黒百合は鬼にもなれず

真衣 優夢

誰の耳にぞ入らむ



これは平安の世のつたえ噺。

はじまりを誰とも知れぬ口づたえ。夏蝉のごとく騒ぎて消えゆ。

そうして今は、誰もや知らず。







三の君(貴族の三女)が死んだ。

齢十二で、源氏の妻となった娘だった。




源氏のいくさ男は武骨で、齢十八。名を行雅(ゆきまさ)といった。

元服をとうに終えても娶る姫はなく。

されど鬼神のごとく戦場を駆け、腕っぷしひとつでのし上がった。

賊退治の褒美として与えられたのは、先の天皇の時代に栄え、落ちぶれた文士の三の君。

手入れの行き届かぬ別邸に追いやられ、粗末な暮らしに身をやつそうとも貴族は貴族。

成り上がりの舎人(とねり…高貴な方の警備や雑用係)である夫より、はるかに高貴な身分であった三の君は、いくさ男がただ恐ろしかった。



「姫や、恐がらんでくれ。

我は礼儀知らずの武骨者。

歌もうまく詠めん我の妻となってくれただけで、我は十分に嬉しく思う。

三日夜餅(みかよのもち…結婚が成立したときに食べるもの)は食せども、姫が嫌なれば何もすまいぞ」



男は、幼名である幹丸(みきまる)をあえて名乗った。

幹丸は三の君に、幼少の自身を面白おかしく語って聞かせた。

三の君は、はじめて聞く外の話に、ころころと笑った。



「姫の名は何ぞや。

名乗るのがためらわれるならば、三の君と呼ぼう。ただ知りたくなっただけだ」


「……」


「うん?」


「つゆ、でございます」


「露。露姫。なんとうつくしき名よ。

朝陽を浴びて輝く玉のごときかな。

まこと、姫によう似合う名だ」



三の君は、屏風の向こうで恥じらい、俯いた。

長女が文士の家の血を残し、次女が貴族の婿を取り、次は男児をと望まれたのに、また女で産まれた自分。

そればかりか、産声をあげず産婆に何度も尻を叩かれ、ようやっと息をしたという。

朝には消えてなくなっている、という意味。諦めでつけられた名前。

たとえ生き延びたとて、生家の役にたたぬ娘なれば。



それでも、このひとは、うつくしき名と称えてくれた。



「幹丸様は、その名の通り、大きな木のようなお方でございます」


「体躯だけはよう育ったものよ。

姫よ、我が大樹なら、姫を守る木陰になろう。

いつ何時でも姫を守ろうぞ」



夫婦になったばかりの二人は、愛とも恋ともまだ育たぬ初心なれど。

そこには確かに想いがあった。

このひとと生きてゆくと、このひとが家族であると、その幸せを胸にやさしく。






「……露姫」



はじめて契りあってから、二年と経っていなかった。

ようやく女の色香を見せ始めた、しかしまだ童のような姫。



落ちぶれた嫁の実家を栄えさせんと、幹丸はしゃにむに戦った。

鬼もおそるる太刀捌き、馬で駆ければ旋風のごとく、源の舎人、行雅の名ぞここにあり。

いとしき妻のためならんと、幹丸は手柄を重ねていった。

そうして遠征の大仕事に抜擢され、見事に終えて戻った頃には、ひとつ季節が変わっていた。



秋めいた庭木。

まだいくつか咲き残る、庭の夏花。

三の君が好んだ、控えめにうつむく黒紫の花。



三の君は、黒百合の根を食んで自害した。

まる一日苦しみぬいて逝ったと、下女は涙ながらに語った。



何故。

何故だ。

帰りを待っていると言ったではないか。



「待っていてくれると、約束したではないか」



幹丸は泣いた。

泣き叫んだ。

後ろ盾なき女の墓は庭の隅。幹丸は墓石にすがって泣いた。

男泣きに泣いた。

三日三晩を墓で過ごし、幹丸はそのまま腑抜けになった。



身を隠していた三の君のばあやが、婿のあまりの悲嘆さに、命懸けで幹丸のもとへと参じた。

涙も枯れた幹丸の前で、ばあやは額を床にこすり付け、咽びながら真実を告げた。



三の君は自害ではない。

自害を強要されたのだ、と。



幹丸が討伐に発っていくばくもなく。

庭で花愛でる三の君を、若い貴族が見初めた。

若い貴族はすぐに渡りを試みた。

三の君は、幹丸を想い頑なに断った。



しかし、渡りは通ってしまった。

三の君の心など、端から意味はなく。

若い貴族がそうすれば、そうなってしまう。

なぜなら、貴族とは東宮その人であったゆえに。

落ちぶれた屋敷の住人が、貴人の渡りをどうして遮れようか?



