしく待っていると、店員がトレイを持って来て、番号札を回収していった。

 とろろ蕎麦と茄子の挟み揚げ天、緑茶付き。ふふふ。とろろの丼ぶりが大きい。わたしは、箸でせいろの蕎麦をわしと掴んで、自然薯の沼へ落とし、啜りあげる。ふわふわのとろろ蕎麦。美味い! わたしはズルズルと、一心不乱に蕎麦を啜る。……うまいなぁ。

 フードコートと言っても、有名店の出店だ。雰囲気重視でなければ、情緒を重んじない者には充分たりうる。熱いお茶は、蕎麦を食べ終える頃には程良い温茶ぬるちゃになっていて、夏野菜のお新香も美味い。奥歯で鳴る胡瓜キュウリが小気味良い。パリポリと食べていたら、店員がお茶のおかわりを持ってきた。朝から最高である。

 存分に満たされて道の駅を出ると、駐車場の片隅で、何やら催し物が開催されている。

 瀬戸物市だ。

 陶器に特別興味がある訳ではないが、平台に並ぶ小鉢や皿のたぐいに、目が吸い寄せられる。塗椀ぬりわんや茶碗、ゴザ敷きに置かれた狸も居る。そのような物らを眺めて歩くのは、なんだかうすら愉しい。湯呑みやぐい呑みもあるなぁ。箸置きの籠を覗いて、もしや奥歯を模した物はあるまいな、と探してしまう。いや、あってくれるな。悪趣味だ。

 ふと、ご飯茶碗の並ぶ木箱の中に、天球があった。

 それは真っ黒なご飯茶碗で、手に取って見ると、深くて濃い、ほとんど黒い青色の…………なんだか良い。よくわかりはしないが、良い。

「赤土に瑠璃釉るりゆうですよ」

 しげしげ眺めていたら、横から話しかけられた。見知らぬ中年男性。

「あなた……それ、買われるんですか?」

 手にしていた茶碗を買うかって? 言われて、わたしは答えていた。

「え……あぁ、買っても、いいかも」

 手の中の茶碗を、木箱に戻してはいけない。置いたらきっと、この男に買われてしまう。ハイエナを一瞥して、目を逸らした。

「会計はどこかな」

 わたしは、如何にも買う素振りで呟いた。

「焼き物、お好きですか?」

 男は尚も話しかけてくる。

「えぇ、まぁ……少し」

 少しも何も、詳しくは知らない。うちの玄関に、焼き物の招き猫が居るくらい。

「あの、お茶でも飲みに……どうですか?」

 絶句。中年男性が中年男性に声をかける…………不気味だ。なんとも気味が悪い。

「喫茶店をやっています。うちにもそういうの、ありますよ」

 男は、同好の士を見つけた気で言ったのかもしれない。それならわかる。

「駐車場はありますか? 車なので」

「僕もです。ついてきてください」

 普段なら、こんなアヤシイ男について行きはしない。関わりもしない。旅先という浮かれ気分が、ゴーサインを出しおった。





 喫茶、狸穴まみあな。ほとんど来た道を戻って、モーテルからでも歩いて行けそうな通り、観光地の圏内に、その店はあった。食事処の連なる小路こみちの、どん詰まり。


 …………蕎麦屋? あれ、喫茶店って言ってたよな……


 男は引き戸を開けて、暖簾を出した。藍染めに白抜き文字で、狸穴とある。

「どうぞ」

 中は…………喫茶店だった。蕎麦屋の居抜きを改築したのか。外観とは異なる店内は、昨今普及しまくった外資系カフェとも異なり、妙に落ち着く喫茶店そのものだった。

「コーヒーを淹れましょう」

 促されるままカウンター席に座した。

「申し遅れました。僕は、狸穴皆十まみあなみなと。ここの店主をしております」

 昼過ぎだというのに、定休日なのだろうか。わたしらの他に、誰も居ない。

「今日は、一時開店で……そろそろ店の者が来ますかね」

「ならわたしは」

「いえ、いいんですよ。そのままどうぞ。僕が喫茶店をやっているのは、月曜と空いた時間だけで、あとは人に貸しているんです」

「はぁん、そんな経営もあるものなんですか。あ、わたしは、菊池武雄と申します」

「よろしく、菊池さん」

 コーヒーのカップを……ソーサーを置かれた。…………夜空だ。

「ね? どうですか」

 わたしは……ときめいた。ときめいた?

