9月1日に間に合って

  急げ、急げ。


  9月1日じゃ、間に合わないぞ。


  もっと速く、風を集めて進むんだ。



    †††



『太平洋沖で発生した大型の台風九号は偏西風の影響を受けずに真っ直ぐに北上しており、9月1日には本州に到達すると見られ……』


 8月29日。

 まだ朝の早い時分のこと。


 ふと目覚めてしまった葵が、ダイニングでぼうっとテレビのニュースを見ていたところに、父親の幹彦が姿を見せる。


「おはよう、葵。もう起きたのかい?」


 普段は海外を拠点として働く幹彦が、愛娘と共に過ごせる時間は残り少ない。


 葵はダイニングテーブルの席から下りると、幹彦の元に小走りで駆ける。


「パパ、おはよう……」


 幹彦はもうじき十歳の誕生日を迎える娘を優しく抱き止めながら、彼女の心細さを察する。


 父親と過ごせる時間が短いから、だけではない。

 可愛がっていた愛犬が亡くなって、まだ十日も経っていないからだ。


「……ねぇ、パパ。やっぱり31日には向こうに帰っちゃうの?」


 葵が幹彦の顔を見上げて、不安そうにたずねた。


「うん。そのつもりだけど……ひょっとしたら、台風で帰れなくなっちゃうかもね」


 幹彦がそう答えると、葵の表情がぱっと輝く。


「そうなの? じゃあ、台風さんに頑張ってもらわなきゃ」

「ハハハ、そうだね」


 娘の笑顔につられ、幹彦も苦笑した。



    †††



  再び目覚めたとき、僕は太平洋の真ん中にいた。

  あの島国から外に出たのは初めてのことだけど、風が僕の居場所を教えてくれた。


  天寿を全うしたはずの僕が、なぜこのような形で現世に留まることになったのか。

  僕には、もうわかっていた。


  早く行かなきゃ。


  向こうに着くのが、9月1日じゃ遅いんだ。



    †††



『速報です。記録的な大型の台風九号は、更に速度を上げて北上中。31日の午後には関東一帯が強風域に入る見込みです。多くの航空便が欠航になっています。住民のみなさん、くれぐれも……』


 8月30日。


 幹彦は、勤め先の企業の関係者に電話を掛けていた。


「……ああ、すまない。台風でそっちへ向かう便が欠航になったんだ。――振替? あるわけがないだろう」


 幹彦が電話を切ると、葵が期待のこもった眼差しで彼を見ていた。

 幹彦は穏やかな笑顔を浮かべる。


「9月まで日本にいられることになったよ」

「本当に!? やったあ!」


 葵は飛び上がって喜びを表現した。


 長年、海外で働いてきた幹彦が葵の誕生日を直に祝えるのは、実に数年ぶりのことだった。



    †††



  ――これは、僕の生前の最期の記憶。


  あの子のお母さんが、涙を流し続けるあの子を慰めていた。


 「さあ、風太にお別れを言うのよ」

 「嫌だよぅ……。フウタ、行かないでぇ」


  ……ご主人様を泣かせてしまって、申し訳ないな。


  僕は最期の力を振り絞って、彼女の頬に舌を伸ばそうとした。


  ……ああ、でも、もう駄目だ。体が動かないや……。


  僕はゆっくりと目蓋まぶたを閉じる。


 「フウタ、ダメ! 目を覚まして!」

 「葵、やめなさい!」


  ごめんなさい、ご主人様。



    †††



『未明に伊豆半島に上陸した台風九号は、速度を大幅に落としてゆっくりと北北東へ進んでいます。大きな被害が出ると予想されていましたが、上陸と同時に風速・勢力ともに弱まってきています。しかし、付近にお住まいの方はどうか……』


 9月1日。


 古木家では、今日の主役を祝って家族三人でささやかなパーティーが行われていた。


「誕生日おめでとう」

「おめでとう、葵」

「パパ、ママ、ありがとう」


 葵はにこにこと満面の笑顔で、十本のローソクに灯った火を吹き消した。


 三人は屋外で最接近している台風を他所よそに、家の中で穏やかなひと時を過ごしていた。


「……あれっ?」


 そのとき葵は、いつの間にか外の風が止んだことに気づいた。

 窓を見れば、明るい日の光が室内に降り注いでいる。

 今日の空はずっと、分厚い雲に覆われていたはずなのに。


「珍しいね。台風の『目』に入ったかな?」


 と言ったのは幹彦だ。


「台風の『目』?」


 葵がオウム返しに訊ねると、幹彦はうなずいて説明する。


「ああ。台風の真ん中には、風が吹いてない空間があるんだ。それを台風の『目』って言うんだよ」

「へえ! じゃあ、私たち今、台風の真ん中にいるの?」

「うん。きっとそうだね」

「すごい、すごい!」


 葵は興奮した様子で声を上げた。

 もともと朝から上機嫌だった彼女は、不思議な現象を体験して、ますますテンションが上がったようだ。


 しかし、それから間もなく、葵はふと素に戻る。


「――えっ……?」


 そのとき、葵は聴こえないはずの声が聴こえた気がした。

 葵はきょろきょろと左右を見回す。


「どうしたんだい?」


 と訊ねたのは幹彦だ。


 葵は小首をかしげながら答える。


「……ええと、今フウタの声が聴こえた気がしたの」


 それを聴いた幹彦は、内心の驚きを表に出さないように注意を払った。


 そんなことがあるはずはない。

 娘が可愛がっていたあの犬は、もうとっくにこの世を去ったのだから。


 幹彦はこっそりと呼吸を整えながら、次のようにこたえた。


「もしかしたら、風太も葵のお祝いに来てくれたのかもね」


 その穏やかなひと時は、思いのほか長く続いた。



    †††



  ああ、懐かしい気配がする。


  僕は、あの子の小さな願い事を叶えてあげられただろうか。


  風よ、僕を助けてくれてありがとう。


  願わくば、なるべく人々の暮らしを妨げず、この星の空に帰っておくれ。

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「台風」ショートショート集 卯月 幾哉 @uduki-ikuya

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