遂に来た、その朝。私は何とか熱から回復したのですが、あの人は、妙に余所余所しい感じでした。正直、これから出征されるお方としては、少々似つかわしくありませんでした。

「忘れ物はありませんか?」

「あゝ、うん、大丈夫」

「……」

「……」

 しばらく沈黙が続いていると、あの人が、独り言のように、口を開きました。

「人を殺す時ってのは、一体、どんな感覚なんだろう?」

 その問いが、物凄く残酷に聞こえて、私は焦って、それに答えました。

「こ、怖いのですか? 人を殺すのが」

「いや、多分、そういうのじゃない。もしかすると、案外簡単に、料理で肉を切る時みたいに、殺せてしまうのかも知れない」

「嫌なことをおっしゃらないで下さい。私は、あなたが生きて帰ってくれたら、それだけで……」

「もし、帰ってこなかったら?」

「……意地悪なことをお聞きなさるのですね……」

「あ、いや、すまない……。ただ、僕は帰ってこられる気がしないんだ。君とまた会えることだって、出来ないかも知れない。けど、最後に、君が元気になった姿を見られて、すっかり安心してしまったよ」

 それを聞いた途端、今まで自分が心の奥底に抱えていたものが全部溢れ出してきて、私は、胸が苦しいほどに熱くなっていくのを感じました。そして、自分でも記憶にないぐらいの速さで、不意に、あの人にキスしてしまいました。それが夫婦になってからした、何回目のキスだったかさえ、あやふやでしたけど、私は、再び、あの人に、妻として、女として、恋に落ちていました。

 唇を離して、色々と考えている内に、ハッとなって、あの人の顔をうかがうと、驚くことに、あの人は顔を真っ赤っ赤にしていました。そして、私がまだ何も言っていないのに、

「ちょ、ちょっと、熱があるだけだから……」と、何処かの誰かの真似をされていました。

 それで、しばらく二人で恥ずかしくなって黙り込んだ後、

「じゃ、じゃあ、行ってくる」

「は、はい。お気を付けて、いってらっしゃいませ」

 という、結局は、何だか平凡な会話を残して、戦争が生んでしまった、その悲しい別れを告げたのでした。けれど、あの人は、恥ずかしさと嬉しさが混ざったような笑顔で、歩きながら手を振って、私を見つめておられました。そして、私もそれにホッと安堵の息を漏らして、あの人を見送ると、玄関の戸を力強く閉じて、もう誰もいない家の中に入りました。

 あの人が戦地へ行かれたのは、ミッドウェーでの大敗が、新聞では、「太平洋の戰局此一戰に決す」と、勝利の発表に塗り替えられていた頃で、それから、余りにも永い永い、火薬と血に満ちた戦いが繰り広げられて、いつしか米軍からの焼夷弾も、沛然と降り始めましたから、子供も親もいなかった私は、疎開することもなく、毎日毎日女手一つで、「私たちの」家を守りました。

 例の不倫相手とも既に決別し(どうやら、男の人は、女の人から振られてしまうと、それ相応の衝撃と苦痛を感じるようです)、国中が大東亜戦争で大変な苦労をしているのに、自分だけポツンと一人置いてかれたように、私は、誰もいない日々をただぼんやりと過ごしていました。その退屈を紛らわすために、やけに広いというのに今まで使っていなかった裏庭で、なるべく沢山の野菜を育ててみたり、あの人の自室に置いてあった、武者小路や志賀の小説を、こっそりお借りして読んでみたり、時には、床の上でだらしなくゴロゴロしてみたりと、戦時中の厳しい統制の中でも、私は、自分のしたいことを、無邪気でやんちゃな子供みたいに、楽しくやってのけていました。

 久しぶりに家に来客があったのは、あの人の出征から二ヶ月ほどが経ち、連合軍がガダルカナル島への上陸を始め、季節が完全に夏へと移り変わった時分のことで、玄関の戸を叩いたその人は、夫が恋い慕っていた、あの女の人でした。

