心の瞳

槙野 光

心の瞳

 初めて母の異変に気づいたのは、いつだったろう。

 針に糸を通せなくなった姿を見た時だろうか。洗った筈の皿に食べカスが付いているのを見た時だろうか。


 それとも、遠い先を眺め、無意に時間を消費する姿を見た時だろうか。


 縁側に腰掛けた母の後ろ姿。膨よかだった身体は萎み、空へと真っ直ぐに伸びる木々のようだった背中は、雪の重みに押し潰されたように丸くなってしまった。


 声を掛けても、私の言葉は母の耳をすり抜けて空気に溶け去っていく。


 私がいる意味なんて、母にはきっと分からない。

 母にとって私はいてもいなくても同じ。空気みたいに見えてない。

 母と過ごしたこの一年。過ぎ去った日々に手を伸ばしても、やるせ無さが増すだけなのだと思い知った。


 私は、どうすれば良かったのだろうか。


「母さんほら、また落としてる」


 食卓を挟んで向かいに座る母が、米粒をぽろぽろと落とす。私が注意すると、母は「落としてないよ」と眉根を引き絞り、私に抗議をするように食卓を右手でばんばんと強く叩く。その度に、かぴかぴに乾いた米粒が何度も飛び跳ねて、ひとつ、またひとつ食卓から落ちていく。見えなくなる米粒と同じ。私の心も少しずつ落ちて、翳り、見えなくなる。

 

 初めは、辛くて苦しかった。何でよ、と泣き叫びたい気持ちでいっぱいだった。でも堪えるしかなくて、その内、心を殺すほうが断然楽なのだと知った。

 いつからか、私は、私の心にも、そして母の心にも手を伸ばすのをやめた。

 母もきっとそのほうが楽なのだろうと、迷う度に自分に言い聞かせた。


 でも。


 酷暑が形を潜め、熱風が涼風へと移り変わった頃、縁側に腰掛けた母が突然歌い始めた。

 歌詞もリズムもめちゃくちゃで何の曲なのかさっぱり分からなくて、ただただ耳障りで、母にそんなつもりはないと分かっていたけれど、私に対する嫌がらせなのかと、私をどれだけ苦しめれば気が済むのかと立ち去ろうとした。でも、母が。


「あんた、この歌好きだったわよね」


 以前のように、はっきりとした口調で言ったから。私は過ぎ去ろうとした足を止めて、少し離れたところから母の背中を眺めた。


「中学生のときかしら、確か秋口だったわね。私が台所で夕飯作ってると、あんたが息を切らして帰ってきて。何事かと思ったら、『心の瞳』が合唱曲に選ばれたって大声で言うの。それ聞いて拍子抜けした私に、歌の練習がしたいからピアノを弾いてってあんたがねだって、あまりにもしつこいから、私は夕飯作るの中断してピアノを弾いて、あんたと一緒になって歌った。そうしたらお父さんが帰ってきちゃって、空っぽのお皿を眺めてお腹を鳴らすもんだから、結局、蕎麦の出前をとったのよね」


 くすくすと笑みを溢す母の背中が小さく揺れる。

 そして、ふと言葉が止んで風が吹いた。


「あの頃は、楽しかったわね」


 置いてけぼりにしてしまった筈の過去を思い起こすように、軒先に吊り下げっぱなしの風鈴が揺れる。


 ちりん、ちりん、ちりん。


 それは、晴れ渡る空のように澄んだ音だった。


あゆむ


 母が私を呼ぶ。そして、


「いつも、ごめんね」


 風音を潜り抜け、風鈴の音の合間を縫った母の声。


 耳に届いた瞬間、鼻の奥がツンとした。口を開こうとしたけれど、両手で強く抱きしめられたように胸の奥が切なくなって、喉元から湧き上がってくる熱を押し込めるだけでいっぱいいっぱいになった。

 私は唇を噛んで、心の中で必死に母を責め立てた。


 何でよ。何で分からないままでいてくれないの。どうして。どうして謝るの。


 私は、私はずっと。


 言葉が溢れ、唇の僅かな合間から嗚咽が洩れ、そして、歌が聞こえた。


 あの頃聴いた懐かしい歌が、あの頃よりも小さな音で、あの頃よりも覚束無い声で紡がれていく。



 心の瞳で 君を見つめれば

 

 愛すること 


 それがどんなことだかわかりかけてきた――。

 


 失くした筈のメロディーが心のなかに広がって、雨なんてちっとも見えない青空の下で大粒の涙が降る。

 私は堪らず母に駆け寄って、母の細くなった背中を後ろから抱きしめた。


 母は私の腕を撫でながら歌い続け、私は母の歌を追いかけるように泣き続けた。


 メロディーが止むまでずっと。

 母とふたりで。


 ずっと、ずっと。


 そうしてまた、明日が来て。


「母さんほら、また落としてる」


 母は相変わらず米粒をぽろぽろと落とす。

 私が母に注意すると、母は「落としてないよ」と眉根を引き絞る。そして、私に抗議をするように母が食卓を右手でばんばんと強く叩くと、かぴかぴになった米粒が飛び跳ねて、ひとつ、またひとつ食卓から落ちて見えなくなる。

 私は溜息を漏らして、母の隣で、母の膝に落ちた米粒を指で摘み上げる。


 ひとつ、またひとつ。

 心を拾い上げるように、少しずつ。


 ふと、母が私の方を見た。

 口を開きかけ、ゆっくりとまた閉じていく。そしてまた前を向き、何も言わずに米粒を落とす。


 そして私は、米粒をまた拾い上げる。


 今は聴こえない筈のメロディーが心の中を掠め、そして静かに、去っていった。

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