「さっき僕が、声をかけて連れてきてしまったから、買い損ねていたでしょう?」

 心臓が高鳴る。さっきのご飯茶碗よりも縁の薄い、無骨さと繊細さが同居して破綻していない、調和のある、美しい存在感。美しい物。

「あ……その……こういうのは、わたしが知らないだけで、珍しい焼き物じゃあ……なかったりします? この……暗い青色」

 そうだ。目を惹かれたんだ。

「夜空みたいで、美しいですよね」

 美しいものを美しいと、率直に言える狸穴皆十という男を見た。

「そう……なんだ。わたしは」

「店長、おはようございます」

 カウンターの奥から、誰か出て来た。

「私ちょっと買い物に行ってて、あ、いらっしゃいませ」

 若い女性。わたしは会釈だけして、女性はすぐに引っ込んでしまった。

「今日は、中華の狸穴ですよ」

 狸穴皆十は言った。

「中華?」

 蕎麦屋のような喫茶店で、中華? 奥には厨房があるのだろう。なんだか食欲を刺激される匂いがしてくる。

「テイクアウトメインで、ネット受注した分だけ作って、客は受け取りに店へ来る。僕は店に居たら、ついでに喫茶店を営業する」

「中華料理は、いつ、どこで認知度を稼いでいるんですか?」

「ふふ。僕の喫茶店メニューには、中華料理もあるんですよ。いいでしょう?」

 狸穴皆十はメニューを取り出してみせた。

「…………いい」

 確かに、良い。喫茶店の軽食メニューの中に、麻婆豆腐や青椒肉絲、海鮮焼きそばや杏仁豆腐が紛れている。そして欄外に、ちゃっかりテイクアウトの予約が出来るQRコードが載っている。狸穴に入店した喫茶店の客が、中華メニューにも触れて、テイクアウトに繋がる機会……こすい。

「ハヤシの日、カレーの日、デザートの日もあって、飽きなくていいでしょ?」

 テーブルの小さなサインボードには、本日の狸穴が何の日かわかる、ポップとカレンダーが提示されていた。

「今日の茶菓子です」

 ……月餅げっぺいだ。コーヒーに、月餅か。

「いただきます」

 手にしたら、温かい。一口。肉餡だ! 甘くない月餅。初めてだ。

蘇式月餅スーシーユエビンです。菓子と言っても、惣菜の方が近いかな」

 皮がホロホロ崩れて、肉餡は熱い。中華版のミートパイだな。小さいのに、軽食めいている。

「中華の狸穴の日は、コーヒーのお供も、中華なんですか!」

「えぇ」

 笑った狸穴皆十を見た。

「旨いです」

 本当に旨い。狸穴皆十も旨い。そう見える。茶菓子を囓って、垣間見えた他者の人生は、充実しているギュウ詰めの肉餡だった。

「それはよかった」

 狸穴皆十は、わたしと大して年齢が変わらなさそうだ。狸穴皆十は経営者、わたしは旅行者。うう〜〜ん……





 初対面で、あんなに誰かと話したのは、いつぶりだ? 旅先で人と親しくなるなんて、もしかして、初めてなんじゃないのか?


 わたしは運転しながら、頭も心も昂っていた。モーテル・パラジウムに戻ると、夕暮れ間近。先にシャワーを済ませて、もう寝るだけにして、フロントへおもむいた。

 チェックインしたフロントカウンターの奥には、小さな食堂がある。グレゴリオが言っていた。入ると、掃き出し窓から中庭が見える。

「…………プールだ」

「入れませんよ。掃除してませんから」

 奥からグレゴリオが即答した。プール付きのモーテルなんて、さすがリゾート地。

「旦那様が居らした頃は、善御座よござんした」

 食卓の下座から声がする。モーテルの客か?