 私が少々驚いてしまって、次に発するべき言葉が浮かばずにいると、

「あのー、すみません。戸山清蔵さんのお宅は、ここで合っていますでしょうか?」と、女の人が訊いてきました。

 第一声に、あの人の名前が挙げられた途端、私は、まるで背後から鋭く冷たい刃物で突き刺されたかのような感覚に陥りました。

 私が小さく震えた声で、

「は、はい……。ここは、主人の家で、私は、妻のほのかですが、あ、あの、どういったご用件でしょうか……?」と尋ねると、

「あ、いえ、特にこれといったことでは……。あ、あの、私、清蔵さんが勤めていらしゃった会社で働いている、青木という者なんですが、そのー、清蔵さんが、会社をお辞めになった時、理由を尋ねたら、別の会社で働くようになったとおっしゃっていたんです。その時はそれで納得したのですが、何だかそれが後になって嘘っぽく聞こえてきて、非常に気になってしまって、不躾にもこうやってお伺いしたのですが、清蔵さんは、今、御自宅にいらっしゃいますか?」と、何だかあっちも恐る恐る聞いてきて、女二人で奇妙な構図を描いていました。

 ですが、私は、彼女の問いを反芻している内に、気分が悪くなっていって、それも次第に怒りへと変わっていき、自分が口を出す資格なんて、これっぽっちもないと判っているのに、眼の前にいる青木さんが、あの人が恋した女性であると知っているのに、己の不倫を棚に上げて、自分はあの人の妻で、青木さんはあの人の浮気相手だということだけを考えて、私は、強い口調で、

「主人は、二ヶ月ほど前に、召集を受けて、出征しました。あの人は優しいですから、きっと、あなたには、嘘をついて、黙っていたのだと思います。いつ帰ってくるかも、生きて帰ってきて下さるかも、分かりません。ですから、主人は、今、ここには居ません。あなたが会いたがっている、戸山清蔵は、ここには居ません」と、無慈悲な言葉を吐き出しました。

 自分でも、無理して声を荒げていたので、ハァハァと呼吸が乱れました。反対に、青木さんは、私の台詞を受けて、しんみりと黙り込んでしまい、それから、

「そ、そうですか……。わ、分かりました。いきなり押しかけてしまって、すみませんでした。失礼致します」とだけ言い残して、陽の光が能天気に降り注ぐ急坂を、一人憂鬱に下っていきました。

 私は、今更、彼女に悪い事をしてしまったと思い始めて、無気力にその場に座り込んでしまいました。互いにそれを許していたとはいえ、配偶者がいるというのに、他所の男に手を出していた私が、あの人と恋仲にあった彼女を、非難するなんてことは、余りにも身の程知らずで、私は、とんだ愚か者でした。いくら後悔と反省を繰り返したって、あの女性ひとはもう帰ってしまったんだ。そう、私は、嫌な女なんです。悪妻のレッテルがへばりついた、今更、何をしたところで、意味のない、無様な女なんです……。ぶつぶつと、そう呟いて、今度は私の方が、しんみりと黙り込んでしまいました。

 それと、これから話すのは、戦争が明けて、一ヶ月ぐらいが経った時に、偶然知ったことなのですが、あの女性、青木さんは、あの三月の大空襲で亡くなったそうなんです。つまり、あれが、私が最初で最後に見た、青木さんの姿だったんです。その訃報に驚くことさえ出来ずに、私は彼女の死を憐れみました。憎しみも悲しみも喜びも、何もかもが、線香花火のように、静かに私の心の中から消えていって、「死ねば仏」だなんて不謹慎な言葉が、その時、はっきりと理解出来ました。

