ハンコ屋さんと珍名字の死

加賀倉 創作【書く精】

ハンコ屋さんと珍名字の死

——夏の営業外回り。

 

 照りつける日射しを日傘で遮りながら、街中を歩き回る。

 

 ここ数年で、古き良き商店はますます消え、チェーン店の波が街を飲んでいくのを見てきたが、アタシとしてはちょっぴり寂しい。

 

 チェーン店、多いよなあ。


 さっき、三十一種のフレーバーが売りの某アイスクリーム屋さんやら、『M』の頭文字が印象的なファストフード店やらで、門前払いに近い『お断り』を食らったが、慣れたものだ。もはや悲しいとも、悔しいとも、辛いとも思わない。それはなぜか実は弊社の上層部は、『例外無しの全軒訪問主義』を強く掲げているのだが、私はそれをに受け、片っ端から店の戸を叩く内に、何度も何度も断られ続け、しまいにはとんでもなく強靭な精神メンタルを手に入れたのである。

 にしてもチェーン店というのは、なかなかの強敵である。なぜならチェーン店は、発注の類、とりわけ定期契約となる取引は本社で一括管理で行うところが多く、一介の飛び込み営業である私が入り込む隙は、ほとんど無いのだ。ごく稀に、小規模なチェーン店に当たった時は、複数店舗で芋づる式に契約が決まる時もあるのだが、その時の快感は他には変えられない。いわゆる脳汁というやつが、全身を浸すほどに、溢れ出るのだ。だが今、私の全身を濡らすのは、脳汁ではない。


 汗だ。


 ハンカチなんかで拭いても、多勢に無勢。こればかりは、半分諦めている。でも、汗をかきながら歩き回って得られるものは、悪いことばかりではない。

 

 抜群のプロポーション。


 毎日の一万歩以上のウォーキングで、体が適度に、引き締まったのだ。顔はスッキリして顎のラインが現れたし、三段腹は美しい縦割れ腹筋へと変化し、脚もアイスクリームの土台のコーンのような逆さ円錐形。これでしっかり月給ももらえるのだから、正直、感動している。でもやっぱり……


 今日も暑い。

 

 日傘をさしてはいるものの、暑いものは暑い。今、十五時過ぎ。さっき、空調の効いたファミレスから出てきたばかりだが、ジャケットの内側で、白の長袖ワイシャツが、上半身全体にピタリと張り付くのを感じる。日がほとんど南中している時間帯は特に暑くて危険だし、昼食をとる人も多くてお客さんや店員さんを邪魔するわけにはいかないから、私は活動しないことにしている。要は、サボりだ。そういうわけで、私は十二時から十五時頃までは長い休憩を取っているのだ。

 でも私は、優秀なほうだという自負がある。契約を取るのに、そこまで苦労はしない。先月の営業成績は、私と同じ事業所に十人いる営業担当の中で、ずば抜けて一番だった。まぁ、顔も含めて容姿がそこそこいい、というか正直言って超絶美人なのと、笑顔が得意なおかげで、オジサン受けがいい、というのは否めない。こんな姿に産んでくれた、そして人懐っこい性格に育ててくれたお母さんとお父さんに、感謝しないとだな。

 そんなふうに、いつものように自惚れながら歩き続けていると、いつの間にか路地裏に来ており、目の前に、一軒のハンコ屋が現れた。


 『鎮明寺判子店ちんみょうじはんこてん』か。


 赤錆の目立つ古びた看板には、そう書かれている。明らかに個人経営のお店だが、今も営業しているのかどうか、怪しい。規模も小さいようだし、内心、時間や労力に見合う成果が得られるとは思えなかったが、上からの鬼のような指導と、そしてほんのわずかな怖いもの見たさから、そこに入ってやろうと心に決める。

 私は、手に提げているハードケースからスタイリッシュなパンフレットを、それとジャケットの内ポケットを分厚く膨らませている名刺入れから、弊社『白金工業はっきんこうぎょう』の社名がでかでかと印字された名刺を取り出し、それらを手汗でほんのりと湿らせる。引き戸を、ガラガラと音を立てながら開ける。