「菊池さん、こちらは」

下間しもつま家の執事、金井かないでございます」

「執……事」

 この現代に執事って……居るのか? まぁ、ここいらは別荘やお屋敷もあるしなぁ。執事と言っても、タキシードやモーニングコートの老爺ろうやが居る訳じゃない。ベストにネクタイ、キチンとした爺さま。そんな様子だ。

「若様、まだ宿屋を開けておいでになられたのですね」

「普通に営業中ですよ、金井さん」

 入ってきてよかったのか? この宿屋……じゃない、モーテル・パラジウム。

「グレゴリオ!」

 誰か来た。ドカドカと数人……わたしの他にも客が居たのか。

「少々お待ちください。三名様ですね。どうぞ」

 宿泊客……じゃないのか? グレゴリオは何やら会計している。

「お客さんが居るじゃないか! どうも、こんばんは」

「こんばんは」

 首にタオルを掛けた、部屋着にサンダル履きの弛いおじさんどもが、食卓に着席した。只の夕食タイムが、小宴会でも始まりそうな雰囲気がしている。

「どうぞ」

 グレゴリオが、人数分の小鉢と平皿を配っていく。小鉢は、粗みじんのディップソース? ……いや、存分にチョップされたコールスロー。平皿には野菜スティックとソーセージが無骨ぶこつに盛られている。ソーセージ……野菜スティックより長くて、大振りだ。

「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」

「天にまします我らの父よ、願わくは御名みなを崇めさせたまえ。御国みくにを来らせたまえ。御心みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用にちようの糧を、今日も与えたまえ……」

 おじさんどもは、号令のように唱えて食事を始めた。お祈りするグレゴリオは、皆に合わせただけで、配膳作業に戻っている。金井さんは、静かに祈っていたかもしれない。わたしは……出遅れた。

「ライスのご希望は?」

 ……ライス。スッと三人は手を挙げる。慌てて、わたしも挙げる。

「半ライス」

 金井さんは言った。執事が若様に、半ライス……いいのか? それ。

 グレゴリオは、業務用らしき巨大な炊飯ジャーをバカッと開けて、平皿にご飯を盛り付けていく。それぞれにライスが配られ、目の前にはナイフ・フォークと、ちゃんと箸も用意されている。……黒檀こくたんの、優美な箸。皿……多分ノリタケの、なんか白いシリーズものだ。(皿の裏側を見たい!)確かに、このモーテルは、道楽の賜物……なのかもしれない。

 おじさんどもは、なんだか肌艶がよろしく見える。今日見た狸穴皆十とは、別世界の生きものみたいだ。わたしは一瞬、箸かフォークか迷って、フォークを取り、ソーセージに突き刺した。一口かじると、パキッと皮が弾けて、肉が……肉汁にくじゅうが、脂が……これは美味いソーセージだと、大手を振って行進してくる。ライスの存在を暫し忘れて、わたしは……ソーセージを一本食べきっていた。少し味付けは濃い目で…………これは……そう、ライスだな! ご飯が欲しくなる! (手を挙げてよかった)わたしは箸に持ち替えて、ソーセージ、ライス、ソーセージ、ライス、ソーセージ、ライス、と……直向ひたむきに繰り返していた。ソーセージ二本で、ライスは消えた。

「菊池さん、どうぞ」

 ピッチャーから、レモンと氷の入ったグラスにがれる。赤ワイン?

「サングリアです。アルコールは飛ばしていますので、夕食のドリンクに出しています」

 フルーツの楽園みたいな味がする。

「オロポとは別の愉しみよ」

「そうそう」

「ととのいの締めさ」

 オロポ? ととのい……??

「菊池様、明日の白ソーセージも格別ですぞ」

「白ソーセージ…………ヴァイスヴルスト?」

「ふふふ」

 金井さんは、それ以上喋ってくれなかった。

 わたしは普段なら、絶対手を付けないセロリのスティックを掴み取って、チョップされ過ぎトゥー・チョップドコールスローをたっぷりすくって食べた。野菜に野菜をつけて食べる、冒涜的な野蛮さはおかしくて、おいしかった。

 グレゴリオは最後に、マッシュポテトをディッシャーで、アスパラのバターソテーをトングで、皆の平皿に配って回った。ソーセージと言い、アスパラと言い、バター醤油のスタンダードな味付けは…………一生飽きない。合間に食べる、野菜スティックとプレーンなマッシュが、何度でも口をリセットしてくれる。

「デザート、入りますか?」

 グレゴリオは桃を手にしている。おじさんどもは『入る』と、元気よく返答していた。

 昨日の、グレゴリオが剥いてくれたオレンジが、蘇る。グレゴリオは、ガラスの小皿を三枚並べて、スルスルと桃を剥いて、そぎ切りにしていく。不揃いの果肉。白桃の、なんとも言えない甘美な匂いに、くすぐられる。…………わたしも…………食べたい。いや、もう、豆粒一つだって入らない。お腹がいっぱいだ。

