第4話 真実の代償
月影澪の荒い息遣いが、闇に包まれた森に響く。儀式の場を目撃してしまった彼女を、白装束の町民たちが追いかけている。背後から迫る足音に、彼女の心臓は激しく脈打っていた。枝が頬を掠め、小石が靴の中に入り込む。それでも、澪は真実を世に伝えるため、必死に走り続けるしかない。
(田中さんとはぐれてしまった。それでも逃げなきゃ……この映像を必ず世に出す!)
右手に握りしめたカメラが、彼女の命綱だった。左手で木の幹を掴みながら、澪は前へ前へと突き進む。月明かりが木々の間から漏れ、不気味な影を作り出していく。
突如、足元の木の根に躓いた。澪の体が宙に浮く。
「っ!」
とっさの判断で、カメラを胸に抱え込む。肩から地面に落ちる澪。鋭い痛みが走った。
澪は歯を食いしばって立ち上がる。手のひらが擦り剥け、血が滲んでいる。しかし、カメラは無事だった。彼女の目には決意の色が宿っていた。
(これさえあれば……)
その時、澪の目の前に崖が現れる。行き止まりだ。背後の足音は、確実に近づいてきていた。冷や汗が背中を伝う。
「くそっ……!」
澪は周囲を見回す。逃げ場はない。息を整えようとするが、恐怖で喉が締め付けられる。夜風が彼女の髪を揺らし、木々のざわめきが不吉な予感を掻き立てる。
やがて、追っ手が姿を現した。松明の明かりが、澪の姿を浮かび上がらせる。オレンジ色の光が闇を切り裂き、追っ手たちの影を大きく伸ばしていく。
「月影さん、もうおしまいにしよう。おとなしくこっちに来なさい」
町長の声が、夜の静寂を破る。その背後には、白装束の町民たちの姿があった。彼らの目は、異様な光を放っている。
「みなさん、気づいていないんですか?」
澪は叫ぶ。
「こんなの間違ってる!」
彼女の声は震えていたが、決意に満ちていた。澪はカメラを掲げる。レンズに月明かりが反射し、一瞬、光る。
「この映像が、すべてを証明します」
白装束の奥から杉本龍三が現れ、冷笑を浮かべる。その表情には、底知れぬ闇が潜んでいる。
「誰も信じやしない。我々には影の力がある」
その言葉に、町民たちの間から動揺の声が上がった。不安と疑念が、群衆の中に広がっていく。澪はその隙を逃さない。
「みんな目を覚まして! この町は呪われているんです!」
澪の訴えは、夜の闇に吸い込まれていく。しかし、その時だった。
突如、澪の足元から巨大な影が伸びる。まるで生き物のように、うねうねと動いていく。月明かりさえ飲み込む、漆黒の闇。
「な……なに!?」
「なんだこれは!?」
驚愕する町民たち。皆が後ずさりする。恐怖に満ちた叫び声が、森に響き渡る。影は澪の足首を掴み、彼女を引っ張り込もうとしていた。
「やめて! 離して!」
澪は必死にもがく。しかし、影の力は強く、徐々に彼女を飲み込んでいく。冷たい感触が体を包み込み、呼吸さえも奪われそうになる。
「助けて! 誰か……!」
澪の叫びが夜空に響く。しかし、誰も動こうとしない。影は既に澪の腰まで達していた。
冷たさが体を包み込み、意識が遠のき始める。澪の目の前に、走馬灯のように記憶が駆け巡る。東京での日々。この取材の始まり。かげみ町での不可解な出来事。そして……。
影が胸元まで迫る中、澪は最後の力を振り絞る。
「私は……真実を……明かさなければ」
言葉を紡ぎ出すのと同時に、影が澪の口元を覆う。最後の意識の中で、彼女は不思議な安らぎを感じた。まるで、長い旅の終わりに家に帰ってきたかのように。
そして、澪の意識は完全に闇に沈んでいった。カメラが彼女の手から滑り落ち、地面に転がる。レンズに映るのは、漆黒の闇と、それを取り囲む恐怖に満ちた町民たちの姿。
森に再び静寂が戻る。しかし、それは不吉な静けさだった。木々のざわめきさえ、この瞬間だけは止まったかのよう。月明かりだけが、事件の痕跡を照らし出していた。
**
都内のとあるマンションの一室。モニターの青白い光が、暗い部屋を照らしている。壁にはかげみ町の地図が貼られ、赤い糸で様々な場所が結ばれていた。
「月影澪が最後に残した映像……送り主は山田幸子……」