三の君の嫌がりように東宮は呆れ、二度の渡りはなく。

ただ泣くしかできぬ、十四の娘が残された。



そして、ふたつきが過ぎた。

三の君が子をなしたと、東宮の耳に入った。

東宮の正妻は、今や盛りの藤原の姫。

第一子の胎が既婚の落ちぶれ女であると、妻が知ったらどうなることか。



東宮の使いが人目を忍び、三の君に告げた。

今ここで斬られるか、自害を選ぶか。

三の君は迷わず自害を選び、庭の黒百合を抜いたという。






口外すれば始末されることを覚悟で、婿に真実を伝えたばあや。

幹丸は、ばあやに金子を握らせ逃がした。

屋敷にわずかに残る使用人にもすべて暇を出し。



幹丸は屋敷でひとり、刀を丹念に磨いた。







その夜。

都に鬼が出た。



舎人の正装の上に、女の打掛をばさりと纏い。

くちびるに血のような紅をさし。

恐れ多くも東宮御所に一騎駆け、道ふさぐものすべてを掻っ切り血がほとばしり。

打掛は朱に染まり月を浴びて、てらてらと。

吠え猛る声の恐ろしきこと、耳おさえ逃げるもの後を絶たず。





「道を開けよ!我は鬼なり!

黒百合より生まれし鬼なるぞ!

呪われよ東宮!

今その首をとりにいこうぞ、黒百合を息できぬほどに頬張るがよい!」





雄叫び、斬り、斬って、叫んで、斬った。

斬られようと射られようと、止まらぬ鬼の太刀捌き。


ごとん、と足元に転がった生首。ふと目が合った。

幼き日に遊んだ友、同じ源氏であった。


眼前に広がるは、命がけで御所を守護するあまたの武者。

ああ、ここを護るは我が同胞、源氏のもののふたちだ。

怒りにあかきこの切っ先は、幾百の同胞を貫けども、仇に届くことはないであろう……




ならば。

ここまでで、よい。

我が怨嗟を知らしめた。我が力では、これが限度よ。




前触れもなく、鬼はくるりと踵を返し、闇の向こうへ身を隠す。

追手をかける号令に従えるものは片手程度、皆が鬼を恐れて震えあがった。



誰よりも恐れおののいたのは、東宮その人。

東宮は、鬼が去った後も部屋に籠り恐怖にわななき、後に心を病んで、弟に東宮の座を明け渡すこととなる。

鬼も知らぬところで、仇討ちは成就した。







返り血と自分の血でどろどろになった鬼の武者は、馬を捨て、山に落ち延びていた。

逃げたのではない。

死に場所を探しにきたのだ。



夜が明けかけていた。

小川があった。澄んだ水で顔を洗い、乱れた髪を整える。



憑き物が落ちたように、源氏武者は穏やかだった。




「露姫。

今、我もそちらに行こうぞ」




ばあやから渡された、紙包みの粉末。

あの時の黒百合を粉にしたものだという。

三の君が臨終の際、ばあやに真実を伝えた後、夫に残した包み。



ああ、なんと嬉しきことよ。

同じ毒で逝けたなら、きっと彼岸で会えるに違いない。



包みを開き、小川の水で一息に流し込む。

すべきことを終えた武者は、毒が回るより早く、その場にどうと倒れ気を失った。





目が覚めたのは、数日のあと。

行雅は、死にきれなかったことを悟った。

効かなかった毒と、生きているのが不思議なほどの戦傷。

行雅を助けたのは、人の良い木こりの男だった。



何故助けたのか、何故捨て置かなかったのか。

訴える行雅に、木こりは紙を手渡した。

それは、黒百合の粉の包み紙。



包み紙は、文だったのだ。

折り目の内側にそっと綴られた、なつかしき、いとおしき三の君の字。

歪みや震えが混じる筆は、毒の床にて書いたのか。



『これは 黒百合の花弁の粉にて 根ではありませぬ

口にしても 害はありませぬ』



文から声が聞こえてくる。

童のように幼顔の、妻の声。

庭の花を愛で、多くは求めず、自分のくだらない話に笑ってくれた姫。



朝露のようにうつくしきひと。



『胎の子は 幹丸様のお子でございます

やんごとなき方のお渡りより先に

胎に宿っておりました


いつかゆっくり 黄泉にこられました折は

幹丸様に似た赤子を抱いて迎えに参ります


それまでどうかごゆるりと 生きてくださりませ』





ひとことの恨み言もなかった。

穏やかな姫の、慈しみと愛がそこにあった。



包み紙を抱き、人に戻った若武者は、声を上げて泣いた。






木こりの弟子となった若武者は、よく働いた。

気がよく力仕事に長けた男は、たちまち麓の村で人気となった。

男はいくら勧めても、嫁をとろうとしなかった。

しかし子は多かった。

みなしごをあちこちから拾い、大層可愛がって育てたという。






木こりの雅じいは、子と孫とひ孫たちに囲まれて、長い人生をゆるりと終えた。

雅じいが愛した、黒百合の花。

毒があるゆえ誰にも触れさせず、ひとりで咲かせた花は美しく。



雅じいの遺言どおり、百合畑は焼き払われた。

じいが全部、黄泉にもってゆくのだと。






三の君と若武者の御伽噺。

はじまりを誰とも知れぬ口づたえ。夏蝉のごとく騒ぎて消えゆ。

そうして今や、絶えて久しく。




その心のみぞ、今なお凛と。

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黒百合は鬼にもなれず 真衣 優夢 @yurayurahituji

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