DIGITAL SINGLE「Bride」

五十嵐璃乃

01. Bride

 闇の中を、こそこそと泥棒のように通り抜けて、夫が待つ自宅に辿り着いた時は、何とも言い難い気分になるものです。



 すっかり夜が更けて、何処の家も灯りが消えているというのに、あの人は心配性だから、こんな夜遅くまで他の男と一緒にいた私のことを、長い間待っていてくれて、私たちのお家にだけ、居間の電燈が点いていました。



 私が「帰りました」と、少し大きな声で言うと、あの人は玄関まで飛び出してきて、「あゝ、お帰りなさい」と、安堵の表情を浮かべました。



「あらかじめ作り置いたものがあったはずですが、ご飯は、外で召し上がりました?」



「あゝ、いや、家で食べたよ。いつもすまないね」



 また、嘘を言っていらっしゃる。本当は、外で好きな女の人と一緒に食べてきたのだから、お皿だけ残して、食べ終わったかのように見せかけた上で、自分の部屋まで持っていって、後でこっそり召し上がるつもりなのだ。それを私も分かっていましたから、その時は知らないふりをして、翌朝の食事は、少なめに作っておくと、あの人の胃袋には丁度良いのです。







 そんな互いに気を遣うような生活を続けて、もう一年が経っています。一体どちらが先だったかなんて憶えていませんが、結婚して数年が経った、ある時分から、あの人は、好きな女の人のところに、私は、好きになってしまった男のもとに、出掛けるようになりました。



 お互い、相手に不満があった訳じゃありません。あの人も私も夫婦である以上、相手に特別な感情を抱いています。それに間違いはありません。世間では、それを「夫婦愛」だなんて云うらしいですが、私たちが互いに「愛」を感じているのなら、私たちは、それぞれの不義の相手に「恋」をしているのでしょう。勿論、罪悪感はあります。こんなことは、あってはならないことだと、分かっています。しかし、私たちは、必然的な愛は知っていても、偶然的な恋は知らなかった。だからこそ、そこには、好奇心がありました。私たちは、知ってみたかったのです。夫婦という関係で結ばれた上で、その自由と人間性に満ち溢れたものに触れてみたかったのです!



――――正直言って、こんなのは、後付けの理論(?)ですし、恐らく、良識のある方々でしたら、そんな馬鹿げたことは止して、とっとと別れてしまえば良いじゃないか、と思われるかも知れません。その方々からすれば、恋は、嫌らしい、一時的な、夫婦の絆などには到底及ばぬ、許されざるものなのでしょう。ですが、私たちは、気付いた時には、離婚をすることさえ煩わしくなってしまって、相手と卑しい恋愛はするけれど、既存の家庭はそのままでいたい、なんて、いずれ傷付くことが分かっている選択をしない訳にはいかなくなったんです。



 じゃあ、こんな私たちが、どういう馴れ初めで結婚したのかと申しますと、あの人の母と私の母が、歳は大分離れていましたけど、同郷の、しかも同じ女学校の出で、知り合ってから頻繁に茶会を開くようになり、やがて自分たちの子供を紹介したのが事の始まりで、それから、物凄い速さで見合いを整えてしまったものですから、流石にそれを断ることは憚られて、まだ若かった私たちは、半ば困惑しながら、結局、己の母親に忖度して、それを了承したということなんです。



 だから、あの人も私も、互いの身を委ねるまでは、随分と骨が折れて、今でも、私の方では、敬語交じりな言葉遣いは抜けていなくて、私たちの母親もとっくの昔に他界してしまい、あの人は三十、私は二十六にもなるのに、子供一人だって作らず、こうやって互いに相手の後ろめたい事を許すような、へんてこな関係になってしまいました。ええ、きっと、そうに違いありません。あの人も、私も、どっちも同じぐらい、いけないんです。あの人が好きな女の人との食事を終えて、一人料亭から出てきたところを、少し無理に微笑んで迎えに行く私も、不倫に今から出掛けていこうと、お化粧をしている時に、拙い言葉ではありましたけど、私の容姿を飽きるほど沢山褒めてくれるあの人も、悪い子なんです。



 それに、私もあの人も、それぞれの相手を、ちゃんと知っているんです。



 あの人が恋していらっしゃるお方は、私が一生懸命お化粧したって敵わないぐらい、綺麗な顔をした人で、あの人が勤めている測量会社の女社員だそうで、何ともロマンチックに惹かれ合い、恋が芽生えていったそうなのです。また、私が通っている相手は、あの人より大分若い、新参の劇作家で、或るカフェーで知り合ったことをきっかけに、私の方が不道徳な恋に落ちてしまい、その人もそれに応じて、次第に秘密の逢瀬を重ねていったのです。



 そして、あの人も、その男の存在には、気付いていました。また、私の方でも、大分前から、その女の人のことは知っていました。ですが、私たちは、お互いの行為を黙認していました。咎めることなんて、出来る訳がありませんでした。あの人も私も、それは、よく分かっていたんです。







 しかし、私たちが、摩訶不思議な夫婦生活を続けている内に、戦争も暗い影を落とし始め、米英を敵に回した頃、夫のもとにも召集令状が届きました。東南アジアの端に位置する森林地帯を抑えている部隊への配属が報じられて、あの人も私も、呑気に自分たちの恋を続ける訳にはいかなくなりました。



 会社を辞めて、出立の日まで、あの人は、ずっと、お家にいらっしゃいました。あの人のことですから、女の人には、召集のことは隠して、それらしいことを言っておいたのでしょう。私も、真実は黙っておいて、少しの間その人と逢うのはお断りして、あの人を後ろから見守っていました。けれど、やっぱり、二人は悪い子のままで、夫が(自分が)召集を受けても、相手と離縁しようとはせず、こういう時に限って、善人ぶっていました。



