蓮華に転機が訪れたのは、それからしばらく経ってからだった。ある夜、いつものように楼閣でくつろいでいると、手下が慌ただしく螺旋の階段を上って言った。

「オジキ! 得体の知れねェ奴が会いたいって来てんだが」

 欄干にもたれた蓮華は、肩で息する手下に向かって追い返せと手だけで合図した。背後の気配が螺旋の階段を下っていくのを、葉巻の先を切り落としながら見送った。蓮華は楼閣の吹き抜けを眼下に、充足したように微笑んだ。見上げてもどうせあの憎たらしい眸が浮かんでいるだけだ。びっしり並んだ酒壷を眺めている方がよっぽどいい。人一人をゆうに仕舞えるほどの大きさの酒壷は、蓮華の蒐集癖の表れであり、酒造から成り上がった蓮華の誇りでもあった。

「蓮華のオジキ!」

 階下が俄かに騒がしくなる。吹き抜けの足元に手下が何人か転がってきた。蓮華の目が警戒で細められるより早く、それは蓮華を捉えた。

「っ……!」

 瞬間、蓮華は腰に差した直刀をほとんど直感で構えた。鈍い衝撃と体が軋むような感覚と同時、それは蓮華の眼前にいた。

 絢爛豪華な装飾を施された蓮華の剣とは似ても似つかない、武骨で味気のない大曲剣。見知らぬ男は愉しげに剣に体重を乗せた。

「こりゃあいい、蓮華の名を持つ者が床夜にわすとは!」

 大きく振りかざし、勢いのまま剣技を繰り出す戦法は、拳闘の体術を彷彿とさせた。蓮華の洗練された剣術も何より得物の力量で圧し負ける。螺旋階段を一足跳びで屋根まで到達した男の跳躍力も手伝って、蓮華は見る間に欄干まで押しやられた。

「浄土の水は合わなかったか?」

「さてな。床夜の産まれだ」

 躱した連撃からすぐさま体勢を持ち直し、蓮華の身体が翻る。

「俺は酒のが良い」

 男が蓮華を真っ二つにせんと薙ぎ払った大曲剣の刀身に、蓮華は真上に跳ねて躱し、仕上げにそこへ着地をしてみせた。呆気に取られる男の首に、蓮華の刃が当てがわれる。提灯に照らされて赤く影を落としたのは、刀身に透かして彫られた蓮の刻印だった。

「流れにしちゃあ腕が立つ。何者だ、お前」

「オレは床夜のてっぺんに用がある」

 彼の口から漏れ出た薄い火の粉がふつふつと揺らめいて、うねる地平と風を象った。“冥土”の代紋だ。蓮華の刀を握る拳が緩む。首を狙われていてなおも、彼は尊大に鼻を鳴らした。

「退け、重くて敵わねェ」

「まさか冥土からおいでとは」

 大曲剣から軽い身のこなしで跳び降りた蓮華は、想定外の来客に三度目を瞬いた。

「それも閻魔会えんまえの一員が」

「お互い様だろ」

 蓮華を模した柄頭の直刀が鞘に納められるのを見て、男もまた剣筋を殺す。互いに実力を認め合った証であった。

「オレはここに来て出会った奴に片っ端から一番強ェ奴に会わせろと言ってきた。どいつもこいつも揃ってこの楼閣を指差しやがる…蓮の葉の代紋…お前のそれは床夜のじゃあねェ」

「視えるか。巧く隠しているはずなんだがなあ」

「舐めてもらっちゃ困る、これでも冥土じゃ名の知れたやくざ者だからよ……床夜には“床夜”の代紋は無ェって噂は本当なんだな」

 男が大曲剣の切先を足元に突き立てると、息を呑む間もなく剣は地面に吸い込まれて消える。こともなげにやってのけたのを見るに、それが彼にとって茶飯事であることを蓮華は察した。流石は五行の息吹く冥土の出である。

「セイだ。正しに行く、で征」

「うん、何が?」

「オレの名。手を組まねェか」

「ははは、突然カチコミに来て斬りかかっておいてそう出るか。面白い、色々聞いてやりたいところだ。が」

 不遜な征の態度を気に入った蓮華はしかし、彼の誘いを豪快に笑い飛ばした。

「まずは床夜なりに歓迎してやらなきゃな」

「いい、いい。もう充分だよ、さっきので」

 征は気乗りしない様子で首を振るも、蓮華には容赦をするつもりは微塵もないようで、ただにこにこと笑っては内に秘めた殺意を薫らせた。征がその気配に勘づいて、臨戦体勢を取る。

