歳蕎麦 ~落語『時蕎麦』の創作後日譚~

藤咲 沙久

きっとこの男、幸せである。



「今細かいのしかなくてね、一枚ずつ数えるから手ぇ出してくれ」

 屋台からそんな声が聞こえてきたら、これから詐欺が行われるかもしれない。店主は勘定中に他の話を挟まぬよう注意するべきだ。

 さて、落語『時蕎麦ときそば』では、華麗な詐欺さぎの手口を目撃した主人公がそれを真似ようとして失敗するところで終わる。しかし、それをさらに目撃していた男がいたそうな。なんてことはない滑稽こっけいささやかな後日譚ごじつたんだ。

 蕎麦を啜る程度の時間、お付き合い願いたい。






「五、六、七、八……今何時だい?」

「四つだよ」

「五、六、七、八……、……十四、十五、はい十六文。ごちそうさん!」

 まったく奇妙なやりとりだった。空いた腹を満たせる場所を求め、はて蕎麦はいくらで食えるかなと後ろから眺めていた男は首をひねる。なぜ二度も“五、六、七、八”と聞こえたのだろう。これでは十六文の蕎麦代に二十文の支払いだ。

 しかし屋台の店主も払った客も澄まし顔。おかしなことなどなかったと言わんばかりである。青いあごを撫でながら、今度は反対側へ首を捻った。

 男は弥兵衛やへえといった。幼馴染みを嫁にもらい、幼い娘を育てる平凡な岡っ引きだ。普段からまあまあの働きぶりである弥兵衛のまあまあな勘が、なんとなしに反応した。これはきっと、何かある。ただし何なのかはちっともわからない。

 好奇心のままに、弥兵衛は屋台の暖簾のれんへ顔を突っ込んだ。

「親父、なあ親父よ。ここの蕎麦はいくらだい」

「十六文さ。食ってくかい」

「いやぁ……とりあえず、やめておこう」

 銭をじゃらり、じゃらりと数えながら、顔もあげずに店主が答える。その周りに積まれているのはねぎのついたはしに汁の残った器がたくさん。まあ汚いこと汚いこと。ろくに洗われていないのがよくわかる有り様だ。よく十六文も取るな、銭を数える前にすることがあるだろう、という文句が喉まで出かかったほどであった。

 こんな蕎麦屋、蕎麦自体もうまいわけがない。勘定を安く誤魔化すならまだわかる。そこを巧みな話術で多めに支払っていくとは、いったい全体どういう意図があるのだろうか。

「親父、なあ親父よ。今は何時だい」

「四つだよ。変な客だな、食わねぇなら帰ってくれ」

 店主が苛立ちをみせたので、弥兵衛は慌てて首を引っ込めた。どうやら怒らせてしまったらしい。しかし、それが弥兵衛の好奇心をさらに刺激した。

(ははあ。どうやら時を尋ねるのが大事なんだな)

 弥兵衛の考えはこうだ。不味いだろう蕎麦はきっと、先の客の目的ではなかった。何か情報を得るための合言葉として時を尋ね、店主が応えて何かを伝え、何かの意志疎通を経て不可思議な手段で情報料を払う。弥兵衛は何か手順を誤ったか、或いは何か必要な知識か資格がなかったため、店主が応えてくれなかったのだ。

 “何か”まみれの推測に、弥兵衛はうんうんと頷いた。これは大変興味深い話だ。もしも隠れた事件であるなら、岡っ引きとしても評価されるに違いない。可愛い可愛い娘に、父ちゃんはすごいんだぞ、と言ってやれる。

 同じように蕎麦を食って二十文を渡すことは出来るが、ただやるだけで得るものがなければ払い損だ。弥兵衛はまず、この「何時だい?」に込められた意味を探ることにした。彼を応援するかのように、ぺたんこの腹がグゥと鳴った。




