金曜日

 瞼をそっと撫でる手は冷たい。腫れは一日過ごすうちにすっかり引いたようだ。

 両手を軽く握り腿の上に置いた。親指で人差し指のささくれをいじる。背を伸ばした上半身は電車の振動で揺れるに任せる。


〝自分〟は頭蓋骨の内、温かい脳脊髄液の中に浮かんでいる。

 ぼうっと握った手を見ながら揺られていると、まるで母の胎内に戻ったかのように錯覚する。

 母の胎内は覚えてないけど。

 しかしできるものならもう一度生まれ直したい気分だった。


 もうすぐ彼女が乗ってくる駅だ。

 昨日の別れ方を思うと憂鬱になる。他に手段もなくのうのうとこの電車に乗っている私に、彼女はどんな反応を示すだろう。


 死ぬなんて馬鹿ばかしい。


 夢なんてくだらない。


 自分なんか信じられない。


 死にたい。

 なんて思っちゃいけない。


 生きたい。

 何のために?


 泣きたくない。


 自分が不甲斐ない。


 ――ぽたり。


 泣きたくなんかないんだから。


 握った手の甲に熱いほどの水滴がこぼれた。

 こんな公共交通機関の中で泣くなんて。

 誰もいないのにそう人目を気にする自分のことも、心底嫌になって涙をさそう。

 うぅっ、と、込み上げる空気の塊を飲み込もうとする。

 ……飲み込む必要があるのか?

 そう思った途端、むせび声が漏れた。

 聞くに耐えない醜い音。と思いながら呆れる。泣き声とはこんなに大きな音なのか。

 ああもう、泣きたい。泣けばいいんでしょ。


 体が震えて声帯が締まる。喉が詰まる。頭に血が上ってうまく働かない。

 熱い水滴が幾筋も幾筋も流れていく。頬を伝い、顎でためらい、やがて次の水滴に押し出されるようにぽたぽたと。紺色のスカートの上に飛び込んでいく。

 手は行き場を無くしてうろうろと彷徨っている。目を触るのはよくない。といって流れる涙を拭ったって次々に流れてくるのだから意味がない。ただ膝に置くのも格好がつかない。

 自分はどんな泣き方をする人間なのか。

 結局ワイシャツの胸元を握りしめながら、ただただそんなことばかりを考えていた。


 いつの間にか背を撫でる温かい手があった。

 丸めた私の背。なだらかな丘のように埋もれた肩甲骨のその間からスカートの上の辺りまで、撫で下ろすことの繰り返し。

 手を上げるときは少しだけ背中から離れて、その一瞬に私は離れがたい引力のようなものを感じる。

 今さら恥ずかしいもなにもない。私はくつくつと泣きながら彼女に背中を撫でさせていた。


 誰も何も言わない。


 やがて呼吸はだんだんと深さを取り戻し、一つ深呼吸をした後、私はようやく目を開けた。

 腿に肘をつき熱い手で顔を覆っていたのだ。手に落ちた涙は存外に早く乾いて、もしなめてみれば塩の味がするに違いなかった。


 明日の朝になったらまた瞼が腫れてしまうだろう。もう腫れてるし。


 腫れぼったい目をこじ開けて彼女を見る。

 彼女は眉を下げ、唇をきゅっと引き結んで口角を上げていた。


「すみません」

 それが私の第一声だった。しゃがれて実に頼りない声だ。

「いいえ」

 彼女は唇を緩めて微笑む。

「安心した」

 そう言う彼女は相変わらずいい姿勢。ただ、腿の上で重ねた両手に少しだけ力が入っているような気がする。

「安心……?」

 私はやや大げさに首を傾げる。

「うん。やっぱり泣ける人間なんだな、と」

 何を言うんだろう。

 私のことを冷血だと思ってたとか……?


 ふっと笑いがこぼれた。

「当たり前ですよ。私だって人間ですから」

 頭は重い。けれどもこの笑顔は決して無理をしたものではない。

 ははは、と彼女も笑って、

「そうだね。私も人間だ」

 うん、と一人納得するように頷いた。

 電車が停まった。私は彼女から鞄を受け取り降り口に向かう。少しふらつくが、そのことは彼女に気取られたくない。

 銀色の支柱の隙間から見える彼女に軽く手を振って、私は生温い現実に戻っていった。

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