木曜日

 二人きりで電車に乗っていた。

 私はいつもの席に座り、鞄を隣に座らせ、なぜか彼女はその隣に座っている。

 昨日もたれかかったから、だろうか。

 私は肩を固くする。鞄が唯一の堤防で、その一つがあるだけで妙な安心感を感じる。


 淀みない走行音の中。

 す、と息を吸う音が聞こえた。

「あの」

 くっきりと像を結ぶその声に、私は反射的にスマホの画面を落とした。そしてぎこちない動作で顔を向ける。私の声は喉に詰まったようにうまく出せない。

 ――ああ、明らかに怪しいと思われたに違いない。

 どう思われているだろうとドキドキしながら、窓に映った自分の顔を思い出した。

 彼女はそんな私の顔を見ながら一旦唇を軽く噛み、それから開いた。淡いピンクのルージュを引いた唇だった。

「いつも、この電車を使ってるんですね」

 上半身を少しこちらに向けて言った。

 私は今日一度も開いていなかった唇を開く。貼り損ねたテープをゆっくりはがすように。

 化粧っ気のない、乾いた唇だ。

 ためらうように息を吸い、

「はい」

 その返事は半ば吐息のようだった。

「あなたは」

 ――どうしてこんな田舎に?


 さっきは近いと思ったのに、会話をするとなると遠く感じられる。

「ちょっと会わなきゃいけない人がいて」

 彼女は唇をきゅっと引き結びながら口角を上げた。

「ご家族ですか」

「まあそんなところです」

 彷徨わせた視線を空中の一点で止め小さく頷いた。なんだか私の知らないものを見ているようだった。

 ……当たり前か。私は彼女のことを何一つ知らないのだから。


「小説を書くんですか」

 彼女の黒い目が私の手元のスマートホンに向く。

 無意識のうちにぎゅっと握っていたことに気づいて、手の力を抜く。彼女に背を向けていたスマホはパタリと仰向けになる。何かを諦めたようだった。

「あっ、ごめんなさい、ちらっと見えちゃって」

 彼女は素早く顔を上げて謝った。

「いえ、……ええ、小説書いてます。でも」

「でも?」

「あ、……いや」

 微かに首を振る。

「何でもないです」

「そう、ですか……」


〝将来何になりたいの?〟

〝ねえ、作家になりたいんでしょう〟

 そう言ってにたにた笑う母の顔が目に浮かんで、頭を振って追い払おうとする。

〝ママは大学四年間を就職のための準備期間かなんかと思ってるの?〟

 私がそう聞くと、

〝そうだよ〟

 母はためらいもせず頷いたのだった。


 鞄を挟んで座る彼女の視線は私の膝の先端をかすめて床に落とされた。

「私も書くんです」

 独り言のように言う。

「もちろん趣味です。でも捨てきれなくて……やらなきゃいけない他のことそっちのけで書いちゃうことがしばしば」

 視線はのろのろと彷徨いながら上がっていく。

 私は再びスマホを握りしめた。握りしめながら同時に、強く振りかぶって投げ捨ててしまいたいような衝動に駆られた。


 逸る息を抑え込み、向かいの窓枠の上辺に目を釘づける。

 ごくりと唾を飲んだが喉は渇いたままだった。

「わかります」

 顎を上げ、眉を上げ、目を閉じないようにしながら喋る。

「受験生なのになんでそんなことしてるの、って言われたんです。それで、自分でも思っちゃったんです。『そんなこと』って。そうだよね、執筆なんて『そんなこと』だよね。大事じゃないよね。遊びだよね、って。でも……」

 肩が震える。抗うように息を吐きながら腕の力を意識的に抜く。


「私は夢というものが信じられません」


 彼女がどうしているかわからない。見ようとも思わない。見たくない。


「自分が信じられません」


 まずい。このままでは泣いてしまう。

 体がどうしようもなく酸素を欲して、呼吸が小刻みになってくる。

 そもそも私はどうしてこんなことを話してるんだろう。全く見知らない人に。


 馬鹿ばかしい。


「泣きたいときは、泣いていいんだよ」


 顔の見えない彼女の言葉に、私はついに耐えきれず鞄をつかんで立ち上がった。

 運良く電車は停車して扉が開いていた。

 間一髪で電車を降りて、振り返らずに歩いた。足を地面に叩きつけるようにして。


 火照った顔をじめじめした空気が撫でる。

 いつしか走り出している。

 つまずきかけて、手元からスマホが吹っ飛ぶ。

 空は灰色の曇り空で、星なんか見えない。


 高校三年生の晩夏。最悪な夜だった。

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