「お前は強ェ、オレに並ぶ価値がある。それで良いだろ」

「はは、偉そうに。何様のつもりだお前は」

 蓮華がぱんと一つ手を打つと、墨染めよりも暗い空に轟音がこだました。地響きと共に楼閣が震え、征が重心を低くする。壁や天井、螺旋階段までもが絡繰のように動き始めた。

「ここがどこだか教えてやるよ」

「床夜だろ、知ってるよ」

「その床夜がどういう場所かさ、俺の言ってんのは」

 不安定な足場をものともせず蓮華が再び直刀を抜く。組み替わってゆく楼閣が大量に死水を巻き上げて、飛沫を散らした。

 余裕のある足取りの蓮華とは対照的に、征は傾く板間を駆け上がりながら悪態をつく。

「随分と派手だな、オレ一人のために」

「んな訳あるか。お前さんはついでだよ。今夜の俺の客はそいつらだけのはずだった」

 蓮華が刀で宙をかき混ぜると、征は眉を顰めて目線を落とした。どうやら外が賑やかなことにようやく気がついたらしい。

 楼閣を囲むように数十。死水から逃げるようにして楼閣を登ってきている。雄叫びとも悲鳴ともつかない怒号が、仕掛け楼閣の地鳴りに合わさって蓮華の肌をびりびりさせた。

「援軍かと思ったが」征が訝しげに蓮華を見やる。「代紋が違ェ」

「便利だなあ、その目」

 今度は蓮華の方から斬りかかる。

「冥土の奴ってのはみんなそうなのか?」

「……さて、どこから話したもんか」

 再び地面から引き抜かれた大曲剣で剣撃を受けた征は、盾にしたその向こうから呟きをくぐもらせた。

 蓮華は背後に感じた殺気を咄嗟に横に避け、彼を囲むように楼閣へ攻め込んできた連中が先ほどから島を荒らしている敵対勢力であることを確認した。蓮華の上がった口角から嘲りの息がは、と漏れた。

「俺のシマと分かっての狼藉なんだろうなあ……!」

かしらから言伝だ。代紋を寄越せ」

「断る」

「渋るようなら多少手荒な真似をとってもいいと仰せつかっている」

「はっは、多少か……甘いな」

 蓮華の挑発を合図にして、男たちが次々と襲いかかってくる。息つく間もない連撃をいなしつつ、彼は身軽に楼閣を登っていった。蓮華を追う征もまた、ほとんど流れ弾のように攻撃される度、不服そうに敵を薙ぎ倒しながら上を目指した。戦闘に長けているだけあって、彼は蓮華の狙いに気がついている様子であった。

 仕掛け楼閣は蓮の花のように先細った建造物へと形を変えていき、水位が上がるにつれて軒先の提灯が飲み込まれ、辺りは段々暗くなる。死水の底で曼珠沙華がゆらゆらとして、提灯を跡形もなく溶かした。

 駆け上がってくる途中で、何人かを死水に落とした。最期まで蓮華のことを憎たらしげに睨めつけて、それから痛ましい声をあげながら彼らは死水に融けた。

「なんだ、ありゃ」

 押し寄せる刺客を同じように振り払った征が、人だろうと物だろうと関わりなく溶かしていく死水を見下ろして、瞼を力ませる。

「アレはオレの知ってる水じゃねェな。限りなく近いが、別モンだ」

「水にしか視えねえか、お前の目でも」

「あんなモン冥土には無ェ」

「俺らは死水と呼ぶ…あの曼珠沙華から滲み出たのか、それともあの水から曼珠沙華が滲み出たのか…とにかくあれは万物を赦さない。触れれば融けて、あれと一緒になる。なかなかロマンチックだろう」

 襲い来る敵を次々に蹴落としては、蓮華はあっけらかんと笑った。その物腰だけで彼が今、床夜で最も力のある存在だということを醸し出す。

「首もタマも、死水にかかりゃ融けてなくなる。そこで代紋だ。こいつぁ消えねえ、どこにしたってこれは契りの判。土地柄、契約は残るからな。俺にしてみりゃあ、冥土や黄泉より居心地良い」