 翌朝、手始めに嫁のおはつへ声を掛けた。

「何時だって? あんたが家を出る時刻だよ。ほら、のらりくらりせずに真っ直ぐ親分さんのとこ行きな。寄り道するんじゃないよ!」

 たいした反応は得られなかった。

 昼時、仕事の報告ついでに親分にも聞いてみた。

「何時だって? お前、飯を食ったばかりだろう。まだ八ツ時には早いぞ」

 ちなみに八ツ時には親分の奥方が心太ところてんをくれた。

 夕刻、茶屋の看板娘を呼び止めた。

「何時だって? いやだよ弥兵衛さん。時刻よりも、先日のお団子代を数えてくれなくちゃ」

 こいつはいけねぇ忘れてた、と今日のお茶代と併せて払うと、財布の中は細かな一文銭だらけになった。じゃらり、じゃらり、鳴る音ばかりが立派である。

 手掛りが掴めず困った弥兵衛は、ついには娘のおことにも尋ねた。

「あたし、わかるよ。さっき鐘が鳴ったから、えぇっとねぇ」

 指を折ったり伸ばしたりしながら懸命に教えてくれたお琴が可愛くて可愛くて、弥兵衛はでれでれと笑った。

「そうか、そうか。ありがとうなぁお琴。お前は賢いなぁ。今度羊羮ようかんを食わせてやろうなぁ。母ちゃんには内緒だぞ」

「あたし、もう七つだもの。鐘だって数えられるわ。でもねお父ちゃん。ようかんよりも、おまんじゅうが食べたいんだ。三日寝たらね、そこの通りに新しいおまんじゅう屋さんが来るんだよ。西の国からね、来るんだよ。佐吉さきちさんが教えてくたの。一緒に食べたいねって」

 これに弥兵衛は額を打った。佐吉と言えば八百屋の息子だ。お琴よりも五つ歳が上である。あの小僧、ちょっと鼻筋の通った男前なくらいで、情報通をぶってお琴に近づきやがって。お琴と饅頭まんじゅうを食うのはお前でなくてこの俺だからな。そんな風に無駄な焼き餅をゴウゴウと焼いた。

「よぅし、約束だ。三日寝たら来るんだな。よし、よし。いいか、その日になっても澄ました顔をしておくんだよ。八ツ時になったら、ちょっと遊びに行ってくるよと言って、通りに出ておいで。そうだな、饅頭屋の前でいい。俺も鐘が鳴ったらすぐに行く。なに、仕事? 大丈夫大丈夫、父ちゃんは岡っ引きだからな。町を見て回るのも仕事のうちよ」

 かくして愛娘との逢い引きが決められたが、結局「何時だい?」の問題は解決しなかった。弥兵衛はやっぱり首を捻った。



 今何時だい?

 そら知るもんか

 今何時だい?

 もうしつこいな

 何時だい? 何時だい?

 いいからさっさと働きな!



 方々に尋ね回って、そのほとんどで面倒臭がられながら、弥兵衛もそろそろ飽き始めていた。最後の最後、原点に戻ろうと蕎麦の屋台を覗いてみる。昼時はすっかり過ぎており、いつかのように腹がグゥと鳴った。今回の店は清潔そうで、弥兵衛は心の隅でこっそり安堵した。

「親父、なあ親父よ。世の中には、どうにもわからんことがあるもんだなぁ」

「そうだねえ。はい、蕎麦お待ち」

「おう、ありがとう。腹が減ってね、へへ……うん、うん。うん……こりゃうまい。うん、うまいうまい……。こりゃ本当にうまいね。お初とお琴にも食わせてやりたいね。お初ってのが嫁でね、お琴が娘なんだ……うん、うん。うん?」

 あと少しで汁を飲み干すというところで、弥兵衛ははたと気づいた。その可愛い娘との約束は、いつであったか?

「いけねぇ、親父、俺は何日寝た?」

「なんのことだい」

「ひぃ、ふぅ、うん、たぶん三日だ、三日寝たぞ」

「あんた三日も寝込んだのかい」

「それで親父、今何時だい?」

「さっき鳴ったばかりだから八ツ時だな」

「ああいけねぇ、いけねぇ。お琴のやつ、朝言ってくれればいいのに。違うや、俺が澄ましておけと言ったんだな。娘とな、約束があるんだ。佐吉より先に饅頭を食うんだ。おっと、団子みたいに払い忘れるところだった。ここは馴染みの店じゃねぇなからな、きちんとお代を置いていくからな……ちくしょう細かいのしかないぞ。間違えないように一枚ずつ乗せるから、手ぇ出してくれ……一、二、三……」

 一文銭だらけの財布をじゃらじゃらさせる弥兵衛を、店主は微笑ましいものを見るようにして笑った。

「娘さん、よっぽど可愛いんだね」

「おうよ。目に入れたってちっとも痛くない。四、五、六……」

「歳はいくつなんだい」

「七つだよ。八、九、十……、……十五、十六! それ急げ!」

 すっかり謎解きを投げ出して、弥兵衛はお琴の待つ饅頭屋へと走り出した。その背中を「気を付けてなぁ」とのんびり店主が見送っている。

 そのうち弥兵衛も、はてあの文句は結局なんだったのか、と思い出すことはあるだろう。しかし、同じ手法で自身が勘定を一文誤っていたとは、きっと一生、気づかないのである。

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