 ですが、今度ばかりは、私が本当に悪くて、あの人の出征の日が近いというのに、流行り病にでもやられてしまったのか、酷い高熱になって、寝込んでしまったのです。



 今思い出すのでさえ難しいほど、その病に罹っていた時の記憶は曖昧で、何より、私にとっては、出征前の夫に心配をかけてしまったことが、一番つらかったんです。あの人は、戦争が嫌いなようでした。人殺しを恐れ、憎んでいたんです。だから、赤紙が来た時の、あの人の漠とした不安が、私には痛いほど染みてきて、御国のため、陛下のためと、あの人は、震える手を必死に抑えている様子でした。そんな時に、私が倒れてしまったのですから、あの人に更に心の負担がかかることをするのは、本当の本当に嫌でした。ただでさえ熱があるのに、情けなさと恥ずかしさで、私の顔は、一層赤くなっていきました。







 ぼんやりと、眠りから目を覚ますと、私が倒れてから一日ほど経っていて、既に日が暮れていました。朦朧としながら、汗で寝衣や布団がびっしょりと濡れてしまっていることに気付いて、どうしようもない気持ち悪さを感じました。



 そうしていると、静かに襖が開いて、あの人が、私の枕許までやって来ました。



「やって来ました」と言っても、襖が開く音と、あの人の足音が、微かに聞こえてきただけで、あの人のお顔でさえ、私には見えていませんでした。けれど、私は、あの人が隣に居るというだけで、すっかり安心してしまって、(安心してしまったからこそ)無理に体を起こして、あの人と目線を合わせようとしました。だからといって、「無理をするな」と言わないのが、あの人でした。出征が刻一刻と迫ってきて、きっと身も心も疲弊しているのに、夫は、ワガママな妻の為に、何度も何度も様子を見に来て、身の回りの世話をしてくれました。



「もう、体調は良くなったのかい?」



 と、不安げな顔で尋ねてきたので、



「ええ、昨日よりは大分、ですが……」



 と、私は得意の微笑を浮かべました。



 すると、あの人は、突然、私のおでこにピタッと自分のおでこを当てて、少し長い間そのままでいると、そっとおでこを離して、



「まだ少しあるね。もうしばらく寝ていた方が良いんじゃないか?」とおっしゃいました。



 その時、私は、思わず、「えっ」と小さく声を出していました。突然のことで驚いたからというのも勿論ありましたが、それよりかは、あの人が私に触れてきたことに対する、初心な恥ずかしさを感じたからでした。私たちは、世間一般と比べれば、夫婦らしい愛情の交流は、さほど出来ていなくて、あの人が私の気持ちとか身体とかを色々と心配してくれたのがあって、私の方でも嫌に気を遣ってしまい、そうこうしている内に、五年近くも経って、互いに相手も出来ていたのですから、私は二十六にもなるおばさんでも、実際は、身も心も未熟な、世間知らずの女の子でした。



 私がびっくりして、照れていると、あの人が、



「はは、久しぶりに見たよ。君が恥ずかしがっているところなんて」



 と微笑んで、私は、褒められているのか、馬鹿にされてるのか、分からなかったから、



「ね、熱がまだあるだけですよ、もう……」



 と、悔しくなって言い返したところで、どちらかが耐えられなくなって、二人で初めて大笑いしました。



 あゝ、私は幸せだ。外で男を作っているような自分の隣にも、外で女の人を見初めてきたあの人が居てくれるのだから。



 そして、私に紡いでくれた言葉の数々も、眼鏡を通して私に向けられたその眼差しも、おでこに感じた額の温とさも、あの人が私に与えてくれた愛情の一部だってことを、私はこんなにも嬉しく思っている。あゝ、やっぱり、私、幾つになっても、不倫をしていても、あの人のことが好きなんだ。あの人のことを愛してるんだ。そうでなかったら、あの人と一緒に居て楽しかった、なんて思わないはずだし、あの人が好きだったから、不倫をしていて、こんなにも心が苦しかったんだ。



 その瞬間、私は、自分の中で絡まっていた複雑な思いが、優しくほどけたような気がして、この時になって、ようやく、きっぱりと心を決めることが出来ました。もう、不倫の相手とは、お別れしよう。元々私が悪かったことに変わりはないし、余りに身勝手なのだけど、私は、どうしても、あの人の妻として、あの人の隣に居ることを捨てられない。浮気をしているあの人の、お嫁さんとして、今は生きていたい。だからって、あの人の浮ついた気持ちを責めるつもりはないし、私はそんな資格のある女でもないし、何よりあの人は、浮気相手も私も置いて、遠い南洋の戦地に行ってしまうんです。沢山の外国の人をお殺しになるんです。生きて帰ってこれることを、祈っても祈らなくても、あの人はきっと帰ってこれないんです。だから、今は、あの人の不安や苦しさを、私が寄り添うことで少しでも和らげてあげたいし、それが出来なくたって、私は、あの人の側を離れたくない。あの人の苦悩や罪を背負ってでも、私は、やっぱり、あの人と夫婦でいたい。



 そして、あの時、二人で笑い合った夕方は、あの人の出征の前日だったんです。翌朝には、御国のため、陛下のため、死を以てでも戦わされる、代替可能な一人の兵士として旅立つ宿命を、あの人は負っていたんです。だから、私は、あの人が……死んでしまったとしても、後悔の無いぐらい、幸せだった時を過ごせたのだと思います。

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