 すると、冷たい空気が私の体を包みこむが、あまり心地良いとは言えない。やけに埃っぽいのだ。だが、それはチャンス。弊社の主力商品は、空気清浄機なのだから。

 広いとは言えない店内。年季の入った木製のテーブル越しに、七十歳くらいだろうか、おじいさんが一人。鉛筆で、何かを熱心にノートに書き込んでいる。


「こんにちは。ご近所でお世話になっております、白金はっきん工業の甘利瑞樹あまりみずきと申します。ご挨拶でお伺いしました。少々お時間よろしいでしょうか?」

 お決まりの、意味不明の挨拶文句をそらんじる。

 おじいさんは、こちらを一瞥いちべつするとノートに視線を戻し、鉛筆を走らせたまま、こう言った。

「白金工業さんねぇ……空調のプロ。うちは見ての通り、古びた物置小屋みたいに埃臭い店だ。なるほど、空気清浄のしがいがあるかもねぇ」

 私は、やや嫌味っぽい含蓄がんちくで迎えられた。

「ご存じいただいているようで光栄です! もし、空調関係でお困りごとがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。こちら、弊社の商品やサービスが載っているパンフレットなのですが、お渡しだけでも、させていただけませんでしょうか」

 私はA4サイズの冊子を、向こうから文字が読みやすい方向で、丁寧に両手で差し出す。もちろん笑顔も忘れない。

「そうかい」

 おじいさんは、あっさりとした返事をすると、片手をさっと伸ばして、冊子をひったくった。冊子は、そおっと、テーブル上に置かれた。お、ここはいけるかも。おじいさん、きっとツンデレタイプだな。

「ありがとうございます。あ、一緒に名刺もお渡ししてもよろしいでしょうか?」

 間髪を容れず、名刺も差し出す。

「ああ、名刺ね。是非もらっておこう」

 おじさんは、今度は手を止めて、こちらに身を乗り出す。両手を伸ばし、やけに皮の厚い指で名刺の端を摘むと、それをゆっくりと、私の手から引き抜いた。

「ありがとうございます!」

 私は、少々大袈裟に、元気良く、ニッコニコでそう言った。

「えーっと、甘い利益に瑞々みずみずしい樹木と書いて、甘利瑞樹さんね。良い、名前だ」

 『甘い利益』という言葉が少し引っかかるが、そこにきっと深い意味はなく、単に名前を扱うハンコ屋さんの職業病のようなものだろう。おじさんは、名刺に印刷された、数年前の私の顔と、現在絶賛微笑み中の私の顔とを見比べて、私を私と同定する。

「わしは、鎮明寺法善ちんみょうじほうぜん。その道五十年の判子屋だ」

 おじさんは、ドラマか何かの台詞のように、誇りを持ってそう自己紹介した。五十年間も、ハンコを売ってるのか。ふと、店の奥を覗くと、彼がただハンコを売っているのではないと気づく。作業台の上に、粗く削られた、細い石柱と見たこともない形の刃物。手作りハンコの職人さんだ。

「ハンコ、手作りなんですね」

「ああ。そうだよ。お嬢ちゃんのような若い子が、興味を持ってくれるのは、嬉しいね」

 はい、待ってました。『若い』という言葉を。私は新人風を装っているが、実はアラサーである。肌艶はだつやの良さも親譲りというわけ。

「えへへ、私、物心がついて間もない子供みたいに、好奇心が旺盛なもので。今はまだ、それだけが取り柄です!」

 はい、決まった。これで大体のお年寄りはイチコロである。そうして十中八九、向こうの方から何か応援してあげたいと申し出てくれる。結果、小さめの商品やサービスの契約が取れたりするのである。お年寄りは、自身の仕事について語る相手がいると非常に喜ぶ。こちらは物やサービスが売れると喜ぶ。ウィンウィンの関係だ。

「そうか、なら少しだけ、年寄りの話に付き合ってもらおうかな」

 なるほど。そうすぐには、契約の話にならないようだ。このおじいさんは、攻略のしがいがある。 

「ぜひ、お願いします! 勉強させてください!」

 とは言うものの……おじいさん、手短に、頼みますよ。

「そりゃ良かった。じゃあ、まず一つ質問だ。お嬢さん、名字を『甘利』というようだが、文具屋とか百円ショップに『甘利』の判子はおそらく置いていないだろう?」

 ほぉ、質問ねぇ。どういう意図だ? 

