土曜日
今朝の目の腫れは昨日より幾分かマシだった。昨夜は帰ってすぐちゃんと冷やして温めたから。
泣くにも後始末が要るなんて、めんどくさい生き物だ。
しかし泣いたからといって何だというのか。
陳腐な小説ならここで気が晴れてめでたしめでたしだろうが、私の現実はまだ終わりそうにない。
今日は土曜授業。授業は午前で終わるけど、私は下校時刻の十七時まで学校に残って自習という名の執筆をする。
あの人は今日も電車に乗ってくるだろうか。
平日の下校時刻は十八時。一時間のタイムラグをファミレスでドリアを注文して潰した。
あの人は必ず同じ電車に乗ってくる。そんな根拠のない確信めいたものがあった。
火傷気味の舌を丸めて車内を見渡す。相も変わらず乗客は少ない。
いつからだろうか、夢とか未来とかそういった言葉を胡散臭く感じるようになっていた。特に〝将来の夢〟というもの。将来の夢は、と聞かれると言葉に詰まる。
一つ上の先輩に、小学生のときからずっと教師を目指してきたという人がいた。その人は大変な努力をして、今は教育系の大学に進んで夢への道をひた走っている。
同級生には美大や音大を目指す人もいる。澄んだ瞳で未来を見据えて、ピアニストになるんだと楽しそうに語る友達。
そういう人たちを見ると、羨望とは違うけれど、何だか言葉にできない感覚に襲われる。
暗闇の中一筋のスポットライトに捕らわれてぽつりと立ち止まっている自分の姿が目に浮かぶ。
将来の夢は何ですか。
小学校に上がる前から幾度となく答えを求められてきた問いだ。
大人はそんなに子どもに夢を持ってほしいのだろうか。そんなに急がせて。心にもない嘘を言わせて。
夢を持てない大人の身代わり。あるいは夢を叶えた大人の押しつけ。
ほら、あなたもやりたいことがあるでしょう。言ってごらんなさい。信じれば必ず叶うよ。
……馬鹿ばかしい。
そう否定して自分を保っているのだ、私は。
卑怯な臆病者と言われても仕方がない。
でももしかすると本当は――。
「やっぱり羨ましいんじゃん」
ぼそりと呟いてみた。
がちゃこん、と扉が開く。
こつ、こつ、こつ。
彼女は当然のように私の鞄の隣に座った。
膝に落としていた目を上げると黒に閉ざされた窓に私たちが映っているのが見えた。
「将来の夢って持ってましたか」
その声は思ったより大きく響く。――いやだなぁ、自分がされて嫌なことは人にしないって、初等教育でも習ったじゃないか。
窓越しの彼女と目が合う。
「うーん、無かったかな」
彼女は眉尻を下げて、首の後ろあたりを触りながら軽い調子で答えた。
「いや……ほんとはあったのかもしれないけど、無いふりをしていたというか口に出すのが怖かったというか」
「……怖かった?」
「うん」
今度は本物の彼女と目が合う。
「作家、になりたかった、のかもしれない」
「さっか」
かすれた声がこぼれる。
彼女は瞬きもしない。
さっか、さっか、作家、……作家?
……ああ、そうか。
「私も無いんです、将来の夢」
私はへらっと笑って見せた。
「大学選びだって将来のことなんか一ミリも考えてないし」
「嘘」
と食い気味に言う彼女の様子は変わっていた。言ってから、はっと気づいたように胸の前で手を握っては開きする。
「いや……そうじゃなくて、えっと」
口ごもる彼女の目はしばらく彷徨っていたが、ややあって手を下ろし私の目をまっすぐに捉えた。
「あのね、将来の夢。嘘でもいいから言ってごらん」
強い光をたたえた瞳だった。
「……」
私は考える。
〝本当のことを言ってごらん〟と言われたことは何度もある。だが〝嘘でもいいから言ってごらん〟と言われたのは初めてだ。
嘘。それなら。
「作家」
気づいたらそう言っていた。
「作家になりたいです」
自分に言い聞かせるように言う。
これは嘘だと、作家になどなれるはずはないと、心の裏で呟きながら。さながら念仏のように。
「私は将来、作家になりたい」
けれどもその言葉の舌触りは悪くはなくて。
口の中でころころ転がしてみる。
作家、作家、さっか、さっか……。
怖かったのだ。否定されるのが。自分に裏切られるのが。
私はいつだって大人の言う〝正解〟を選んできた。テストの正解だけでなく、他人への思いやり、授業中の態度、絵のテーマ、読書感想文の本、それからファッションまで。
センスがいいとよく言われたし、テストで百点を取れば褒められた。
私はいつだって正解を選んできた。優等生だった。いい子ちゃんだった。
――それだけに失敗を恐れる。
テストで点を落とすこと、授業中の問いに答えられないこと、大人に微妙な顔をされること。
それは違うよと言われただけで泣きそうになる、もろい人間。いつでも完璧じゃないと気が済まない。そのくせ努力は放棄している。
ああ、嫌になる。
ずっと自分を騙していた。自分で自分を裏切って、夢というものを、自分というものを馬鹿にしていた。
「作家になりたい」
嘘だと思えば、知らない人になら、こんなにすんなり言えるのに。
やっぱり、ひねくれている。思春期の情緒はわからない。
自然に笑えてくる。
涙は流れてこない。昨日よりも泣きたい気分なのに。陳腐な小説の主人公ならここが泣き時だろうに。
あは、ははは。
夢は叶えるものではない。追うものなのだ。
どこへでもいいからとにかく進むための、道しるべなのだ。何でもいいから適当に立てておけばいいのだ。
――そう思えば安心できる。
横を見れば彼女は気遣わしげに私を見ていた。
「大丈夫です」
私はにこりと笑う。
「晴れ晴れしました。夢なんか何でもいい。仮でもいい。笑われても現実味がなくても、とりあえず豪語しておいてずんずん進んでいけばいい。ただ進むための目印であればいい」
唾を飲んで、上目遣いで彼女を見た。
「そうでしょう?」
彼女は唇を噛んで、それから開いた。
「私はそうは思わない」
その目はしごく真剣だ。
私は腿の上の両手を握った。
電車の走行音に緊張が走る。
「……と言ったらどうする?」
彼女はそう言ってふっとからかうように笑った。
私は安心しかけて、けれども背筋を伸ばし直して言った。
「構いません」
きっぱりと。
「もう、正解は求めない」
――嘘。
――いや、叶いそうに思えない理想。
だがそれでいい。
彼女はにんまりと笑って頷いた。
それを見て、私は今度こそ泣きたくなった。
つんと詰まりそうになる鼻に空気を通してこらえる。そして聞いた。
「そう言えば、あなたのお名前は?」
と。
彼女は一瞬だけ泣きそうな顔をして、しかしそれを笑顔に変えて答えた。
「みらい」
それを聞いて、私の口が少し開く。彼女は私を慈しむように、何かを懐かしむように笑む。
「みらい。あなたの未来だよ」
『各駅停車ぁみらいヶ丘行きぃ――。お降りの方はぁ足元にお気をつけくださぁい』
扉が開く。
「ほら、降りないと」
私は彼女に言われた通りに立ち上がる。
背を押されるまま電車とホームとの隙間をまたぐ。
「またね」
彼女が手を振るのと同時に扉が閉まった。
「また」
ぽろりとこぼしながら、中途半端に上げかけた手を胸の辺りで握る。
夏を引きずった空気が冷房で冷えた肌にしみる。
ごくりと唾を飲み込んで、私は私と同じ名前を持つという彼女を見送った。
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