 数十いたはずの来客は、半分以下まで数を減らしていた。動きやすくなったおかげで、蓮華から攻撃を仕掛ける場面も増えてきた。征もまた、しなやかに身体を躍らせては男たちを大曲剣で嬲り、トドメを蓮華に刺させようとする。互いに得意とする間合いの都合上それが最適であることを征は理解しているらしかった。蓮華にはそれが意外だった。彼が征へ下した、血の気の多い青二才という評価とは少し食い違っていたからだ。単に武器の扱いや力量だけではなく、多勢を相手取る戦法に慣れている印象を受けた。しかし、時折本気で蓮華に向けて斬撃を放ってきたり、あからさまに攻撃に巻き込もうとしてきたりと、共闘とは言い難い有様だった。蓮華も、避けられなかったらどうするんだ、とは流石に口にできなかった。ただ当然のごとくそれらを避けては、眉頭を上げるのみだ。

 残った手練れたちは、迫り上がってくる死水と蓮華とを交互に見た。楼閣が死水に沈みきるまでもう猶予がないことを悟ったらしかった。道連れとばかり彼らは蓮華を取り囲み、じりじりと水際へ追い込んでいく。

「殺しゃあ代紋はこっちのもんだ」

「そうとも。俺のが消える分にはお前らの勝ちだ」

「なんだ、随分とあっさりしてんな」

 驚いたように征が二、三をまた死水へ落とす。それから、水面に浮かんでいる蓮の花が大きく揺れたのを見て首を傾げた。ほとんど同時に蓮華の方から悲鳴が聞こえてきたので、彼はつま先をそちらに向けた。

 蓮華を追い詰めていた幾人かが、恐怖から尻込み後ずさる。見ると、蓮華の立っていた箇所は既に死水に沈んでいた。だが、蓮華は涼しい顔をしてそこに居る…否そこに、死水の表面に…立っていた。

「どういうことだ」誰かがぽつりと言った。「なんで融けない?」

「死水は触れただけで万物を融かすんだろ」

「じゃあどうして奴は無事なんだ」

 猜疑を口にする彼らに、蓮華はただ歯も見せず笑うのみである。流れに乗って漂ってきた蓮の花が、その足元を波紋で賑やかした。

「構うな、やっちまえ!」

 固まった彼らの中心目がけて征が斬り込む。瞬時に蓮華が距離を詰めて、一人残らず死水へ落とした。征は、けたたましく水柱が上がるのを見届けることなくさっさと踵を返し、足首を回した。

「お前らはテメェの代紋を床夜の代紋に成らせるためにドンパチやってる訳だな」

「いや、厳密には床夜にも代紋は有る、有るがそれを持つのは床夜の王ただ一人だ。玉に成りてえ訳じゃあねえ、王を詰ませたいだけさ」

「細けェな。狙ってるってことだろ、その床夜の代紋を。ならオレと同じだ。退屈しなさそうだ、気に入った」

 邪魔はもう入らない。ようやく会話に集中できるようになった。だが征も蓮華も、刀を下ろそうとしなかった。

 征の足場が浸されて、蓮華は考えるようにじっと死水を見つめていた。

「融けねえな」

「オレにとってこいつぁ理の外のものだ。死水とやらにとってもオレはそうなんだろ。それを言うならお前こそ」

 間合いを保ったまま、二つの影が楼閣を駆ける。

「お前は床夜のモノなのに」

「死水の有りようは、ただ触れたら融かすのとはちょっとばかし……言ったろ、死水は万物を赦さないのさ。だから融かされる、俺以外はみんな」

「許し方にも色々あるからな」

「はは、ロマンチストだな。違うよ。俺は許されていないんだ、そもそも触れることすら」

 今や蓮華の楼閣は完全に死水の下だ。彼が透き通る水平線にあぐらをかくと、蓮の花やら葉やらが凛とさざめく。征ははじめ、死水が水位を上げたのだとばかり思っていたが、実際には仕掛け楼閣が形を組み替えながら沈んでいただけだった。

 遠くから鼓の音が微かに聞こえた。それを皮切りに間合いを詰めた蓮華に合わせ、征もまた大曲剣を体の前に構えた。

 刃を交えた征は直刀を弾き返すでもなく、顔をぐいと蓮華に近づけて言った。

「なあ。やろうか、オレの代紋」

 仕掛け楼閣の歯車が、巻ききって軋んだ。

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地獄道 山城渉 @yamagiwa_taru

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