「はい、急遽ハンコが必要になって、近所に売っていなくて困ったことがあります!」

「そうだよなあ。うちみたいな専門店に来れば、確実にあるとは思う。だが、判子屋なんてもはや絶滅危惧種だ。お嬢ちゃんがこんな古ぼけた判子屋に迷い込んだのも奇跡に近い。あったとしても、皆が使うのは大抵、インタネッ店舗だからな。何が言いたいかと言うとだな……判子なんて物の需要はもはや無くなりつつある。典型的な斜陽しゃよう産業だよ」

 えーっと……自虐? おじいさん、それは私、反応に困ります。そんなことないですよ、なんて適当なことを言うのも嫌だしな……

「……あ……その……」

「あはは、悪い悪い。暗い話をしたいわけじゃないんだ。本題はここから。判子というのは、確かに今となっては社会的存在意義は薄れてきているかもしれないが、実は非常に大きな役割を持っている。それが何だか、お嬢ちゃんには、わかるかな? あ、難しく考えず、カアルな感じで答えてくれたらいいからね?」

 そういうことか。おじいさん、面白いじゃない。年寄りが好きなのはだいたい……

「ハンコには、日本の誇る伝統や美しさ、また、それを書類に押すことによって『重み』や『誠意』や『責任』といった付加価値を生み出す能力がある、素人の考えですが、そんな感じですかね?」

 どう? おじいさん好みでなくて?

「ふふふ。そりゃ、優等生の回答だね……」

 おや、半笑い。おじいさんは、私を褒めている感じではない。けなしているわけでもなさそうだけど。何が言いたいの?

「えーっと、鎮明寺さん、それはどういうことですか?」

 私が、できるだけ興味深々な感じを演出しつつ、そう尋ねると、おじいさんはテーブルを大きくはみ出て身を乗り出し、皺でくっきり二重まぶたの目力を飛ばしながら、こう教えてくれた。


「判子が残れば、名字は死なないんだ」


 名字……死? そんなこと考えたこともなかったな。でも確かに……

「例えば人類最後の『甘利さん』や『鎮明寺さん』が亡くなったり、改名したりすれば、当然その名字は、使われなくなって、人々の記憶からは忘れ去られていく、でも、ハンコがあれば、その名字が存在した証になる……」

「そういうことだ。向こうの棚を見てみな」

 おじいさ…………いや、しっかりで呼ぼう。鎮明寺さんの視線の先には、学校の下駄箱くらいにずらりと続いてる木製の棚。小さな引き出し一つ一つにハンコが一本ずつ納められているようだ。待てよ、下駄箱の比喩はまずかったかも。言い直せば、まるでワインセラーのミニチュアか 、あるいは某ファンタジー児童文学の杖屋さんみたいだ。

「あれは言わば、人間本体を失って身寄りのいなくなった判子たちの集合住宅ってところだな」

 ああ、そんな別解があったのか。

「これだけの数だと、珍しい名字がたくさんありそうですね」

「ああ、そうだとも。わしは、この店の三四四代目の店主。鎮明寺家は、遥か昔の代から、作った判子の全てを保管しているんだ。お客さんに渡す用の判子とは別に、保存用の精巧なレプリカも作っている。もちろん、判子を悪用しないという約束の元に、許可を得てそうしているよ? まぁ実際、お客さんも自身の名を残すためにレプリカを作ってくれと頼んでくるわけだから、許可もクソも無いが。倉庫はこのボロ屋以外にもあってな、鎮明寺判子店には間違いなく、日本一多くの種類の名字が集まっておる」

「へぇ、例えば、どんな名字がありますか?」

「そうだなぁ、最近増えたので言うと、亜鈴状あれいじょう長間院おさまいん出風呂間でふろま麓駆ふもとかける。どうだ、聞いたこと無い名字ばかりだろう?」

 なかなかに、攻めた名字だこと。いや、名字に『攻めた』とか言う考え方は無いか。というか、待って。最近、四つも新しいが増えたって言うのは、この店はそれだけ受注がある、繁盛しているってわけ?