匿名の編集者――教授が、低い声でつぶやく。彼の前には、澪のカメラから回収された映像が再生されていた。画面には、かげみ町の森での追跡劇が映し出されている。時折カメラが大きく揺れ、澪の荒い息遣いが聞こえてくる。
そして、最後の場面。巨大な影が現れ、澪を飲み込んでいく。教授は眉をひそめた。映像には、不自然な光の屈折が見られる。そして、説明のつかない低い唸り声のような音声。
「彼女は何を見たのか。そして、彼女を飲み込んだ黒い影の正体は……」
教授は椅子から立ち上がり、杖をつきながら窓際に歩み寄る。外は雨が降り始めていた。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる様子が、どこか不気味に感じられる。街灯の光が雨に反射し、幻想的な景色を作り出していた。
「月影さん、あなたは一体何を見てしまったんだ……」
彼は再び机に戻り、資料の山をかき分ける。そこには、かげみ町に関する様々な記録が散らばっている。古い新聞の切り抜き、町の歴史書、住民の証言をまとめたノート。そして、月影澪のカメラから回収された記録メモ。
彼はメモを手に取り、澪の走り書きを読み返す。
『かげみ町の秘密は、影そのものにある。影は生きている。影は飢えている。影は……』
そこで文章は途切れていた。教授は眉をひそめる。
「影が飢えている? 一体どういう意味だ?」
突然、部屋の電気が瞬いた。教授は驚いて顔を上げる。しかし、すぐに元に戻る。
「まったく、古いマンションは困るな」
彼は独り言を呟きながら、再び作業に戻ろうとした。しかし、その時だった。
部屋の隅に置かれた古びたテレビから、ノイズが聞こえた。教授が振り向くと、画面にはモザイクがかかったような映像が映し出されている。
「……」
近づくと、映像がクリアになっていく。そこに映っていたのは、かげみ町の森だった。月明かりに照らされた木々。そして、地面を這うように動く巨大な影。
「これは……月影さんが最後に撮影した……っ!?」
教授の言葉が途中で止まる。映像の中の影が、まるでこちらを見つめているかのように動いたのだ。
突然、画面が暗転する。そして、次の瞬間、そこに映し出されたのは……教授自身の姿だった。
「なっ!?」
彼は思わず後ずさる。しかし、映像の中の自分は動かない。ただ、じっとカメラを見つめている。そして、その背後に、巨大な影が忍び寄っていく。
彼は震える手で携帯電話を取り出す。警察に通報しなければ。しかし、画面には「圏外」の文字。
「くっ、どうして……!?」
彼は部屋の出口に向かって走り出す。しかし、ドアノブに手をかけた瞬間、背後から冷たい感触が背中を這う。
振り返る勇気はなかった。ただ、わかっていた。影が、彼を捕らえようとしていることを。
「誰か……誰か助けてくれっ!」
教授の叫び声が、マンションの廊下に響き渡る。しかし、誰も答えない。
やがて、部屋の中は静寂に包まれた。テーブルの上には、書きかけのノートが残されている。
『月影澪の真実に近づいた者には、影が牙を剥く。しかし、これは単なる都市伝説ではない。私たちの知らない世界の入り口なのだ。そして、その扉の向こうには……』
文章はそこで途切れていた。ペンが床に落ちている。そして、部屋の隅には、うっすらと人の形をした影が残されていた。
かげみ町の謎は、まだ誰も解き明かせていない。そして、その秘密に迫ろうとする者は、次々と姿を消していく。
真実を追い求めた月影澪。彼女の遺したものは、恐怖と謎に満ちた映像の断片。そして、それを解き明かそうとした者たちの、不可解な失踪事件。
かげみ町の闇は、まだまだ深い。そして、その影は今も、新たな獲物を求めてうごめいている。
雨の降る夜。街灯の下で、一人の影が不自然に動く。誰かが、その正体に気づく日は来るのだろうか。
それとも、永遠に闇の中に葬られるのだろうか。
闇にうごめくもの 藍沢 理 @AizawaRe
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