「グレゴリオ! ……その」

 入らないだろう? 入る隙間もない。

「菊池さんも、桃が欲しいんですか?」

 欲しい! ……けど、

「……ふ」

 笑った。わたしより、二回りは年下のグレゴリオが、わたしを見て笑った……

「桃がっ……食べたいんだ! ……今じゃなくて……その、あとで」

「あとでぇ〜〜?」

「あとでなんてないさ」

「グレゴリオ! 早くしろ」

 おじさんどもは、ひょいぱくひょいぱく、グレゴリオの剥く桃を、片端から食べ尽くす。わたしは…………満腹なのに、口の中では睡液が溜まっていく。そんな、おかしなことになっていた。


 いったいわたしは、こんなに、食い意地が張っていたのか??


 我ながら不思議だった。グレゴリオのデザートが、無性に欲しかった。目の前で……わたしが食べられない目の前で、無限に食べ続ける者たちが、憎らしかった。憎らしい? どういう感情なんだ……たかが果物くらいで。

 それでもわたしは、おもしろくなかった。さっきまで、あんなに、至福の時を過ごしていたのに……他者へ尽くすグレゴリオを……見て、居たくない。わたしは、モーテル・パラジウムの、宿泊客なのに。昨日は……わたしにオレンジを剥いてくれたのに。

「ごちそうさま」

 わたしは席を立っていた。食事は……とても美味しかった。

「菊池さん」

 ドアを開けて出て行くところで、チラと振り向いた。目の合ったグレゴリオは、目配せのようなウインクをした。ような気がした。





 自分の惨めさという、本来の状態には無知である。それらを悟られまいと、必死で覆い隠す自尊心の働きは、神の恩恵を悟る上での妨げとなる。

 いつか誰かが、そんなことを考えていた。誰だっけ……





 わたしは歩いていた。八号室へは戻らず、森の中を。理不尽な目に遭った、ひどくかわいそうな、そんな…………糧にありつき、貪り食い、満腹でデザートが入らなかっただけでヘソを曲げる、自らが実現できなかったことをいとも容易く行う人らをうらやみ、まるでにじられたような惨めな気持ちになって、持て余して…………決して、表には一言も出してはならない思いに、潰れてしまいそうになっていた。隠し通すことに成功はしたものの、傲慢の毒に、自分自身が苦しめられている。実際、本当に苦しい。

 歩き続けていたら、湖へ来た。小屋には明かりが灯っている。

 わたしはお腹がいっぱいで、食後のデザートまで辿り着けなかった。たったそれだけのことで悲しくなって、泣きそうになっていた。馬鹿らしい。馬鹿はわたしだ。


 わたしも……あの湖に飛び込みたい……


 わたしが……わたしがもし、十代の、か細い可憐な少女であったなら、夕闇の湖で、ナルシスティックに悲観に暮れてみせても、誰もわらいはしないだろう。残念ながら湖面に写る姿は……中年の、小太りのしょぼくれた男、さっきのおじさんどもと、然程さほども変わらない……

 小屋の扉が開いた。わたしは吃驚して、つんのめった。伏したまま、首だけぐるりと上向くと……

「サウ!」

 新品の、鉛筆みたいな男が叫んで、湖に飛び込んだ。暗い人影は、スーイと伸し泳ぎで岸から離れて、弧を描いて戻って来る。湖は真水だろうに、何故あんなに泳げるのだろう。ぼんやり見惚れていたら……男は、狸穴皆十だった。いや、間違いない。

 腰タオルの、スラリと長身な狸穴皆十は、岸辺へ戻ると、デッキチェアへ腰掛けた。ゆったりと、背凭せもたれに身を預けて横たわる様子は、なんだか様になっている。きっと……狸穴皆十は、ああやって夜空を見上げていたんだ。あの天球茶碗にも、カップにも、合点がいく。

 わたしはすっかり、惨めな自分を忘れて、モーテル・パラジウムへ戻ることにした。





 八号室へは戻らない。

 僅かに決まりが悪い心持ちで、教会へ向かう。裏手の植栽豊かな小道を歩いて……すぐ着いてしまった。正面ドアは開いていて、入口は明かりまで点いている。わたしはコソコソ階段を下りると、今度こそバツが悪くて、黙りこくって立ち尽くした。