 話は戻って進んで、昭和二十年の八月。あの人がいなくなってから、三年以上の月日が経っていて、その月の十五日、陛下直々によるラジオ放送で、大日本帝国の敗北が知らされました。私はそれを聞いた途端、玄関先へと走り出し、そこで思いっ切り戸を開けて、眼前に広がる青空を眺めました。あの人が出征した日、まだ日本が負けていなかった頃と変わりのない、自由な空模様、美し過ぎる快晴が、そこにはありました。あゝ、日本が、神の国が、遥か遠くの外国に敗れたということを、天皇陛下御自身の御声で、国民に伝えさせるなんて、何と惨めで情けのないことだろう。もう、この民族は、おしまいだぁ……。酷く呆れてしまった私は、この国の未来を、その青空の下で、ただ漠然と憂えているだけでした。涙さえ出てきませんでした。死のう、とさえ思ったこともありました。けれど、「それは違う」と、踏みとどまっていられたのが、唯一の救いでした。

 しかし、私は、最後の最後に、御釈迦様からの慈悲を受けました。終戦のおよそ三ヶ月後、あの人の復員の知らせが、私のもとに届いたのです。私は、最初、余りにもびっくりしてしまって、数分間、固まってしまいました。そして、いつからか記憶が薄れていった、あの人の顔に、段々、色彩と現実味が蘇ってきて、私はようやく意識を取り戻すことが出来ました。

 あの人を浦賀まで迎えに行った日、私は生き返りました。戦時下の生活では、どんなに楽しかったとしても、いつも不安と死がつきまとっていて、やっぱり、人間として、本質的に、楽しく日々を過ごせているようには思えませんでした。あの人が帰ってきて下さるなんて、夢にも思わなかったものですから、私は、柄にもなく、浮かれていました。人間として生きられること、あの人の妻でいられることへの喜びと祝福で、私は胸が一杯でした。

 しかし、港は、眼の前が人の頭で埋め尽くされてしまうぐらいの光景で、私は、数十歩歩いただけで疲れてしまって、丁度近くに在った、ほんの小さな貨物の上に腰を降ろしました。「何だか考えていたものと違う」と、私は、しょんぼりしました。そんな私の前では、再会を果たした数多の家族が、涙を枯れるまで流していました。それを見ていたら、私は、もらい泣き、ではないけれど、その人たちとの間にある壁を感じて、色々と不安になってしまい、顔は伏せていましたが、遂には、ぽろぽろと涙をこぼしてしまいました。

 あの人は、きっと、その手で多くの敵の兵士を殺めて、果てしない仲間の屍を踏み超えて、私一人のためだけに帰ってきてくれたんです。そして、この無数の群衆の中にもちゃんと居るはずなんです。それなのに、あの人を見つけられず、一人寂しくこの場に立っていると、もしかして復員したなんてことは、誰かの虚偽か、私の幻想で、あの人は、私のもとから遠く離れてしまって、ここにはやって来ないんじゃないかと、物凄い恐怖に駆られて、私は身動きすら出来なくなりました。周りの人声や雑音は少しも掻き消されず、悲愴感に呑み込まれた私の耳を、気色悪く通り抜けていきました。そうして、私は、何が良くて、何が悪くて、何が美しくて、何が汚いのか、もう何が何だか分からぬことを、ずっと無意味に考え込んでいました。


「ただいま」


 その時、他の誰でもない、たった一人の声が、雑音とも人声とも判別されずに、聞こえてきました。

 軍服は汚い上にボロボロで、身体は以前よりは大分痩せてしまって、段々剃るのが面倒になってしまったのでしょう、顔には髭がびっしりと生えていましたが、何処からどう見たって、やっぱり、ちょっと不器用で、それなのに物事には凄く熱心で、責任感が無駄に強くて、いつも自分のせいだとばかり思い込んでしまって、そして何より、初めはあの人以上に未熟でぎこちなかった私のことを、五年も見捨てずに大切にしてくれた、私の夫でした。

 私は、涙目になって、声も震えた状態で、一生懸命笑顔を作りながら、

「おっ……おかえり、なさい……」と答えました。

 私の様子を見て、あの人も、上手く語り尽くせないような笑顔をなさってから、色々あって、くたくただった私を、いきなり力任せに抱き締めたので、私を、更にくたくたにしてしまいました。けれど、そんな野暮なことは言わずに、私は、あの人の優しい腕の中に、ずっと収まっていられました。三年の孤独の償いなんか要らないぐらい、その時、私は幸せでした。

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