エゴ・イズ・オーヴァー

クチバシガホソイカラス

第1話

9▲




 「やっと、翔真を…ううん。やっと、きみを守れるね」


 わたしはわたしの意志を、初めてわたしに届けられた。ほら、もう安心しきっている。わたしにぜんぶを預けている。


 わたしの囁きに、翔真はその腕を眼の前に組んで答えてくれた。






 私は今、全く見覚えのない部屋に寝かされている。その事を知覚したのは今なのか? 十秒程前か? 或いは一日前なのか? いずれにせよ、この状況にあるという事実の前に存在すべき時系列を持った記憶が無いのは確かだ。無論、名前も、生業も、人生遍歴も、大抵の事は答えられる。ただ、ここ最近というべきか──少なくとも、部屋にいつ頃から自分が居たのか、など──欲しい記憶は砂を被ったようだった。ただ、思考の大半は依然先述した状況、つまり、疑義を唱えたくなるこの部屋の内情にあった。


 部屋の形状は文字通りの真四角で、よく目を凝らすと四辺の隅に角柱が立っている。私の正面、否、右前方には扉が静かに佇んでいるのだが、幅は不自然な程狭く、五十センチメートルもないのではなかろうか。そして、扉を上辺とした時、私は下辺の左端に存在するのだろう。背に伝わる硬い冷感がそれを物語っていた。


 しかし、この部屋において強く関心を惹かれるものは形状ではなく、調度品であった。私はどうやらシングルベッドに居たようで、というのも、現在私はやや弾力のある布地の上に座っており、大きさは私が目一杯足を伸ばしても少し余りがあるくらいだったからである。この寝具から改めて観察すると、すぐ側(人間一人分の隙間)に片袖机と事務椅子があり、更に、天板上には幾重にも縦線の入った鳥籠が鎮座していた。だが、より私を心境に追い込んだ事実は、部屋全体が石灰に強い撮影光を与えた色彩であったという事実なのだった。


 鳥籠を見るまでは気づきもしなかった。工業製品はともかく、有機物たる私まで『色を失ったような色』であったことなど。出来の悪いB級スプラッターを彷彿とさせる、間抜けた世界の在り方が、どうして受け入れられるのか。少なくともその自問に回答するのは不可能に違いない。ここに来てようやく、私は今の自分がどれ程異常であるかを知覚した。いや、このような表現でさえ今の私を表すには足りない。何者であるなどと推理小説じみた思考実験はさておいて、本来、あの扉に向かって一直進し、全く正体の探りようのない部屋から脱出を試みるのが生物的に自然であるはずなのだ。にも関わらず、身体は前に進むことはなく。


 原因は両足首。歴史物でよく見る、金属の円環に鎖──の先に、大きな、黒々とした鉄塊が、私を捕らえて離さない。自身の空間認識と身体感覚はここまで鈍いものだったろうか。色より先に足の異変に気づかないとは。全く思うように動かない状況を目の前に、ようやく全身から張りが出るものの、当面、取り除く手段は無さそうだ。


 張りを更に。けれども動かないし、かといって寝床に今更戻る気にもなれず、仕方なく私は片袖机へ向かった。相も変わらず天板に鳥籠が見える。ただ、机には引き出しがあった。これも先程までは気付けなかったもの。それは枯葉色のノート。唯一色づいたもの。






 掌で抱える一冊の紙束という他ない代物は、そう形容せざるを得ない理由を異様な肉厚さで証明してくれた。まるで辞書のように膨れ上がった紙束は、足元と同じものを押し付けてくる。


 やがてしゅらっ、という音がして、白地の頁が現れた。


 「え…?」


 そこにあったのは、まず私の顔写真だった。ただし全く撮った覚えのない。しかも恐らく隠し撮りの。それどころか、私の顔から下は真っ赤になっている。私は赤い服を着ていたわけではないのだ。そんな写真が、ある時は学校を、ある時は幼馴染と通ったショッピングモールを、ある時は自宅の自室を背景に、何十枚も貼られていた。


 幾つかの頁には文字も書かれているが、読もうとは思えない。けれども、『立原美咲』。


 私の見る現実の中で最も認めたくない名前が、三十頁も捲った先にあったから。見えてしまった。

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