「……菊池さん」

 ドアが開いた。

「寄っていきませんか? 菊池さん」

 促されるまま、わたしはドアを開けてくれたグレゴリオに従って、中へ入った。昨日と同じ。ダイニングの食卓へ着席した。

 グレゴリオをまともに見れなくて、食卓の白いクロスを凝視している。アイロンをかけたであろう、折り目一つない清潔なクロス。

「私と半分こ、します?」

「え?」

 顔を上げると、グレゴリオと目が合った。グレゴリオは、さっきの白桃と果物ナイフを手に、皮を剥いていた。私の前にはガラスの小皿が置かれ、グレゴリオの前にも小皿は置かれ、グレゴリオは……わたしに、自分に、わたしに、自分にと、交互にそぎ切りした桃を盛っていく。

「どうぞ」

 デザートフォークを手渡されて、なされるがまま……桃を一口。歩いて、少しは腹の加減も変わったのか……二口。グレゴリオは、大きく切れた桃を、わたしの小皿へ寄越している……三口。

「…………クリストフル(※フランスの銀食器メーカー)」

 小さな銀のフォーク。ほんとに銀だ。多分。

「よく、ご存知ですね、菊池さん」

 道楽も本当らしい。

 グレゴリオは桃を切り分けた。さっきの食堂と、流れる時間が異なっているように感じられる。

「あの人たちは、サウナ帰りのお客さんなんですよ」

 サウナ帰り……どうりで。

「うちの夕食を、サウナの締めにしてくれていましてね」

「モーテル・パラジウムは……泊まらなくても食事だけって、出来るものなのか?」

「満室になることはほとんどないので、一号室から三号室の鍵を渡してあるんです」

「地元民かと思った」

「地元の方ですよ」

 始めのうちは律儀に泊まって、朝早くにチェックアウトしていたそうだが、今では週末くらいしか泊まっていかないらしい。

「でも、鍵を渡したままって」

「前払いでいただいてるから、別にいい。管理人は私ですしね」

 グレゴリオは、無頓着な経営者だった。実際、今もこうして、一宿泊客に過ぎないわたしを、プライベートな空間に招き入れている。来ておいてなんだが、公私混同は往々にして、悪しきものに分類されないのか?

「菊池さん」

 グレゴリオが新しい桃を持っている。

「もう……充分。ごちそうさま」

「そうですか」

「あ……の、グレゴリオ……その…………ありがとう」

 ドアを開けてくれて。昨日のようにしてくれて。わたしに桃を剥いてくれて。

「私はもう一つ」

 グレゴリオは、丸々一個、桃の皮を剥くと、フォークも使わずかぶりついた。切り分けていたのは、わたしの為だった。グレゴリオは、やわらかくて汁気の多い果肉に苦戦しながら、食べている。先程まで、綺麗に丁寧に食べていたのに……ガリッと、種まで噛んだ音がする。わたしは、グレゴリオが食べているのを、喋りかけもせず眺めた。





 帰りがけに、わたしはグレゴリオに忠告することにした。とかく年寄りは、口煩いお節介を無自覚でして、若者を困らせるものなのだ。困らしてやる!

「わたしが言うのもなんだが」

「なんでしょう?」

「過剰な親切は、いつか、一客人をつけあがらせるかもしれない。せいぜい気を付け……何笑ってる」

「つけあがる? 私がドアを開けたら、やらかした子どもみたいな人が居ましたけどね?」

 ふぁーーーーっ!?!?

「おやすみなさい、菊池さん」

 ……………………

「おやすみっ」

 わたしは回れ右して階段を駆け上り、八号室へ逃げ戻るしか出来なかった。


 何が忠告だっ…………何がっ……

 グレゴリオめ! グレゴリオめ! グレゴリオめ!





 八号室。

 とてもじゃないが、このまま眠りに就いたら、とんでもない悪夢を見そうな気配しかしないわ!

 わたしはベッドを下りて、部屋の中をウロウロ歩き、ウロウロ回った。車のキーを取って、車内に置きっ放しのペットボトルを取りに行く。


 何……やってるのかねぇ、わたし……


 八号室前のローデッキに腰掛けて、ペットボトルの蓋を開けた。緑茶が水みたいだ。桃やサングリア、濃い味付けのソーセージを食べた所為? 食の記憶も又、濃厚だ。

 車のキーにつけた、モーテルキーホルダー。褪せたピンク色に金字でモーテル・パラジウムと刻印されている。退紅色たいこうしょく? いや、もっと、小綺麗な地の色は幾らでもあるだろうに……なんだか肉色に見えてくる。

