第2話 惑井塵外

 私は生まれてこのかた、人を愛したことなどなかった。

 愛などくだらない。愛など必要ない。愛など愚か者の夢。

 そう信じて、私は勉強に没頭した。


 やがて私は医者になった。さしたる苦労もしなかった。私は優秀だったから。周りの人間が愛だの恋だのに浮かれている間にも勉強をおこたらず、一向に上がらない成績に嫌気がさして逃げ出している間も研鑽けんさんを欠かさずにいた。

私は多くの命を助け、多くの人に感謝された。それが私の生きがいとなった。


 私が初めての恋を知ったのは、医者になってから一〇年以上の月日がった日のことだった。


 彼女は私の患者だった。一目見て恋に落ちた。こんな感覚は生まれて初めてだった。思春期の頃でさえ感じたことのないときめきと、雷に打たれたような衝撃が体を貫いた。彼女の美しさ、優しさ、生きようとする意志。その全てが私を魅了みりょうした。

 彼女は不治ふじの病に侵されており、親も親戚も彼女の面倒を見たがらず、私の病院に隔離し、彼女の見舞いに来る人は誰一人としていなかった。

「私、絶対に元気になって、家族を見返してやるの。どう? こんなに素敵な旦那さんを私は捕まえたのよ、って」

彼女はそう言って笑った。誰もいない暗い病室に、花が咲いたかのように思えた。

 私と彼女は、愛し合っていたのだ。


 私は確信していた。優秀な私なら彼女の病を治せると。そして彼女と結ばれ、幸せになるのだ、と。

私は世界中のあらゆる資料を読み漁り、彼女を治す手がかりを探した。

しかし、無情にも彼女の病気は進行し、やがて息絶えた。


「人生の大半を暗く狭い病室過ごした私だけど。幸せだった。最後に、あなたに会えたから」

 それが彼女の最後の言葉だった。


 私は、愛した人一人救えなかった。

 愛を知らない人生で、ただ一人愛した彼女さえ救えなかった。彼女を救えていたならば、私は彼女との愛を育み、この冷たい心を彼女との愛で温めることができただろう。

 彼女を救いたかった。彼女と愛し合いたかった。彼女との未来を歩みたかった。

 しかし、もうそれは叶わない。


 やがて、私が彼女との記憶を思い出として消化し始めた頃、私はある患者を受け持った。

 その患者は女神のように美しく、花のように可憐で、月のように不思議な魅力を携えていた。彼女の症例は【天才てんさい】と言うらしい。なんでも、若くして死にいたる特異体質だとか。


 その患者に、私は彼女の面影を重ねずにはいられなかった。

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