「はい、全く聞いたことが無いです。そうだ、増えたって言うと、鎮明寺さんは、名字を集めているんですか?」

 あ、しまった。少々馬鹿にしたように聞こえなくもない言い方になってしまったかも。

「おっと、年寄りだからってみくびってもらっちゃあ困るな。実は、最近はとか言うやつのおかげもあって、全国から問い合わせがあるんだ。『うちの名字はこの世にあと一桁世帯しかないほど珍しいから、ぜひ鎮明寺判子店さんのコレクションに加えてくれ』って具合にね。あれだ、ネッチコミが広がるってやつかな。まぁそういうのは、お嬢ちゃんのような若者の方が詳しいと思うけども」

 うわ、鎮明寺さん、まさかの情報強者おじいさんだった!

「すみません! 大変失礼しました。ただ、一つ気になります。判子の棚は際限なく増やしていくんですか? いつか限界が来そうな気もします。どこかで整理するタイミングが来たり……」

「しないさ。棚をいくら圧迫しようと、決して判子を捨てるようなことはしない。わしは、ある名字が、確かに存在したという歴史を、この世から消し去りたくないのでな。ネッ上……クラウドというやつか? そこにデタとして保存されているなら実物はいらないだろう、なんて若いのは言うけれども、それはちょっと違うと思うぞ。だって、クラウドの上にいるってことは、名字が死んで天国にいる、みたいに聞こえるじゃないか。地下、つまりは地獄でないだけマシかもしれないが、地上に、姿形を残しておいてこそ、名字に命が吹き込まれているような感じがするんだよ、わしは」

 私は、鎮明寺さんの言葉に、深く共感した。弊社白金はっきん工業は、ハンコを多用する。時代錯誤のハンコまみれの書類を毎日のように作らされて、私も辟易へきえきしている。でも、そのハンコにも、意味のある使い方を見出せるとわかった。視点の大転換が起こった瞬間だった。

「………」

 私は気づけば、珍名字のハンコの入っているであろう棚を、じいっと見つめて凍りついていた。

「そういうわけで、お嬢ちゃんも一つ、世界に一つだけの判子はいかがかね?」

 なんて魅力的な問いかけ。

「判子…………欲しいです」

 待って待って私! あれ、私、営業かけられてるよね?

「そうかいそうかい。一つ、五一一五円からだ。内訳は、お嬢ちゃんに渡す判子が四七七一円。うちで保存する用のレプリカは三四四円。画数が五十以内の判子なら、一時間もかからない。フルネームも大歓迎だ。そうそう、三十画以上は本来一画あたり百円の追加料金が発生するが、お嬢ちゃんなら特別に、無料サービスしてあげてもいい。どうかな?」

 私の名字、ちょうど珍しいし、何より永遠に名をこの世に残せるという点に惹かれた! 私の名前はフルネームだとまぁまぁの画数になるけど、鎮明寺さんは、追加料金無しのサービスまでしてくれると言っている!

「私、買います! ぜひ! お願いします!!」

 私は、判子を作ることに決めた。



***



 私は小一時間、作業しながらの鎮明寺さんと世間話をしつつ、判子の完成を待った。多少、乗せられた感は否めないが、判子を作りたいと思ったのは確かなので、文句は無い。しかし、私は判子屋さんに営業をかけるつもりが、むしろ私の方が店主の話に引きこまれ、最終的に高い判子を買う羽目になったのだ。向こうに悪気は一切ないだろうし、いい人には違いないのだが、店主の手練手管てれんてくだ老獪ろうかいさには、この若造は手も足も出なかった。


 なーにがオジサン受けのいい顔面とスタイルと愛嬌だ、私のバーカ。


「お嬢ちゃん、毎度あり! また来てくれい!」

 鎮明寺さんは、屈託の無い笑顔でそう言った。

「はーい、こちらこそ貴重なお話、ありがとうございました」

 私、甘利瑞樹あまりみずきは、満遍の笑顔でそう返事した。 


 腕時計の短針は『5』を指そうとしている。


 まずい、私今日…………


 営業ノルマ、達成してないな。

 

———

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 子

 店 

 

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 み

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 業

  

 返

 り

 討

 ち


「甘利

 瑞樹」

————


〈完〉

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