 狸穴皆十は……モーテル・パラジウムに立ち寄らないのだろうか? そう思って、はたと気付く。狸穴には、なんだってあるじゃないか。わざわざ森を抜けて、ここまで来る必要がない。だいたい、狸穴皆十がだらしない格好で、食堂へドカドカ入ってくるところが、想像できない。

 お茶を飲み終えて、八号室へ戻った。寝よう。









 ベッドサイドテーブルの奥歯が、煌々こうこうと光をはなっている。眩しいな。片手で叩いて、明かりを消そうとした。カツン。

 わたしは飛び起きる。ありえない音がした。やけにベッドが軋む。わたしはベッドから抜け出して、バスルームのトイレへ向かった。まだ暗い。何時だ?

「……………………」

 洗面台の鏡に写る自分を見た。

 鏡の中には、頭髪の薄い、丸々太った、わたしが居た。丸々どころではない。でっぷり太って、シャツの肩口や腹周りが窮屈そうだ。まじまじ見つめて、洗面台に手をついて…………カツン。又変な音がした。

「?!」

 手が…………ひづめのようになって……いる。手指がギュッとくっついて、固まってしまったような感覚。カツン。素足のはずが、足までおかしい。しゃがみ込んで、床に座って、愕然とした。わたしの足が蹄になっている。引っ掴んで裏返した足を、裏から見ると、ピースサインのように前が二股、後ろに二つの突起…………そんな形状になっていた。床にトンと着くと、こんなおかしな形なのに、わたしは二本足で立って……歩ける。

 わたしはドッと混乱に襲われて、バスルームを出た。八号室を出た。

 まだ外は暗い、夜の時間だ。わたしは、もう靴を履く必要がない足を見て、泣きそうになった。いや、涙ぐんでいた。半泣きのまま、森の中へ走っていく。


 助けて、助けて、助けて……


 暗い森は恐ろしい、はずなのに、今はこのおかしな状況の方が、ぽど恐ろしかった。きっと今誰かとすれ違ったら、向こうの方が怖いだろう。豚みたいな男が寝間着姿で、泣きながら走っているんだ。怖いよなぁ。それでもいちばん怖いのは、わたしの方なんだ!

 こんなに太っているのに、走っても息が切れない。中身まで、豚になってしまったのだろうか……

 森が……広い。一向に湖へ着かない。こんな手入れのされた人工の森で、迷う訳ない。おかしい。何もかもおかしい。


 そろそろ、いい加減、湖が見えてもいいはず。暗い森を彷徨って、自分では一直線に湖へ向かっているはずなのに……ヘンゼルとグレーテルも、きっとこんな気持ちを味わったのだろう。でも、わたしには、グレーテルが居ない。

 もう、顔を上げて歩くことも出来ず、俯きながら歩いていた。暗くても、なんとなくわかる。足元の下生したばえが、青々と夜露よつゆに濡れて、わたしの変わり果てた足も濡らしている。

「菊池さん」

 誰かに呼ばれた。顔を上げると、小屋が見えた。中には明かりが灯っていて、入口で誰かが手招きしている。

「狸穴……皆十……」

 サウナ小屋から、わたしを呼んでいたのは、狸穴皆十だった。

「菊池さん。どうして、いつまでも暗がりに居るんです」

「で、でも……」

 わたしは豚になってしまったんだ。

「こっちへ、いらっしゃい」

 …………野蛮人どもの小屋へ?

「菊池さん」

 でも、呼んでいるのは狸穴皆十……

『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』

 サウナ小屋の入口には、恐ろしげな銘文めいぶんが掲げられている。


 まるでお化け屋敷を薄目で歩くように、わたしは狸穴皆十に導かれて、小屋へ入った。

 わたしは手を引かれて歩く。

 わたしは……どうにも耐えきれなくなって、狸穴皆十の手を離して、走って、小屋の中を駆け抜けた。外へ開かれたドアがある。

「菊池さん!」

 後ろで狸穴皆十の呼ぶ声がする。わたしは一目散に、ドアから外へ出た。

 そこはウッドデッキフロアで、目の前には、湖が拡がっている。狸穴皆十が……叫んで飛び込んでいた、湖。

 わたしは意を決して、踏み出した。勢いよく走り、わたしは跳ぶ!


「サウ!」





【次回】2/7 サウの白豚

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サウの白豚 連休 @ho1idays

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